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七十二候の花むすび  作者: 白藤宵霞
夏の章
3/4

三十、石榴花裂 ざくろのはなさける

 その山には、鬼が棲んでいた。

 見上げるような長身と、金に輝く双眸。その容貌は色彩こそ違えど、人とよく似ていた。けれど、額に生えたすべらかな銀の角は、彼が異形の類いであることを物語っていた。

 鬼は時折、山里に降りては人を拐い、その血肉を喰らった。村人たちは鬼を恐れ、あるひとりの少女を花嫁として捧げることにした。しかし、白無垢をまとった少女に付きそう行列はなく、贅を尽くした嫁入り道具もなく、それは実質、鬼への生贄を意味していた。


「どうして、わたくしを喰らわぬのですか」


 木苺を食みながら、件の少女――榴花(りゅうか)は傍らに座る長身を仰いだ。

 その問いかけに、彼は困ったように微笑んだ。

「わたしとて、好き好んで人を喰らっているわけではないのだ」

 鬼の優しげな風貌を見つめ、彼女は黒い瞳を瞬かせる。その答えは、少女にとって何だか矛盾したもののように思えた。

「好きでもないのに、人を喰らうのですか?」

「ああ、そうだよ」

 なおも疑問を浮かべる榴花に、彼は幼子を宥めるかのように眼差しを綻ばせた。

 指が、その口許についた赤を拭う。

「……この空腹は、人の血肉の味でしか満たされないのだ」

 指に移った赤を舐めとり、鬼は皮肉げに笑った。



 鬼は、榴花に優しかった。

 彼は榴花を喰らうことはせず、不自由がないようにと様々に気を遣ってくれた。

 少女のために獣を狩り、色づく木の実や熟れた果実を取っては与えてくれた。そして、彼が棲まう山の美しさを教えてくれた。

 見上げれば、満天の星が少女の視界を埋め尽くす。晩秋の風は澄み渡り、星の輝きを磨いた。

 その光景をじっと見つめていた少女は、身体を震わせ、小さく咳き込んだ。

「寒いのか」

 その背後に、長い影が立つ。

 榴花が答えるよりも早く、彼はその肩を抱き寄せた。背中に触れる心音に、彼女は息をつめた。

「これで、寒くはないか?」

「……はい。とても、あたたかいです」

 そのぬくもりが嬉しくて、榴花は逞しい腕に頬擦りをした。

 くすぐったい、と頭上から微苦笑が降り注いでも、少女は構わなかった。やがて彼も嗜めることを諦め、彼女を床へと誘った。

 夜風の冷たさから庇うように、彼はその体躯を抱いて眠った。


 しかし、冬を迎えても少女の咳が治まることはなかった。

 それどころか、若さに満ち溢れた四肢からは日に日に肉が削げ、ただでさえ白い肌は青白さを増した。鬼は、人の身体に良いとされる薬草を煎じては、少女に与えた。彼女が咳き込み、全身を震わせれば、すかさず抱き締めてくれた。

 そのたびに、榴花の胸はちくりと痛んだ。


 その日は、冷たい雨が降っていた。

 少女は岩肌を削って作られた鬼の寝床に、身を横たえていた。灯火が照らし出すのは、彼女の小さな影だけ。鬼は、彼女のために薬草を摘みに外へと出かけていた。

 ゆるゆると、うつつと夢の狭間で目覚める。榴花は、傍らに彼がいないことに落胆した。と同時に、微かな安堵を覚えた。

 鬼の優しさに甘えることが、近頃、彼女に大きな罪悪を抱かせていた。

(だって、わたくしは、もう……)

 力尽きるように、瞼を閉じる。眼裏に、様々な記憶が駆け巡った。

 そのとき、一際、激しい咳と共に、彼女の唇からごぼりと赤い塊が吐き出された。

「――榴花っ!?」

 慕わしい声に、榴花はびくりと肩を強張らせた。だが、そんな花嫁の様子に気づかぬまま、鬼は慌てて彼女へと駆け寄った。

 彼の手から様々な薬草が零れ、錯乱する。噎せかえるような草の匂いと、腕に抱いた少女の匂いが不吉に混じり合う。

「お前、その血は……」

 金色の双眸が、見開かれる。少女は、もうこの鬼を欺けないことを悟った。

「ごめんな、さぃ……」

 毒々しい赤に塗れた唇で、彼女は謝罪を繰り返した。痩せ細った身体を震わせ、榴花は己の罪を暴いた。


「――わたくしは、あの村で厭われた存在でした」


 父も、母も、少女と同じ病で死んだ。

 村人たちは誰も助けてはくれず、両親の死後は、残された幼い榴花のことさえ嫌悪した。

 そして、厄介払いとばかりに、彼女を鬼の贄として捧げたのだ。

「騙していて、ごめんなさい……」

 すぐに喰われてしまうのだからと、病持ちであることを告げなかった。

 けれど、彼は榴花を食べようとはしなかった。むしろ、少女が出会った誰よりも優しく接してくれた。離れたくないと、願うほどに。

 嫌われたくなかった。厭われたく、なかった。その想いが、彼女に醜い嘘を吐かせ続けた。

 ごめんなさい、と少女はもう一度だけ呟いた。

「わたくしを、恨んだって良いわ。……いいえ。どうか憎いと言って、この身を喰らって頂戴」

「榴花……」

「どうせ死んでしまうのですもの……最期くらい、あなたの役に立ちたいわ」

 だから食らえと、彼女は言った。

 少なくとも、榴花が贄として山に登って来てから、彼は一度も村を襲ったことはなかった。

 人を食べることでしか満たされないその身体は、きっと、今この瞬間も、狂暴な空腹感を訴えているに違いない。その苦しみから、解放してあげたかった。

 けれど、青年は駄々を捏ねるように首を振り、少女をいっそう強く抱き締めた。

「腹など、満たなくて良い。お前と共にいられぬのなら、餓え死にするまでだ」

 金色が、切実な光を宿して榴花を射る。

 その真っ直ぐな言葉に、次から次へと嬉し涙が零れた。

「……そう、……」 

 泣き顔を隠すように、伏し目がちに彼女は何かを呟いた。

「榴花……?」

 その不明瞭な言葉を追って、鬼は顔を近づける。刹那、少女の白い手が彼の両頬を捕らえ……そして榴花は、奪うような接吻をした。

「っ」

 彼女の赤が、唇を伝って彼の中へと注がれる。指先に熱が再び宿り始めるのを、彼は絶望の淵で感じた。

「……それでもどうか、あなたは生き続けて」

 悪戯が成功した子供のように、榴花は満足げに微笑んだ。青白い頬に、一瞬だけ艶やかな色が灯る。しかし、その色を掴む間もなく、彼女の白い瞼が落ちた。

 それが、彼女の最期だった。


 それから三日三晩、鬼は少女を抱いて泣いた。

 そして、人の風習に従い亡骸を埋めると、その傍らに倒れ伏した。


 目を閉じる。

 すべての音が遠ざかった。



 それから、どれほどの歳月が経ったのか、鬼には分からなかった。

 ただ、激しい空腹感に彼は自分が未だ生きていることを知った。

(わたしは、まだ死ねぬのか……)

 絶望が、彼女のいない世界で目覚めることを拒む。このまま、暗い闇に浸っていたかった。

 しかし、そんな彼の意識をふわりと撫でるものがあった。

 甘酸っぱい香りが、空腹を訴える鬼を誘惑する。耐えきれず、瞼を押し上げれば、少女の亡骸を埋めた場所から一本の樹木が生えていた。

 その枝先に実った赤い果実が、強い芳香を放っている。まるで瘤のような歪な形をした実の裂け目からは、無数の種が顔を覗かせていた。

 ごくり、と彼の喉が鳴った。重たい四肢を引き摺り、誘われるまま手を伸ばす。

 そのひとつを口に含めば、人を食いたいという渇望が瞬く間に癒えた。

「……榴花」

 口内に広がっていく、少女の味。

 鬼の眦からは大粒の涙が零れた。唸るような嗚咽を漏らし、彼は亡き少女を想った。

「榴花……榴花……っ」

 彼女は姿を変え、再びその身を差し出した。そして、彼の厭わしい欲望を癒した。

 鬼が、二度と傷つかないように。

 もう、人を喰らわなくとも生きていけるようにと。

(生きよう……お前の、願い通りに)

 愛した少女の願いを噛み締め、鬼はゆっくりと立ち上がった。

 与えられた生命を、尽くすために。


※モチーフは、仏教伝説の鬼子母神のお話。人の子を攫って食べる女神・カリテイボを諭した釈迦は「今後、人の肉を食べたくなったら、この果を味わうように」とザクロの実を与えたという。


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