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   「ハシメ」     作者: おんたけ
EP.1 信じる目
3/4

第3話

 少女の目には、いつしか輝きが戻っていた。


 青年のおかげで、生きる意味を知ったのだ。


 青年との夜の旅は、次の日の朝方まで続いた。


 慣れない時間帯に眠くなる時もあったが、退屈な時間は全くなかった。


「あ、ちょっとそこの雑貨屋さん見てきてもいいかな?」

 

 大通りの、ちょっとおしゃれな雑貨屋。少女は青年にそう告げ、中に入って行った。


 青年も一緒に行こうとしたが、少女が一人でいいと譲らなかったのだ。


「何がいいかな……」


 開店直後の店には少女の他に客はおらず、ゆっくりと中を見ることができた。


 少女は、青年にお礼がしたかった。


 もちろん、言葉では何度も伝えたけれど。


 何か形に残るものを、あげたかったのだ。そんなにお金は持っていないけれど。

 小さなものでもいいから、青年に持っていて欲しかった。


「贈り物ですか?」


 不意に声をかけられ、少女の肩が僅かに跳ねた。


「あ、はい。感謝の気持ち……みたいなものです」


「素敵ですね。でしたら、こちらなんてどうでしょう? 学生さんにも比較的手が届きやすくて、人気ですよ」


 店員さんはにこにこと笑顔を浮かべながら案内してくれた。

 そこには、色とりどりの刺繍が施されたハンカチが所狭しと並べられていた。


「種類も豊富ですし、選ぶ楽しさもありますよ」


 なるほど。少女は、全面的に店員さんの意見に納得した。


 シックな柄からアクセントを加えた柄まで、色とりどりに並ぶハンカチは、まるでたくさんの花が咲く花畑のようだった。


 少女は暫く悩んだ後、一枚のハンカチを手に取った。


 彼は喜んでくれるかな、なんて浮ついた気持ちも、少女には心地良かった。


 心地良いと、思えたはずなのだ。


「親父……!! なんでこんなとこにいんだよ!」


「どうも私の書いたカルテで不明瞭な点があったらしくてな。今から詳細を伝えに行くんだ」


 店を出ると、そんな青年の怒号が耳に響いた。


 それは、落ち着いた雰囲気の、歳は40半ばといった男に向けられたものだった。


 その男を、少女は知っていた。


「––––っ!?」


 それは。


 その、遠くを見つめるような淡い瞳は。


 医学者にしては珍しい、大きな体躯は。


「おとう……さん……?」


 かつて少女が共に暮らした、父親の姿であった。


 それを認知した途端、少女は胸を抑えて俯いた。


 動悸が激しい。


 目を合わせられない。


 吐き気がする。


 足が、震える。


 二人はまだ、少女の存在には気がついていない。


「それより、お前はまた夜遊びか? 大学にもろくに行ってないようだな。私の跡を継ぐ身として、もう少し自覚を持って欲しいものだが」


「何回言ったら分かるんだ? 俺は医者にはならねぇ。自分の生き方くらい自分で決める」


「分からんな。親がこれだけ正しい道を示してやってるのに、何故拒む? それに、お前はとっくに納得していたものだと思っていたがな」


「正しい道だぁ? てめぇが勝手に押し付けてるだけだろ。俺がいつ納得したってんだ?」


 あれだけ優しい青年が、これ程怒りに顔を歪ませる姿を、少女は想像できなかった。


 しかし、次の瞬間青年の怒りは更に高まる。


「……ふむ。お前はいつからだったか、目に光がなくなったからな。諦めた人間のそれと同じだと思ったのだが。気のせいだったか?」


 その言葉に、青年の顔は分かりやすく歪んだ。


 青年が怒号と共に男に掴みかかろうとした時。


 目が、合ってしまった。


 それは、必然だったかのように。


 男の視線は、少女の虚な顔に向けられていた。


「ん? 君は……」


 その声に青年は動きを止め、振り返る。


「お前……」


 青年の顔が、見れなかった。


 少女の父を親父と呼ぶ彼は、やはり。


 間違いようもない。けれど、認めたくない事実だった。


「まさか……みどりの娘か……?」


 あぁ、そうか。


 父は、娘の名前など覚えてはいなかったのだ。


 考えてみれば、当たり前だった。


 母と早く別れたがっていた父なのだ。母を彷彿とさせる娘の名前など、早く忘れたかったに決まっている。


 顔を覚えていたのが奇跡なくらいだ。


 それでも、一抹の期待をしてしまったのは、少女がまだ幼かったからに他ならない。


「まさかこんな所で会うなんてな……。どうだい、元気でやってるかい? と言っても、今は一人で何かと苦労するだろう。……翠のことは、残念だったね」


 それが社交辞令であることは、明白だった。


 父は、謝らなかったから。


 母と別れる時も、少女には一度も謝らなかった。


 結局、自分本位な人間に過ぎないのだと、少女はそう結論付けていた。


 いや、それよりも。


「……なんで、お母さんのことを知ってるの……?」


 母の死は、父には伝えていない。葬式にも来なかった。

 なのになぜ、この男は母が死んだことをしっているのだろうか。


「……おっと、余計なことを言ってしまったな。……まぁ、今更誤魔化すのは難しいか。君には酷な話になるかもしれないけど、少し話をしようか」


 男は、淡々と話し始めた。


「翠の死を知っているのは、私の開業した病院で彼女のことを診たからだよ」

 

「そう……なの……?」


「実際に診察したのは若いもんだがね。まぁ、腕は間違いないよ」


「なら……ならなんで!! お母さんは死んじゃったの!? 腕がいいなら助けられたんじゃないの!? お父さんだったら、何かいい方法を見つけられたんじゃないの!? どうして……っ!!」


 こんなことを言っても、どうにもならないのに。


 母は、戻ってこないのに。


 ただ、裏切られた悔しさから、父に八つ当たりをしているのだ。


「……ふむ。それは心外だな。助けられた、というが、君は翠の状態をその目で見たのかい?」


 少女は首を横に振る。


「あれだけの打撲痕が全身にあると、体の至る所が破損してしまうのだよ。それこそ、目に見える傷では比較にならないほどにね」


「打撲……?」


 父の落ち着いた声が、妙に頭に響いた。


 母は、過労でその命を落としたのだ。なぜ今、打撲痕などという話が出るのだろうか。


 嫌な予感がした。


 そう思った時には、父は次の言葉を紡いでいた。


「君には、過労だと伝えていたかな。私が担当医にそう伝えるよう言ったんだ。娘への、せめてもの配慮だったんだがね」


 そう、聞いていた。


 母は過労だったって。私のために頑張って働いてくれたから、それが行き過ぎちゃったんだって。


 担当医の若い男の人は、そう話してくれた。


「嘘だったって……こと……?」


「言ったろう。私なりの配慮だと。だが、よく考えれば君は現実を受け入れるべきなのかもしれない。それに、私の評価が下げられるのも不快なのでね」


 抑揚のない声で、男は言った。


「翠は、DVを受けていたんだ」


 その言葉が耳を突き抜けると、周りの音が一瞬にして消え去った。


 目の前が真っ白になって、自分が今どこにいるのかさえあやふやになる。


 分からない。


 DVなんて……母は毎日仕事に行き、帰ってきたら家で一緒にご飯を食べていたのだ。


 そんなことをされる時間なんて、どこにも無かった。


 それに、なにより。


 母を、愛しているのだ。


 母を、信じているのだ。


 母が、娘を置いて。あれだけ愛した父のことを忘れて。


 他の男の人と関係を持つなんて、あるはずがないのだ。


「幼かった君は知らなかったろうが、彼女は昔から男癖が悪くてね。一人の男では満足できない体だったんだ。それこそ、私が今の妻と会っていた時も、彼女は何人もの男と寝ていたよ」


「そ、んな、わけ……っ!!」


「私はそれを知っていたし、知っていたからこそ見切りを付けたんだ。それでもすぐに別れなかったのは、あれはあれでいい女だったからに過ぎないんだよ」


「そんなわけ……ないっ!! お母さんは毎日仕事に行っていたし、夜は私といた! 自分のしたことを正当化しないでっ!!」


「仕事……か。翠と別れる時、私は多額の金を要求された。一歩間違えれば法外な程のね。それとは別に、養育費だって毎月払っている。それなのに、彼女が本当に仕事なんかしていたと思うかい?」


 父のプライドを守るための妄言だとは分かっているのに、心のどこかで母を疑ってしまう。


 それが、すごく気持ち悪かった。


 時々向けてくれる、あの笑顔を。


 優しい味のする、手料理を。


 楽しいと思えた、あの日々を。


 疑ってしまうのが、辛かった。


「彼女は、君を家に置いて毎日のように男と会っていたんだよ。何人もの、ね。だからだろうね。そのうちの一人が逆上して、翠を殴った。あのアザを見るに、相当力任せに殴られたんだろう。即死寸前だったよ」



 あぁ……っ!! 



 ああああああぁぁぁぁっっっっ!!!!



「違う、違う違う違う!! お母さんは、お母さんは私を––––」


「君を愛してなど、いなかった」


 感情のない声は、少女に現実を運ぶ。


 母は、少女を愛してなどいなかった。

 

 笑顔も、手料理も、なにもかも。


 ただの、まやかしだった。


 父も、母も。最初から、少女にはいなかったのだ。


「どうだろう? 分かってくれたかな? 私の病院は決して腕が悪いなんてことはないし、私は翠とは違って家族を大切にしている。そうだろう?」


 そう言って、その目を青年に向ける。


「親父……っ!! ふざけんなよ……っ!! てめぇ、なんであいつにそんなふざけたこと言ったんだ!!」


「……息子を馬鹿だとは思いたくないんだがね。言ったろう? これは彼女のためであり、私のためでもあるんだ」


 青年は怒りに顔を歪め、しかしその目は少女を見ていた。


 そして、精一杯の優しい声で少女に声をかける。


「立てるか? 少し、落ち着く時間が必要だろ。ほら、行くぞ」


 青年は、少女を助けたかった。


 昨日のように、二人でどこかに行けば。


 今度は、水族館でもいい。

 

 少女の好きな場所で、好きなことをして。


 楽しい思い出を作ることが、できたなら。


 また、少女の笑顔が見れるはずだと。


 そう、信じていた。


「……めて」


 しかし、少女は。


「やめて!!」


 青年の知っている少女は、もうそこにはいなかった。


「な……っ!? お、おい! 大丈夫だ、落ち着け! 俺はお前を––––」


「もうやめて!! そうやってあなたも私を裏切るんでしょう!? 何が目的なの!? 何をするつもりなの!?」


 それは、弱々しい少女の姿ではなくて。


 人を疑う、醜い姿だった。


「嘘つかないで!! 私が聞いた時も、あなたは答えてくれなかった!! もう十分なの!! 信じて、裏切られるのも……っ! 愛して、裏切られるのも……っ!」


 少女は泣いていた。


 激しく。ただ、激しく。


 その涙はなんの涙なのか。


 怒りか、悲しみか。


 葛藤か、確信か。


「違う!! 俺は––––」


 青年は自分の思いを口にした。


 あの時伝えられなかった、本当の気持ちを。


 精一杯、言葉に乗せた。


 届いて欲しい。


 ただ、少女の心に届いて欲しいと願って。


 手を、伸ばした。


 少女の肩を。自分が抱き寄せたいと、そう思ったから。


 鋭い音が、周囲に響いた。


「触らないで!!」


 青年は頬を抑え、少女は顔を歪ませる。


「もう、やめて……。あなたの事は、信じられないの。……さようなら」


 少女は走った。


 行く当てなど、なかった。


 少女はこの先、どこに進むのか。


 どこを、目指すのか。


 人を信じ、裏切られた。


 人を愛し、愛されなかった。


 誰かのために生きるなんて、詭弁だ。


 その誰かは、自分のために生きてはくれないのだから––––。












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