第4話
「ふん、なんだいなんだい、あの小娘は」
夕陽が落ち、夜に近づいた頃合になっても、ハル婆の不満は募るばかりだった。
日課の散歩––––もとい嫌がらせのターゲット探しにも、自ずと精が出ていた。
だが悲しいかな。小さなこの町では、偏屈婆さんの噂は誰もが知るところだった。
当然、ハル婆に近づこうとする人は誰もいなかった。
そのため、最近はもっぱら観光客がハル婆の目当てだった。
「あの小童なんてどうだろうねぇ。いかにも悪ガキって感じでよさげじゃないかい」
そうしてハル婆は、一組の若者に目をつけた。
五人からなるそのグループは、ちょっとはっちゃけたファッションに、どこか浮ついた空気感を漂わせていた。
「なんだいあんたたち!? あたしの財布を返してちょうだい!!」
そして、ハル婆は鶴羽にしたのと同じように、若者グループに因縁をつける。
「あ? なんだ、このババア」
「頭逝ってんじゃね?」
「あーあー、なんだよギャルかと思ったらババアじゃねぇかよ」
げはげはと男たちは笑う。そんな様子が癇に障ったのか、ハル婆は更に声を荒くする。
「ふざけるんじゃないよ!! あんたらみたいなボンクラが年寄りをいいように使うんだよ!! あたしは知ってるんだからね!! さっさと盗んだ財布を返しな!!」
瞬間。男たちの笑いがぴたりと止む。
「……なぁ、なんかこいつ腹たたねぇ?」
「あー……やっちゃう? この辺田舎で人いねーし」
男たちは愉悦に顔を歪めると、ハル婆を強く突き飛ばす。
「––––っ!?」
若い男の力は、歳をとったハル婆には堪えた。
コンクリートに体を強く打ち付け、声にならない息を漏らしながら横たわる。
「婆さんザッコいなーー」
「そんなんで俺らに絡んできたの? おもろ」
男たちが足をあげ、横たわったハル婆を蹴ろうとした時。
「おい!! 何してる!!」
鋭い声と共に、一人の男性が走ってきた。
「やべぇ、警官だ!」
「逃げるぞ!」
その身なりから、これから自分達に起きる事象を察した若者グループは、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
若者が去った後には、苦しそうに横たわるハル婆と、心配そうにそれを見つめるお巡りさんだけが残った。
「ハル婆、大丈夫かい? 腰が痛むだろう。車出すから、病院行こう。な?」
「うるさいよ……っ! お節介な男だねぇ、あんたも」
「でもハル婆、一人で帰れないだろ? 後遺症とかもあるかもしれないし、とりあえず診てもらった方いいよ」
そう言って、お巡りさんがハル婆に手を伸ばすと、
「……あんた、一体何なんだい? こんな頭のおかしい婆さんに手を貸そうだなんて。何が目的なんだい? あたしを……貶めようとしてるんじゃないかい?」
「え? 何言ってるのさ、ハル婆。俺は、ただハル婆を––––」
「そんなわけがあるかい!! 何をするつもりなんだい!! 今度はどんな手口であたしを裏切るんだい!? さっさと答えな!!」
ハル婆は言い終えると、肩で息をしながらお巡りさんを鋭く睨みつける。
「……そうかい。じゃあ、俺はもう行くよ」
そう伝えるお巡りさんの声は、どこか寂しそうだった。
背を向けるお巡りさんの背中が、弱々しく映った。
「……あ、そうだ。これもおせっかいかもしれないけどさ。ハル婆、望月さんの演奏会に行きなよ。……ハル婆は、いつも迷っているように見えるから。もしかしたら、何か変われるかもしれない。望月さんは……そういう《《音》》を見せてくれることで有名なんだ」
そして、沈みゆく夕陽の下には、誰もいなくなった町を見つめるハル婆だけが残った。
「ふん。さては、あの小娘の演奏会に行かせるためにこんなことをしたんだね。あたしは騙されないよ」
言葉とは裏腹に、ハル婆の顔は曇っていた。
後悔と、確信が入り混じった表情だった。
頭では分かっているのに、過去がそれを許さない。
人を疑うのも、最初は辛かった。
胸の奥で何か黒いものが生まれる感じがして、気持ち悪かった。
けれど、いつしかそれは当たり前になっていて。
疑うことに、慣れていた。
安心したのだ。
初めから人を信じなければ、裏切られて傷つくこともないから。
疑うことは、自分を守ることだから。
だから、誰も信じない。誰も、愛さない。
「––––ったいねぇ……っ!」
ハル婆は腰を上げようとするが、体が言うことを聞かない。
少しの間だけ、と痛いのを我慢しようとしても、体がこれ以上動かないのだ。
なす術なく倒れ込むしか、ハル婆にできることはなかった。
けれど。
「……まったく、ハル婆は困った婆さんだ」
頭の上から、どこか気の抜けた声がして。
「あんた……」
「ほら、肩に捕まって。病院まで送るよ。嫌だって言っても、聞かないからね」
「……ふん」
それ以上、ハル婆は喋らなかった。
お巡りさんの肩に身を委ねると、彼も黙って歩き出した。
ただ、一つだけ。
ハル婆は、思ったのだ。
◆◇◆◇
それは、青く晴れた気持ちのいい日だった。
相変わらず風は強く、青い空に浮かぶわずかな雲を勢いよく攫っていた。
鶴羽は、舞台裏でヴァイオリンの弓に松脂を塗りながら、その時を待っていた。
町で一番大きなホールを貸し切っての大掛かりな演奏会。
客足が悪ければ大赤字だが、そうならないだけの実力と知名度が鶴羽にはあった。
暗がりの中でゆっくりとカーテンが開いていき、鶴羽の名前がアナウンスされる。
ヴァイオリンを手に取り、その中心へと歩みを進める。
道中、万雷の拍手が鶴羽に向けられ、いよいよ始まるんだという独特の高揚感に包まれる。
大きな舞台で演奏するのは何度目か分からないが、舞台に上がる時は毎回決まって新鮮な気持ちになる。
「バッハ管弦楽組曲第三番二長調 より『エール』」
通称『G線上のアリア』。
ヴァイオリンの一番低い、G線と呼ばれる弦だけで演奏できることから、そう呼ばれている。
常に低音だけが響き、それを阻害する音が一切ない。
ただ真っ直ぐで、嘘偽りのない音だけを届けてくれる。
鶴羽の腕が、ゆっくりと上がった。
一瞬間の静寂が、この場を支配する。
そして。
長い、長い一音が紡がれた。
それは、幼い子供を眠りに導くような。
それは、永い眠りから愛しい人を呼び起こすような。
優しく、強い音色だった。
一つのストーリーのように。その音は、ゆっくりと次の音に繋がる。
ずっと続く、長い低音の道。
けれどそれは、決して平坦ではなかった。
そこには、感情があった。
物語があった。
聞く人の心を揺さぶる、輝きがあった。
鶴羽はたった一つの弦を指で押さえながら、さざなみのように弓を引いていく。
その目には、ホールを埋め尽くすたくさんの観客が映っていた。
意外にも子供もいて、多分ヴァイオリンにはあまり興味がないのだろうけど。
それでも、食い入るように鶴羽のヴァイオリンを見つめていた。
そんなたくさんの人の中から、鶴羽は見知った顔を見つけた。
それは、中盤の列。
杖を席の横に置いた、一人の老婆だった。
遠くてあまり見えないけど、その顔は。
その泣き顔は。
何を感じ、何を考えてくれたのか。
分からなかったけど、少なくとも何かは変えられたのだと。
そう、思えた。
◆◇◆◇
それは、聞いたことのない音だった。
流れるような、けれど音の区切りがはっきりと分かる力強い音。
そんな音を、ハル婆は知らなかった。
ゆっくりと始まったその曲は、道中もぽつぽつと進んで行った。
よそ見をしていれば、クライマックスを見失ってしまいそうな程に繊細な曲。
だからこそ。その音一つ一つが、ハル婆の胸の奥にある黒いものに届いた。
力強いその音は、けれど優しく、黒いものに当たった。
一音一音が触れるたび、そこから光が溢れていく。
黒かったものが、段々と輝いていく。
いつしかあった、輝きに。
青年に教えてもらった、あの輝きに。
歌や詩のように、直接的なものではないけれど。
《《音》》は、響いた。
「あたしは……っ私は……っ!!」
長い間、道に迷っていた。
正しいと思っていた。
人を疑って、自分を守ることは。
けれど、何も守れていなかった。
人を疑うのは、辛かった。辛かったのだ。
なのに、裏切られた時の記憶だけが胸の奥で渦巻いて。
ずっと、忘れていた。
信じることの、心地よさを。
彼と過ごした、あの時間を。
彼がかけてくれた、あの言葉を。
「あぁ……っ! ああぁぁ……っっ!! 私は、私は……っ!!」
涙が、溢れていた。
年甲斐もなく、まるであの夜のように。
涙は頬をつたり、しわくちゃになった手にこぼれ落ちた。
この音には、嘘偽りがない。
疑うなんて、できないのだ。
疑う必要なんて、なかった。
最初から、優しかったんだ。
曇りのない優しさを、私に向けてくれていたんだ。
忘れていたのは、楽しい記憶だったから。
ほんと、馬鹿な女だよ、私は。
彼を信じられるのは、私だけだったのに。
彼を信じるべきなのは、私だったのに。
彼だけは、私のために生きようとしてくれたのに––––。
◆◇◆◇
俺は、あんなに寂しそうな顔をするお前が許せなかった。
俺と同じだったから。
何もかもを諦めた、生きることにさえ意味を見出せない、だせぇクソ野郎の顔だ。
鏡を見ているみたいだった。気分は最悪だ。
でもそれ以上に、お前にそんな顔をさせる世界にむかついた。
お前にそんな顔をさせる世界が、許せなかった。
だから俺は、お前と一緒にいたかったんだ。
世界を変えるなんてたいそうな真似、できっこないけどな。
お前の白けた顔が、一瞬でも笑顔になるなら。
俺が、笑顔にできるなら。
そうしたいと、思ったんだ。