一、梅花馥郁 ばいかふくいくたり
王宮の、梅の木が枯れた――。
その報せは、三の宮にとっても悲しい出来事であった。
少年にとって、梅の花は懐かしい記憶を思い起こさせるものだった。
母を早くに亡くした三の宮は、王宮ではなく、祖母の元で幼少期を過ごした。実家である五条の屋敷の隣には、三の宮と同じ年頃の少女とその家族が住んでいた。
ふたりは年が近いこともあり、互いの屋敷を往き来しては共に遊んだ。
少女の屋敷には、立派な梅の木があった。その木にちなんで、三の宮は彼女を梅花の君と呼び、対する少女は少年のことを鶯の君と呼んだ。三の宮は横笛が得意で、まるで春の来訪を告げる鴬の声のようだと、少女はよく笑った。時折、彼女の琴の琴と音を合わせては、互いに時を忘れた。
しかし翌年、母のあとを追うように祖母も亡くなり、三の宮は王宮に引き取られることとなった。それを機に梅花の君との交流も途絶えた。
その後、彼女は国司となった父に従い、東国へ下ったと人伝に聞いた。
◇
枯れた梅の木の代わりを求め、兄帝が勅を出したのは睦月の終わりのことだった。
それを受け、すぐに臣下たちによって都中の梅の木が探し当てられた。そして、或る屋敷に紅梅の名木があると聞いた兄帝は、勅命によりその梅を王宮へ運び出そうと考えた。
「やぁ、来たね。三の宮」
兄帝に呼ばれた三の宮は、彼の和やかな笑みに迎えられた。
親密な気配に、少年の表情も緩む。けれど。
「梅の木が見つかったよ。……と、言いたいところだけどね」
残念そうに溜め息を吐いた兄帝は、脇息に肘をついたまま、傍らの女官へと目配せた。彼女の手には、梅の枝に結ばれた文が掲げられていた。
「これを、ご覧」
そう言われれば、弟である三の宮は従うしかない。女官の手を介してその紅梅色の文を受け取る。そこには、優しげな女文字で一首の歌が綴られていた。
勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ
(まことに畏れ多いので、この梅の木は献上仕ります。けれど、この木を訪れる鶯が「わたしの宿は」と問うたのならば、どう答えれば宜しいのでしょうか)
「中将が言うには、相手は三の宮と同じ年頃の姫君らしい。春の除目で、父親と共に帰京したそうだよ」
兄帝の言葉に、少年は目を瞬かせた。
彼と同年と言うことは、十五歳ほどだろう。勅使である中将に対しての堂々とした歌いっぷりと、梅の花びらが綻ぶような女文字の差に驚く。文からは、少女らしい甘い香が零れ落ちた。
「機転の利いた、素晴らしい歌ですね」
「三の宮も、そう思うだろう?」
少年の反応に、兄帝は満足そうに微笑んだ。
「わたしも、すっかりこの歌に心を揺さぶられてしまってね。彼女から梅の木を取り上げるのは、止めようと思うんだ……せっかく都へ帰って来たのに、思い出の梅がなくなるのは可哀想だからね」
「そうですか。きっと、この姫君も喜ぶと思います」
心からそう頷いた三の宮に、兄帝は機嫌よく頷いた。
「だからその旨、君が伝えてきてくれるかな」
「僕が、ですか?」
まるで散歩に誘うような軽い口調に、三の宮は戸惑う。再び、中将が行けば良いのではないだろうか――と思わなくもなかったが、兄の瞳はそれを許さなかった。
「生憎、中将には別の仕事を頼んでしまったんだ……行ってくれるね?」
そう言われては、頷くほかなかった。
三の宮を乗せ、牛車は都の大路を走る。
結局、兄帝は少女の屋敷の所在を教えてはくれなかった。ただ口の端に満面の笑みを浮かべて、行けば分かるよ、とだけ答えた。
(兄上は、何かを隠している……?)
兄の東宮時代、何かと騒動に巻き込まれた三の宮は、小さな警戒を抱いた。従者たちに気づかれぬよう、そろそろと手を伸ばし、小さな窓をずらして外を盗み見る。ガタゴトと、揺れる車体に合わせて流れていくのは、都に暮らす人々のありふれた暮らしだった。いつの間にか、牛車は何処かの小路へと入っていたらしい。丈の短い着物をまとった民衆が賑やかに往き来していた。
袖も翳さずに笑う女たちの声、威勢に満ちた男たちの声、きゃっきゃと転がり走っていく子供たちの声。耳に痛い喧騒の中、王宮とは異なる簡素な家々が立ち並ぶ光景に、しかし三の宮の胸は高鳴った。血液は体内を巡り、声にならぬ叫びが身体を震わす。
(もしや……)
そのとき、ガタンッ、と音を立てて車が止まる。到着を告げる声が外からかけられた。
「っ、宮さま!?」
従者が御簾を上げると同時に、少年は転がるように牛車を飛び降りた。
来訪を告げる先達の横を通り抜け、悲鳴を上げる侍女たちを尻目に、三の宮は知り尽くした屋敷をひた走る。
心は幼い頃に逆戻り、彼の足を軽くした。目が、耳が、匂いが、五感が全てを覚えていた。
(間違いない。ここは……この角を曲がれば……)
息を切らしながら辿り着いたのは、一本の梅の木を臨む対屋だった。
中将たちが必死に探し当てたとあって、紅の蕾を綻ばせたそれは、宮廷の枯れた梅にも劣らない。四方に伸びた枝先は、舞姫の指の如く、繊細だった。
その梅が覗く対屋の庇には、十五、六ほどの少女が座していた。
彼女がまとうのは、梅の襲――袖口に向かって白、濃淡の差が美しい朱色の五衣、そして最後に鮮やかな緑を重ねた早春の装い。彼女は、膝に一本の琴を抱えていた。
――ポロン……。
白い指先が、弦を弾く。冬の朝のような、澄んだ琴の音が梅花を揺らした。その音色に、少年の心も共に揺さぶられる。
「――鴬の、宿は……っ」
零れた声は、否応なく掠れた。
それでも、その声は少女へと届いたようだった。切り揃えられた黒髪の間から、彼女の深い漆黒が覗く。
「……鴬の宿は、まだありますか?」
緊張と、喜びと、そして一抹の不安を抱え、少年は懐かしい面差しへと問いかけた。
互いの眼差しが交わる。少女の赤い口唇が綻び、そして……。
「はい。……今も、変わらずに」
そう言って、彼女は梅花が匂うように笑った。
※この話は、『拾遺和歌集』集録の紀貫之の娘の「鶯宿梅」の和歌と、その故事をモチーフにしています。