フタリ キリ
それは夏休みを間近に控えた、ある7月の土曜日の午後だった。
「お兄ちゃん、今日はどうするの?」
妹の舞香が、そっけない口調で言う。
「一緒に行く人いるの?」
近所の神社で祭りがあり、この辺りの若者は殆どみんな出かけるのだ。
「んー、俺は今年は行かない」
僕は面倒くさそうに答え、席を外そうとする。
「仲のいい連中もいないし…」
今年の春、地元の高校に進学した僕は、特に親しかった友人数名と離れることになった。夏休みには帰省してくるらしいが、それにはまだ数日ある。
「高校の友達は?ぼっちなの?」
妹が心配そうに言うので、僕は慌てて否定した。
「いや、そうじゃないけど、祭りとか子供っぽい感じがして。子供のころからの知り合いならいいんだけど…」
「ふうん、そうなんだ」
何となく腑に落ちないといった様子で舞香は少し黙り、再び口を開いた。
「私、あおいちゃんと行くんだけど、よかったら一緒に来ない?」
あおいちゃんというのは舞香の同級生で、時々家に来ていたから顔は知っていた。妹もその友人たちもまだまだあどけなさを残した顔をしてるのに、一人だけ顔に似合わず発育の良い感じがして、内心ドキドキしたことを覚えている。
女の子を二人も連れて行くのは、まるで自分がモテているようで悪くなかったが、それが妹とその友人というのは少し照れ臭い。
「いや、遠慮しとく」
「何で?楽しいよ」
予想外に食い下がる妹に少し驚く。普通中学生にもなれば、兄妹でも少し距離を置くものなのに。妹には反抗期が無いのだろうか?
「別に、あんまり気乗りしないだけ」
「そう…まあ無理にとは言わないけど」
舞香はそう言いながら、少し残念そうな顔をした。
一緒に行けばよかった。
結果は変わらなかったかもしれないが、それでもそう思わずにはいられなかった。
祭りの人混みに、自動車が突っ込んだ。「何か」で酩酊した男が、ブレーキも踏まずに次々と人を跳ね飛ばしていく。死者と重軽傷者が多数の中に、舞香もいた。
事故から一ヶ月ほど経ち、日常が戻ってきても、以前のように平静とはいかなかった。四六時中嘆いている、というわけではないが、ふとした拍子に「妹はもういない」ということが思い出され、ひどく寂しい気持ちになった。
「お兄さん、顔色が良くないですよ。大丈夫ですか?」
妹の友人のあおいが、心配そうに言う。
奇跡的に軽傷ですんだものの、すぐそばで友人を失うというショッキングな体験をしたため、心に深い傷を負っていた。同じような負い目を感じている同士、一人になると嫌なことばかり考えてしまうので、何か口実を作っては一緒に時間を過ごしていた。
「ううん、大丈夫」
比較することでもないが、専門家のカウンセリングを受けたりしているあおいに比べると、自分の状態はまだマシに思えた。
「ちょっと夕べ寝苦しかったから」
「不眠症…とか?」
「いや、単に、暑いんだよね、この部屋」
僕の部屋はエアコンが無く、扇風機の風が熱を帯びた空気をかき回している。
遊んだりする気分にはとてもなれないので、大体の場合は二人で勉強をしていた。いつもは図書館に行っていたが、お盆で休館していたため、今日は僕の部屋を使っている。
「私、帰った方が良いかな…」
「いや、それは…」
気まずい沈黙。
いわゆる「傷を舐め合う」という状態で、良い傾向では無いことはわかっていたが、それでも互いに依存せずにはいられなかった。
「何か、冷たい物でも買って来ようか?」
「私も行きます」
近所のコンビニまで、二人並んで歩く。お盆で帰省している人が多く、いつもは静かな町が妙に活気付いているのが見て取れた。僕はいたたまれない気持ちになり、つい早足になってしまう。
「お兄さん、歩くのが速いですね」
そう言われて、初めて気付く。
「ごめん、つい…」
「でも、早く帰りたい気持ち、解ります」
日差しが強く、セミの声がけたたましい。僕らはコンビニで飲み物を買い、家路を急いだ。
部屋に戻ると、あおいの様子がおかしい。
「どうした?」
「すいません。少し頭がクラクラします」
「熱中症かな?病院に行った方が良いかも」
「多分、大丈夫だと…」
よく見ると、のぼせたような顔をしている。
「とりあえず、ちょっと横になって様子を見ようか」
「はい、すみません」
どこで寝かせるか。僕のベッドで寝かせるのは悪いような気がする。しかし、他には…
舞香の部屋はそのままにしてあったが、さすがにそこに寝かせるわけにはいかない。僕の胸中を察したのか、あおいが口を開いた。
「お兄さんのベッド、借りますね」
僕は居間へ行き、薬箱から熱さましのシートを取り出した。戸惑いながらも、あおいの態度に親密さを感じて、悪い気がしなかった。だが、それ以上関係を深める事は、今は考えられなかった。
部屋に戻ると、あおいが突然話し始めた。
「ねえ、この間テレビで見たの。何十年も行方不明になっていた子供が、突然帰ってきた話」
いきなりなんの話だろう?だが、その番組は、僕も見ていた。あおいはさらに続ける。
「ねえ、もしそんな事が起きたら、迎える方も、大変だろうね。素直に喜べないっていうか」
「それでも、きっと嬉しいんじゃないかな」
「そう…」
僕は、あることに気付く。
このやりとりには憶えがあった。
「きっとそう言うと思ってた。だって、前も同じ事を言ってたもんね」
何だ、この感じは。あおいは何を…
「私も、帰ってきたよ、お兄ちゃん」
声も顔もあおいそのものだったが、口調や仕草が、疑いようもないほどに妹の特徴を示していた。
「お前、か…」
「お兄ちゃん」
ギュッと抱きついて来る。
僕も応えるように抱きとめるが、一体僕は誰と抱き合っているのか?
「会いたかったよ、お兄ちゃん」
「う、うん」
はい、そうですかと受け入れられる事ではなかったが、現実に起こっている以上、考えても仕方ないような気がした。何より、時間が勿体無い。
「何がしたい?何でもしてやるぞ」
「あのね、お兄ちゃん。私にとっても突然で不思議なの。多分、時間もそんなにないから…」
あおいの、舞香の顔が近い。僕は気恥ずかしくなり、顔を逸らす。
「何で?もっと私を見て。もう会えないかもしれないのに」
「だって、お前はお前じゃない」
「…そうだね、ここもこんなだし」
そう言いながら胸を押し付けて来る。
「ば、馬鹿っ」
「それに、体が…」
息がかかるほどに密着していた。妹の鼓動が早い。
「熱いよ、お兄ちゃん…」
「んっ、んん…」
重ねた唇から声が漏れる。僕は慌てて顔を引き離す。
「お前、何を…」
「わからないの?」
目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ずっとこうしたかったの」
「馬鹿っ、だって俺達は、兄妹…」
「知ってるよ」
「じやあ…」
遮るように、またキスをしてくる。
「駄目だって!」
力まかせに、妹の顔を遠ざける。
「私の事が嫌い?」
「そういう問題じゃない」
「今は、体は、兄妹じゃないよ?」
「だからって」
「もう、ガマンしないから」
妹の手が下腹部をまさぐる。
「舞香、駄目だって」
「お兄ちゃんも、ガマンしなくていいんだよ」
僕は妹の手をつかみ、いやらしい事をやめさせた。
「なあ、舞香。どんな姿になったとしても、お前は俺の妹なんだ。一目でわかる。だから、そういう事はできない」
「お兄ちゃん…」
妹の手から力が抜けていく。
「きっと、受け入れられないと思ってた。でも、お兄ちゃんとあおいが一緒に部屋にいるのを知って、ガマンできなくなっちゃった。ごめんなさい」
「それに、喉が乾いたりお腹が空いたりするみたく、お兄ちゃんが欲しくなったの。今までは感じたことも無いくらい強く。多分、それはあおいの体のせいかも」
「人のせいにするな」
「ふふっ、ややこしいね」
緊張が解けた妹は、僕のよく知っている妹だった。見た目は違っていたが、もう気にならない。いとおしさがこみ上げ、強く抱きしめた。
「お兄ちゃん、するの?」
「しない」
「ちゅーできたから良しとするか」
「馬鹿」
急に、腹の辺りが熱くなる。遅れて激痛。
「馬鹿な妹でゴメンね、お兄ちゃん。大好きだよ」
妹の手には裁縫用の裁ちばさみがあった。返り血を浴びた顔には、笑みを浮かべている。
「お兄ちゃんの大事な物は、私がもらって行くね。あおいには渡さない」
腹の出血がひどい。薄れていく意識の中で、ズボンが下ろされる感触があった。
命に別状はなかったものの、僕は入院を余儀無くされた。あおいも何処かに入院しているらしい。切り取られた物は、どこにも見当たらなかった。