LV5 ゆるふわちゃん
すまん、初音さん。
俺は心で叫びながら、はす向かいの店に入った。
その一時間後。
俺は街中でも、おしゃれさんが集うカフェでディナーをしながら目の前のゆるふわちゃんの話を聞いている。店内は中々に賑わっていて8割方席が埋まっている。定員はロフトと併せても100名ほどか。天井に埋め込まれたスピーカーからはジャズの調べが程よい音量で流れてくる。また、店の調度品と内装はウォールナットで統一され高級感と共に特別感を演出し、かの国の喧騒の中にいる事を一時とはいえ忘れさせてくれるのには十分な仕掛けが整っていた。
俺の目の前にはパスタの何かがある。今日はこれを引き当てたらしい。漢字は表意文字で日本人であれば何とかいける。無問題とこの国を訪れるまではそう思っていた。
ちなみに無問題は広東語だ。本土でやる場合は没問題だ。発音は全然違うのご注意あれ。
本題だ。そんな自分を恨んでいます。
メニュー、全く読めませんから、いやほんとに全然わかりません。最初のうちこそ真剣にこのヒエログリフを解き明かそうとしていたが、今ではそれもあきらめた。信用できるのは自分の感だ。適当に指をさして来たものを美味しくいただく、思ったものと違うときは自分を恨む。そんな、メニューロシアンルーレットを楽しんでいる。
そして来たのがこれ。パスタの何か。まぁ、あたりの部類だろう。この前はボウルサラダが来た。わざわざ親切に店の女主人が確認に来たほどだ。その親切も無下にことわり、これでいいと押し切った結果がそれだった。ベジタリアンを気取ってそいつを平らげたものだ。
話をもどす。目の前のゆるふわちゃんは俺が足繫く通う日本食レストランの部長さんだ。初音さんの店とは違う店である。日本食レストランはたくさんあるが真正日本人の俺の舌を満足させられる店はタクシー20分圏内には4店舗しかない。そこを俺はヘビーローテーションしている。
「お父さんが仕事が無くていつもお酒を飲んでお母さんに暴力を振るうの。それがとっても許せなくて、私、全然家に帰ってないんだ。」
そう言うと目の前のゆるふわちゃんはそっと目頭を押さえた。
テーブルのキャンドルランタンもゆるふわちゃんに寄り添う様に揺れている。
少し前の話だ。
初音さんの狂気に触れた時にゆるふわちゃんからメッセージが届いた。
『今日はお休みだから会いたいの。時間ある?』
こんなメッセージをもらったら、とりあえずは断る理由は無い。来る者は拒まず、飛び込んで楽しめだ。
とりあえず、目の前の電撃女神をどうするか?咄嗟に出たのが猛虎さん。俺の会社の現地最高責任者、初音さんも顔見知りだ。さすがに猛虎さんの名前を出せば初音さんもぐずる事は無い。虎の威を借りる何とかだ。ちなみにタイガースのファンだから猛虎さんだ。事務所では鬼瓦の様な顔で鎮座されている。キャラの濃い人なのでいずれ本編にも登場すると思う。
早速、おれは、初音さんの店があるホテルの大通りを渡り、はす向かいのこの店に入って約束の時間と場所を取り付け現在に至るわけだ。
ゆるふわちゃんはその名のとおり、いや、少し違うな。お名前は別なのだが、俺が印象からそう呼んでいる。ゆるふわちゃんは髪の毛が茶色の緩いウェーブが、かかった肩までのショートヘアでいつも目が潤んでいる。おまけに右目の下に泣きボクロ付きだ。唇プルルンの可愛い子で日本語もボチボチだ。
何処かの電撃女神に爪の垢でも煎じて飲ませたいもんだ。本当に効くの?効くならマジでやるけど。
そんなウルルン瞳のゆるふわちゃんが本物の涙を見せながら俺の前でハンバーグのセットを食べている。
ゆるふわちゃんは続ける。
「今度、弟が大学に行くからお金も送らなくちゃいけなくて。それなのに今日、お母さんが倒れてしまって病院に入院したって連絡があったの。それで、怖くなっちゃって、ついメールしてしまったの。ごめんね。おまけに泣いちゃて。頑張るよ私。」
そう言って、けなげに話を継いでくるのだ。
こっちの娘さんは、働いた金を家に仕送りをしていて総じて男がなまくらな事が多い。会社の事例でもそんな感じだ。ゆるふわちゃんも同様なのだろう。
楽しい時は一瞬だ。
一通りの身の上話と食事も終わり随分と会話を楽しんだ。店を出て次何処に行くかの相談中にゆるふわちゃんの携帯にメールが届いた。メールを読むゆるふわちゃんの表情が強張り、涙がやがてこぼれ落ちてくるのだ。
「どうした? ゆるふわちゃん?」
俺が聞くとちょっと待ってと手で制止し電話を掛けだした。電話の先は誰かは判らないが涙がとめどなくあふれている状況だ。やがて電話を切ると。
「お母さんが危ないって……」
と言うなり号泣だ。えらい場面に居合わせたものだ。
俺にできる事が有るとは思えないがとりあえず落ち着くように近くのベンチへと手を引いて座らせた。
「どうしたらいいんだ? ゆるふわちゃん?」
「会いたいお母さんに。」
下を向いているゆるふわちゃんのショートパンツからのぞく太ももに涙が落ちていく。
「会いに行ったら? 仕事は休めるの?」
「仕事は大丈夫だけど行くお金が無いの……」
「どれくらいあればいいの? 貸そうか?」
そう言うと俺は財布の中を見て金勘定をした。いつもはそれほど入れていないのだが今夜は理由があった。
「え~と1,000元くらいあれば大丈夫だと思う……」
やけに具体的に数値を提示しているゆるふわちゃん。確かに俺の財布の中には1050元入っていた。そこで俺は財布の100元札10枚をゆるふわちゃんに手渡し、早く帰ってあげた方がいいと急かした。
「ありがとう。帰ったらすぐ返すね。」
ゆるふわちゃんは、時々後ろを振り返りおれに手を振りながら喧騒の中に消えていった。
俺は一仕事終えたような充実感に包まれて、しばらくの間そのベンチで街の喧騒に身を預けていた。
そこにメッセージが届く
『今、バスに乗ったよ。家まで二日かかるの。携帯の残金が少ないからメールできなくなってしまうかも、家についてら連絡します。』
この国は前払いプイペイド方式の携帯が主流だった。残金が無くなればチャージすると使えるようになるのだ。
『気を付けて。』
俺は返信をした。
間に合うといいね。
この国の殺伐とした空気の中に身を置いて日々戦っていると失いかけていた人の心が戻ったような気がする出来事だった。
この時点では……
明日も17時過ぎに更新できそうです。