22.接近
お風呂に入った幸太郎さんは、父の浴衣を着て、手ぬぐいを首に掛け、縁側で涼んでいた。
「熱めのお湯で洗ってしまったせいで、小麦粉は粘るし、卵は固まるし、散々だったよ」
私は、先ほどの反省から、俯いて座っていた。
決して、着崩した襟から除く鎖骨から胸元にかけての線だとか、濡れたままの髪の毛から落ちた雫が首筋を伝うのを、見惚れてしまわないようにしている訳ではない。
反省しているのだ。
すっごく、反省しているのだ。
そんな中、不純な気持ちを抱いたりなんか、する訳がない。
「ごめんなさい」
「いいよ。俺も言い過ぎたから……。
でも、お金を渡すのは止めて」
パトロン気分だ、と批判されたのを思い出した。
そんなつもりじゃなかった。
「―――だって……パンケーキって高いんですもの。
しゃ……福田さんが味を覚えて作ってくれたら、家でいっぱい食べられるんじゃないかと……」
現実に、その目論見は成功して、私は毎日、ホットケーキ三昧の日々を送っていた。
幸太郎さんは怒っているようで、返事がなかった。
「ごめんなさい。
福田さんのこと、利用していました。
あの人、パチンコや競艇なんか行ってませんよ。
それだけは確かです!!!」
信じてもらおうと、顔をあげて、目を合わせて語りかけたのに、幸太郎さんの顔がみるみるまに厳しく、赤くなった。
怒り狂ってるんだ。
どうしよう!
二度目の婚約破棄!?
それは駄目!
だって……ほら! そうよ、雨宮家の結婚式に『二人』で招待されているのよ。
それまでは我慢して貰わないと!
焦って、それを伝えると、幸太郎さんはついに―――爆笑してしまった。
面と向かって、馬鹿笑いされた。
ひどい。
侮辱的だわ。
でも、その通り。
甘んじて受けるしかない。
「違っ! そうじゃない! ごめん。雪花ちゃん」
手ぬぐいで目じりに溜まった涙を拭きながら、彼は私の名を呼んだ。
『雪花ちゃん』と―――。
それはひどく久しぶりの響きだった。
『雪花お嬢さま』ではなく、『雪花ちゃん』と呼ばれただけなのに、なぜか私は許されたような気がした。
「どうしたの?
君を馬鹿にして笑った訳じゃないんだ。
だから、そんな顔をしないで―――」
私はどんな顔をしているかしら?
よく分からないわ。
嬉しいけど、恥ずかしいから、我慢していて、変な顔になっているのかも。
「勝手なことをしてごめんなさい」
「いいよ。いいんだ。
俺も……ちょっと冷静さを欠いていたし。
ごめんね、雪花ちゃん」
にじり寄ってきて、頭を撫でてくれた。
そのまま、頬っぺたに手が伸びて……。
うわぁ、これって、なんかいい雰囲気かも。
どうしよう?
目とか瞑ったら勘違いしてると思われるかしら。
だけど、幸太郎さんの顔はどんどんと近づいて来て、とても目を開けて見ていられない。
反射的に目を閉じる。
息が鼻にかかってくすぐったいけど、ここでくしゃみをしたら台無しになりそうだから、我慢しよう。
「雪花ちゃん……俺、君のこと……」
甘く蕩ける囁きが聞こえ、その時が近づいているのが分かった。
―――が、その時、廊下をどたどたと走る音と、しゃっき……福田さんの声。
「焼き上がりましたよ〜!
新堂の旦那も、是非、俺のハッピーホットケーキを食べてみて下さい……って、あ……お邪魔でしたか……」
「ああ、邪魔だよ」と福田さんに毒づく不満たっぷりの幸太郎さんの横顔が、今にもくっつきそうなくらい近くにあった。
思わず押しやる。
「嫌!!! なにするの!!!」
「えっ……」
「えっ? じゃなーい!!!」
危ない。
危うくまた騙される所だった。
断りもなく乙女の唇を奪おうだなんて! やっぱり最低! 鬼畜!! 変態!!!
この男、本当に油断も隙もないんだから!!!
いじける男を余所に、私は福田さんからホットケーキを受け取った。
渾身の力作なのだろう。いつにもまして、表面が輝いている。
この所、よく自分のホットケーキのことを『ハッピーホットケーキ』なんて浮かれた呼び方をしていると思ったら、それは『食べて幸せになるホットケーキ』と『福田の作ったホットケーキ』の二つの意味があったことが分かった。
ハッピーホットケーキは幸太郎さんの気持ちもほぐした。
一口で、口元が緩んだのが分かった。
もっとも、この人、もしかして笑いの沸点が低い人なのかもしれない疑惑が湧いてきたから、別の理由かもしれないけど。
「ど、どうでしょうか?」
「うん……美味しい……ね」
不承不承だけど、幸太郎さんも納得した。
「良かったですね!」
「はい! ありがとうございます! お嬢さん!!!」
手を取り合って喜んでいたら、濡れた手ぬぐいが飛んできた。
「ひぃ!」
すみません、すみません、すみません、と、福田さんは再び米つきバッタになった。
「何するんですか幸太郎さん!」
抗議すると、仏頂面でホットケーキを頬張りながら、「ふん」とばかりにそっぽを向いた。
なんなのよ!?
子供みたい。
しかし、そんな子供じみた人に恐れる福田さんがいた。
そう言えば、ちんぴらたちに絡まれた時、彼は幸太郎さんの名前を出して、追い払っていた。
黙々とフォークを動かす男に、私は半ば、恐れながら尋ねた。
「幸太郎さんって……どんな阿漕な商売をしてらっしゃるのですか?」
あ、しまった。
もう少しマイルドな聞き方をすべきだった。
単刀直入すぎる質問に、幸太郎さんは「はぁ?」と声を上げた。
その絶好調に不機嫌な聞き返しに、福田さんは畳に額をこすりつけたまま固まった。
聞いた責任を取って、私がたどたどしく理由を説明した。
「知らないよ!
うちの家は、法律に触れるような仕事はしていないぞ!
変な噂を立てないでくれる?
名誉棄損で訴えるぞ!!!」
「すみません、すみません、すみません。
そんなつもりじゃなかったんです。
どうすれば奴らから逃れられるか分からなくって……。
新堂の旦那は立派なお方に見えたので、その名前を出せば、ビビるかな、と」
「つまりハッタリってこと?」
幸太郎さんが冷たい緑茶を飲みながら聞き返した。
また口の端に笑みらしきものが浮かんでいた。
もう大丈夫だ。怒ってはいない。
「はいぃ。
うちら下っ端は、何も知らされていないことも多いので、もしかしたら、自分が知らないだけで偉い人かもって思わせれば、手を引いてくれると思いまして」
「だ、そうだよ」
福田さんの説明を受けて、幸太郎さんは私に自慢気に微笑んだ。
悔しいけど、良かった。
嫁ぐ家が、悪いことをして成り上がった家だなんて嫌だもの。
胸をなで下ろした私に、福田さんが余計な一言を付け加えた。
「俺だけだったら説得力がなかったですが、お嬢さんが上手に加勢してくれたおかげで、俄然、真実味をましました。
いやぁ、お嬢さんの『私は新堂幸太郎の婚約者です!』は、堂々としていて奴らを圧倒しましたよ。
ああいうのはいかに自分が信じているか見せるのが大事ですからね」
「……そうなんだ」
私は福田さんの暴露に焦ったのに、なぜだか幸太郎さんの態度が冷やかだった。
てっきり、ニヤニヤ笑われると思ったのに意外だ。
「事実ですから」
私も倣って、冷たく言った。
「そうだね。
そのこと、忘れないでね。
雪花お嬢さま」
ああ、『お嬢さま』呼びに戻ってる。




