四十一、槐咲蝶群 えんじゅちょうのようにむれてさく
王都から離れた少数民族が暮らす海辺の村に、ある一本の樹木があった。苗木の頃から人々と生活を共にしてきたそれは、ひとりの少女に恋をした。
透けるような白い肌と、少し波打った美しい黒髪。難産の末に産まれた彼女は、同じ年頃の少女たちと比べて儚げで、病がちで、その成長を樹木はいつもハラハラと見守っていた。
そうしているうちに、親愛は情愛に、情愛はいつしか深愛に変わった。
「槐」
と、彼女は愛しげに樹木の名前を呼んだ。
喜びも、哀しみも、薄く色付いた花唇は美しい調べに乗せて、彼に様々な感情を教えてくれた。
やがて、少女は樹木の子を宿した。
成木となってそれなりの年月を過ごしたものの、人の子を授かるのは初めてのことで、彼はひどく狼狽した。
少女が不安に苛まれたときは、見よう見真似で慣れない子守唄を歌った。
小鳥たちに頼んで、悪阻に良いという木の実を分け与えてもらったりもした。
強い夏の陽射しから守るように木陰を作り、広い幹に彼女とお腹の子を抱いて微睡むと、とんでもなく幸せな気分になった。彼は少女と同じに、我が子の誕生を待ちわびていた。
しかし、世は大戦の時代。
その火種は、ふたりの故郷にまで近づいていた。戦火を逃れるため、彼女は親族と共に、身重のまま海を渡ることになった。
当然、彼はこの地にひとり残ることとなった。聞けば、戦は多くの村々を焼き尽くしているという。恐らく、彼女とは今生の別れになると思われた。
少女は、毎日、彼の幹に鼻を当てて泣いた。
離れたくない、とごねる彼女を慰める言葉が見つからず、樹木はただ、零れる涙を受けとめてやることしか出来なかった。
彼女は、元々よく泣く娘だった。
雷で僅かに焼け落ちた枝を見て、自分が怪我を負ったかのように、痛みに顔を歪めて泣いた。
小さなことで言い争いをしたときも、いつも決まって彼女から折れた。ごめんなさい、嫌いにならないでと、目を真っ赤にして呟く彼女に、彼まで泣きたい気分になって、互いに謝り合いながら仲直りをした。
そして花咲く季節には、枝先に群がる白い花がまるで空を舞う蝶のようだと言って、嬉し泣いた。その涙は、秋の白露よりもずっと美しかった。
――これを。
と、彼は微風に添えて彼女に囁いた。
いよいよ、彼女が村を旅立つ最後の日。ポキリと小さな音を立てて、白い花をつけた一枝が差し出される。
「槐……?」
目を丸くする彼女に、彼は木の葉を揺すって微笑んだ。
――どんなに、遠く離れていても。
――君と、お腹の子の幸せを願っているよ。
その言葉に、彼女は未だ渇かぬ頬を、新たな涙で濡らした。
「……愛して、います」
震える声は、けれど確かな意志を彼へと伝えた。
白い手がするりと伸びて、心音を重ねる。互いの想いを、ひとつにするように。
「愛しています、槐。……わたし、きっとあなたの子を守ってみせますから」
そう言って微笑む姿は、涙を湛えながらも、母親らしい強さを滲ませていた。彼はそんな少女を誇らしく思った。
――わたしも、愛しているよ。君を、君だけを……ずっと。永遠に……。
それから、約一ヶ月後。彼は、故郷と共に戦火に呑まれて果てた。
◇
その昔、中国からひとりの妊婦がこの地に流れ着いた。嵐に揉まれ、奇跡的に生き残った彼女は、樹木の子を宿していた。
この異国の女を、村人たちは優しく介抱した。やがて、彼女は元気な双子の男女を産んだ。
それから数十年が経ち、天寿を全うした女を村人たちは丁重に葬った。そして、その墓の傍らに、彼女が生涯、大事にしていた一枝を植えてやった。
その枝はやがて一本の大木となり、幾度か世代交代をしながら、今も女の末裔たちを見守り続けている。
※槐の花言葉は「上品」「恋慕」。
また、この木を産婦に握らせると、苦しまずに赤子が産まれるといわれ、このことから魔除け、長寿、安産、幸せの木として人々に親しまれていたという。