傘の下の涙
穏やかそうな人。客観的に見るとそんな印象を受ける。
駅の改札口を出た先に立つ男性。痩身で初老。白髪交じりの黒髪。前から後ろへ撫で付けたような髪型。スーツに、前を開けた黒いトレンチコート。温和そうな笑顔で清潔感がある。
手には開いた傘。二人は入れそうな大きな黒い傘だ。もう片方の手には紙を持っている。
【良かったら入っていきませんか?】
スケッチブックほどの大きさのその紙に、見やすいように大きく黒い文字でそう書かれていた。
今日のような突然の雨。傘を持っていない人は多いだろう。
実際、私含む六人ほどが雨宿りしていた。
でも、親切に甘えようなどという人はいない。
なぜ? 怪しさ満点だからだ。親切心に溢れた人と言われれば、そう見えなくもないけど物騒な世の中だ。警戒する方が正しい。変な人には近寄るべきではない。
私と同じ歳くらいの中学生の女の子たちが男性を見て、嘲笑的な笑みを浮かべヒソヒソ話すのも当然だ。地元中学じゃ噂になっていることだろう。
私は彼女たちから吐き捨てるように目線を切り、前に進み出た。
「良かったら傘、入れてくれませんか?」
男性はニッコリ笑い頷いた。
私たちは並んで歩き出した。指で進む道を指し示すと、そのとおりに歩いてくれる。
横断歩道をわたり右に曲がる。ぐぐぐっと真っ直ぐ行き、今年も庭に紫陽花の花が咲いている家を曲がり、少し進んで黒猫を飼っている家の角を右に曲がる。
会話はない。というよりかは、こちらがいくら話しかけてもただ微笑むだけで言葉を返してこない。
時々、僅かに頷いたり首を横に振ったりするのだけど質問に明確な答えを返してくることはない。
でも、終始笑みは絶やさない。無言の時間を雨音が埋めてくれるのは救いだろうか。
「ここで大丈夫です」
私はボロボロの家の前でそう言った。
数年でこうも変わるものなのか、と私は毎回、家を見上げそう思う。
「あの人のことをお父さんと思っちゃ駄目よ」
母が私にそう言った。
父と離婚した母と新しい家で暮らし始めて三日目のことだった。
私は曖昧に首を動かし、何も言わなかった。
ねぇ、お父さん。もういいんだよ?
お姉ちゃんが死んだのはお父さんが迎えに行くのが遅かったからじゃない。
これまで何度もそう言ったけど、壊れてしまった父は何も返事をしなかった。
父は未だに、この家で暮らしている。そして晴れの日も毎日、駅で傘を掲げて待っている。
今日も父は私の言葉に何も反応せず、持っていた傘を折りたたみ、ドアの横に置いた。
まるでロボット掃除機が充電器に向かうような決められた動作で。私のことなど見えないように……。
「えっ?」
父が私を見て微笑み、上を指差した。
見上げると、いつの間にか雨がやんでいた。
雲の間から薄日が差している。
ドアが閉まる音に、私が目線を戻すと父はそこにいなかった。家の中に入ったようだ。
――もっと私の背が伸びたら、お姉ちゃんに似たら戻ってきてくれるかな。
私はもう一度、空を見上げた。
そこに虹はなかったけど、暖かな日差しが私の背を伸ばしてくれてるような気がした。