つなげることば
編集する
僕が病室に戻ると、ほんの少し前、たった一時間前の出来事が、まるで夢だったかのように静まり返っていた。
何日も変わらず見ていたあの時、あの光景と同じように。
ただ一つ違うのは、そこにはもう明日はなかった。
兄が見ていたに違いない「明日」は、どうしても僕には見る事が出来なかった。
ごめんね、兄ちゃん。
僕は何も出来なかった。
もう骨髄移植しか望みがないと言われた時、僕はすぐに検査をすることになった。
怖がりの弟に兄は、
「ごめんね、本当にごめんね。」
と、いつもの優しい声で、何度も繰り返した。
数日前に兄は検査の為、骨髄を抜いた。
癌による痛みに、一度も痛いと言った事のない我慢強い兄が、もう二度とやりたくないと担当医師に話したほど、兄にとって辛い事だったようだ。
僕の検査は少しだけ血液を抜いて調べる簡単なものだったが、そんな事でさえも僕を心配してくれた。
優しい兄が好きだった。
兄に外出許可がでた時、車で買い物に行った事があった。
カメラや腕時計が趣味だった兄と二人で、古いカメラ専門に扱う店に立ち寄った。
二階にあるその店の螺旋階段を昇る時、僕が肩をかそうとすると
「一人で大丈夫だよ」
そう笑顔で話した。
普通ならほんの数秒で昇るその階段を10分以上もかけてゆっくり進んだ。
「時間はいっぱいあるから、ゆっくり見ようよ。」
僕がそう言うと、
「ありがとう、一緒に見よう」
兄はいつものように目を細くして話した。
僕は兄の真似をしているうちに、カメラや腕時計が好きになっていたが、お金が無かった僕は1つも持っていなかった。
始めて見るアンティークカメラはどれも素晴らしく、その中でも一つだけ、特に目を奪われる物があった。
「良いよね。僕もこれが1番好きだな。買おうよ。」
そう言いながら兄は僕に声をかけた。
僕は小さい時から表情がなく、嬉しいのか悲しいのか、楽しいのかつまらないのか、いつも回りの人にわからないと言われていた。
ただ兄だけは違った。
ほんの少しの時間、きっと一瞬のことだと思うが、そのカメラを見ていた僕が、それに興味をもったのがわかったようだ。
突然の事で驚いたが、
兄の
「僕も1番好き」
と言う言葉が、ただ嬉しかった。
本当はすごく欲しかったが、
「次に来た時に、まだ欲しかったら自分で買うよ」
と言ってしまった。
兄は、
「そうか……」
一瞬悲しそうな顔をしたように見えたが、すぐにいつもの優しい顔で
「次に来る時が楽しみだね」
と言った。
しばらくお店を見た僕達は帰ることにしたが、その時兄が欲しがっていたレンズカバーを見付けた。
それはプラスチック製で、一つ百円だったが、サイズが二種類あってどちらかわからなかった。
せっかく見付けたのだから両方買えばと言ったが、もう一つがもったいないと言って買おうとしなかった。
そして何も買わず店を出た
また来た時と同じように、階段をゆっくり一人で歩いた兄は、ポケットから小銭を出し、
「遅くなったね、疲れてない?何か飲むかい?」
と言った。
「疲れてないし、飲みたかったら自分で買うよ。そのお金でさっきのフタ買えば良いじゃん?」
そう答えた僕に、
「そんな事言わないで、何か飲もうよ」
そう言いながら、自販機にお金を入れた。
それが最後の時間だった。
何日か過ぎて、病院から血液検査の結果が出ましたと連絡があった。
結果は適合しなかった。
兄弟なのに駄目だった。
病室に行くと兄は僕を気遣った。
「すごく痛いんだよ。やらなくて良かったよ。」
それが最後の希望だったのに。
また抗がん剤を打っても完治する可能性は低いのに。
何故僕の心配をするの?
全て知っている兄は、いつもより明るく、優しかった。
僕はトイレに行くと言って部屋を出た。
ずっと涙が止まらなかった。
どうして僕は何も出来ないんだろう。
ごめんね、兄ちゃん。
何も出来ない弟で。