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狼シリーズ

最古の友へ

作者: 紫蘇原

 寒い。息が白、下を見ると雪が白。今日は上を見ても青がない。前を向くと仲間の着ている毛皮が茶、髪も同じような色。面白くもない景色だ。せめて下に緑があればまだ色数は増えるのに、それさえもない。贅沢をいえば青色がほしかった。あの色があるだけでずいぶん気持ちが明るくなるから。今日のように、上を見上げても汚れた雪みたいな色しか目に入らない日は、雪の中を掘り進んでいるみたいで余計寒く感じる。

 俺のすぐ前を行く仲間の一人が振り向いて、止まれ、と手で制した。獲物を見つけたんだろう。移動する方向を身振りで示されたのですぐに従う。あいつは俺より後に生まれたような気がするが、実力の問題だ。狩りがうまくない男というのは群れ全体に迷惑をかけるんだから、序列が低くなるのは当たり前のこと。刃物なんかを作るのも特別うまいわけでもないから、本格的にお荷物だ。自分で打ち欠いた小さな石のナイフを握り直す。うまいやつはもっと大きくて切れるものをたくさん作れる。ずっと前の方では、攻撃を始めたのか雄叫びが聞こえ始めた。今回の獲物は何だろう。牙のあるやたら大きいやつなら肉が多いからいいけど、あれなら俺も前に行かないと手が足りなくなるから多分違う。獲物から遠くに置かれたってことは、獲物が逃げた時に足止めする役回りか。もう狩りが始まっているのにこんなにぼんやりしているようだから、狩りが下手なのかもしれない。うまい奴に何かコツでもないかときいたら、獲物だけ気にしてればいいと言われた。その、だけ、というのがどうしてもできなかった。探してる最中も景色を見てしまうし、見つけた後も、よく獲物の吐く息の荒さとか熱さとかそういうものが気になってしょうがなくなる。それで、雪がこんなに白い理由とかもっと熱い火のような息の獣がいたらどうだろうとか、どうでもいいことが浮かんでくる。うん、浮かんでくるというのが合っている。ときどき上の方を見ると青の中に白がぽんとあるように、普段は明日何をするかってことなんかがあるところにそんな話が浮かぶ。他の仲間にはそんなことがないと聞いたときは驚いた。

「地面はきっと色を間違えたんだ。雪は皮みたいなのに骨の色をしているし、雪を剥いだら下にあるのは毛皮みたいな色をしている。ずっと掘っていったら肉色の骨があるに違いない。」

まだ名前も決まっていなかったころ、そんなことを言うとまず本当かときかれた。浮かんできたことを言っただけだと答えると、じゃあどうでもいいと返された。そんなことが何度かあって、俺はウソツキと呼ばれるようになった。皮を剥ぐのがうまいからカワハギ、背が高いからセイタカと呼ばれるのと同じで、それが俺の一番目立つところらしい。本当じゃないことばかり言うからウソツキ。

 ザクザクザクザクと雪を踏む音が聞こえて、さっきまでのぼんやりがさすがに吹き飛ぶ。俺の半分くらいの高さで、やっぱり茶色い毛をした獣がこっちに走ってくる。たぶんあれが今回の獲物。捕まえようと身構えると、向こうもそれに気づいて横の方に逃げた。ここで逃すのはまずいから俺も走って追いすがる。もし他の奴が獲物を捕まえられたとしても、役立たずにやる分け前はかなり少ない。俺の方に逃げてくるやつがいなかったときならちょっと少ないくらいで済むけど、捕まえるべき獲物を逃しましたという場合は本気でまずい。食べ残しの骨とかがもらえるかもらえないかくらいだ。距離が縮まってきた。後ろから獲物の首に腕を回して力を入れ、体で押さえ込む。チカラモチとかならこのままグキッとやって確保できるし、そうでない奴でもナイフで仕留められる。俺は少しでも力を緩めたら逃げられそうだからこのまま仲間が来るのを待つ。無茶苦茶に暴れるから体勢が崩れそうな上にさっき目に入った緑色の林が気になって仕方ないから俺の気が散る前に他の奴が来てくれないとものすごく困る。少し後ろの方から大きな声と、人と獣両方の足音が聞こえた。もしかすると、これは群れのうちの一頭に過ぎなくて俺が走り出した後にもっとたくさん来たのか。しくじったかもしれない。いやあの場に留まっていても一度に一頭しか押さえておけないから同じだけど。少しして後ろが静かになる。落ち着いた足音が近づいてきて、仲間の一人が俺の押さえていた獲物をきっちり仕留めてくれた。

「よくやった。」

一頭捕まえておいただけでこう言われるあたり俺の普段の評価がどれだけ低いか分かる。ムクチと呼ばれるそいつと一緒にそれを運んだ。さっきまでは走ったり獣とくっついたりしていたから暖かかったけど、離れると寒い。あと腹が減った。働いた分、分け前は期待できるかもしれない。

 やっぱりいつもより多くとることを許してもらえた。それでも標準よりは少ないけど、ありがたい。すきっ腹に肉がたまっていく。誰もしゃべらない。みな食べることに集中している。顔を上げると目に映るのは茶色ばかりで、少しつまらない。洞穴の壁と地面が土色、仲間もだいたい毛皮色、肌が少し薄いけどやはり茶色っぽい。肉だけやたら鮮やかに肉色。緑が欲しい。緑。そういえば林があった。初めて見た気がする。報告した方がいいだろう。

「オサ。林を見かけた。獲物を追いかけていたとき。」

「それは、本当のことか。」

「オレも見た。」

ムクチが言い添えてくれた。さすがに報告でウソはつかないが、信用がないみたいだ。自分のせい、と言えばそれまでだけど。

 その次の日、女子供と林まで焚きつけを取りに行くことになった。狩りに出たのは精鋭だけ。今回は動きの速い獣を狙うらしい。もちろん俺がその中に入っているはずはない。地面に落ちた小枝や葉なんかを集めるのはまあまあ好きだ。それでいい。今日も上の方は薄汚れた白なのはちょっといただけないけど。剥がれ落ちた木の皮を拾う。そういえば、なんで木は血を流さないんだろう。不思議だ。獣も仲間も皮がむけたら血は出るのに。そうだ。地面も、いくら雪を剥いでも血は出なかった。石はどこまで皮か分からないけど、どれだけ削ってもやっぱり何も流れてこない。動かないものには血がないのかも。誰かに言ってみようか。でも反応は返ってこないだろう。今は、焚きつけを拾うのに集中する時間だ。ぼんやりしてはいけない。ぼんやりしてる暇があったら体を動かす。前から何度も言われているのに全然治らない。どうすれば治るんだろう。いや、もしかして、死ぬまでこのままか。ハヤアシは年をとっても走るのが速かったし、チエシャは死ぬ間際まで群れの移動予定とかを考えていた。それと同じで、俺はずっとこうなのか。急に寒くなった。なぜだろう。風が吹きつけたわけでもないのに、どうしようもなく寒い。腕がこわばって、抱えている小枝がパキパキ折れる音がした。寒い。動かないと。動けば暖かくなる。立ち止まっているより歩いている方がいくらかましだから。なんでだろう。どうでもいい、そんなことは。動くものはたいてい暖かくて血があるから動くと暖かいのはきっと血がなにか黙れ。いらない。浮かんでくるな。ぼんやりしてるのは余裕があるせいだ。走れ、周りを見ろ、妙な気配はないか。獣の匂い。びくりと足を止める。獣が出るのはまずい。戦える男は今いないのに。息をひそめて周囲を探る。仲間からかなり離れてしまったようだ。木々の間、走ればすぐに詰められるくらいの距離に、灰の色をした毛皮が見えた。

「オオカミ……。」

狩れるような獣ならまだよかった。オオカミは本当にまずい。こちらが狩られてしまう。他の獣は特徴だけで呼んでいるが、こいつらだけはオオカミと名前で呼ばれる。それくらい特別な獣だ。しかし、一頭だけしかいないのは変だ。オオカミは群れで行動する。しかもさっきからほとんど動いていない。何をしているのだろう。慎重に様子をうかがうと、座って何かをじっと観察しているようだ。小さな緑色と、雪に紛れそうな色の、花だろうか。花を見るオオカミ。本当に熱心に見ていて、俺にも気付いていなさそうだ。オオカミは嗅覚が鋭いからこっちから姿が見えたときはもう手遅れだと聞いたことはあるが。周囲をもう一度確認し、耳を澄ましてみても、他のオオカミは確認できない。はぐれたのだろうか。それにしては余裕こいているように見える。まあ、たとえ一対一だとしてもオオカミに勝てる気はしない。向こうが俺に気付かないままでいることを祖霊とかに祈りつつその場から離れた。結局そのオオカミが花から目を離すことはなかった。

 拠点に狩り部隊が浮かない顔で帰ってきた。今日の獲物は小さくて耳の長いやつ二、三匹だけ。狙いの獣は狩りの最中にオオカミの群れとかちあって横取りされたらしい。そうなると、やはり林で見たオオカミは群れからはぐれたのだろう。俺も林でオオカミを見たと一応言ってみたが黙殺された。他に見た仲間がいなかったからだ。まあそれはいい。なぜか詳しく話す気にもなれなかったし。いや、そんなことより重要なのは今日の肉が少ないことともうすぐ寒さが厳しくなることだ。狩り部隊の方は帰るとき吹雪にまで遭いかけたらしい。寒くなると獲物も獲りづらくなるから、寒さだけでなく飢えも深刻になってくる。冬が来るとなると誰もが暗い顔をするものだ。

「他のとこの奴が言ってたんだが。」

セイタカが何か話している。みな割と真剣に聞いていた。

「オオカミに肉やって仲間にしてるとこがあるんだと。鼻が利くから獲物見つけんのも早いし仕留めるのも手伝ってくれるから便利だとかなんとか。食い扶持は増えるが、そうできたら冬越しも楽になるんじゃないか。」



 寒い。そういえば吹雪から抜け出した後何人かいなくなっている、というのも冬にはよくあることだった。くそ寒い。オオカミと狩場が重なったようだから移動しないと獲物が獲れないとなり、動き出したら吹雪に遭った。あんまり寒くて気を失ったら目覚めたときには誰もいなかった。寒いし腹減ったし俺は今も吹雪の中にいるから動けないし誰か来てくれないと死にそうだ。誰か来てくれる、か。気付かれていないという線はあるな。狩り部隊の一員でもない。道具づくりもしていない。女子供のグループに入っているわけでもない。点呼の枠から外れているという事態はありえる。あるいは。いろいろ理由はありそうだが、どうでもいい。本当にどうでもよかった。たぶん助けは来ないだろうことは確かだった。誰だってそうする。本当にうっかり置いて行ったとしても、わざわざ吹雪の中まで助けに行く価値のある奴なんてどれほどいるだろう。そして俺はそうじゃない。寒い。息が白いかどうかもわからない。そして、今になって、やっと、何も浮かんでこなくなった。明日何をするなんてもう考えなくていいのに、そのための場所が広く空いている。動けもしないし、周りを警戒したところで何にもならないのに。寒い。白い。雪に埋まっているみたいに、白しか見えない。いや、灰の色、口の肉色が、ぼんやりと見えて、ちょっと目が覚めた。吹雪がやんだみたいだ。危ない。今ちょっと気を失いそうだった。今度気を失うのはこの世とおさらばして祖霊の仲間入りをするときだろう。祖霊、なれるんだろうか。勇敢でも聡明でもなかったけど。今見えたのは色からしてオオカミか。目を凝らしてその獣の姿を見た。俺と向かい合うようにして倒れている。手が届きそうなくらい近い。他のは見えない。一頭きりだ。はぐれたのか。花を見ていたあのオオカミ、だろうか。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。獣の顔なんてわかるものか。獣。ふっと、浮いてきた。こいつ食えばなんとかなるんじゃないか。一応、小さな石のナイフは持っている。このオオカミも弱っている。がんばれば仕留められるかもしれない。オオカミの肉も食えはするだろうし、暖かい毛皮をいただいて今着ているものに重ねれば、追いつくことはできる、ような気がする。オオカミの息がぬるく顔にかかる。獣の息は熱いものなのに。よほど冷えているようだ。こんなに近くにいるのに襲いかかる様子もない。今なら、いける。ゆっくりした動きしかできないが、ナイフを握ろうとした。オオカミを仕留めたとなれば、みなの見方は変わるだろう。何も浮いてこないというのがどんな感じかも分かった。今度からは、たぶん、きっと、うまくやれる。ナイフを握って、オオカミの首の方に手を動かして、突き立てようとして、手から力が抜けた。氷がついてろくに開かなくなった口で、誰にともなく呟く。

「もう、凍る。」

こんなちっぽけな武器でオオカミの皮を剥いで、弱った体で雪をかき分けて遠く離れた奴らのところまで、いけるわけがない。でも、ではこの獣ならどうだろう。この特別にオオカミと名前を付けられるほどの獣なら、俺一人分くらい食えばいけるんじゃないか。生きて、群れに戻れるんじゃないのか。ああでも生きながら食われるのは痛そうだ。ちょうどナイフ持ってるし今のうちに自分で、いや自分で死んだ奴って死後なんかどうにかなるって聞いたような、なんだっけ。ていうかそんな余力はもうないか。今度こそ指一本動かせない。もう寒くもない。不思議だ。あんなに寒かったのに、ただオオカミの息が生ぬるい。なんでこいつ俺食わないんだろうなぁ。俺よりは寒さに強いだろうから、さっき食えてただろうに。息が、もう冷たい。瞬きするたびに氷がパリパリ剥がれる。目と鼻の先、オオカミと俺の顔の間くらいに、青い花があった。

 さっきまでなかったのになんでこんなところに青い/いい香りのする花が咲いているんだろう。雪や今の上方とはまるで違う目の覚めるような色/血のにおいとは真逆のすっとするような香りだ。あんまり寒いと、死ぬ前に幻が見えるんだと聞いたことがある/ない。あれ、どうだっけ。でもこんないいものを、さいごに見れた/嗅げたなら、まあ、悪くなかったんじゃないか。ウソツキ/ハズレでも。オオカミの鼻づらが/ヒトの顔が花の向こうにある。こんな匂いがする/色をしているのか。今までこんなにも匂い/色が鮮やかなんて知らなかった。いいものだなぁ。もう、思い残すことは、どうだろう。ああそうだ、ほしいものがある。ずっとほしかったんだ。花が、揺れた。きれいだ/すてきだ。すてきだな/きれいだな。腹が減った/お腹が空いた。そうだな。





 目が覚めた。腹は空いているが、今すぐどうこうというほどではない。寒いが、毛皮があるからだいぶましだ。二本の足で、雪の上に立つ。冷たい空気を胸の奥まで吸い込んで、吐いた。息は白くならない。雪は白。見上げれば青。こんな日は気分がいい。見渡す限り青と白の二色。毛皮は赤茶と灰が入り混じって、もう何色とも言えないような色をしている。見ろ、肉などやらずとも、獲物を献上などせずとも、なんとかなるではないか! しかし父祖よ、申し訳ないがやはり祖霊にはなれなかった。おれ(・・)は、この毛並みのように何とも言えないようなものに成り下がった。いや、成り上がったのかな? それはまあいい。今重要なのはとても腹が空いているということ。一匹では少々大変かもしれないが、狩りをしよう。それでも前よりはいいに決まっている。おれ(・・)はもはや一人でも一頭でもないからだ。ずっと向こうから漂う獣の匂いを目指して、青と白の世界を走る。ヒトとオオカミは、仲間になれるのだと聞いた。ならば友にもなれればいいのにと、そう思ったことがあった。どっちがそう思ったのか、どっちはそう思わなかったのか、もう覚えてはいないけれども。

「友は、できたな」

やっとヒトでもオオカミでもなくなったおれ(・・)は誰にともなくそう言った。


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