彼女と口喧嘩が絶えず別れそうなので、あべこべで話してみた
「前から早希のことは嫌いだった」
「奇遇ですね、私も康介さんのことは嫌いでした」
早希と付き合い始めて3ヶ月。
俗に言う魔の時期に物の見事に突入してしまった僕達は、最悪としか言いようがないまでの関係性に陥ってしまっていた。
『速水さん、僕とデートをしてくれませんか』
高嶺どころか月に咲く花と名高い彼女の凛とした、しかし等身大な振る舞いに一目で惚れた僕は周囲の反対を押し切って猛アピールをした。
『そういうのは興味がないので、失礼します』
しかしいつも仕事を手伝ったり請け負ってはパンクしかける凡庸な僕とは違い、周囲から一目置かれるほど仕事の出来る彼女は雲泥の存在。
『話す暇があったら手を動かしたらどうですか』
『またですか、それより案件を終わらせて下さい』
『……分かりました、今日は時間がありますので』
当然ながら最初は相手にもされなかったが、時間が経つにつれ徐々に氷は溶け始め――
『好きです。僕の彼女になって下さい』
『――はい、こちらこそ』
一世一代の告白によって晴れて恋仲に。
まあ、つまるところ職場内恋愛なのだが、同僚の天変地異でも起こったかのような表情は今でもよく覚えている。
そんな話はさておき、恋仲となった以上これから一層彼女を幸せにしようと僕は意気込んでいた訳なのだが――そんな淡い幻想は脆くも崩れ去る。
『康介さん、まだ企画書を出していないのですか』
『康介さん、貴方のその生活が仕事にも影響しているんです』
『康介さん、今日は効率的に仕事をする方法を考えましょう』
彼女の歯に衣着せぬ物言いは今に始まったことではないが、それをプライベートにまで持ち込まれると段々と話が変わってくる。
ましてやデートの最中ですらずっと仕事の話をされてしまっては折角のプランも台無しに、これでは職場上の関係と何も変わらない。
距離が近くなった分、ある意味必然だったとも言えるが……。
それでも、最初はそんな彼女を微笑ましく思う部分もあった。
『何でそこまで言われなくちゃいけないんだ』
けど口を開けば叱責ばかりの彼女に、次第に些細な口論や口喧嘩が増え始め、気づけば好意で作った架け橋は崩落寸前であったと知る。
この3ヶ月を思い返すと、僕は彼女が微笑んでいる姿すら見た記憶がなかった。
どうして早希は、僕の告白を受け取ってくれたのだろう。
だがそんな疑問を抱いても、同じ職場である以上彼女との関係は続く、学生ではないのだから私情を持ち込むなど以ての外。
だとしても――別れるのは恐らく時間の問題。
ならばせめて亀裂が入ったまま終わらせる訳にはいかない。
そこで僕は一つのアイデアを彼女に提案していた。
「……あべこべ、ですか?」
「そう、要は普段から逆の言葉を使うってこと。好きなら嫌い、嫌いなら好きって具合に、お互い意味が分かっているなら嫌味にもならないだろ」
「成程……分かりました」
もっと迷惑がられるんじゃないかと危惧していたが、思いの外あっさりと承諾してくれた彼女と、こうして奇妙なあべこべ生活が開幕した。
「貴方のそういう所が好きでした」
「僕も前からそういう所が好きだったよ」
「……」
「……」
一番の狙いは険のある言い方で空気が悪くなることを避ける為だったのだが、しかしこれが想像以上にむず痒かった。
何せ僕は彼女に好きと言われたことが一度もないのだ。それがいくら本当の意味でないにしても、悪い気はしないのだから不思議な話である。
「康介さん、企画書ですが非常に良かったです」
「どの辺が良かった?」
「え? ええと、要点が纏まっている……ですかね」
「了解、ありがとう早希」
加えて仕事の話になっても、こんな風に言われると存外素直に受け入れられる。
あまりにも完璧に物事をこなし、それを周囲にも強要してしまう節があった彼女は僕でなくても一歩引かれる程だった為、これは思わぬ副産物であった。
だからなのか、僕自身の意識も少しずつ変わり始める。
「康介さん、部屋の掃除をされたのですか?」
「うん、時間があったから少しね」
「それはまた――随分と汚れていますね」
「え?」
「あべこべですよ」
「あ、ああ……ありがとう」
今までが叱責9、称賛1だったので何をするにも億劫になっていたのが、比率が逆転したことで自分の不出来さを直そうという気持ちが芽生えてきたのだ。
しかも、叱責が増えることは彼女によく褒められているという意味になるので、言われたとしても当然不満を覚えたりはしない。
随分と都合の良い解釈をしているのは承知の上だが、彼女に嫌な思いをさせずに別れようと始めたことが自分にとって良い効果を生んでいたのは紛れもない事実だった。
「お前ら、最近関係が良くなったな」
「……そう見えます?」
「なんつうか、険悪な空気が無くなったと言うべきか」
「あ、す、すいません……私情を会社に持ち込むような真似をしてしまって」
「ああいいや、それはいいんだ。彼女は前からあんな感じだから今更ではあるし――寧ろ俺はお前に感心しているくらいでな」
「僕に……ですか?」
「まあお前は不安かもしれんが――その内分かるだろう、恋は悪い時も盲目ってもんさ」
「はあ」
確かに自分の意識は変わったが、良くなったように見えるのは所詮あべこべだからであって、本質的な部分は何も変わっていない、それは僕が一番分かっていた。
まあお陰で職場の雰囲気を壊さずに済んだのは良かったけども――つまりこれで凝りもなく別れることが出来るという話でもある。
……なんて皮肉なことか。
○
『本日正午、私の家に来てくれませんか』
それでもあべこべの日々を続けていたある休日、珍しく早希から連絡があった。
文面を見た僕はすぐ身支度を済ませると、バイクに跨がりアクセルを回す。
移動の最中は不思議と心は穏やかだった。
「お邪魔します」
そして移動をすること数分、僕は家に辿り着くと、眩しいまでに整理整頓が施されたリビングの中心で、早希が背筋を伸ばして正座をしている姿が見えた。
彼女らしいとはいえ、その雰囲気に飲まれた僕は思わず膝を折る。
いよいよ、か。
でも、彼女から告げられるのなら本望だ。
「康介さん」
「うん」
「何故私が康介さんの告白を受け入れたのか、話していませんでしたね」
「ああ――そういえばそうだったね」
「それは貴方がとても冷たい男だからです」
はい? と思わず口にしかけるが、あべこべであると気づいた僕はすぐに意味を理解する。
まさかこんな別れの場でもあべこべを使うとは思いもしなかったが、しかしその方が彼女としても切り出し易いなら仕方がない。
いや――『優しい』だって?
「あの……早希?」
「貴方は常に自己中心的で、他人のことなど微塵も考えない人。ですからいつも仕事が早く、自分ばかりが得をする状況になる」
「ええと、つまり――」
「そんな貴方を最初は好ましく思っていましたが、一部の同僚がいつも打算的だと揶揄するので、次第に私も貴方に無関心になりました」
「待って早希、変換が追いつかない」
自分から提案しておいて何だが、こうも矢継ぎ早に言われてしまうと理解に時間がかかる。多分悪い意味で言ってる訳じゃないのは分かるけど……。
でも彼女は喋るのを止めようとしない。
「そして実際に貴方と話をするようになって理解したんです。この人は私にはない醜悪な部分を持っている方なのだと」
「醜悪って」
「だから私は貴方の告白を受け入れました。ですが私は――ええと、とても器用な人間なので……不本意な衝突を何度もしてしまいました」
「! ――」
何とかあべこべをしようとし過ぎてごちゃごちゃになったのか、思わず零れ出た言葉に僕は彼女の真意をようやく知る。
「康介さんがもっと苦労するように、少しでも二人の時間が減らせるようにと思ったのですが、何をやっても上手く行かず……寧ろ貴方に嫌な思いをさせてばかりでした」
「早希……」
そうか、彼女はある意味最初からあべこべだったのだ。
凡庸な俺が損をしないように、彼女なりに、不器用ながらに、一生懸命助けようとしてくれていたのか。
それなのに僕達は喧嘩ばかりして――
まあ……少し不器用が過ぎる気もするけど。
でも、そういうことなら。
「次第に関係のないことでもすぐ口論となり……そうなってしまったらもう――だからここが潮時なのだと、そう思っていたのですが――」
「うん」
「どうやら貴方が提案したあべこべは……私にとって悪いことしかなかったようです」
「そっか、それはとても残念な話だね」
「ええとても残念です、何故なら私は――」
そう前置きをしてから、改めて僕を見据えた彼女は、今まで一度として見たことのない、まるで憑き物でも落ちたかのような表情をしていた。
こりゃ――当分同僚には惚気と馬鹿にされそうだな。
だって。
「貴方のことがもっと嫌いになってしまいましたから」
こんな笑顔で好きと言われては、嫌いになれという方が無理だから。
最後まで読んで下さった読者の皆様に心からの感謝を。
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