僕曰く。
母曰く、僕は独りではないらしかった。
母曰く、父は僕を愛しているらしかった。
父曰く、僕と父は仲が良いらしかった。
父曰く、母は僕を愛しているらしかった。
母曰く、私は家族の事を思っているとの事だった。
父曰く、俺は家族の事を思っているとの事だった。
その日僕は両親を無くした。亡くしたのではなく、無くしたのだ。
僕が小学四年生の頃。仲の良いおじちゃんがいた。三人いる子供達とも仲が良かった。上から十四歳、十二歳、八歳。
おじちゃんの子供達とよく遊ぶようになると、父が不況の波にさらわれた。リストラだ。その時父は三十歳の半ばを過ぎた頃だった。
父は荒れた。不安だったのだろう。一家を養わねばならぬ重圧を感じていたのだろう。家族を大事に思うが故の不安。誰よりも本人が辛かった筈だ。そうして、子供に手をあげるようになった。少しの失敗も見逃さなかった。僕から見た父は、鬼だった。
その頃、おじちゃん家と会うことが増えた。もとより、母が連れて行ってくれていたのだが、頻繁に遊ぶようになった。おじちゃんの家で。僕は三人の友達と時間を忘れて遊んだ。家には常に鬼がいたので、唯一それを忘れて楽しめる時間だった。
それは母も同じようだった。僕達が遊んでいる間、おじちゃんと母を一度も見たことがない。どうやら母も、鬼を忘れておじちゃんと遊んでいたみたいだ。
小学五年生になってしばらくした、ある晩。母と鬼がもの凄い大喧嘩をした。鬼が母の足を持って引きずり回していた。僕は、机の脚を掴んで、震えて見ていた。泣いていたと思う。怒鳴り声がしばらく止んだかと思うと、鬼が僕に言った。
「お父さんとお母さん、どっちについて行くか選べ」
僕はなにも言えなかった。小学五年生の男の子が、選べるわけがなかった。
翌日、いつも通りの朝だった。昨晩の事が夢だったかのような朝だった。
それから、おじちゃんとは一度も会う事が無かった。三人の友達とも。
しばらくして、鬼は父に戻った。仕事が見つかったらしかった。青い作業服を着て毎朝六時に家を出て、夕方五時には帰ってきた。必ず一つ、何かお菓子を買ってきてくれた。ただ、父が鬼に変わったその日から、会話らしい会話は一度もした事がない。僕が二十二歳になって、家を出る日まで。一度も。
僕は、家を出る前日の晩、父と母に質問をした。まずは、父に。
「父さんは、僕の事どう思ってるの」久しぶりに父へ投げかける言葉は、戸惑いを含んで少し震えていた。
「父さんは…お前とは普通に仲が良い親子だと思っている」何故か少し恥ずかしそうだった。
普通に仲が良い親子。僕は呆れて笑ってしまった。十歳から二十二歳になった今日この質問をするまでの十二年間、まともに口を聞いたことのない親子は「普通に仲が良い」というのだろうか。
次は母に。
「母さんは、僕の事どう思ってるの」その言葉に、それらしい感情も込められなかった。予め用意された文字を読んだだけだった。
すると母は
「あなた含めて、家族を大事にしてきたつもりよ」
少し目を潤ませながらそう言った。独り立ちする子を見送る親の感動的な場面のつもりなのだろうか。
母の中では、父がリストラされ辛い時に、子供をわざわざ浮気相手の所に連れて行き、その浮気相手とセックスをしまくる事が、家族を大事にすることらしかった。
二人とも、本気の目をして言っている。どうやら、この人達と僕は、違う家庭で生きてきたらしかった。
僕はその日、家を出た。表面的には、田舎から都会へ旅立つ子供と、それを見送る両親だった。
東京の、中野区と西新宿区との境にあるアパートに3ヶ月住むと、すぐさま神奈川に引っ越して、携帯を変えて、電話番号も変えた。もちろん電話帳にあの男と女の名前は載っていない。
僕は今年で三十歳になる。大手電機メーカーの元請けで働いて、普通に友達もいる。女性とは何人かとお付き合いをしたが、結婚が見えてくると父と母がちらつく。女性も自然と去って行く。結婚など、したくなるのだろうか。あの人達は何歳になっただろうか。歳も誕生日も知らない。
僕は父と母を無くした。最初は居たのだろうけど、いつ無くしたか、検討もつかない。