14.火傷
今日も朝早くから起きた。
この間の反省を活かし、ちゃんと益子さんと一緒に家事をすることにした。
いきなり一人でやろうなんて無謀すぎた。
なるほど、無能な女の考えることだ。
卵は割れるようになったので、卵焼きを作ることにした。
益子さんの作る卵焼きは、薄い卵の層が何層も重なった分厚くて、とびっきり甘くて美味しい。
幸太郎さんの好物なのも納得だ。
だから……ではなく、卵焼きは基本的な料理だと思うので、それを習ってみたいと申し出たのだ。
少し渋られた後、教えてくれることになった。
卵を薄く敷いて、焼き、巻く。
その簡単な繰り返しのはずなのに、上手くいかない。
だんだんと卵がぐちゃぐちゃになっていく。
焦っても卵は固くなっていくばかりだ。
『熱っ!』
卵焼き用のフライパンの縁に手が触れてしまった。
結果、スクランブルエッグもどきが出来てしまった。
「大丈夫よ〜。
巻き簾で固めれば、それなりに形になるから」
益子さんは動じず、『予め』用意していた海苔巻を作る時に使う簾にスクランブルエッグを乗っけ、ぎゅうぎゅうと押し付けはじめた。
予想通りの展開だったらしい。
なんとか卵焼きの形に造形したものを、益子さんは幸太郎さんのお弁当に詰めようとした。
「だ、駄目です!」
「あらあら、大丈夫よ。
雪花ちゃんの初めての卵焼きですものね。
幸ちゃん、喜ぶわ」
一番、入れて欲しくない人のお弁当に三個も入った。
味付けは益子さんの通りにしたはずなので、悪いのは形だけだ。
そう慰めても、普段とは似ても似つかぬ不格好な卵焼きだ。
周りが美しいだけに、余計にひどい。
幸太郎さんに見られる前に蓋をして、益子さん手作りのお弁当袋に入れてしまおうかとしたが、思いとどまった。
待つのよ、雪花。
お昼にお弁当箱を開けて、これが入っていたらどう思う?
もし、会社の人の前に開けて、恥をかいたらどうするの?
ほら、言われたじゃないの。
『新堂家の恥になるな』って。
この卵焼きは十分、新堂家の恥だと思う。
ネクタイを持って私を探しに来た幸太郎さんにお弁当箱を突き出す。
「ごめんなさい!」
「ど、どうしたの?」
「……卵焼きが……上手に出来なくて……」
今度も失笑確定だ。
けれども不思議なことに、そういう時に限って、彼は笑わない。
その代り、無表情に卵焼きを見つめている。
「君が……作ったの?」
「そう……だけど……」
どんな感想が飛び出るか、気恥ずかしくて、片手にお弁当箱を抱いたまま、悪戯にもう片方の手で、髪の毛を耳にかけた。
幸太郎さんは無言で私からお弁当を受け取ると、それをテーブルの上に置いた。
「雪花お嬢さま。この間も言ったけど、無理に家事をしようとしなくてもいいよ」
あの洗濯の一件から、幸太郎さんは私のことを『雪花お嬢さま』と呼ぶようになってしまった。
益子さんは『雪花さん』から『雪花ちゃん』になったというのに。
物知らずの『お嬢さま』だから、そう呼びたくなるのも当然だけど……敢えて、そう呼ばないでくれるくらいの配慮は欲しい。
それになんだか距離が遠くなったみたい。
「手を出して。
またこんな傷を作って」
何のことかしら? と思ったら、幸太郎さんに手を取られた。
見れば、先ほどフライパンの縁に触れたところがほんの少し赤くなっている。
そう言えば、ちょっとヒリヒリしていた。
でも、それだけだ。
やっとこの間の湿布が取れたのに、今度も大袈裟に水で冷やされ、薬を塗られ、包帯を巻かれてしまった。
「包丁は持たせないでよ」
益子さんが私が卵焼きを作ったことを、息子に嬉々として報告したのを遮って、彼は咎めるように言った。
息子に怒られたと思った益子さんは意気消沈した。
私も、だ。
密かに期待していたのに。
見た目は悪いけど、頑張って作ったね、って、褒めて欲しかったのに。
無能嫁を再確認させただけだった。
それでも、幸太郎さんはお弁当を持って行ってくれた。
お昼に同じお弁当を食べながら、今頃、怒っているのだろうな、と思った。
あんまり何も出来ないものだから、婚約したことを後悔しているに違いない。
だけど、練習しないと、上達しないのも事実だ。
ネクタイ結びはかなり上手くなったと思う。
あれが私の花嫁修業の唯一の成果なのか……あり得ない。
将来的に婚約も破棄され、自立することになっても、私自身、ネクタイを結ぶことはないだろう。
つまり、実社会に役に立たない特技が一つ、増えただけだ。
お茶やお花、お琴などは、他人に教えられるかもしれないけど、ネクタイ結びはその機会すらない。
幸太郎さんはなぜか、そんなネクタイ結びばかり熱心に教えて、家事全般には関わらせたくないみたいだ。
いっそ、ネクタイ結びの時に、首でも絞めてみたら……いいや、それじゃあ殺人未遂犯になってしまう。
私は真っ当な人間になりたいのであって、殺人犯になりたい訳ではない。
味だけは悪くない、初めての自作の卵焼きを食べると、性懲りも無く、料理の本でも借りようと図書室に向かう。
途中で、驚くことに円方時乃に声を掛けられた。
嫌味でも言われるのかと思ったら、手紙を渡された。
「一角さんからお手紙を預かってきましたのよ。
わざわざこの私が使いっ走りのような真似をしたのですから、お返事を頂きたいわ」
一角……廉さん。
元・婚約者からの言伝だった。
嬉しいという気持ちは沸かなかった。
婚約中は、しょっちゅう家に遊びに来て、優しい言葉を掛けてくれたけど、破断になった後は、すっかり足が遠のいていた。
そんな人が、今頃、こんな手紙を寄越してくるなんて……。
手紙の内容は、私が新しく婚約したことを驚くことと、その裏に関する噂話に心を痛めているというものだった。
切々と狂おしいまでの恋慕の気持ちをつづられ、正直戸惑う。
私たちってそういう関係だったかしら?
ただ祖父が囲碁仲間で、対戦中の徒然に、子供が生まれたら一緒にさせたいですね、程度の会話から生まれた婚約だった。
一角家も式部家も、父の代は男の子しか生まれなかったので、その約束が下の世代に降りただけだ。
婚約破棄になった時も、私はたった十五歳、相手の廉さんは二十歳だった。
兄妹以上、恋人未満の穏やかな愛情しかなかったはずだ。
婚約を破棄された事実自体は悲しかったけど、今、考えてみると、廉さん自身に未練があるかと聞かれたら、そういう感情はあまり湧かなかった。
長い付き合いだったはずなのに、心の交流は乏しかったのかもしれない。
彼はただ、思い出したようにケーキを買ってきて、両親と私に挨拶をして、何の興味もなく帰って行く。
そんな関係でしかなかった。
幸太郎さんみたいに、苛々もさせなければ、ときめかせも……してはくれなかった。
『一度、会って話がしたい』
だから、そう言われても困るのだ。
私の行動は幸太郎さんに監視されて、軟禁されているようなものだ。容易には動けないし、それを突破しようという気にもなれない。
それに、この手紙が円方時乃が持って来たのも気になる。
これは本当は廉さんの手紙ではなく、時乃かその仲間が書いたもので、私を騙して笑うつもりのかもしれない。
婚約していたのに、廉さんの筆跡も知らない。
そうだ、それだけの関係だった。
幸太郎さんの筆跡は知っている。
彼はお弁当を食べると、会社で綺麗に洗って、『美味しかったです。ありがとうございます。幸太郎』と母親に一筆添えるからだ。
私や源一郎さんは、直接言葉に出して言うが、息子というものは、そう簡単には口に出せないものらしい。
それを益子さんは毎日、嬉しそうに私に見せてくれるのだ。
でも、それが一番大事なことなのだ。
お弁当が美味しいこと、作ってくれることに感謝していることは真実だが、益子さんにきちんと伝わらないといけない。
ようやく以前の朗らかさを取り戻した益子さんに、自分が価値のある人間だと常に感じていて欲しい。
私もだけど、源一郎さんも幸太郎さんも、自分を卑下する妻や母親に戻っては欲しくないのだ。
面と向かっては照れくさくて言えない幸太郎さんは、考えた結果、手紙という形になったのだ。
その字は『美』のはらいがやや長くて、『太』の点が勢いよく『大』からはみ出しているのが特徴だ。
元の婚約者の手紙を見つめながら、幸太郎さんの字に思いを馳せたが、それで答えが出る訳がなかった。
一人ではとても受け止めきれない現状に、都子に頼ってみる。
すると彼女も、「止めた方がいいかもね」と眉を潜めた。
「あのね、もう終わったことだし、他人のことを悪く言いたくないから黙っていたけど……廉さん、あんまりいい噂聞かないの」
なんでもギャンブルにハマっているとか、派手な女の人と遊んでいるとか。
都子は清くんから聞いたという醜聞を話した。
「あっ! ごめん。
でも、だから破断になって良かったのよ。
幸太郎さんはいい人っぽいし……」
そこで午後からの授業の予鈴が鳴ったので、話は尻切れトンボになった。
私は午後中、不満でいっぱいになった。
久保田さんも都子も、なによ!
私がなんにも知らないみたいに言う。
信頼していた老庭師も、兄のように慕っていた元・婚約者も、私を謀っているという。
本当にそうなのかしら?
久保田さんも都子も、どちらも信用出来る人間のはずだ。
彼女たちまで私を騙しているとしたら、もう、何を信じていいのか分からない。
乱れる気持ちは家事手伝いにも表れて、益子さんについに、「あちらでテレビでも見てて」と幸太郎さんが私にするのと同じように台所から追い払われてしまった。
息子の方と違うのは、ひと段落ついた後、紅茶を持ってきてくれたことだ。
「学校で何かあったの?
い……いじめられてたり……」
不意に、以前のびくびくおどおどした益子さんが現れた。
私の様子に、自分を重ね合わせてしまったらしい。
もしかすると、新堂の婚約者になったことで嫌味を言われて落ち込んでいると思われたのかもしれない。
「いいえ。この暑さで、疲れてしまったみたいです。ご心配かけてすみません」
「ならいいけど、嫌なことがあったら相談してね。
式部の奥さまからお預かりした大事な娘さんですもの。
いたらないけど、私のことお母さんだと思って頼ってね」
「はい……」
乾いた喉と心に、紅茶が沁みた。
今の婚約者の母親に、昔の婚約者の話は、さすがに出来ない。
通学かばんの中に入れっぱなしの手紙をどうしようか。
ゴミ箱に捨てたら、ひょんなことで人目に触れてしまう。
幸太郎さんに見られたら困るわ。
かと言って、持っているのもリスクが大きい。
粉々にしてトイレに流してしまったらどうだろうか!
再び益子さんが台所に向かった隙に、私は手紙を処分しに、部屋に向かった。




