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   「ハシメ」     作者: おんたけ
EP.1 信じる目
2/4

第2話

 誰かのために生きるなんて、詭弁きべんだ。


 涙は、少女の丸めた膝にぽとぽととこぼれ落ちた。


 夜の繁華街でしゃがみ込み、音も立てずに泣き続ける少女の姿は、通り過ぎる人の目には異質に映っただろう。


 それでも、少女は泣いた。泣き顔を見せないように下を向いているのは、せめてもの抵抗だ。


 先日、母が死んだ。


 過労だって、担当してくれた医者から聞いた。


 たった一人で少女を高校生まで育ててくれた、たった一人の家族。


 たった一つ、少女が大切に思っていたもの。


「––––っ」


 少女は、膝の前で結んだ手に力を入れる。


 そう、たった一人の家族だったのだ。


 別に、父親がいないというわけではない。父は健在なはずだ。


 《《はず》》、というのは、父とはもうしばらく会っていないため明らかではないからだ。


 父の不倫が発覚し、両親が離婚した日から一度も。


 母は泣いていた。まだ幼かった少女には、起きている事があまり分からなかった。


 それでも、母は失ったのだと気づいた。


 そこにあったはずの愛を。


 与えられるはずだった父からの想いを。


 母は、失ったのだ。


 慰謝料やら養育費やらの話はすぐにまとまった。


 父は、母の提示した要件をあっさりと了承した。

 医者だったのもあってか、父はお金に関しては何も文句を言わなかった。


 ただ、早く別れたい。そんな感じだった。


 その時既に、父には少女の他に子供がいたのだ。

 少女の母とは違う、別の女性との子供。


 当時の少女よりも、歳が上だとか。それはつまり、少女が生まれるより前に父にはそういう人がいたわけで。


 母は、その事実にいっそう悲しんだ。憤ることはなかった。ただ、悲しんだ。


 それから母は、人が変わったように暗くなった。

 当然と言えば当然なのだろう。少女の両親は、少女から見ても仲の良い夫婦で、父と話している時の母はすごく幸せそうだった。


 でも。それでも、母は少女を育てたのだ。


 少女に向ける笑顔の数は減ったけれど。


 少女と過ごす時間はあまりなかったかもしれないけれど。


 少女の、母へ抱いた感謝と愛は本物だった。


 だからこそ。


「––––うっ、っ……っ!」


 絶対に、失いたくなかった。


 これでは、かつての母と同じだ。


 愛を失った、惨めな女––––きっと、そうなるのだろう。

 

 毎日のように、仕事から帰ってくる母を心待ちにする日々も。


 母に褒めてもらいたくて、勉学に勤しむ日々も。


 これから先、二度と送ることができない。


 母のために生きてきたのに。母に笑ってほしくて、生きてきたのに。


 誰かのために生きるなんて、詭弁だ。


 その《《誰か》》がいなかったら、生きる意味がないじゃないか。


 私が生きてる必要なんて、ないじゃないか。


 だからやっぱり、誰かのために生きるなんて、詭弁だ。

 

 哀しみを紛らすように、丸めた身体に力を入れた時、


「––––なぁ、お前一人? 俺とちょっと遊ぼうぜ?」


 頭の上から聞こえたその声に、少女は顔を上げた––––。



◆◇◆◇



 その少女は、目鼻立ちがはっきりとした、可愛らしい娘だった。

 それこそ、泣き顔すらも可愛らしいと思えるほどに。


 しかし、青年には分からなかった。


 何故、この少女は泣いているのだろうか? 泣くほど悲しいことがあったのに、何故こんな繁華街でしゃがみ込んでいるのだろうか?


 しかしそれらは全て、青年にとってはどうでもいいことだった。


 抱ける女が欲しかった。ただそれだけで、よかった。


 少女は、青年の言葉を待っているようだった。


 警戒するでもなく、どこか達観した表情だった。


「何か悩みでもあんのか? 俺が聞いてやるからさ、とりあえずそこのホテルに––––」


 青年は言葉を止めた。いや、失ったという方が正しいだろうか。


 青年を見上げる少女は、うっすらと笑っていたのだ。


 男によく見られようとして、こうやって笑う女はよく見てきた。

 そういう女は大体、簡単に抱ける。それが青年の考えだった。


 しかし少女のこの笑みは、青年には向けられていない。


 青年は、そう感じた。


「……いいですよ」


 そう言って無理やりに微笑む少女を見て、青年は確信した。


 あぁ、そうか。


 こいつは、自分に笑ってるのか。


 情けねぇ自分を、笑っているのか。


 それは。


 その顔は。


 何もかもを諦めたような、クソ野郎の顔は。


 青年が一番嫌いなもので、青年が毎日見ているものだった。


「……やめだ。ホテルは行かねぇ。じゃあな」


 そう言って立ち去ろうとする青年の袖を、少女は力強く掴んだ。


「ま、待って、下さい……! 行かないで……! 私を、ひとりにしないで……っ!!」


 捨てられた子猫……いや、見知らぬ男に助けを求めるしかできない、哀れな少女だった。


 青年は、少女の手を振り解くことはしなかった。


 ただゆっくりと、一度背けた顔を少女へ向けた。


「……少しだけ、遊んでやるよ」



◆◇◆◇



 それから青年は、夜の町を少女に見せた。


 夜の動物園。少女は、どこか嬉しそうに動物達を眺めていた。


 最後に動物園に来たのは、多分幼稚園の時。まだ両親が二人でいた時。


 楽しかった記憶は意図的に消すようにしていたが、やっぱり気持ちに嘘はつけないんだと思わせられる。


「動物園、好きなのか?」


「……はい。そうみたいです」


「……そうか。俺ぁ、獣臭いからそんな好きじゃねぇけどよ」


「……でも、連れてきてくれたじゃないですか」


「……気まぐれだ。あと、敬語はやめろ。慣れねぇんだよ」


 そう言って向こうを見る男に、少女はうっすら笑みを浮かべていた。

 諦念の笑みではなかったのだろう。青年は気恥ずかしそうに目を逸らした。


 二人は歩き出し、夜の動物園を旅する。


 それは、いつしか家族で見た光景で、少し切なくなったり。


 大きな観覧車がライトアップされていて素敵だな、なんて思ったり。


 少女は確かに、笑っていた。

 

 外に出てからも、青年は少女を連れ歩いた。


 夜のラーメン屋。夜の海岸。夜の電車。


 その全てが少女にとっては非日常で、新鮮なものだった。

 知らなかった世界を、知れたような気がした。


 青年は、何も聞かずに少女をたくさんの場所へと連れていった。


 少女は、家族のことを話せないでいたが、なんとなく青年には全て伝わっているような気がしていた。


「……ありがとう」


 不意に、少女が言った。


「……やめろよ」


 褒められ慣れてないのか、青年は少女とは反対の方に目をやった。


「ほら、行くぞ」


 青年は少女の前を歩き、少女は後に続いた。


 二人がたどり着いたのは、小高い丘にある神社だった。

 青年の目的は神社ではないのか、そのまま丘の先へと歩いて行く。


 青年が立ち止まり、そのすぐ後に少女も立ち止まる。


「これは……」


 決して多くはないネオンの明かりで照らされ、町は朧げに輝いて見えた。


 特段綺麗なわけでもない。きっと、どこにでもあるありふれた光景。


「なんかよ。このしょぼい町見てると、必死に生きてんだなって思うんだよ」


 青年の言葉が、少女にはなんとなく分かった。


「全然栄えてるわけじゃねぇのによ。所々光ってて、それでちょっとだけ輝いてんだ」


「……うん」


「都会に比べりゃ大したことねぇのにな。なんだろうな。なんか、これはこれでありかな、って思うんだよ」


「……うん……っ!」


 青年の言葉が、少女には深く響いた。胸のもやもやした所に、霧吹きをかけられたように。


 少しずつ、霧が晴れていく。


 恵まれてなくても、いいんだって。少しだけでいいから、輝いていようって。


 誰かのためじゃなくても、必死に生きていれば、それはきっと輝かしいものなんだろうって––––。


「……泣くなよ」


 隣で音を殺して泣く少女を見て、青年は困ったように目を逸らす。


「……別に誰もいねぇんだから。そんな隠すように泣くこたぁねぇだろ」


 そして、少女は声をあげて泣きじゃくった。


 夜の風に運ばれるように、少女の声は朧げな町に響いた。


 ひとしきり泣き終えた少女は、青年に全てを話した。


 母のこと。父のこと。そして何より、青年のおかげで変われたこと。


「……そうか」


 青年はそれだけ言い、遠い空の向こうを見つめた。


「ありがとう。本当に……。でも、どうして私を助けてくれたの?」


「助けたなんて、大袈裟だな。言っただろ? ただの気まぐれだ」


 それが真意でないことは、少女にもすぐに分かった。

 青年はすごく優しいけれど、時折見せるのだ。

 信念というか、覚悟というか。何か、強い思いを感じるのだ。


 少女が黙って青年を見上げていると、青年は諦めたように息を吐いた。


「ったく……。しつこいぞ。その内、俺の気が向いたら教えてやるよ」


 少女は不服ながらも、渋々頷いた。


 気まぐれだとか気が向いたらだとか、もしかしたらこの青年は、本当に気分屋なだけなのかもしれない、なんて思って少女は再び笑みをこぼした。


 

 

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