7.同居
翌朝、早く起きた。
制服に着替えて、台所を覗くと、益子さんが張り切ってご飯を作っていた。
「おはようございます」
挨拶すると、昨日ほどではないものの、怯えられた。
「お、おはようございます」
しばし、沈黙。
まるで野獣に会ったような反応をされると疲れる。
なんとか、もっと打ち解けたい。
嫁と姑問題は、結婚生活の中でも大事なウェイトを占めると思うの。
私が悪女っぷりを発揮して、ハワイのコンドミニアムにでも姑を追いやってしまえばいいかもしれないけど、源一郎さんと幸太郎さんは許さないだろう。
それに、私はそういうタイプではない。
「何かお手伝いすることがあれば、と思って……」
「えっ……そんな、式部家のご令嬢にそんな真似を……」
まだそんなことを言うの?
頑なな態度に苛立ちめいた気持ちが湧く。
「幸太郎さんに言われてきました。
早くこの家の家風になれるように、って。
花嫁修業をするんだって。
なので、何もしない訳にはいきません」
「幸ちゃんが……そう、なら……」
息子の名前は絶大だった。
彼女にとって、彼は自慢で、頼りになる息子なのだろう。
新堂家に来て、与えられた初めての仕事は『お花の水やり』だった。
これもまた、益子さんの『令嬢観』の匂いがする。
洋蘭の温室で、ため息をつく。
下手に水をやって枯らしてしまったら、『ご令嬢』の嫌がらせと思われないかしら?
式部邸でも花は好まれたけど、洋蘭とは縁がなかった。
細く長い口のジョウロを持って躊躇っていると、温室に人が入って来た。
「母さん? 俺の新しいワイシャツ知らない?
―――うわっ!」
「おはようございます、幸太郎さん」
母親だと思った人影が、昨日やってきたばかりの偽装嫁だと知って、彼は驚きの声を上げた。
その声を恥ずかしいと思ったのか、顔が赤くなっていた。
「雪花ちゃん……おはよう。
よく眠れた?」
「ええ、おかげさまで」
「そう……えっと、何してるの?」
セーラー服の上に、汚れないように、と貸してもらったエプロン姿の私をじろじろ見た後、幸太郎さんは怪訝そうな顔で聞いた。
「お花に水やりをしていますの」
「あー、あんまり水やらない方がいいよ。
腐るから、それ」
やっぱり……これって嫁いびりじゃないわよね?
わざと水をやらせて腐らせて、私のせいにする、という迂遠な嫌がらせだったらどうしよう。
令嬢嫌いが高じて、私で憂さ晴らし……なんて、益子さんはしないわよね。
ただ、本当に、何もお願いすることがなかったんだわ。
幸太郎さんは考え込んだ私の手から、ジョウロを取り上げた。
「無理に手伝わなくてもいいから」
こちらはこちらで余計なことをしていると思ったらしい。
「幸太郎さんが言ったんですよ! 花嫁修業しろって!!!」
そう抗議したら、ほくそ笑まれた。
この人の笑いのバリエーションってどれくらいあるのかしら。
「じゃあさ、お願いがあるんだけど」
失敗した。
私は幸太郎さんの前に立って、自分の言葉に激しく後悔した。
花嫁修業……そうね、旦那さまのネクタイを結ぶのは、妻の役目かもしれない。
母は父のネクタイなんか結んだことはないけど、世間一般は違うのだろう。
男の人の首に手を回し、慣れない手つきでネクタイを結ぼうとする。
上手くいかない。
着物の帯なら簡単に結べるのに。
「違うよ、そうじゃない。
こうやって、こうするんだ……」
手際良く綺麗にネクタイを結んで見せる幸太郎さんに、私は思わず「自分で出来るんじゃないですか」と言った。
「出来るよ。
でも、花嫁修業……したいんだろう」
朝からこの蕩ける甘さは精神衛生上良くないと思う。
耳朶にかかる息の熱さに手が震えて、上手く結べる訳が無い。
幸太郎さんは背が高いので、私がまごまごと結んでいる様子を、ずっと上から見られているのも気になる。
何度もやり直しをされられている内に、久保田さんが呼びにやって来た。
すると、するすると綺麗にネクタイを結んだ幸太郎さんに笑われた。
「時間切れだね。また明日」
また明日もこんなことするの?
遊ばれているような気がして面白くない。
今日時間を見つけて、自主練習しよう。
上手く結べるようになったらこんな真似はしなくて済むはずだ。
「毎日結んでくれると嬉しいな」
私で遊んで満足らしい。やたら上機嫌の幸太郎さんに言われた。
ええ? いやだ。
仕方が無い、一回で済むように、やっぱり練習しよう。
台所には重箱のお弁当が三つ置かれていた。
益子さんは張り切ったようだ。
それを見た幸太郎さんが、棚から各種のタッパーを取り出して私に見せた。
「どれくらいの大きさなら食べられる?」
どうやら入れ替えてくれるらしい。
益子さんは、その行為に気がついたようだが、言葉を飲み込んだ。
並べられたタッパーを吟味していると、「買い物リストに追加だね。お弁当箱」と幸太郎さんに囁かれた。
「囁かないで下さい」
「なんで?」
なんで、って、甘くて蕩けそうで、ドキドキするから。
とは、言いたくない。
この人は自分と家族の為に、愛を捨てて、お金の力で偽装結婚するような男なのだ。
私のことなんて、毛色の珍しい生き物を手に入れたくらいにしか思ってないはずだ。
「ちゃんと聞こえてますから!」
ぶっきらぼうに言い放って、一つのタッパーを指差した。
「そんなに小さいの!」
耐えきれずに益子さんが叫んだ。
「丸の内のOLみたいな小ささだね」
「えっ?」
その言葉に反応してしまった。
今度の笑い方は忍び笑いだ。
「別に女子社員と一緒にお弁当なんて食べてないよ。
あくまでイメージ」
何、それ。
私があなたに嫉妬しているみたいに言わないでよ。
悔しいし、さすがに小さすぎたと思ったので、もう少し大きめのタッパーを取りなおした。
幸太郎さんが詰め替えようとしたのを制して、自分でやった。
ようやく、役に立ったと思ったけど、結局、自分のことしかやっていない朝だった。
以後、私の朝の日課は、益子さんが食卓に並べてくれた皿からおかずを選り取って自分のお弁当を作ることと、幸太郎さんのネクタイを結ぶことの二つになった。
いえ、あともう一つ。
「今日も一日、いい子にしているんだよ。
いってきます」
「いってらっしゃいませ」
幸太郎さんが必ず私に釘を刺していく―――。