第1話「往訪と邂逅」
橋渡凛がフルライブ事務所とタレント契約を結んで所属してから数ヶ月後。
彼女はフルライブ事務所で仕事をした後、そこの会議室にて雑談をしていた。相手は社長の八合義智だ。
「――というわ‶げなんだよ~凛さんも言っておくれよぉ~」
「ええい、気色悪い声を出すな八合」
「このままだとさくらさんが辞めちゃうんだよぉ~」
と、凛の右手を両手ですがるように懇願している男性が八合である。身長は一七〇センチほどで普通体型の男なのだが、いかんせん低姿勢の情けない様で凛に縋り付いているので必要以上に小柄に見えてしまっている。
普段は大男よりも頼りになる人物なのにと、凛がため息をつきそうにしていた。
「わかったわかった。余裕のある私が目をかけておくから」
「おお! ありが――」
「というかあの子がVチューバーを辞めたいなんて明らかに金に困っているからだろう? 企業勢なんだからもう少し活動資金を出してもいいんじゃないか? 将来性はあると言っても現状は地下アイドルにも劣る存在だ。広告収入が安定するまで我慢してもいいと思うが?」
「いや、それが出来る資金があればそうしてもいいとは思うんだけどね、資金がないんだ。やるとなったらきみはもちろんみちるちゃん、それに新加入の子にもやらないといけない。現状は、その、ね?」
八合が社長を務める株式会社ニューメイカーの事業はVR(仮想現実)とAR(拡張現実)の技術を使ってゲームやアプリなどの新しいコンテンツを生み出そうというものである。言葉は壮大だが設立したばかりのため、現在はまだ正社員が十名にも満たない小さな会社だ。
その中の一つにフルライブ・プロダクションという事務所がある。この事務所がタレントと契約してアイドルVチューバーという形で活動させ支援をするという仕組みだ。
現在のタレントの活動内容は主にYOURSTUBEにてライブ配信や動画投稿を行ない、それらの再生数にお応じて広告収入を得るというものである。この活動が順調に伸びて資金が溜まれば、ライブイベントやグッズ販売などを試みてさらなる利益を求めていくというわけである。
橋渡凛はこのフルライブにタレントの一人として契約している。そして社守さくらを演じる雪藤美子もタレントとしている契約している。フルライブとの契約は美子のほうが半年ほど早いが、Vチューバーの活動歴は同じくらいのため同期として扱われていた。
「……わかった。じゃあ状況によってはコラボするからな? 百合営業でもしてとっとと人気を出す方針でいくぞ? それで広告収入を作れば解決するんだからさ」
呆れるように言った凛に、八合は腕を組んで真剣な表情を浮かべる。彼の頭の中では今、フルライブ・プロダクションの活動によって生み出さねばならない固定ファン層の作り方を高速で検討しているのだろう。
「……凛さん、彼女だけだと厳しいかい?」
「時間が掛かる掛からないという意味でなら厳しいさ」
フルライブ・プロダクションがVチューバーに拘っているのは企業方針に『未知のものに挑戦する』というものがある。これには挑戦的な実験をしようという意味だけでなく、需要がありそうな分野を開拓しようという意味も含まれる。
今の時点では、Vチューバーという分野で活動している企業は非常に少ない。ここで魅力的な活動をしてファンを獲得すれば、それは業界内での確固たるブランドの獲得に繋がる――つまりは非常に大きな利益を狙えるからだ。
なお、この時点で似たような戦略を取っている企業としては、ダブルセカンド事務所というものがある。若干の方向性の違いはあるものの、フルライブと同じくVチューバーを演じるタレントによる新規開拓で強固なブランド獲得を目指して活動している。
少し考えを整理してから、凛が口を開く。
「今のVチューバーは声優豚系のキショオタクに媚びを売る職業、というのが世間一般の認識だ。私達がいくら、新しい方向性に向かっている視聴者と親しい関係を築きつつ歌や面白トークを提供する職業です、などと言ったところでそんなものは認められていない。
地道な活動を続けて、確かに腕を磨いて実績を積んで、ある日何かのきっかけで爆発的に認知される。新しい流行や新しい文化の始まりなんてそういう仕組みじゃないか」
「そうなんだよねえ。今は雌伏の時なんだよ。だから一人でできるサービスをとことん模索させて試す大事な期間なんだ」
「とは言っても、人が生きるには金が要る。食事をしなければいけないからな。ハッハッハ!」
「まったくもってその通りだぁ~!」
凛と八合がおかしそうに笑い合った。お互いの苦労も目的も理解し共有しているからこその笑いである。戦友というやつだ。
そのさなか、凛がふと視線をずらすと青空みちるを演じる時野梓紗が目に入った。
会話中に会議室に入ってきたのだろう。お互いに小さく黙礼してから、凛はまた八合と話し始める。
「あんた、さくらのこと一〇〇万人の登録者を誇るアイドル・Vチューバーにするって言って口説いたんだろう?」
「よ、よく知ってるね……いやあ、凛さんのチクチク言葉が辛いな~」
心苦しい表情を浮かべる八合。その表情を見て前世の記憶にある動画のあれはやはり真意だったのかと思って、凛はつい嬉しくなる。
凛と同じく、八合もなんとか社守さくらを支援したいという気持ちがあるが、立場上、手が届かない、もしくは過干渉すぎると判断しているのかもしれなかった。
「私はね、あんたの人を見る目や先見性はすごいと思ってるんだ。みちるのことだって、外の連中はまだVチューバーとかいうよくわからないオタク向けの仕事をする人か、ちょっと人より歌がうまいという程度の認識だ。
でもあんたはみちるを、新しいアイドルの形を成立させるすごいやつと思った。だからフルライブ・プロダクションを立ち上げたんだろうだろ?」
「そりゃそうだよ。僕は社長だからね。挑戦をいかに堅実な道にして金を生み出せる仕組みを作るかというのが僕の仕事だ。そしてそれが出来ないならバッサリ切るのも僕の仕事だよ。根拠のないことはしない」
フルライブ・プロダクションの設立理由は単純である。それは時野梓紗が演じる青空みちるというバーチャルアイドルを支援するためだ。そのため『青空みちる』はフルライブの頂点とも言うべき存在と認知されていたりする。
現在の八合はこれをもっと大きな商売にできると考え、凛のような他のVチューバーのタレント、アイドルを揃えて活動させようとしているのだ。
「じゃあさくらも百合営業とか私を利用したコラボで数字を稼いでも、それに依存するような才能なしじゃないよな?」
「もちろんだとも! 彼女は素晴らしいVチューバーになるとも!
この八合義智が保証しよう!!」
八合が握りこぶしを作ってかっこいい顔で断言をした。が、すぐに苦笑いを浮かべた。それを見てしょうがないとでも言わんばかりに、凛が了承の意で頷く。
「んん! よぉし凛さん、今日の夕ご飯一緒にどう?」
「おい、アイドルに手を出そうとするな。社長失格すぎるだろうが」
「だって凛さんはもうそういう時代じゃないってよく言ってるじゃないか。いいかなって」
「冗談はよせ。じゃあ私は行く」
「そんなぁ~(;´Д`)」
「ちなみにさくらは今日どうしてるかわかる?」
「いや、僕のほうは把握してないな」
「そうか。じゃあまた」
「さくらさんのことは頼んだよ~。僕は僕の仕事をするからさ~」
そうして橋渡凛は会議室を出ようとする。そこには青空みちること時野梓紗が待機していた。おそらく八合に仕事の話をするためであろう。
「どうも、みちる。調子はどうだい?」
「あ、はい。お疲れ様です、オルエンさん。調子はこう、大丈夫かなと思います」
Vチューバー:青空みちること時野梓紗は、橋渡凛より一つ年上の二十四歳で、黒髪ロングストレートで目がぱっちりしているのが特徴の清楚な女性だ。体型のほうは標準である。Vアバターの青空みちるのほうも彼女の外見や雰囲気が近かったりする。
設立の経緯から、最近までは青空みちるを特別扱いしてきた。しかし少し前に『0期生』という枠組みで『青空みちる』『社守さくら』『魔女屋オルエン』のVチューバー三名をアイドルグループ化したことを機に、改めて彼女の扱いを一人のタレントとするように変更することになった。とは言っても『原点にして頂点』といったような評価が消えたわけではないのだが。
そのため梓紗のほうが明らかに先輩ではあるものの、凛はあえて同期の同僚として気安く交流している。
梓紗本人もちょっと特別扱いが過ぎると感じていたらしく、現状の0期生という枠組みにいるタレントの一人として活動することがアイドルっぽくて充実しているようだ。
「また個性がないとかくだらないことで悩んでたりしない?」
「大丈夫です。あの、私、鞭なんて持ちませんからね?」
「ええ~クイーンなんだから持つべきだよみちる~」
そんな女性に凛はわざとらしい完全なダル絡みをしていく。
これには理由があり、彼女にはクイーンと鞭という称号や道具が似合うというしょうもない先入観があるからだ。理由はもちろん前世の記憶である。
「それいっつも言うけどなんで私がクイーンなのー? そんなドSに見えるのかな?」
「そりゃあ、きみはフルライブの原点にして頂点だからね。配信でリスナーもクイーンはいいねって喜ばれていたじゃないか」
「み、見てたの!? あ……ああいやあれ――」
「“我こそがフルライブの女王:青空みちるよ。下郎ども、膝をつけ”」
「ぬあぁああああああああ!?!? やめてくださーいッ!!」
凛がポーズまでして適当に真似たところ、梓紗が羞恥心に悶えて頭を抱えた。
舞台のような場所でやるならともかく、ライブ配信で二〇〇人ほどが見ている中で素の自分を話しているさなかにやった余興というのは身もだえするものであったらしい。彼女は生真面目なので、練習不足となるものを見せるのが恥ずかしかったのかもしれない。
「ごめんごめん。ところで今日さくらを見てないかい?」
「……サクラサン……下ノホウデ、見マシタ……」
「ボイス収録のほうかな? ありがとう、じゃあまた」
若干放心している梓紗に笑いながら、凛は手を振って退出した。そのまま階段から下に降りてボイス収録のスタジオへ向かっていく。
残された会議室で顔の赤い梓紗とニヤニヤした八合が会話を始める。
「梓紗さん、クイーンのあだ名が出来てよかったですね」
「ええい、またフラれた男に慰められるなんて……ッ」
「ちょっ、そこは言わないでよぉ~。僕も言わないからさぁ~」
なんて二人のやり取りが会議室で起きていた。
■ ■
フルライブ事務所の音声収録スタジオ近くにあるトイレ。
そこで、美少女と評価される容姿の女性が鏡を見て化粧を整えていた。年齢は二十一歳なのだが、少しやつれているので今は数歳ほど老けても見えるかもしれない。
「うぅー……お腹が減って痛いねぇ……」
鏡の前で呟く人物の名前は雪藤美子である。
彼女がお腹をさすりながら化粧で微調整した顔を確認している。先ほどスタッフから顔色が悪くないかと心配されたからだ。スタッフも忙しいのに余計な心配をかけたさせたくないので、顔色が悪いと自覚しつつもなんとか誤魔化そうとしているのだ。
「でも私が人気ないのが悪いからなぁ……あーうー落ち込むねぇ」
鏡に映った表情に影が差し込む。
雪藤美子はフルライブ・プロダクションに所属するアイドル・Vチューバーの『社守さくら』である。最近になってあの二人と同じく0期生という枠に入った。
事務所とはタレント契約を結んでおり、動画の配信活動、収録したボイス販売、グッズ販売などによって生計を立てている。契約内容的には活動が順調であればお金持ちになることも難しくない。
しかし現状は全くもって人気が出ず、動画投稿による最低限の収入を得るためのチャンネル登録者さえも確保できていない状態だ。つまり貧乏である。
そうなると早急に取れる手段はバイト、実家に恥を忍んで仕送りを催促する、コレクションをオークションなどで売ってお金にすることくらいである。
「……でもみちる先輩、オルエンさんに追いつくには動画や配信を頑張るのが一番だし……うーん」
少し前に女王様ムーブをしたライブ配信が受け、ツブヤイターでプチバズして話題になり大きく登録者を伸ばした青空みちるや、フルライブに入る以前から毒舌かつ哲学的なことを話す風変わりな配信者という立場を確立している魔女屋オルエンのことを思い浮かべる。
「アイデンティティーなんて考えたことないんだよねぇ……ティッティーがどこかで叩き売りされてないかなぁ」
事務所内の立場こそ0期生という枠組みに入って二人の同期ということになったが、Vチューバーとしての経験、企業勢としての実績も二人が上だ。この二人と同じ0期生です、と胸を張るためにもVチューバー活動以外で時間を使いたくない。
そのため、秘蔵のコレクションを売るしかないと考えているのだが――
「ああ、いたね。雪藤さん」
「え? は、はい?」
思考を中断され、美子が振り返る。
そこにいたのは見覚えのある女性――橋渡凛だ。長身、やや長めなショートカットの髪、クールな雰囲気が特徴のとんでもねえ美女である。
「どうも、お久しぶりです。きちんとお話するのは初めてですね。会議室でならちょくちょく会ってはいましたけど」
「あ! は、はい! どうもです! 社守さくらを演じるゆゆ、雪藤、美子ですぅ!」
「えーとですね? 落ち着いてください。改めまして、魔女屋オルエンを演じる橋渡凛です」
予想外のことに美子は顔を赤くして慌てながら何度もおじぎしてしまった。声をかけた凛は苦笑を浮かべつつ穏やかな対応だ。
「あの、その……ご、ご用件は?」
「ただの同僚なんだからもう少し軽くしよう。今後も仕事で関わるんだからさ?」
「あ、はい。が、頑張りますっ」
美子は明らかに緊張している。それを察している凛のほうは今にも吹き出しそうになる笑いを堪えている状態だ。一方は憧れや業界内上位の存在として見ていて、もう一方は同じ大きな仕事をしている同僚、仲間、戦友と認識しているからだろう。
「美子さんはこのあと、事務所の仕事はないよね?」
「あ、はい。帰って配信するだけですね」
「よかった。じゃあその配信についての話をしたいんだ。どういう計画をやりたいとか、困っていることを解決しよう。場合によっては私とコラボして一気に人気を出すという試みをしてもいいと思ってる」
「え? はい? コ、コラボですか?」
「そうそう」
「でも八合社長はそれぞれの個性をわかってもらうためにって――」
「問題ない。さっき八合の許可は貰ってきた」
「ええ……あの、凛さん? フルライブに入って自由度が上がってませんか?」
「フルライブなんてそんなものでいいのさ、ハッハッハ!」
凛が豪快に笑って美子が困惑しているところ、美子のお腹が盛大に鳴ってしまう。思った以上に大きな音を出したことに顔を赤くする美子。
「す、すいま――」
「美子さん、お昼は?」
「……あの、私ですね、今ダイエットをしているんです」
「ふーん。旨か棒でダイエットをしてるんだって?」
「そ、そうです! え? どうして知ってるんです?」
「そりゃあ配信で見たからさ……三食全部ってガチなの?」
凛が恐る恐る尋ねると、美子はなぜか胸を張って答えた。
「ガチです。配信のネタにもなるし痩せるしちょうどいいかなって――あれ?」
「頭痛で頭が痛い……頭が痛いを通り越して頭痛で頭が痛い……」
「あ、あの――」
凛、盛大にため息を付く。わざとらしいドン引きの表情を作ったが、心境そのものはあんまり間違っていない。
「ポンコツ部分があるなとは思ってはいたけどここまでとは……なあ、明日からきみのことはポンちゃんって呼んでいいよな?」
「待って!? 私そんなに残念な子じゃないですよ!」
「似合うからいいだろ?」
「似合うものが好きとは限らないってお母さんに習いませんでしたか!?」
コメカミを抑えながら唸る凛に美子が慌ててムッとしながら否定する。
「しょうがないな。じゃあ行こうか」
「へ?」
凛が美子の手を強引に取り、そのまま事務所の外に向かって歩き出す。美子は困惑したまま、思ったより力強いその手に従って歩いていく。歩く速度が速いので後ろになりがちだったが、さりげなく凛の後ろ姿が広くて美しいことに目が惹かれた。詳しい人が見れば広背筋を中心によく鍛えられていることが理由の美しい姿勢と評価しただろう。
早歩きであっという間に事務所の外に出て駐輪場に移動すると、凛が通勤で使っている普通自動車の前に来た。ミッションの普通車で道路でよく見かけるような車種だ。
「ど、どこに行くんですか?」
「とりあえず打ち合わせしながら飯を食べよう。蕎麦屋と焼き肉どっちがいい?」
「すげえ究極の選択肢が……ってそうじゃなくて私お金が――」
「私のおごりだから安心しろ。で、蕎麦屋と焼肉屋のどっち?」
「いやあの――」
「いいからどっちか選べ」
「え、あの……じゃあ、お蕎麦屋さんで」
「了解。ではどうぞお嬢様」
「うむ苦しゅうない……じゃなくて。なんでこんな流れに……」
そそくさと美子を助手席に乗せ、凛が手慣れた様子でカーナビを操作してから運転が始まる。運転は丁寧だが心持ち急いでいる印象を受けた。
少し間を置いてから、凛が話しかける。
「美子さん、もしかしたら気づいていないのかもしれないけどさ」
「…………」
「事務所の人はみんな、あなたのことを心配しているよ。痩せすぎじゃないかって」
「でも……ご迷惑はかけられないじゃないですか。元は人気のない社守さくらが悪いんです。苦しいなら――」
「ハッハッハ。向上心が高くて結構だ。まあだからそういう問題が発生したときに支援するのが事務所の役目だったりするんだけどな。いかんせんこの業界はまだ始まったばかりの黎明期。前例がないからトラブルの予想が難しい。おまけに会社自体ができたばかりで資金に余裕がないのも問題だよなあ」
「それはその、わかってますよ。だから人気が出た時の広告収入の取り分を多くして頂いているんですから」
「金の卵を産む鶏から金を恵んでもらう、代わりに可能な限りの支援をする。そういう持ちつ持たれつの関係なんだし、もう少し甘える態度でもいいと思うけどね。きみは自分が思っている以上に生真面目すぎる性格だな」
そこで会話が終わると、蕎麦屋に到着するまで会話はなかった。
数十分後にようやく。
「というわけで、まずはご飯を食べようか」
駐輪場につくと凛がエスコートをするように彼女と手を繋ぎ、美子は流されるまま入店して席に着いた。
美子が注文した料理は一番安い暖かい蕎麦だったのだが、それを良しとしない凛がさらっと副菜に天ぷらの大盛と焼き魚を追加注文した。慌てて断るために何か言おうと凛が悪戯っぽく笑って。
「私が食べたいんだ。でも一人じゃ食べきれないなー。残しちゃうから一緒に食べてくれないかなー?」
ニコニコしてからかうような言葉に、美子は何も言えなかった。
そして注文した料理がテーブルに並んでいく。
「飛魚出汁にこだわってるんだってさ。じゃあ、頂きます」
「――頂きます」
凛から食べて、それを見た美子が恐る恐る一口啜った。
そこから彼女の様子は激変した。香ばしい出汁の香り、魚と醤油の濃厚な旨味が美子の何かを決壊させたのだろう。目を見開くや急に安心したようにクシャクシャな顔になって声を我慢してボロボロと泣き出すのである。おしぼりで涙を拭っているが間に合わない状態だ。
それを見た凛が、心配にならないわけがない。
「すいません……ズビ……」
「大丈夫だ。とにかく、まあ、食べなさい」
美子は決心したのだろう。遠慮というものを捨てて食べていく。蕎麦はもちろん天ぷらも焼き魚もあっという間に量を減らしていった。少しだけ足りなさそうな感じだったので途中で天ぷらを追加したほどである。
そうして見事に食べきって、美子が満腹で幸せな顔を浮かべている。凛はそれにひとまずの安心を抱いた。
「いろいろ話そうと思ったんだけど、まあ細かいことは後でいいだろう」
「……そうなんですか?」
「まあな。直近の問題なんだが、生活費が足りないのが問題なんだよな?」
「ええ、そうですね。でも大丈夫です。決心しましたから、今日はありがとうございます」
「決心?」
「コレクションを売ろうと思うんです。グッズの限定品とか結構持ってまして……そうですね、一〇〇万は無理ですけど何十万ならいけると思うので」
凛は彼女のライブ配信にてコレクションを大切にしている話を思い出す。熱の入った思い出語りにゆらゆらと動くニコニコ顔の社守さくらが映った映像もだ。
「それってペンプレートとか、ポケットカードとかの配信で言ってたやつ?」
「はい、そうです! そういえば配信でいくつか言ってましたね。それらを――」
「それを売るなんてとんでもない!」
「ええっ!?」
凛のガン睨みにびっくりする美子。
「大切なものを売るなんて言語道断!」
「い、いや、売らないと生活できないですよ……」
「というかその前にね? きみのコレクションだけど、簡単に買い戻せたりする? あと今日明日で速攻で売れる状態、場所とかあるかい?」
虚空を見上げて考える美子。しばらくしてそれがしかめっ面になり苦悩し始めた。指摘した通りに売るにしても時間が掛かると気づいたのだ。
凛は察して、予定していた提案をする。
「あのね、美子さん。私がしばらく生活費をあげるから、それで広告収入を貰うまで頑張ってみなさい」
「……はい?」
「幸い、私はちょっとしたことで貯金が多くてね。二、三年くらいならきみにご飯を奢ったりすることくらい出来るのさ。月十万くらいあればそれでなんとかなるんだろ? 運営からの資金で家賃や電気代は払えてるよな?」
美子は頷きながらも困惑している。
「よしよし、それなら大丈夫だ。店を出ようか、家まで送るよ」
そうして二人は支払いをして凛の車に戻り、美子の自宅住所をカーナビに打ち込んで家まで移動を始めた。
車で移動中の時にはすでに、食事前までの気まずさのようなものは消えていた。
「さっきのお金を貸す話なんだけど、本気なんだ。しかもお金を貸すんじゃなくてあげるというのも本当さ」
「……どうして?」
「金融機関に借金をするのも面倒だろう? 私たちの職業じゃなおさらだし、なによりまだVチューバー業界は博打要素が強いからね。今はまだ企業勢も安定している時代じゃない。失敗したときに借金までしているなんて悲惨だ」
「……そうですね、だからコレクションを売るべきですよ。あの、本当に幸運なんですけど、私のやつって本当に高値で売れるんです。絶対になんとかなり――」
「“コレクションを売るのは思い出を売り払うことになるから嫌だ”なんてとてもいいことを言っていたとある巫女服を着たピンク髪のVチューバー様を知っているんですが、社守さくらさんはご存じないんですかねえ?」
「凛ちゃん! 毒針を刺すような嫌味を言わないで! さくら嫌いになるよ!?」
美子がはっとして口を押えるようにする。つい勢いで言ってしまった。恐る恐る運転席をチラ見すると凛はニコニコと笑っていた。
「凛ちゃんかあ、いいねえ。配信だとオルちゃんとかになるのかな? じゃあ私もきみを美子とかさくらと呼び捨てにさせてもらおう」
「や、あの、その――」
「仕事仲間だけど大事な友達でもある、それでいいじゃないか。ダメなのかい?」
「……ダメじゃないです、よろしくお願いします」
和やかな笑みを浮かべる凛。
美子はふと出た気安いやり取りのせいでまだ顔が真っ赤である。
「あの言葉ね、私はすごく好きなんだ。コレクターの心情がよくわかるというか、納得のできる言葉。とにかくいい言葉だ」
「…………」
「そういう言葉をね、ライブ配信というリアルタイムのやりとりで咄嗟に返すことが出来る人間なんてそうはいない。才能がある証拠なんだよ。もう少しすればリスナーが増えて収入は安定する。だから私はね、一時的にお金が足りないとかいうしょうもないことで苦労してほしくない。
それにさ、一〇〇万人の登録者ができればさ、十万なんてはした金さ。投資に対するリターンが馬鹿みたいにでかいんだから気にするな」
「……ありがとうございます」
お礼を言いながら涙ぐむ美子に、まだメンタルがやばそうだと思ってしまう。
凛は明るい雰囲気にするためおちゃらける。
「よーし。これで将来のコラボ先を確保だ。今日のことを擦ってお手軽に再生数を稼ぐ手段を手に入れたぞーげっへっへ♪」
「おいぃ!? 感動話に水どころか油を差して燃やそうとしないでよ!!」
「あーぶらだ燃えなーよ♪」
「こら! 変な歌も作らないのっ」
「はーい、ハッハッハ」
そんな風に雰囲気を変えて他愛もない話をしながら運転していると美子の自宅に車が到着した。駐車した場所は大きなアパートの前で自宅はそこの三階だという。
「意外と大きなアパートだ」
「防音とかも兼ねるとここが一番よかったんだよねえ。八合社長もすぐに稼げるようになるからって言われてそれで思い切ったんです」
「なるほど、賢明な判断だ。まあ、今回は運がなかっただけだよ」
凛がバッグから財布を取り出す。美子がそれを見て戸惑っている。どうやらまだ遠慮しているらしく、彼女の手が断りたそうな仕草をしていた。
それを察して凛はいくつかの万札を躊躇なく手渡す。残りの生活費はまた改めて渡すことになるだろう。
「お金をあげることなんだけどさ、配信のネタで話してもいいからね。美談ということでリスナーに尊敬(笑)を集めることにもなって、こっちの配信でも冗談として使えるからさ」
「そ、そ、そういうこともありますね。あの、やっぱり――」
「コラボのこと? そうだね、百合営業はいつからやりたい?」
「いえ! それはしばらく会議の方針通りに控えめにしようと思います。みちる先輩も凛ちゃんも結果を出しているんですから、社守さくらだけがおんぶにだっこというのはダメですし、甘える前提でしか動けないなら、Vチューバーという道を諦めたほうがいいと思うんです。ですから、まずは一人で頑張ります」
「わかった。じゃあこっそり応援するさ。まあ私もきみに相談したいことがあるんだよ、サムネとかね」
「サムネですか? サムネなら相談に乗れますね」
「じゃあ困った時に助けてくれよ。これで対等だ」
「……ありがとう、凛ちゃん」
美子が嬉しそうに返答したところでふと凛が思いつく。
「ちょっと訊きたいんだけどさ、美子。きみって普通の食事ってどういうご飯を食べてるんだい? 自炊とかどういう感じなのかな?」
「自炊はそんなに……しないですかねえ。餃子とか食べたくなった時に作るかもしれないです」
想定していなかったため、美子は虚を突かれた様子でつらつらと答える。
「面倒な物を作るなあ……ほかには?」
「そうなんですよねえ、めんどくさいんです。ですから基本はMバーガーやコンビニ弁当で済ましてたまに外食ですかね」
「は?」
そのふざけた食事内容に思わず凛の眼光が鋭くなった。
美子も思わずビクッと震えてしまう。
「あ、あの――」
「お金がある場合の、適当にやりがちな一日の食事を言ってみて」
「え、ええ……」
「はやくっ、急げほら」
「ええっと、朝はMバーガー、昼はガトスでパスタ、夜はコンビニ弁当、Mバーガー、極まれにご飯と野菜炒め……かなぁ? モヤシ炒めとか簡単だし」
「これは想像以上にポンコツかもしれねえなあ……っ」
能天気な彼女の返答に凛は思わず手を顔に当てつつ天を仰いだ。
「なんで!? 若者のスタンダードだよ!? 健康のために野菜ジュースもたまに飲んでるんだからポンコツじゃないよ!」
「野菜ジュースは甘くておいしいやつ?」
「いや普通はそうでしょ? 今の野菜ジュースはどれもおいしいからすごいんだよ?」
「サプリメントは?」
「あれって本当に効果あるの?」
最後の発言でさらに凛は頭を抱え込んだ。その様子に美子は戸惑っている。たしかに健康を意識しない二十代の女性なら、彼女の食生活はそうおかしなものでもないかもしれない。しかしある程度の健康的な食生活を意識している人間からすれば、彼女の返答は噴飯やるかたないものであると賛同してくれるであろう。
凛はしばらくしてからようやく顔を上げる。その顔には覚悟があった。
「決めたわ、美子。食事指導も兼ねて、通い妻してメシを作ることにする。決定な?」
「え? え? え? な、なんでそうなったんですか?」
「私がモデル業の経験があるのは話したよな?」
「ああ、聞いたことあるかもしれないですね……」
「まあ、そういう美容に関係がある業界でな、きみの食事内容はこう呼ばれるんだよ」
凛が鋭い目つきできりっとした雰囲気を纏うと、美子は怯んだ。
「そう――“ババア到達最速RTAゴハン”とな」
「……凛ちゃん? 冗談はよくないよ?」
「冗談でもなんでもなくそうなるよ。普通の人なら25歳から老化が加速するかな。まあ、美子の場合は――」
ごくりと唾をのむ美子。真剣な表情の凛。
「まあこのままだと、早くて24歳ごろからシミやシワに苦しむかな。通りすがりの小学生にはおばちゃん、心のない中学生高校生にはババアと呼ばれてヒソヒソされ始めるよ」
「魔女を演じてるからって予言みたいに言わないで! 駄目だよ、いじめだよそういうのっ」
「ハッハッハ。まあ、そういうことだから食事を作りに夕方にまた来るよ。スーパーで買い物してからさ」
「え? あ、ああ、はい……」
美子は彼女の提案に思わず頷いてしまう。断れない雰囲気があったからだ。
「それにさ、一人の食事も味気ないからさ、一緒に食べたいんだよ、ダメかな?」
「……ダメじゃないです」
「ありがとう、じゃあ、また夕方に来るからね」
ニコニコとした表情に威圧感を感じて断れないまま、美子は車の外に出る。そして車の窓を介して彼女は凛へ心からのお礼を言った。
「凛ちゃん、今日は本当にありがとう」
「ああ、美子。これからよろしくな」
言うや、凛の車が離れていく。美子はそれを見えなくなるまで見送った。頬が緩んでいくと同時に自分の中で強い決意を抱く。
ここまで応援されているのだから、Vチューバーで成功しないといけない。いや、成功して彼女に喜んで貰いたいと思ったのだ。
「よし、まずはパソコン前に飾ってるエロゲーをしまおう」
そうして、彼女は飾っているやべえコレクションを思い浮かべながら家に戻った。