12.無能
ちなみに、益子さんに謝りに行く前に、一応、新堂家の『蔵』を確かめに行った。
当たり前だけど、鍵が掛かっていた。
ガチャガチャやっていると、後ろに幸太郎さんが通りかかった。
「往生際が悪いね、雪花ちゃん」
彼もいつも通りではなかった。
背後に感じる雰囲気が『笑って』はいなかった。
偽装嫁に愛だの恋だの言われて、面倒くさいと思っているのだろう。
だから、昨日の質問は忘れて下さい、って言ったじゃないの。
私も忘れます!
気の迷いだった、と割り切ったくせに、恥ずかしくてそちらを向けなかった。
「――――――」
俯いたままでいると、その内、幸太郎さんは立ち去った。
思わずその背中を目で追った自分に腹が立つ。
『蔵』の扉を一発叩く。
いったぁい!!!
固い扉はビクともせず、私の手が痛んだだけだった。
馬鹿なことしてる―――。
階段を下りて、台所に向かった。
反抗した挙句、昼過ぎまで寝ている嫁って、さぞや心証が悪いだろう。
ま、元から怖がられていたから関係ないか。
「おはようございます。
遅くなってしまってすみません……益子さん……昨日の夜は生意気を言いました。
ごめんなさい」
立ったまま頭を下げた。
その代わり、深々と。
返事がないので、これは相当根深い問題になりそうだな、と思った。
顔を上げると、目の前のテーブルの上に、ボウルと卵が置かれた。
「雪花さん。
今日のお昼は冷やし中華にしようと思うの。
手伝ってくれる?」
「……っはい!」
益子さんは表面上は怒っていなかった。
ふくよかな顔に、良く似合う明るい柄のムームーを着て、落ち着いて見える。
オロオロはしておらず、私を信じようとしてくれる。
嬉しくって、張り切って卵を持った途端、固まった。
これ、どうするの?
「冷やし中華に載せる錦糸卵を作りたいの。
割ってくれる?」
―――卵を、割る???
知ってる。それは知識としては知ってる。
だけど、どうしよう、私、卵なんて割ったことない!
式部家には料理人がいた。
いなくなってからも、どこからともなくご飯が出てきた。
昨日知ったことだが、それも両親が目をかけ、料理人となった人たちや、その弟子たちが当番制でやっていたことらしい。
やたら顔が広く、人脈があるうちの両親は、若い料理人に修行先を紹介したり、農家や食器の生産者につないでいたらしい。
式部家のお金の全ては、そんなパトロン生活につぎ込まれていた。
最近、その目と金を掛けた人たちが、ひとかどの人物になってきたらしい。
お金が、帰ってくる時がきたのだ。
それなのに、借金がかさんで、私は今、ここに居る。
奇妙だわ。
「雪花さん?」
「あ……」
奇妙なのは益子さんの目に映った私だろう。
小さい頃から台所に入ったことがないことを白状すると、「でも、学校で習うでしょう? 家庭科実習とか?」と慌てられた。
「すみません。
そういう時も、友人が率先してやってしまうので」
元伯爵家・式部の娘にそんなことさせられない〜と冗談と本気が入り混じった態度で、隅に追いやられていたのだ。
今思うと、彼らは、私が加わることで、料理が台無しになると察していたのだ。
このボウルに叩きつけられた卵のように。
「だ、大丈夫よ!
卵はまだ九個あるから!」
形勢逆転……したかも。
自信を取り戻した益子さんに励まされたが、これ以上、醜態を見せ続けて、何も出来ない『お嬢さまの嫁』いびりに発展したらどうしよう。
益子さんは自分が大事に育てていた洋蘭が枯れなかったのは奇跡だと思ったに違いない。
彼女は知らないが、これまた彼女が大事に育ててきた幸太郎さんが、私の代わりに水やりをしていたのだ。
ネクタイを結ばせるのを口実に、温室にやってきては、水の具合を見、適切に水分を与えていた。
そうだ、ネクタイは……幸太郎さんのネクタイは上手に結べるようになった。
卵だって、いつか綺麗に割れるだろう。
夕飯はスペイン風オムレツに、茶わん蒸しに、出汁巻卵に、かき玉汁、それに比較的綺麗に割れた卵たちによる目玉焼きだった。
昼間不在だった源一郎さんは目を丸くした。
日曜日は久保田さんはお休みで、今日は友人と食事に行ってくると、出掛けていた。
「母さんや、どうしたんだ? 今日は随分と…卵尽くしだな……」
「卵が特売で安かったの。
幸ちゃんに運転してもらって、買い物してきたのよ。
お一人様二個までだったけど、私たち三人だったから六個も買えたわ。
家族が一人増えて、良かったわね〜」
「そうかそれは良かったね。
ところで、この茶わん蒸し……殻が入っているぞ」
「年を取るとカルシウムが足りなくなるそうですから、父さんにはちょうどいいですよ」
妻と息子に平然と、「何を言ってるんですか? これが普通の食事ですよ」みたいに返されて、源一郎さんは首を捻りながら数々の卵料理を口に運んだ。
ごめんなさいっ!
どの口で、益子さんに「任せてくれない」なんて不平を言ったのかしら。
小学生でも出来るようなことを、私はなかなか出来なかった。
無能だわ。
私って、とんでもない無能だったんだわ。
『嫁』とか、そんなレベルじゃなく、人間としてかなりまずい。
万が一、自立出来たとしても、これでは生きていくのが大変だ。
そんな偽装嫁、改め、無能嫁の手つきを目にした幸太郎さんは「本物のお嬢さまって、本当にそういう生き物なんだ」としみじみとした。
いいえ、よく知らないけど、そんなご令嬢ばかりではないはずよ。
あの雨宮真白嬢は、料理も上手そうだもの。都子はお菓子が上手。
私は、米は農家が作るもの、食事は料理人が作るもの、私たちは芸術を愛でる生き物、という式部家の考え方の生み出した無能嫁なのよ!
お仲間はきっと、円方時乃。
ああ、絶望的。
「無理しなくてもいいよ。
家事は久保田さんを雇っているんだから。
母さんは好きでやっているだけなんだ。
真似することないよ」
幸太郎さんの顔から笑い顔が消えていた。
それって、かなり深刻な事態だと思うの。
だけど、卵を持った右手が赤く腫れているのを見つけて、湿布薬を貼ってくれた。
「どうしたの?」と聞かれたので、曖昧にはぐらかしたら、「思い通りにいかないからって、物に当たってはいけないよ。君の身体を故意に傷つけるのは許さない」と脅された。
まるで、私の身体が自分の財産みたいに言う。その通りなんでしょうけど!
湿布を貼って、包帯を巻いてくれる優しさにほだされそうになった所にこれだ。
上げたり、下げたり、忙しい感情は、まるでジェットコースターに乗っているみたい。
疲れる。
極めつけに「張り切ってる所、申し訳ないけど、いきなりいろんなことをしなくてもいいからね。特に洗濯をしようとは思わないこと。洗濯なんて、スィッチ一つで出来る簡単なものなんだから、わざわざ覚えることはないよ」という釘を刺された。
殻入りの茶わん蒸しは食べてもいいけど、洗濯はして欲しくない理由ってなにかしら?
私に触らせたら、とんでもないことが起きると思っているんだわ。
失礼ね!
見ていなさい。
スィッチ一つで出来る簡単な家事なんでしょう?
見事やり遂げて、見返してあげる!
スペイン風オムレツの中にも殻が入っていたのだろう。
ジャリっとした音を立てた幸太郎さんの方を見た。
口元に笑いが戻っていた。
それを確認した後は、大量の卵料理を少しでも消費しようと、ひたすらに食べた。
こんなに食べたのはこの家に来た最初の日以来だ。
今度はちゃんと台所で消化剤を頂く。
食器洗いは益子さんが渋った後、乾いた布で水分を拭くことを命じられた。
皿を二枚割ったところで、幸太郎さんが掃除機を持ってきて、私はリビングの方に追いやられた。
しばらくは源一郎さんのお気に入りの食器は出さないことに決まり、この日の花嫁修業、ならぬ人間修業は終わった。




