五、金蓮貼地 ふくじゅそうちにはる
※纒足の美称を金蓮と言いますが、この言葉の指す植物は福寿草ではなく、蓮の花のことです。タイトルは七十二候より引用しているため、内容と一致しないこともあります。
古来、中国では小さな足の女が好まれた。そのため、女子の足を幼い頃から布でキツく縛り上げ、人工的に小さな足を作る「纏足」という文化が花開く。
しかし、大きさにして三寸程度の、まるで赤子のような足では成人した身体など支えきれるはずもなく、歩行は極めて困難だ。故に、それは、もはや廃れかけた文化であった。
末の公主、淑芳蓮は纒足だった。
今年で十六になる彼女は、あと一、二年もすれば国内の有力貴族か、或いは他国の重鎮や王の元へと嫁ぐことが決まっている。臣下の妻や平民の女たちのように自ら歩く必要はなく、身の回りの世話も全て使用人に任せていた。
刺繍を施された華やかな装束に身を包み、数多の女官や奴隷を侍らせ、悠然と微笑む姿はまさに女王――この春遙宮に君臨する女主人であった。
◇
芳蓮は、いつものように庭の四阿で涼んでいた。
少女の周りには、国内から集められた指折りの美女たちが女官として随従している。彼女たちは公主に美味しい菓子を勧め、香り高いお茶を淹れ、そして美しい奏楽に合わせて流行歌を歌った。
しかし、芳蓮が傍にと手招いたのは、簡素な装束に身を包んだ長身の男だった。
彼もまた、春の女王に傅く奴隷であった。
年の頃は二十三、四。淑王家に滅ぼされた蛮国の出身だという男には、顔を覆うような醜い火傷の痕があった。そのため、他の王族たちに厭われ、たらい回しにされた挙げ句、末の公主の奴隷となったのだった。
だが、この醜い奴隷を末の公主は何かと傍に侍らせた。美しいものを愛する淑王家の中で、それは異様な光景とも言えた。
「桃花が見たいの」
彼女がそう望めば、男はその小さな身体を抱きかかえ、公主自慢の庭に降り立った。
父皇帝が芳蓮の母のために作らせた庭は、春遙宮の名に相応しく、春の草木で満たされていた。湿った空気に桃の花が溶け合い、甘い香りが辺りに揺蕩う。
その香りに、芳蓮はうっとりと息を吐いた。
「他に、行きたい場所はありませんか」
奴隷の囁くような問いかけに、芳蓮は僅かに思案した。
「そうね……池が、見たいわ。魚の鱗が光るのを見たいの」
先日、東の商人から買い付けたという珍しい魚の話を思い出し、少女は甘く強請った。
だが、彼女の予想に反し、男は緩やかに首を振った。
「もっと、遠い場所でも構わないのですよ」
彼の双眸が、春遙宮を囲む白壁の向こうへと注がれる。その無言の意味に気づき、少女は目を瞬かせた。
「……ここは、鳥籠なのよ」
無邪気な声で、公主は呟いた。それは、やんわりとした拒絶の言葉だった。
父皇帝に愛され、たくさんの女官を与えられ、大切に育てられた公主だったが、彼女は自らが籠の中で飼われる小鳥だということを知っていた。金蓮と称される足では、この狭い箱庭すら自由に歩くことは出来ない。
彼女の小さな足は不自由を課された鎖であり、淑王家の権力と繁栄の象徴だった。
「でも、籠の中にだって自由はあるわ」
何か言いたげに眉を顰めた奴隷に、少女はそっと微笑んだ。その指がさらりと火傷の痕を撫でる。
「だって、お前がいれば、わたくしは何処へでも行けるのだもの」
彼女の笑みに合わせ、鬢の上の金釵銀簪がしゃらりと揺れた。
◇
けれども、華やかで不自由な箱庭の生活も、長くは続かなかった。
王宮の暮らしとは対照的に、壁の外に住まう民の生活は貧しさを極める一方だった。しかし、皇帝は民を顧みるどころか、王家へ様々な貢ぎ物をする臣下たちの方を擁護した。
質素倹約を掲げる賢臣を悉く断罪し、豪遊を好み、政を蔑ろにする愚臣ばかりを重宝した。民心が離れるのに、それほど時間はかからなかった。
最初に、税を巻き上げていた郡司が殺された。
その金を手に入れた民は武器を買い、郡司たちから受け取った賄賂で私腹を肥やす貴族を襲った。
その動きは国内のいたるところへ飛び火し、やがて国を憂いた知識人を筆頭に、王家打倒の狼煙が上がった。
青葉輝く初夏を迎え、宮廷の女たちが蝉の羽よりも薄い装束に心を踊らせる季節、反乱軍はついに王城に火を放った。
民の暴走にいち早く気づいた臣下たちは、皇帝すらも置き去りにして、夜明け前の洛陽を脱出した。守りを失った王城は呆気なく落ち、武器を携えた反乱軍の侵入を許した。
女官も、兵も、皆逃げた。
春遙宮もその例外ではない。それに加えて、彼らは末の公主が自由に動けないのを良いことに、装身具や衣、調度品まで、金目のものはあらかた持ち去ってしまった。
最早、もぬけの殻となった宮に取り残された芳蓮は、しかし助けを呼ぶこともせず、脚の長い椅子に座ったまま、ただ静かに外の喧噪に耳を傾けていた。
少女の目の前で、常春の楽園は炎に呑み込まれていく。
「――王城の壁が、壊されました」
その耳朶に、ふと聞きなれた足音が掠める。
彼女が振り返ると、そこにはあの醜い奴隷の姿があった。
「清荷宮、白明宮は既に落ちました。ここも、やがて反乱軍が押し寄せるでしょう」
呆けたように見つめる公主を余所に、男はゆったりと彼女に近付き、その足許に傅いた。ひとつだけ灯った燭台に炙られ、彼の瞳が静かな熱を孕む。
「だから、何処か遠くへ逃げませんか?」
「……でも、この足では、何処にも行けないわ」
男の言葉に、芳蓮は諦観するように目を伏せた。少女の視線は、淡い翡翠色の襦裙から覗く金蓮へと注がれる。
「俺が、いるでしょう?」
その足を掬い取り、男は小さな爪先に口づけた。
「贅沢はさせられませんが、代わりに、あなたの行きたい場所へ必ずお連れ致しますよ」
だから、どうかお望み下さい――と。男は、甘く優しい笑みで少女を見つめる。
その眼差しに、触れる武骨な指の熱に、彼女はそっと瞼を閉じた。そうすると、聴覚が研ぎ澄まされ、眼裏に喧騒が甦る。
王宮の外には反乱軍が押し寄せ、憎き王族を粛清せんと息を荒げている。
闇夜の下、怒号と悲鳴と、噎せ返るような血の匂いが、美しい箱庭の世界を犯していく。彼女を取り巻く世界は何もかも暴力的で、腐敗臭に似た絶望だけを漂わせていた。
「……何処でも、良いわ」
それでも、男を見返した表情はひどく柔らかだった。
その目許は紅を差したように赤らみ、唇には紛れもない歓喜が花開く。
だって、と、涙の滲んだ声で彼女は甘く囁いた。
「……だって、お前がいれば、わたくしは何処へでも行けるのだもの」
差し出された男の手に手を重ね、淑芳蓮はその小さな金蓮で地を踏みしめた。
◇
淑王家は、反乱軍によって滅ぼされた。王を始め、民の血税によって甘い汁を吸っていた王族、重鎮たちは悉く討たれ、生き残った女たちもその多くが捕虜となった。しかし、その中に末の公主である淑芳蓮の姿はなかった。
戦火を逃れたものによれば、燃え盛る炎の中、顔に火傷を負った奴隷が女を抱えて逃げていくのを見たという。
けれど、民主主義に沸いた時代の流れの中、消えた公主の行方を気にかけるものはいない。