第2話
誰かのために生きるなんて、詭弁だ。
涙は、少女の丸めた膝にぽとぽととこぼれ落ちた。
夜の繁華街でしゃがみ込み、音も立てずに泣き続ける少女の姿は、通り過ぎる人の目には異質に映っただろう。
それでも、少女は泣いた。泣き顔を見せないように下を向いているのは、せめてもの抵抗だ。
先日、母が死んだ。
過労だって、担当してくれた医者から聞いた。
たった一人で少女を高校生まで育ててくれた、たった一人の家族。
たった一つ、少女が大切に思っていたもの。
「––––っ」
少女は、膝の前で結んだ手に力を入れる。
そう、たった一人の家族だったのだ。
別に、父親がいないというわけではない。父は健在なはずだ。
《《はず》》、というのは、父とはもうしばらく会っていないため明らかではないからだ。
父の不倫が発覚し、両親が離婚した日から一度も。
母は泣いていた。まだ幼かった少女には、起きている事があまり分からなかった。
それでも、母は失ったのだと気づいた。
そこにあったはずの愛を。
与えられるはずだった父からの想いを。
母は、失ったのだ。
慰謝料やら養育費やらの話はすぐにまとまった。
父は、母の提示した要件をあっさりと了承した。
医者だったのもあってか、父はお金に関しては何も文句を言わなかった。
ただ、早く別れたい。そんな感じだった。
その時既に、父には少女の他に子供がいたのだ。
少女の母とは違う、別の女性との子供。
当時の少女よりも、歳が上だとか。それはつまり、少女が生まれるより前に父にはそういう人がいたわけで。
母は、その事実にいっそう悲しんだ。憤ることはなかった。ただ、悲しんだ。
それから母は、人が変わったように暗くなった。
当然と言えば当然なのだろう。少女の両親は、少女から見ても仲の良い夫婦で、父と話している時の母はすごく幸せそうだった。
でも。それでも、母は少女を育てたのだ。
少女に向ける笑顔の数は減ったけれど。
少女と過ごす時間はあまりなかったかもしれないけれど。
少女の、母へ抱いた感謝と愛は本物だった。
だからこそ。
「––––うっ、っ……っ!」
絶対に、失いたくなかった。
これでは、かつての母と同じだ。
愛を失った、惨めな女––––きっと、そうなるのだろう。
毎日のように、仕事から帰ってくる母を心待ちにする日々も。
母に褒めてもらいたくて、勉学に勤しむ日々も。
これから先、二度と送ることができない。
母のために生きてきたのに。母に笑ってほしくて、生きてきたのに。
誰かのために生きるなんて、詭弁だ。
その《《誰か》》がいなかったら、生きる意味がないじゃないか。
私が生きてる必要なんて、ないじゃないか。
だからやっぱり、誰かのために生きるなんて、詭弁だ。
哀しみを紛らすように、丸めた身体に力を入れた時、
「––––なぁ、お前一人? 俺とちょっと遊ぼうぜ?」
頭の上から聞こえたその声に、少女は顔を上げた––––。
◆◇◆◇
その少女は、目鼻立ちがはっきりとした、可愛らしい娘だった。
それこそ、泣き顔すらも可愛らしいと思えるほどに。
しかし、青年には分からなかった。
何故、この少女は泣いているのだろうか? 泣くほど悲しいことがあったのに、何故こんな繁華街でしゃがみ込んでいるのだろうか?
しかしそれらは全て、青年にとってはどうでもいいことだった。
抱ける女が欲しかった。ただそれだけで、よかった。
少女は、青年の言葉を待っているようだった。
警戒するでもなく、どこか達観した表情だった。
「何か悩みでもあんのか? 俺が聞いてやるからさ、とりあえずそこのホテルに––––」
青年は言葉を止めた。いや、失ったという方が正しいだろうか。
青年を見上げる少女は、うっすらと笑っていたのだ。
男によく見られようとして、こうやって笑う女はよく見てきた。
そういう女は大体、簡単に抱ける。それが青年の考えだった。
しかし少女のこの笑みは、青年には向けられていない。
青年は、そう感じた。
「……いいですよ」
そう言って無理やりに微笑む少女を見て、青年は確信した。
あぁ、そうか。
こいつは、自分に笑ってるのか。
情けねぇ自分を、笑っているのか。
それは。
その顔は。
何もかもを諦めたような、クソ野郎の顔は。
青年が一番嫌いなもので、青年が毎日見ているものだった。
「……やめだ。ホテルは行かねぇ。じゃあな」
そう言って立ち去ろうとする青年の袖を、少女は力強く掴んだ。
「ま、待って、下さい……! 行かないで……! 私を、ひとりにしないで……っ!!」
捨てられた子猫……いや、見知らぬ男に助けを求めるしかできない、哀れな少女だった。
青年は、少女の手を振り解くことはしなかった。
ただゆっくりと、一度背けた顔を少女へ向けた。
「……少しだけ、遊んでやるよ」
◆◇◆◇
それから青年は、夜の町を少女に見せた。
夜の動物園。少女は、どこか嬉しそうに動物達を眺めていた。
最後に動物園に来たのは、多分幼稚園の時。まだ両親が二人でいた時。
楽しかった記憶は意図的に消すようにしていたが、やっぱり気持ちに嘘はつけないんだと思わせられる。
「動物園、好きなのか?」
「……はい。そうみたいです」
「……そうか。俺ぁ、獣臭いからそんな好きじゃねぇけどよ」
「……でも、連れてきてくれたじゃないですか」
「……気まぐれだ。あと、敬語はやめろ。慣れねぇんだよ」
そう言って向こうを見る男に、少女はうっすら笑みを浮かべていた。
諦念の笑みではなかったのだろう。青年は気恥ずかしそうに目を逸らした。
二人は歩き出し、夜の動物園を旅する。
それは、いつしか家族で見た光景で、少し切なくなったり。
大きな観覧車がライトアップされていて素敵だな、なんて思ったり。
少女は確かに、笑っていた。
外に出てからも、青年は少女を連れ歩いた。
夜のラーメン屋。夜の海岸。夜の電車。
その全てが少女にとっては非日常で、新鮮なものだった。
知らなかった世界を、知れたような気がした。
青年は、何も聞かずに少女をたくさんの場所へと連れていった。
少女は、家族のことを話せないでいたが、なんとなく青年には全て伝わっているような気がしていた。
「……ありがとう」
不意に、少女が言った。
「……やめろよ」
褒められ慣れてないのか、青年は少女とは反対の方に目をやった。
「ほら、行くぞ」
青年は少女の前を歩き、少女は後に続いた。
二人がたどり着いたのは、小高い丘にある神社だった。
青年の目的は神社ではないのか、そのまま丘の先へと歩いて行く。
青年が立ち止まり、そのすぐ後に少女も立ち止まる。
「これは……」
決して多くはないネオンの明かりで照らされ、町は朧げに輝いて見えた。
特段綺麗なわけでもない。きっと、どこにでもあるありふれた光景。
「なんかよ。このしょぼい町見てると、必死に生きてんだなって思うんだよ」
青年の言葉が、少女にはなんとなく分かった。
「全然栄えてるわけじゃねぇのによ。所々光ってて、それでちょっとだけ輝いてんだ」
「……うん」
「都会に比べりゃ大したことねぇのにな。なんだろうな。なんか、これはこれでありかな、って思うんだよ」
「……うん……っ!」
青年の言葉が、少女には深く響いた。胸のもやもやした所に、霧吹きをかけられたように。
少しずつ、霧が晴れていく。
恵まれてなくても、いいんだって。少しだけでいいから、輝いていようって。
誰かのためじゃなくても、必死に生きていれば、それはきっと輝かしいものなんだろうって––––。
「……泣くなよ」
隣で音を殺して泣く少女を見て、青年は困ったように目を逸らす。
「……別に誰もいねぇんだから。そんな隠すように泣くこたぁねぇだろ」
そして、少女は声をあげて泣きじゃくった。
夜の風に運ばれるように、少女の声は朧げな町に響いた。
ひとしきり泣き終えた少女は、青年に全てを話した。
母のこと。父のこと。そして何より、青年のおかげで変われたこと。
「……そうか」
青年はそれだけ言い、遠い空の向こうを見つめた。
「ありがとう。本当に……。でも、どうして私を助けてくれたの?」
「助けたなんて、大袈裟だな。言っただろ? ただの気まぐれだ」
それが真意でないことは、少女にもすぐに分かった。
青年はすごく優しいけれど、時折見せるのだ。
信念というか、覚悟というか。何か、強い思いを感じるのだ。
少女が黙って青年を見上げていると、青年は諦めたように息を吐いた。
「ったく……。しつこいぞ。その内、俺の気が向いたら教えてやるよ」
少女は不服ながらも、渋々頷いた。
気まぐれだとか気が向いたらだとか、もしかしたらこの青年は、本当に気分屋なだけなのかもしれない、なんて思って少女は再び笑みをこぼした。