19.釣果
昨晩、言い残していった通り、幸太郎さんは朝早くに式部家に訪れた。
学校に行くのに、制服を間に合わせてくれたのだ。益子さん手製のお弁当も持ってきてくれた。
昨日のお弁当箱は式部の家に一緒に持って帰ってしまっていたので、初めの頃に使っていたタッパーだった。
自分で! 綺麗に洗ったお弁当箱を幸太郎さんに渡すと、明日はこれに詰めてくれると言ってくれた。
封筒に入ったままのお小遣いも渡された。
躊躇しない訳ではないが、また血まみれの男を連れて会社に乗り込む羽目になったら困るので、大人しく受け取ったら、中身の額が増えていた。
両親はここぞとばかりに朝食を勧めた。
近くの料亭の見習いの人が作ってくれたご飯を食べる。
幸太郎さんは薄味に調味料が欲しそうな雰囲気を醸し出したが、言えず仕舞いだった。
一方、両親は両親で、正座して畏まる見習い料理人にいろいろ駄目出しをしていた。
自分で作らないが、味覚は確かな両親の意見は彼にとっては貴重な修行の一環らしい。
なるほど、これが我が家で食事が途切れない理由だったのか……と今更ながら理解した。
そう考えてみると、私は世間のことも、この家のことも、何も知らない『お嬢さま』だったんだと痛感した。
幸太郎さんに『雪花お嬢さま』呼びされても仕方がないのだ。
そして、私は彼のこともよく知らない。
なんと学校まで送ってくれるらしい幸太郎さんの車に乗って、登校する。
歩いて十分だ。
車だと僅かな時間で到着する。
これでは何も話せない。
お礼だけは言わないと。それから、タクシー代のことも。
でも、口に出た言葉は「ネクタイ結びますよ」だった。
対する答えは「今、クールビズ中だから」。
あれ? だったら、私がネクタイを結び始めた頃にはすでにそうだったんじゃないのかしら?
また騙された???
不機嫌になっているうちに校舎が見えてきた。
「いってらっしゃい」
時間切れ。と、思ったら、なんと延長戦が用意されていた。
「夕方迎えにくるから」
「幸太郎さんがですか!?」
「そう。今日からは俺の車以外には乗らないこと」
「……分かりました。いってきます」
ドアまで開けてもらった。
これでは偽装結婚カップルではなく、『お嬢さま』と『従者』だ。
けれども、ちょうど円方時乃の車もやって来た。
同じく運転手にドアを開けられ出てきた彼女は、私と幸太郎さんの姿を見て、鬼の形相になった。
ふふふ、羨ましでしょう! ……って、何を優越感に浸っているの私ったら!!!
私は金で買われた身、金で買われた身、金で買われた身、と三回言い聞かせて、幸太郎さんから鞄を奪った。
「い……いってきます」
「はい、いってらっしゃい。また帰りにね」
幸太郎さんの顔に、微かに笑みが戻っていた。
悔しいけど、心が揺らいだ。
学校では都子に血相を変えて抱きつかれた。
「どうしたのよ! 昨日、幸太郎さんから、雪花がそちらにお邪魔していないか? って連絡があったけど?」
「嘘! 都子に?」
「私に、と言うか、六辺家によ。
あと、清彦の家にも問い合わせがあったらしいから、何事が起きたのかと思って。
喧嘩したの?」
「喧嘩……みたいなものかな」
ざっくり言うとそうだ。
信じていた使用人に裏切られたかもしれない話は確証がなくて話せない。
ただ、幸太郎さんがあちこちに電話をして、切羽詰まっていたようだ、という話を聞くと、正しいのかもしれない。
心配してくれたんだ。
「人騒がせねぇ。
ま、仲よく二人で登校してきた所を見ると、仲直りしたようね」
「そうでもない。実家に帰された」
「……え」
都子が絶句した。
そうよね、実家に帰されるって、相当だわ。
このまま婚約破棄されちゃうのかしら?
一回、経験済だけど……何度経験しても、これは慣れないと思う。
「お前はいらないんだ」って言われるのは辛い。相手が誰だって。いいえ、幸太郎さんには。
「二回も婚約破棄されちゃうのかな?」
「そんな! 雪花、考えすぎ。
幸太郎さんは雪花のこと、好きだと思うけどな」
そうかもしれないけど、彼は私自身ではなく、私の家柄が好きなのだ。
初めて会った時、そう言ったもの。
それがあるせいで、私はどんなに幸太郎さんに親切にされても素直に受け取れないのだ。
この心の中に渦巻く感情も……認めたくない。
夕方もちゃんと迎えに来てくれた幸太郎さんの車に乗る。
「毎日大変じゃないですか? 仕事、忙しいって……」と聞くと、「もうすぐ夏休みだろう?」と返された。
素っ気なさに苛々してくる。
釣った魚に餌はやらないタイプですか?
私は釣り上げられてなんかないけど!
……釣り上げたと思ったら大間違いなんだから!
見れば幸太郎さんが手で口元を覆っている。
「いや、今日のお昼、ニンニク料理を食べたから、匂うかなって……」
私と同じお弁当を食べたはずなのに、妙なことを言う。
「いつまで式部の家に居ればいいのですか?
あの、別に帰りたい訳じゃないですけど!
……源一郎さんに挨拶もしていないし、益子さんにも……。
夏休みはフラダンスの体験教室に行く約束をしてたんです!
もう、予約も入れちゃったんです!
だ、だから……ですよ!」
「君、フラダンス踊りたいの?
母に無理して付き合わなくてもいいよ。
どうしても行きたいのなら、式部の家に迎えに来て、送っていくよ」
「無理なんてしてません!
益子さんはいろんなことを教えてくれる先輩なんです!
側にいていろいろ学びたいなぁと……」
これは素直に認められる。
「味噌汁は嫌いなくせに」
「味噌汁は別です! 人間、譲れないものがあるんですよ。
現に益子さんだって、源一郎さんの家の味だから使っているんだって、本当は麦みそが好きだって言ってました!」
「―――俺は白味噌も好きだよ」
「はい?」
意図が掴めないうちに、ポイッと式部邸の前に下される。
夕飯は遠慮したいらしい。
私が門をくぐり、家の中に入るまではしっかり見張られた。
夏休みに入るまで、それが繰り返された。
幸太郎さんが持ってくるお弁当。
一緒に取る朝食。
実の無い会話が朝夕二回。
そして、送迎はなくなった。
私は毎日、掃除をしている。
両親はついに、財政を再建することにしたらしい。
「これまでは自分たちだけで楽しんでいたが、より多くの人に見てもらって、良さを知ってもらうことにしたんだよ」
父は屋敷の中が大きく変わったことを、そう説明した。
つまり、私の家は美術館のようなものに変り、古い家ごと、公開されることになったらしい。
そこで、両親は華道やら茶道の指導、料亭とコラボした食事会、美術品に関する講演会をするそうだ。
これまで、そんなこと、絶対にしようとしなかったのに、どういうことかと思ったら、新堂の家からアドバイスを貰ったとのこと。
例の幸太郎さんの会社で見た社員さんがコンサルタントとして出向までしてきていた。顧問弁護士も貸してくれたらしい。
以前の私なら、騙されている! と一蹴した案件だが、今はそうは言えない。
名のある品を何点か、しかるべき施設に売った、とも聞いた。
「保管が大変なものは、ちゃんとした管理が出来る場所にあった方がいい。
公共の施設だとあまり高くは売れないし、そのつもりはないけど、私は個人間の取引はしたくないんだよ」
なぜか渋い顔で父が言った。
奇妙だわ。
またもその気持ちが湧く。
それをゴミと一緒に掃く。
あまり汚れてはいない。
埃より、私の疑問の方がずっと多い。
家はすっかり修繕が入って綺麗になっていた。
庭も……大分、さっぱりしている。それでも、野性味が残っているのを見ると、両親は、本心であの庭が気に入っていたらしい。
季節は夏。
どこからか飛んできた蚊をひと叩きする。
いやだ、誰か刺されている。
家は使用人こそいないが、両親に教えを乞う人がひっきりなしに出入りしていた。
これまでは、両親の気まぐれで教えたり、教えなかったりしてきたことを、月謝を払えば、定期的に師事を請えるとあって、噂を聞きつけた人が集まっていた。
と言っても、まだまだ一般向けではない。
紹介制と言うべきか、それなりの地位や立場のある人がくる。
あの雨宮真白もやってきた。
なんでも、花嫁修業らしい。
思った通り掃除も洗濯も料理も過不足なく出来るという彼女は、そのどちらも出来ない母の所に着付けと茶道を習いにやってくる。
母を『先生』と呼ぶ。
生活能力では遥かに上なのに……人生って不条理。
「西洋風に育てられてしまって……」
殺風景な部屋から、元の奥の部屋に戻った私の所にやってきた真白嬢は、ニコニコしながら言い訳をした。
「そ、そうなんですか」
私が言うのもなんだけど、彼女はちょっと風変わりだ。
そんな人に頼まれ、一緒に着物とそれに合わせる小物類を見ることになった。
呉服屋に行くのではない。
我が家にあるのを貸すのだ。
雨宮家なら、伝説級の名工だろうが、日本国宝のものだろうが買えばいいだろうに、真白嬢は節約家らしい。
それに限らず、毎回、同じ着物と小物で集まりに出たくない、という人も多く、需要はあるそうだ。
ちゃんとした人に貸して、お礼も受け取るので、貸出するのも悪くない。
後はきちんと、貸出を管理すればいい。
着物は小物類で印象が変わる。
誰に何を、いつ貸したかを記録しておいて、他と被らないようにする。
これまた新堂家からの忠告だそうだ。
いたれりつくせりだわ。
おかげで、少しずつでも借金が返せる宛てが出来た。
でもね、そうしたら私はどうなるの?
借金の形で偽装の婚約をしたのに、その借金がなくなったら?
だから幸太郎さんは私に会いに来てくれないのだろうか?
その不安は、真白嬢を連れて着物類を保管している部屋に行ったとき、増大した。




