10 運命の人
時は少し遡り、舞踏会が行われる当日の王宮では、誰しもが朝から準備に追われていた。
そんな中、クリストファー王子はいつもと変わらず執務室に向かった。
「まったく、今夜舞踏会が開かれるというのに、どうして仕事をしなくちゃいけないんだ?」
クリストファー王子の斜め前の机に座っているブライアンが、愚痴を零しながら書類とにらめっこをしている。
「男はご令嬢のように髪を結ったりしないからな。準備にそれほど時間はかからないだろう?」
涼しい顔で書類にサインをしているクリストファー王子にブライアンはむうっと口を尖らせる。
「だからって俺を巻き込む事はないだろう? この後屋敷に戻って着替えて、また王宮に来なければいけないんだぞ?」
「だったらわざわざ屋敷に戻らずに、ここで着替えればいいじゃないか」
「いくら幼い頃から出入りしているからって、流石にそれは許されないだろ? 父上に知られたら一週間ぐらい地下牢に閉じ込められそうだ」
「あれ? ガザード公爵家って地下牢があるのか?」
「あるもんか! ものの例えだよ!」
ブライアンは否定したが、あっても可笑しくはないとクリストファー王子は考えた。
ブライアンには知らせていないが、この王宮には地下牢がある。
そして王族しか知らない秘密の通路も存在する。
万が一、襲撃を受けた際に王位継承者を逃がすための抜け道だ。
ガザード公爵家は昔から宰相として仕えている家系だ。
同じような地下牢や抜け道があっても不思議ではない。
「どうせ屋敷まではものの十分もかからないんだから、大した手間じゃないだろ? いいからさっさと終わらせよう」
ブライアンは諦めたように首を振ると、次々と書類の山を片付けていった。
仕事を終えるとブライアンは飛ぶように自分の屋敷へと戻っていった。
(何だかんだ文句を言いつつも、ブライアンも舞踏会が楽しみで仕方がないんだろう)
窓の下をブライアンが乗った馬車が通り過ぎて行くのを見送りながら、クリストファー王子も舞踏会に思いを馳せる。
そんな時間を遮るようにノックが聞こえて、侍従が扉を開いた。
「クリストファー王子。そろそろ準備をお願いします」
「…わかった」
クリストファー王子は侍従と共に執務室を出て、自室へと向かう。
着替えを終えて舞踏会が開かれるホールに向かっていると、同じように着替え終わったブライアンが現れた。
「ほら、そんなに時間はかからないだろう?」
笑いかけるクリストファー王子にブライアンは仏頂面を返す。
そうして始まった舞踏会でクリストファー王子とブライアンは、招待客からの挨拶を受ける為に席についた。
次々と訪れる令嬢や子息からの挨拶を受けていたクリストファー王子は、まだ序盤だというのに煩わしくなっていた。
次にやって来たのはタルボット侯爵家だった。
「本日はお招きありがとうございます。娘のドロシー、アナベル、エラです。どうぞお見知り置きを」
そう言ってタルボット侯爵が少し脇に避けて娘達がクリストファー王子の視界に入った時だった。
「タルボット侯爵家の皆さんですね。今夜は楽しんでいってください」
そう告げたまま、クリストファー王子はその令嬢から目を逸らす事が出来なかった。
「クリストファー王子。いかがなさいましたか?」
ブライアンの声にハッと我に返ったクリストファー王子は、躊躇う事なくその令嬢へと近寄った。
「失礼ですがお名前を伺ってもよろしいですか?」
そう声をかけられた令嬢もクリストファー王子から目が離せないようだった。
「ドロシーと申します」
はにかんだような微笑みにクリストファー王子は、そのままドロシーをダンスに誘う。
手を取り合ってホールの中央に向かった二人を見送ったブライアンは、振り向いた途端、一人の令嬢に吸い寄せられるように近寄っていった。
「はじめまして、ブライアン・ガザードと申します。お名前を教えていただけますか?」
「エラと申します。ブライアン様」
エラに名前を呼ばれてブライアンはそのままエラをダンスに誘う。
クリストファー王子もブライアンも周りの事など気にならなかった。
ただ、目の前で踊っている令嬢しか見えていなかった。
音楽が終わり、名残惜しげに休憩を取るためにテーブルへと向かう。
飲み物や軽食をつまんでしばらくは談笑していたが、再び音楽が鳴りだすと目の前の女性を再びダンスへと誘う。
それがどんな意味を持つのかは二人共十分承知していた。
二人は、『運命の人』を見つけたのである。