嬉野ナガキという男
一人でいるのが平気になったのは、いつからだっただろう?
「それでは、お先に失礼します。お疲れ様です」
挨拶をすまし、アルバイト先から出ると辺りはもう真っ暗だった。4月の今、時間も22時を回っている当然だった。まだまだ肌寒い町中。僕は歩き出そうとして「あ、ちょっと待って」と裏口から顔だけ出した店長に呼び止められる。
「え? はいどうしました?」
僕は訝しみながら振り返った。店長は口に煙草を咥えたままひどくどうでも良さそうに、
「キミ、明日から来なくていいから」
「……え?」
「新しい子が入るからさ、もう人手は十分なんだよね。だからもう来なくていいよ」
――ハァ!? いきなりふざけんじゃねぇ!
心の中で叫ぶもう一人の自分を、張り付けた笑顔で抑えて言う。
「えっと、そんな急に……僕、何か不手際がありましたか?」
左胸の辺りが、妙にムカムカした。知らず手がギュッとそこを抑える中、それでも愛想笑いだけは消さない。
店長は、そんな僕の様子に気付いた風もなく吸い終わった煙草を吐き捨てると、
「いやさ、キミ要領悪いよね? 最近忙しいからさ、そんなのがいると周りが迷惑するんだよねぇ」
「いや、だからって――」
「今日までの給料はちゃんと口座に振り込んでおくからさ。じゃあそういうことで」
待って――そう声を出す間もなく、裏口のドアは閉じられた。
一人、寒空の下に立たされる。なぜか、右手をギュッと握りしめていた。爪が、肌に食い込んでいるのが分かる。ふと見ると隣には壁があって、僕は喉からいつもと違う呼吸をしていると感じながらその拳を――解いて、空を仰いだ。
無性に叫びたい、悪態をついてしまいたい。クソがと大声で喚き散らしたい――だけどそんなことをすれば、声を聞きつけた店長や店の皆に見つかり、罵倒されるだろう。それが怖くて、僕は喉まで来た叫びを抑えつけた。
「大丈夫、大丈夫……大丈、夫……」
必死に、自分を落ち着かせる。そんな僕に、かけられる声があった。
――ナガキ、ここにいたってクソみたいなことにしかならねぇぞ。
「……うん、行こう」
僕は、肩からずり落ちていたバッグを正すと、帰路につくべく歩き出した。
たった一人。周りに誰もいない。いるのは僕と――僕の妄想だけ。
――妄想とは失礼な。一応俺も、人格があるつもりなんだがな。
「はは、そうだね……本当にそうだと、いいのにね。カザリ君……」
――……
僕がカザリ君と呼んだ妄想は、今度は何も言わなかった。
夜の街を、歩く。僕の住む町はそれなりに発展しているので夜でも町中は賑やかだ。今も斜め前を向けば見るからに酔ったおじさんたちが馬鹿笑いしながら千鳥足で別の店に行くのが見える。
右を見ても、左を見ても、そんな人たちばかりだった。
一人ぼっちは、僕だけ。
――被害妄想だな。ちょっと探せばボッチくらい捨てるほどいるぞ?
「うん、そうだね。カザリ君の言うとおりだ」
――寂しいのか?
ドクンと、心臓が大きく鳴った、そんな気がした。
きっと、気のせいだろうけど。
「寂しくないよ。僕にはカザリ君がいるから」
ーーただの自問自答にそんな期待されてもな……
はは、そうだね。
そう、これはただの妄想で、心の中に作ったもう一人の僕と話をして自分を落ち着かせる、ただのおまじないだった。
カザリ君を作ったのは、いつからだろう? ふと考えてみると、思い出せなかった。
何となく覚えているのは、僕が今よりもっと子供で、ストレスに対する免疫がなかった頃だと思う。母親が出て行った僕の家は、家事全般を僕がしなくてはならなくなって、父は少しでも掃除が出来てなかったら、僕に怒鳴りつけた。一つ下の弟は力だけは強いのにやっぱり子供で、寂しさを紛らわすように僕に暴力を振るうようになった。誰も味方がいない僕は、漫画で見た二重人格に憧れて、自分を助けてくれる『兄さん』を求めたんだ。
と言っても本当に人格なんて出来るはずもなく、少し言葉にしづらいけど、結局は僕が僕に少し口調を変えて話しているようなものなんだけど。
思えば、痛い存在だった。
ーーそれは俺のことかな?
まさか、僕自身のことだよ。
環境を言い訳にして、妄想に縋りつくなんて本当に、痛い……
本当に、本当に……
「これから、どうしよう……」
思わず、声が漏れた。
誰が見てもわかる通り、僕の家庭環境は良いとは言えない。高校生の僕は学費を自分で払わなくていけない身の上だ。その上最近父は、僕がアルバイトを始めたと知って光熱費やガス代を払わせるようになった。
自分で働いている給料を、全部賭博に使いながら。
当然、食費も全部自分でしなくてはならなくて、アルバイトをクビになったのは痛手だ。
――ま、落ち着けよナガキ。ちょっとは貯金もあるし、その間に新しいバイトを見つけりゃいいさ。
楽観的だなぁ、カザリ君は。
――お前が悲観的だからな。二人そろって落ち込んだって意味ねぇだろ?
……ふふ、そうだね。
あまりに前向きな妄想に、思わず笑みが漏れた。
そう、カザリ君はいつだってそうだ。僕が落ち込めば、欲しい言葉をかけてくれる。
――ま、結局は妄想なんですけどね。
いろいろ台無しだぁ……
だけど、そんなもう一人の僕に救われているのも確かで。なんだかんだで僕は、今の環境を悪くないと思っていた。確かに一般的に見ればだいぶ不幸な部類だろうけど、決して最悪ではない。
世の中にはもっと、僕なんかよりもずっと不幸な人がいるんだから。
例えばそう、今だってテレビで流れてる。
大通りの交差点。信号待ちでふと上を見れば、高層ビルに設置されたモニタからニュースが流れていた。
『昨夜未明、母親から無理心中を強いられたと思われる少女が保護されました。少女はひどく衰弱しており、緊急病院に搬送された模様です』
画面に一瞬、その少女らしい子が映る。ひどく衰弱した、目が虚ろな、そう――絶望した顔。どこかでこれと似た顔をした人を見たことがある気がした。
きっとアレを『最悪』って呼ぶんだと、僕は思う。
ひどい世の中だ。そう思ったけど、すぐにその考えを捨てた。
同情なんて、幸せな人が不幸な人にやることだと、そう思ったから。
――捻くれてんなぁ。
今に始まったことじゃないよ。
僕は僕に軽口を叩いて、青になった信号を歩き出した。そんな中、行きかう人やすれ違う人たちの話し声が聞こえる。
「無理心中なんて、ひどい世の中よね~」
「あれ絶対トラウマもんだろ」
「ってことは、噂の化け物になるんじゃない?」
「ディスオーダーってやつ?」
不謹慎以外の何物でもない話を聞き流しながら、交差点を渡り切る。
――くだんねぇ話してんな。
まったくだね。
カザリ君ととも、眉間に皺を寄せる。
ディスオーダー。それは最近噂になっている都市伝説だ。曰く小さな女の子が手から火を出して人を殺したとか、見えない刃物で子犬を滅多切りにしていたとか。そういう話。ここまでだとただの怪談じみた内容だけど、いやこの後も似たり寄ったりだけど、その子たちに共通するのは――みんなトラウマを持っているということ。
いじめ、虐待、無理心中。原因はさまざまだけど何らかの理由でトラウマを持った『女の子』が超能力に目覚めて人を殺す。それがこの噂話『Emotionally unstable personality disorder:情緒不安定性人格障害』通称『ディスオーダー』だ。
いったいどこの誰がこんな話を流しているのか、そして信じる人も信じる人だと思う。いや、実際はただ面白がって言ってるだけなんだろうけど。
あまりにも不謹慎な内容。僕はこれが嫌いだった。
人の不幸は蜜の味って言うけど、なんかこう、正直面白くない。
それはきっと、僕が僕を不幸だと思い込んでいるからなんだろうなぁ。
こんなの、全然不幸なんかなじゃなかったのに。
その時僕は、本当の不幸を知らなかった。どうしようもない絶望を、知らなかったんだ。
いつだって、絶望は思いもよらないところから這い寄ってくる。
バイト探しを始めて3日経った日。財布の中が寂しくなった僕はATMからお金を引き落とそうとした。
高校一年生の時から少しずつ貯めていたお金だ。額は10万と少しだけど、この1年でやりくりした成果としては十分だと思う。本当はもっと貯めたいけど学費や食費、父が馬鹿みたいに使う光熱費でそこまでの余裕がなかった。
大学進学は無理だろぉなぁ……
――ナガキは頭もあんまし良くないしな!
そこはフォローしてほしかった……!
そんな独り言を内心で言いながら、ATMを操作する。
――お金が、出てこない。
――え?
それは僕の声だったのか、それともカザリ君のものだったのか。
妙な不安が、胸をよぎる。ドクンドクンと、なぜか行動が早く鳴る。
僕はもう一度操作した。暗証番号を間違いなく押し、入っているはずのお金を少しだけ取り出す。ただそれだけの作業だ――なのに、なんで、なんでなんで!
「なんで、出ないんだよ……!」
後ろに人が並んでいるのも忘れて、僕は絞り出すように言った。
頭の冷静な部分が――カザリ君が言う。
――ナガキ、残高照会してみろ。
いつもとあまりにトーンが違う声。だけど、僕は動けなかった。すごく、すごく嫌な予感がしたから。でも――
――ナガキ。
震える指で、画面を押す。誕生日の暗証番号を押して、残高を、確認する。
端数の数百円が、そこにはあった。
3桁の数字が、そこには並んでいた。
なん、で……?
なんでなんでなんでなんでなんで!
――あいつだ。
ち、違うよ、さすがにあの人だって――
――あのカス以外、誰がこんな事するっていうんだよ!?
カザリ君が言う。僕が言う。僕が妄想した僕が言う。
――アイツ以外に、俺らの口座触れるやつ、いるわけねぇだろ!?
それは、僕の意思だったのか、カザリ君の怒りだったのか。
カードをもぎ取るように引き出して、駆け出す。向かう先は、ずっと住み続けた我が家。父に怒鳴られ、弟にぶたれ続けたそこ。
正直、思い出したくない思い出しかないそこに、その人はいた。
リビングで、ソファに座り、足元に酒瓶をまき散らし、鼻につく煙草の臭いをまき散らす――僕の、僕たちの父親が。
「……父さん」
「――ナガキか、2,3万貸せ」
問い詰めようとした矢先に、こちらを見ることなく父は言った。同じようなことを言って帰ってきてないお金は数万じゃきかない。
僕は……僕は、絞り出すように言う。
「口座から、僕の貯金がなくなってたんだ……」
「……で?」
「父さんが、使ったの?」
「あぁ」
まったく、かけらも、微細も反省の色なく、父は頷いた。
心の中で、僕の正直な部分が、カザリ君が叫んでる。取り繕うことだけが上手になった僕は、その怒りをギュッと抑えて、言った。
「なんで、なんで僕のお金を……!」
「ぅるせぇなぁ。たかが10万くらいなんだよ……」
本当にうるさそうに、父は言った。
「10万くらいって、そんなの――」
「はぁ!? 誰が今までお前を育ててやったと思ってんだ!? これくらい当然だろうがぁ!? あぁ!?」
喚き散らし、父は灰の入っている灰皿を投げた。それは僕の額に当たった。血が、出た。
「ったくうぜぇんだよ! 10万ちょっとでよぉ! てかさっさと金用意しろよ何倍にもして返してやっから!」
「そんな金、ないよ……」
「だったらすぐ用意しろよ明日までにな! じゃないと――」
先の言葉が紡がれることはなかった。
家の玄関から、激しい音が聞こえたから。驚きすぐにそちらに向かうより先に、犯人だろう数人の男が、靴も脱がず家に入ってきた。
――ナガキ、逃げろ!
カザリ君が言った。僕の足は震えて動かなかった。
ふと見れば、先まで傲慢にしていた父が、青ざめた顔でこっちを見ている。僕じゃなく、部屋に入ってきた男たちを。
ありきたりな漫画みたいだなぁ。
どこか現実味のない状況に、僕はもう思考放棄していた。
その後は、それこそベタな漫画のような展開だった。入ってきたのは闇金融の人らしい。今のご時世、まだそんなものがあったのか、というのが僕の感想だった。
その人たちの話からするに、父は借金をしているらしい。その上、実は少し前から仕事にも行ってなかったと言われた。どうりでお金が帰ってこないと、土下座して男たちに謝り蹴り倒される父を見ながらそう思った。
家での暴君は、こんなにも小さくしょうもない男だったのか。
その上、
「金は、金はそこにいる俺の息子が払いますから!」
自分が助かるために、平気で子供を売り渡す、か……
――こんなやつ、見捨てよう。
カザリ君が言う。父親を見捨てろと。それをひどいとは思わない。彼は僕で、つまりは僕のことを第一に考えていつも話してくれるから。
でも、ごめん……
――ナガキ……
僕がここで逃げ出せばきっと、今度は弟のところにこいつらは行く。
――アイツは、お前をずっといじめてきたやつだぞ?
それは、中学に上がるまででしょ?
弟はいま、中卒で働きに出ている。料理人の修行らしい。もしそんな場所にこいつらが行けば、もしかしたら弟は職場にいられなくなるかもしれない。それはダメだと思う。
――だけど、なんだってお前が犠牲に……
犠牲じゃないよ。ほら、この件で弟が職失ったら、また僕を殴るかもしれないだろ? 僕は弱虫だから、それが怖いんだ。
そう、怖い。
ここで逃げて、弟に、他の誰かに自分のせいで迷惑がかかるのが、怖い。
だから僕は、誓約書にサインした。僕が返すと、責任を取りますと、初めて見る桁の違う借金にもぅ笑うことしか出来ず、サインした。
そして、全部終わって僕は、その場にへたり込んだ。あいつらが出て行ってどれくらいたっただろう? 父は自分の借金が消えたと思っているのか、安堵したような顔で眠っていた。
「……」
なんで、どうして……
ふらつきながら立ち上がって。
――こいつの、こいつのせいで……!
ふらふらと、おぼつかない足取りで。
――なんで、なんでナガキが……!
見えたのは、キッチンに無造作に置かれた包丁。
僕は、父を見下して――
――こいつが死ねば……!
振り上げたそれを、僕は、どうすれば良かったんだろう?
あぁもぅ……分かんないや。