2.偽装
「ああ、でも懐かしいわぁ。
私も高校を卒業してすぐにお父さまと結婚することになって、お見合いをしたのよね。
あの時のあなたはとても素敵で……一目で恋に落ちたものよ」
娘の気持ちを無視して、母は一人で……いいや、父も一緒になって盛り上がっていた。
「そうだったねぇ。
君はあの時と変わらない……いいや、それ以上に、美しい」
「まぁ……それはきっと幸せだからね。
こんな素敵な旦那さまと、可愛い娘に恵まれて。
そして、その子にこんな素晴らしいお婿さんが出来るなんて!
夢みたい」
やはり名門の出の母は、親に決められた結婚話に、これっぽっちも疑問に思っていないらしい。
ええ、二人はそれでいいでしょうね。
相性はピッタリ。
二人で散財に尽くしたんですもの。
あまりに悲しくなったので、新堂親子に挨拶もせずに席を立った。
広い庭を、草をかき分け突っ切り、家に上がる。
大きな株になった紫陽花が咲き誇っていたが、愛でる余裕はなかった。
普段は廊下が抜けないようにソロソロと歩くところを、ドシドシと音を立てて走った。
和室に机と椅子、ベッドを持ち込んだ自室にたどりつくと、その場にしゃがみこむ。
学校から帰って来たばかりなので、制服を着たままだった。
皺になってしまうと思ったが、着替える気力がわかなかった。
涙も出なかった。
薄々、覚悟はしていたのかもしれない。
この財政状況では、自分が就職するまで持たない。
就職出来たとしても普通の稼ぎでは、とても返済がおいつくはずがない。
あと私の財産といったら、式部の名前と若さと肉体だけだ。
だけど、あんな嫌味そうな年上の男に買われるとは。
せめてもうちょっと性格の良さそうな人だったら嬉しいのに。
でも、そういう人はお金で嫁を買ったりはしないだろう。
私はやはりもう、そういう所からしか貰い手が無いのだろうか?
かつて、生まれる前から決められていた婚約者から、一方的に婚約の破棄を申し出られた記憶がよみがえる。
式部と同格の一角家との縁組だった。
漠然と、将来はこの人と結婚するんだというくらいは、親しんでいたはずだった。
それが突然の破断。十五歳の時だった。
原因は教えられなかった。ただ『金銭的な問題』だと、その頃残っていた使用人たちが囁いていた。
「ふーん、随分、殺風景な部屋だね」
頭の上から皮肉っぽい声が降って来た。
ビクッとして顔を上げると、なんと当の新堂幸太郎が立っていた。
追って来たのだ。
瞬時に、身の危険を感じた。
この無駄に広い屋敷の中には、もう誰一人も使用人がいないのだ。
両親は新堂父と離れた茶室にいる。
つまり、二人っきり。
「何かご用ですか?」
立ち上がって距離を取る。
一応の入り口はふさがっているけど、幸い、この日本家屋は襖で仕切られた密閉性の無い空間だった。
奥に行けば、襖の迷路が待っている。
生まれ育ったアドバンテージで逃げ切れる可能性がなくもない。
ただ、奥の方で捕まった場合は、考えたくない。
「警戒しなくても大丈夫だよ。
そんな趣味はないから」
また笑われた。
自意識過剰なんじゃないの? と馬鹿にされた気分になった。
「人をお金で買うような真似をする男に、そんなこと言われたって信じられません」
図星を突かれて悔しいのか、彼はしばらく黙った。
「本当に私と結婚するつもりなんですか?」
「するよ。
君が嫌がってもね。
ご両親はよく分かってないみたいだけど、この家の借金は新堂がすべて纏めたよ。
これで家に借金取りがくることもない」
新堂息子の言葉に、ホッとする気持ちを隠せなかった。
人気のない家で、借金取りと対峙するのは怖いのだ。
「言っておくけど、君に選択肢はないよ。
君一人がいくら頑張っても、もうこの家の借金は返しきれるものじゃない」
飾ってある日本画を熱心に眺めながら、男が言った。
殺風景と評された部屋の中で、わずかな彩りだ。
母に習って私が描いたものだが、たいして上手ではない。
平凡な朝顔の絵の何がそんな面白いのか分からないが、こちらから目を逸らしてくれるのはありがたい。
「いくらで買ったんですか?」
自分の値段を聞いてみると、興味を惹いてしまったようで、日本画から私に視線が移った。
彼が答えた額に、私は唖然とした。
想像していたよりも桁が違った。
絶対、利子がおかしいに決まっている。
「驚いた? 自分の価値に?」
「―――!!!」
新堂幸太郎の言い草には腹が立ったけど、確かに、それほどの金を払ってまで手に入れる価値があるのだろうか。
それにしても生々しい。
自分で聞いたものの、こうもはっきり金額を言われると『買われた』感がより一層してくる。
『実は君のことを見初めて、借金を肩代わりしてもいいから結婚したいと思ったんだ』なんて言葉、期待した訳じゃないけど、そうであってくれたら、どんなに良かっただろう。
顔は好ましいタイプだから、結婚に関しても、もっと前向きになれそうな気がするし、こんな惨めな気分にもならなかったかもしれない。
「もっと……その、相応しい娘がいると思います」
「でも、君が一番、手っ取り早いんだ」
何気に酷いことを言われたが、仕方が無い。
立場的にこちらが圧倒的に弱い。
これが現実だ。
私みたいな女に優しい愛の言葉なんて必要ない。札束で頬をひっぱたいて言うことを聞かせればいいと思っているのだ。
むしろ、婚約を断られたら、それこそ路頭に迷う。
いいや、あの貯め込んだ美術品を売れば……父は手放すのを嫌がるだろうけど、娘が頼みこめばもしかしたら助けてくれるかも。
「ねぇ、雪花ちゃん。
ここで俺に襲われるのと、偽装結婚するのとどっちがいい?」
「へっ?」
グイッと、腕を引っ張られ、抱きすくめられると、そのままベッドの上に押し倒されてしまった。
何もする気はないって言ったのに! この嘘吐き!
両手をがむしゃらに動かして、どこでもいいから叩いてやろうとしたけど、あっけなく、掴まって、拘束されてしまった。
「どっちがいい?」
「私に選択肢はないんじゃないんですか?」
緊張と恐怖を悟られない様に、息を整えながら抗議してみた。
「うん。でも、可哀想だから特別」
何、この人!
こんなの許されない!
これって犯罪よ!
身動きしたいが、ガッシリ掴まって、それを許されない。
近くでじっと見つめられる。
怖くて目を閉じると、耳元に熱い息がかかった。
「どっち?」
不意に、これまでとは全く違う、甘い調子で囁かれた。
「俺は優しい男だよ。
君が嫌なら手は出さない。
結婚さえしてくれればね」
今日初めて会った男に覆いかぶされて、そんなことを言われても、はい、そうですか、良かった! なんて気持ちになるとでも!?!?
蕩けるような甘く優しい声音に、頭がクラクラしてきたのを、振り切るように自分を叱咤する。
「どうしてですか?」
「必要なのはこの家の名前を持つ美しいお人形さんだから」
思いっきり個人を否定された。
伸し掛かれらた身体が重くて、息が上手く吸えず、声が出せないでいると、男が少しだけ身動きした。
身体の自由は効かないけど、息は吸えるようになった。
助かった。
このまま押し潰されるかと思ったわ。
そのまましばらく、何の動きも言葉もなかったので、どうしたのかと思い、目を開けると、思いもかけず事務的な表情で見下ろされていた。
こんな体勢でなかったら、商談中みたいな顔だ。
ある意味、商談には変わりない、か。
おかげで、こちらも冷静になった。
もしかして、本当に私を助けてくれる?
「ねぇ、君は馬鹿な娘じゃない。
分かっているはずだ。
このままだと、十八歳になった暁には、悪い大人に沈められちゃうかもよ?」
「沈められる??? 海に…???」
きっと生命保険をかけられて、簀巻きにして海に沈められるんだわ、と思った。
そんな世間知らずの娘を、さすがに憐れに感じたのか、失笑した後、申し訳なさそうな顔をした悪い大人の仲間が答えた。
「そう、海の底の竜宮城で、亀が連れてくる浦島太郎たちを相手に、連日連夜……おもてなしをしないといけなくなるかもしれないってこと。
こういう言い方で分かる?」
そういう意味か……なんとなく察した私の頬は熱くなった。
借金取りに、その可能性を仄めかされたことは一度や二度ではない。
あいつらはもっと直接的だった。
内容もさることながら、その話をする時のにやけた顔も、値踏みするような視線も、すべてがおぞましくて、泣きたくなった。
新堂幸太郎はそれと比べると、随分と遠慮がちな態度だが……私を組み伏している点では、借金取りよりもあり得ない。
この人、やってることと言っていることと、その感情が、全部バラバラな気がする。
私をどうしたいのよ!
……いえ、どうにもしないで欲しいけど。
「で、どうする?
海に沈みたい? それとも、俺と結婚する?」
今度は彼が私に「ビーフ、オア、チキン?」と聞くようなテンションで選択を迫って来た。
この選択はそんな単純なものじゃない。
ちなみに、おススメは『俺と結婚』らしい。
選択の上に選択を重ねられる。
「偽装結婚に賛同してくれれば、出来る限り、君の身を尊重するよ。
あくまで、俺との結婚を拒否するなら……」
「……するなら?」
「この場で俺と結婚するしか出来ない身体にする」
淡々とした顔で、恐ろしいことを言われた。
「いっ、嫌です!!! 嫌!!!」
「そんなに拒絶されると傷つくんだけど」
余裕たっぷりの男は、やはり笑いながら私を離した。
戒めが解かれたのに気づくのが遅れた。
それほど、あっさり解放されたのだ。
拍子抜けした気分だけど、いつまた気が変わるか知れない。
男を押しのけると、慌ててベッドから降りる。
新堂幸太郎はそのままベッドの上に座り、こちらを見ていた。
大河のほとりに住まうワニみたいだ。
下手な動きをすると、またベッドに引きずり込まれるだろう。
「返事は?」
「―――結婚すればいいんでしょ」
涙声にならないように必死で答えた。
この男に泣いていると思われたくない。
「いい子だね。雪花ちゃん。
そうやっていい子にしていれば悪いことにはならないよ」
制服の乱れを直している私をじっと見つめた後、ようやく新堂幸太郎は立ち上がった。
「ああ、でも跡継ぎは必要なんだ」
思い出したように爆弾発言をした脅迫者に、私は絶望的な気分になった。
「大丈夫だよ。
病院に行って、お互い問題が無いと確認した後に、しかるべき時期を計ってすれば一度か二度の我慢で出来るからね。
その責務を果たしたら、君は自由だよ」
ポンポン、と頭を撫でられ、優しげに微笑みかけられたけど、悪魔の顔にしか見えない。
「ひどい……」
「酷くないよ。
君の価格は名家の血を引く跡継ぎ込みの値段だからね。
子供が出来るまで、浮気は厳禁。
俺の妻として恥ずかしくないように振舞うのも忘れずに。
新堂の名に泥を塗ろうとしたら、君の実家ごと引きずり落とすよ」
さっき少しだけ優しい人かもしれないと思った自分に腹が立った。
この男は鬼畜だ。
触られたくもない。
「子供……人工受精とか……」
精一杯の抵抗に、悪魔はどうしても笑わずにはいられないらしい。
そして、頭の上から足の先まで見た後に、襖に手を掛けながら言った。
「そんなに怖がる必要はないよ。
言っただろう? 俺は優しい男だから。
まぁ、君にとっては幸運なことに、当分、そんな気にはならなそうだ。
もう少し、女を磨いてもらわないとね」
最後まで最低な男と別れた後、私は部屋中の空気を入れ替えた。
ベッドの寝具も洗いたかったけど、クリーニングに出したらまたお金がかかる。
その内、自分で洗ってみようと思って、取り替えるだけにした。
しかし、その機会が訪れることはなかった。