明日使える恋バナ回避法
このエッセイは、「つれづれ恒河沙」の一部を変えて、投稿しています。よろしければ、そちらもご覧ください。
「人間の可能性は、憧れの渇望から生まれる。」
これは、この文章を読んでいる人は必ず知っている人物の言葉である。この言葉を言ったのは、筆者の私である。
まず、「経験は買ってでもしろ。」とか、「経験は力なり。」とか浅い経験を広くした人間が良く言うが、そんなことをしてもダメな人間もいる。
よく考えてみてほしい。例えば、シュレーディンガーの猫だ。これは、猫を箱の中に入れて、その箱の中にランダムに猫を殺す毒が出る装置を仕掛けると、箱の中には猫が死んでいる状態と生きている状態が重なっているという思考実験である。
この時、もし、箱を開けるという経験をしなければ、猫が死ぬという悲惨な状況を避けることができる。しかし、なぜか普通の人は、猫の入った箱を開けてしまうが、開けないという選択肢がある。
では、経験をしないということが、どのような利点があるのかということを考えてみよう。その利点は、たらればへの異常な執着である。
シュレーディンガーの猫の例を続けて考えると、猫の入った箱を開けないで、家に帰ったとする。すると、果たして、猫はどうなったのかと考える。まだ生きているかもしれないし、死んでいるのかもしれない。生きていたならば、毒の出る装置の横でのんきに寝ているのだろうかとか、装置を使って爪とぎをしていないかとかを考える。また、死んでいたならば、安らかに死んだのか、苦しんで死んだのか、まさか、化けて私の夢枕に立たないだろうかと考えることができる。
しかし、箱を開けた時、そのような可能性を考えることは限りなく難しくなる。なぜなら、可能性は生き死にのたった二つしかないのだから。
つまり、経験しないという制約は、想像力を育てる礎となるのだ。これは、危機管理能力を付属的に育てたり、提案力が高くなったりする。実は、経験しないことの利点は思った以上にあるのだ。
さて、ここまで読んでくれた皆さんに一つ朗報だ。この話は著作権フリーである。
なので、明日から恋愛経験の少なさをいじられたとしたら、この話を朗々と語った後こう付け加えるのだ。
だから、恋人ができないんじゃないの、作らないの。ってね。