第3話
少女の目には、いつしか輝きが戻っていた。
青年のおかげで、生きる意味を知ったのだ。
青年との夜の旅は、次の日の朝方まで続いた。
慣れない時間帯に眠くなる時もあったが、退屈な時間は全くなかった。
「あ、ちょっとそこの雑貨屋さん見てきてもいいかな?」
大通りの、ちょっとおしゃれな雑貨屋。少女は青年にそう告げ、中に入って行った。
青年も一緒に行こうとしたが、少女が一人でいいと譲らなかったのだ。
「何がいいかな……」
開店直後の店には少女の他に客はおらず、ゆっくりと中を見ることができた。
少女は、青年にお礼がしたかった。
もちろん、言葉では何度も伝えたけれど。
何か形に残るものを、あげたかったのだ。そんなにお金は持っていないけれど。
小さなものでもいいから、青年に持っていて欲しかった。
「贈り物ですか?」
不意に声をかけられ、少女の肩が僅かに跳ねた。
「あ、はい。感謝の気持ち……みたいなものです」
「素敵ですね。でしたら、こちらなんてどうでしょう? 学生さんにも比較的手が届きやすくて、人気ですよ」
店員さんはにこにこと笑顔を浮かべながら案内してくれた。
そこには、色とりどりの刺繍が施されたハンカチが所狭しと並べられていた。
「種類も豊富ですし、選ぶ楽しさもありますよ」
なるほど。少女は、全面的に店員さんの意見に納得した。
シックな柄からアクセントを加えた柄まで、色とりどりに並ぶハンカチは、まるでたくさんの花が咲く花畑のようだった。
少女は暫く悩んだ後、一枚のハンカチを手に取った。
彼は喜んでくれるかな、なんて浮ついた気持ちも、少女には心地良かった。
心地良いと、思えたはずなのだ。
「親父……!! なんでこんなとこにいんだよ!」
「どうも私の書いたカルテで不明瞭な点があったらしくてな。今から詳細を伝えに行くんだ」
店を出ると、そんな青年の怒号が耳に響いた。
それは、落ち着いた雰囲気の、歳は40半ばといった男に向けられたものだった。
その男を、少女は知っていた。
「––––っ!?」
それは。
その、遠くを見つめるような淡い瞳は。
医学者にしては珍しい、大きな体躯は。
「おとう……さん……?」
かつて少女が共に暮らした、父親の姿であった。
それを認知した途端、少女は胸を抑えて俯いた。
動悸が激しい。
目を合わせられない。
吐き気がする。
足が、震える。
二人はまだ、少女の存在には気がついていない。
「それより、お前はまた夜遊びか? 大学にもろくに行ってないようだな。私の跡を継ぐ身として、もう少し自覚を持って欲しいものだが」
「何回言ったら分かるんだ? 俺は医者にはならねぇ。自分の生き方くらい自分で決める」
「分からんな。親がこれだけ正しい道を示してやってるのに、何故拒む? それに、お前はとっくに納得していたものだと思っていたがな」
「正しい道だぁ? てめぇが勝手に押し付けてるだけだろ。俺がいつ納得したってんだ?」
あれだけ優しい青年が、これ程怒りに顔を歪ませる姿を、少女は想像できなかった。
しかし、次の瞬間青年の怒りは更に高まる。
「……ふむ。お前はいつからだったか、目に光がなくなったからな。諦めた人間のそれと同じだと思ったのだが。気のせいだったか?」
その言葉に、青年の顔は分かりやすく歪んだ。
青年が怒号と共に男に掴みかかろうとした時。
目が、合ってしまった。
それは、必然だったかのように。
男の視線は、少女の虚な顔に向けられていた。
「ん? 君は……」
その声に青年は動きを止め、振り返る。
「お前……」
青年の顔が、見れなかった。
少女の父を親父と呼ぶ彼は、やはり。
間違いようもない。けれど、認めたくない事実だった。
「まさか……翠の娘か……?」
あぁ、そうか。
父は、娘の名前など覚えてはいなかったのだ。
考えてみれば、当たり前だった。
母と早く別れたがっていた父なのだ。母を彷彿とさせる娘の名前など、早く忘れたかったに決まっている。
顔を覚えていたのが奇跡なくらいだ。
それでも、一抹の期待をしてしまったのは、少女がまだ幼かったからに他ならない。
「まさかこんな所で会うなんてな……。どうだい、元気でやってるかい? と言っても、今は一人で何かと苦労するだろう。……翠のことは、残念だったね」
それが社交辞令であることは、明白だった。
父は、謝らなかったから。
母と別れる時も、少女には一度も謝らなかった。
結局、自分本位な人間に過ぎないのだと、少女はそう結論付けていた。
いや、それよりも。
「……なんで、お母さんのことを知ってるの……?」
母の死は、父には伝えていない。葬式にも来なかった。
なのになぜ、この男は母が死んだことをしっているのだろうか。
「……おっと、余計なことを言ってしまったな。……まぁ、今更誤魔化すのは難しいか。君には酷な話になるかもしれないけど、少し話をしようか」
男は、淡々と話し始めた。
「翠の死を知っているのは、私の開業した病院で彼女のことを診たからだよ」
「そう……なの……?」
「実際に診察したのは若いもんだがね。まぁ、腕は間違いないよ」
「なら……ならなんで!! お母さんは死んじゃったの!? 腕がいいなら助けられたんじゃないの!? お父さんだったら、何かいい方法を見つけられたんじゃないの!? どうして……っ!!」
こんなことを言っても、どうにもならないのに。
母は、戻ってこないのに。
ただ、裏切られた悔しさから、父に八つ当たりをしているのだ。
「……ふむ。それは心外だな。助けられた、というが、君は翠の状態をその目で見たのかい?」
少女は首を横に振る。
「あれだけの打撲痕が全身にあると、体の至る所が破損してしまうのだよ。それこそ、目に見える傷では比較にならないほどにね」
「打撲……?」
父の落ち着いた声が、妙に頭に響いた。
母は、過労でその命を落としたのだ。なぜ今、打撲痕などという話が出るのだろうか。
嫌な予感がした。
そう思った時には、父は次の言葉を紡いでいた。
「君には、過労だと伝えていたかな。私が担当医にそう伝えるよう言ったんだ。娘への、せめてもの配慮だったんだがね」
そう、聞いていた。
母は過労だったって。私のために頑張って働いてくれたから、それが行き過ぎちゃったんだって。
担当医の若い男の人は、そう話してくれた。
「嘘だったって……こと……?」
「言ったろう。私なりの配慮だと。だが、よく考えれば君は現実を受け入れるべきなのかもしれない。それに、私の評価が下げられるのも不快なのでね」
抑揚のない声で、男は言った。
「翠は、DVを受けていたんだ」
その言葉が耳を突き抜けると、周りの音が一瞬にして消え去った。
目の前が真っ白になって、自分が今どこにいるのかさえあやふやになる。
分からない。
DVなんて……母は毎日仕事に行き、帰ってきたら家で一緒にご飯を食べていたのだ。
そんなことをされる時間なんて、どこにも無かった。
それに、なにより。
母を、愛しているのだ。
母を、信じているのだ。
母が、娘を置いて。あれだけ愛した父のことを忘れて。
他の男の人と関係を持つなんて、あるはずがないのだ。
「幼かった君は知らなかったろうが、彼女は昔から男癖が悪くてね。一人の男では満足できない体だったんだ。それこそ、私が今の妻と会っていた時も、彼女は何人もの男と寝ていたよ」
「そ、んな、わけ……っ!!」
「私はそれを知っていたし、知っていたからこそ見切りを付けたんだ。それでもすぐに別れなかったのは、あれはあれでいい女だったからに過ぎないんだよ」
「そんなわけ……ないっ!! お母さんは毎日仕事に行っていたし、夜は私といた! 自分のしたことを正当化しないでっ!!」
「仕事……か。翠と別れる時、私は多額の金を要求された。一歩間違えれば法外な程のね。それとは別に、養育費だって毎月払っている。それなのに、彼女が本当に仕事なんかしていたと思うかい?」
父のプライドを守るための妄言だとは分かっているのに、心のどこかで母を疑ってしまう。
それが、すごく気持ち悪かった。
時々向けてくれる、あの笑顔を。
優しい味のする、手料理を。
楽しいと思えた、あの日々を。
疑ってしまうのが、辛かった。
「彼女は、君を家に置いて毎日のように男と会っていたんだよ。何人もの、ね。だからだろうね。そのうちの一人が逆上して、翠を殴った。あのアザを見るに、相当力任せに殴られたんだろう。即死寸前だったよ」
あぁ……っ!!
ああああああぁぁぁぁっっっっ!!!!
「違う、違う違う違う!! お母さんは、お母さんは私を––––」
「君を愛してなど、いなかった」
感情のない声は、少女に現実を運ぶ。
母は、少女を愛してなどいなかった。
笑顔も、手料理も、なにもかも。
ただの、まやかしだった。
父も、母も。最初から、少女にはいなかったのだ。
「どうだろう? 分かってくれたかな? 私の病院は決して腕が悪いなんてことはないし、私は翠とは違って家族を大切にしている。そうだろう?」
そう言って、その目を青年に向ける。
「親父……っ!! ふざけんなよ……っ!! てめぇ、なんであいつにそんなふざけたこと言ったんだ!!」
「……息子を馬鹿だとは思いたくないんだがね。言ったろう? これは彼女のためであり、私のためでもあるんだ」
青年は怒りに顔を歪め、しかしその目は少女を見ていた。
そして、精一杯の優しい声で少女に声をかける。
「立てるか? 少し、落ち着く時間が必要だろ。ほら、行くぞ」
青年は、少女を助けたかった。
昨日のように、二人でどこかに行けば。
今度は、水族館でもいい。
少女の好きな場所で、好きなことをして。
楽しい思い出を作ることが、できたなら。
また、少女の笑顔が見れるはずだと。
そう、信じていた。
「……めて」
しかし、少女は。
「やめて!!」
青年の知っている少女は、もうそこにはいなかった。
「な……っ!? お、おい! 大丈夫だ、落ち着け! 俺はお前を––––」
「もうやめて!! そうやってあなたも私を裏切るんでしょう!? 何が目的なの!? 何をするつもりなの!?」
それは、弱々しい少女の姿ではなくて。
人を疑う、醜い姿だった。
「嘘つかないで!! 私が聞いた時も、あなたは答えてくれなかった!! もう十分なの!! 信じて、裏切られるのも……っ! 愛して、裏切られるのも……っ!」
少女は泣いていた。
激しく。ただ、激しく。
その涙はなんの涙なのか。
怒りか、悲しみか。
葛藤か、確信か。
「違う!! 俺は––––」
青年は自分の思いを口にした。
あの時伝えられなかった、本当の気持ちを。
精一杯、言葉に乗せた。
届いて欲しい。
ただ、少女の心に届いて欲しいと願って。
手を、伸ばした。
少女の肩を。自分が抱き寄せたいと、そう思ったから。
鋭い音が、周囲に響いた。
「触らないで!!」
青年は頬を抑え、少女は顔を歪ませる。
「もう、やめて……。あなたの事は、信じられないの。……さようなら」
少女は走った。
行く当てなど、なかった。
少女はこの先、どこに進むのか。
どこを、目指すのか。
人を信じ、裏切られた。
人を愛し、愛されなかった。
誰かのために生きるなんて、詭弁だ。
その誰かは、自分のために生きてはくれないのだから––––。