田心姫もしくは胸鉏比売
はんなり「モドキさん、またいい伝説を見つけたんだけど」
モドキ「どんな伝説よ?」
はんなり「島根県江津市波子の伝説よ」
モドキ「アクアスってシロイルカのいる水族館があるところだね。で、どんな話よ?」
はんなり「昔々、江津の波子の海岸に一艘の箱舟が流れついたの。中を見ると、幼い女の子が独りで乗っていたの」
モドキ「どこからか流されてきたんだ?」
はんなり「身なりからすると高貴な家柄の姫らしい。それを翁と媼が拾って育てることにしたの」
モドキ「それで?」
はんなり「姫はすくすくと成長したけれど、自分の出自についてはただ東の方向を指すだけで固く口を閉ざしていたの」
モドキ「謎の姫だね」
はんなり「そして姫はいつも野山を駆け巡って弓矢の稽古をしていたの」
モドキ「アクティブなお姫さまだな。じいさんとばあさんの手伝いはしなかったの?」
はんなり「しなかったみたいね。で、家にいるときは必ず上座に座っていたの」
モドキ「高慢ちきな姫さまだったのかな」
はんなり「そんなことはなくて、翁と媼は大切に姫を育てていたの。ところが、姫が十三歳になったある日、東の空に狼煙が上がったの」
モドキ「風雲急を告げる、か」
はんなり「それを見た姫はようやく自分の出自を明かしたの。自分は出雲の姫でスサノオ命の娘の田心姫だと」
モドキ「田心姫とは宗像三女神の一柱だね。天照大神とスサノオ命の誓約で誕生した神だ」
はんなり「田心姫は自分は幼い頃、心が荒々しかったので、父の怒りに触れて流されたと答えたの」
モドキ「それで波子まで流された訳か」
はんなり「今、出雲の国は十羅という国に攻められて苦戦している。姫が戻れば勝利を得るだろうと父が夢に見たというの」
モドキ「それで出雲に帰る訳か」
はんなり「翁と媼は泣いて引き留めたんだけど、田心姫は隙を見て出ていったの」
モドキ「それで?」
はんなり「翁と媼は跡を追ったけれど、姫は岩陰に身を隠してやり過ごすの。姫を見失って力尽きた翁と媼はとうとう亡くなってしまった。その後、出雲に戻った田心姫は十羅の賊徒を打ち滅ぼして十羅刹女の名を賜ったというの」
モドキ「悲しい話かメデタシメデタシの話かよく分からんな」
はんなり「不思議なテイストでしょう。じゃあ――」
モドキ「じゃあ?」
はんなり「図書館に行きましょうか」
はんなり「十羅刹女って仏教でいう十柱の羅刹女のことよね」
モドキ「山陰では十羅刹女っていう一柱の女神に習合しているらしいな。神楽の演目で『十羅』ってのがある。出雲の『日御碕』『彦張』が元の演目だ」
はんなり「田心姫の伝説って、その『十羅』の前段的エピソードみたいよね」
モドキ「待った」
はんなり「え?」
モドキ「あったんだ。『那賀郡誌』って本に。この伝説では胸鉏比売ってあるけど、ほとんど同じ伝説だ」
はんなり「こっちも見つけたわよ。姫が隠れた岩は隠れ岩といって今の江津市嘉久志町の岩根神社にあるらしいわ」
モドキ「ほう。面白そうだな」
それと「江津の浅利富士にじいさん井戸とばあさん井戸って水のたまった岩穴があるんだってさ」
モドキ「よく読むと懐橘談と書いてあるな。これは出雲の地誌だぞ」
はんなり「そんな訳で岩根神社にやって来たんだけど、確かにご由緒に田心姫命が十羅の賊を討って云々と書いてあるわね。ところで隠れ岩は見つかった?」
モドキ「いや、境内にはない」
はんなり「よくよく探したら境外にあるのね」
モドキ「それにしても――」
はんなり「小さな岩よね」
モドキ「子供一人がぎりぎり隠れるか隠れないかっていう程だね。よし、次は――」
はんなり「次は?」
モドキ「江津市波子の津門神社。田心姫命を祀っているし、境内社の薗妙見早脚神社では胸鉏比売を祀っているそうだ」
はんなり「津門神社では伝説には触れていないのね」
モドキ「次は浅利富士に登ろうか」
はんなり「浅利富士、中腹までは車で来られるようになってるのね」
モドキ「標高300メートルもないから。車を停めて、さあ、歩こうか」
はんなり「あっ、この先じいさん井戸ってある」
モドキ「行ってみようか」
はんなり「でも、林の中だよ」
モドキ「人が通った跡はあるから、行ってみるべし」
はんなり「蜘蛛の巣をかき分けながらじゃないですか」
モドキ「かき分けてるのは僕でしょ。……あった」
はんなり「へえ、これがじいさん井戸」
モドキ「岩盤に穴が開いていて、そこに水が溜まってるんだね」
はんなり「じゃあ、次はばあさん井戸」
モドキ「じいさん井戸の道は行き止まりだから、一旦引き返して高仙参道を登ろう」
はんなり「あったわ。お地蔵さんが祀られているのね」
モドキ「ばあさん井戸も岩盤の穴に水が溜まってるんだね」
はんなり「姫に逃げられたじいさんとばあさんの涙が溜まったものだってさ」
モドキ「頂上まではあと僅かだし、登ってみようか」
はんなり「景色がいいわね。向こう側に島の星山が見えるわね」
モドキ「万葉集に登場する高角山とされる山の一つだね」
はんなり「今日はハイキング気分ね」
モドキ「それじゃあ、また島根県立図書館に行こう」
はんなり「そんな訳で島根県立図書館郷土資料室までやってきたけど……」
モドキ「懐橘談があったよ。須佐の条に載ってる」
はんなり「スサノオ命が一の女を柏の葉につつんで流した。一の女は橋の浦に流れ着いた。それを今の御崎と言い伝える……と」
モドキ「これは落葉の槙が元だな」
はんなり「それって?」
モドキ「これは奇稲田姫の後産を柏の葉に包んで流したという言い伝えが元だ」
はんなり「なるほど。あ、そうそう、こっちも見つけたわよ。神楽の演目『十羅』『日御碕』は謡曲『御崎』が元だって」
モドキ「段々と核心に近づいてきたな。『山陰民俗研究』という雑誌に載ってる。これは日御碕神社の社伝が元で、須弥山の丑寅の隅が欠けたのが日本に流れ着いて、それを神がつき固めたのが今の不老山というんだ。中世出雲の神話だけど国びき神話っぽいところがあるな。で、それを取返しに鬼がやってくる」
はんなり「鬼を撃退する訳ね」
モドキ「そんな訳で謡曲『御崎』を国会図書館の遠隔複写サービスで取り寄せてみた」
はんなり「便利なのね」
モドキ「どうやら、こういう流れらしい。まず、日御碕神社の社伝は室町時代までに遡る。それから謡曲『御崎』が成立して、江戸時代に『懐橘談』が成立する。ちなみに『石見八重葎』にも田心姫と十羅刹女の話は載っている」
はんなり「なるほど」
モドキ「ところがだ」
はんなり「ところが?」
モドキ「謡曲『御崎』の成立が『懐橘談』よりも時系列的に前だけど、こうは考えられないかな。謡曲には元ネタとなる本説というものがある。もしも『懐橘談』に記されていた言い伝えが室町時代以前からあったと考えれば、謡曲『御崎』はその言い伝えを本説にしたとも考えられる」
はんなり「どれどれ……? あら、『御崎だと』姫は三の女とあるわね。だとしたら、姫は市杵島姫命かしら」
モドキ「日御碕神社の資料に童女胸鉏命、宗像三女神のことなりって注釈があるから、胸鉏比売は宗像三女神と考えていいみたいだ」
はんなり「なるほど」
モドキ「『十羅』の十羅刹女はスサノオ命の末子だというし、一体本当は誰なんだろうね?」
はんなり「私は最初に田心姫の話を読んだから田心姫説かな」