1章 5話
どんっ。
少しぼんやりしていたせいか、移動中、外で誰かにぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい。」
ぶつかった人物に謝り、目をやる。
そこには、ショートパンツとティーシャツという活動的な服装の、太くて長い三つ編みをした少女がこちらを凝視していた。
いや、これは凝視というレベルではないか。ガン見だ。
「えっと…大丈夫ですか?」
私が尋ねると、少女は呆然としながら口を開いた。
「た…環センパイ…?」
「そうだけど、あなたは?」
私の名前を知っているということは知り合いなのだろうが、どうにも見覚えが…。
…んん?
「もしかして、紗枝?」
紗枝、というのは、私が高校時代に懐かれていた後輩の名前だ。制服の時は、眼鏡をかけていたので良く分からなかったが、この顔は見覚えがある。
少女はぶんぶん、と、首が千切れるのではないかというくらい首肯した。
「そうです!笹野紗枝です!高校の後輩の。環センパイを追いかけて来たんです!」
確かに慕われていたが、まさか追いかけてくるとは思わなかった…。
紗枝は、センパイ、センパイ、と言いながら纏わりついてくる。
これは適当にあしらわないと、ついてきてしまうだろうな…。
「はいはい。でも、今はこれから用事があるからまた後でね。メアド教えてあげるから。」
パァ、と、彼女の顔が輝く。
「センパイがアドレスを教えてくださるなんて…。紗枝、嬉しいです!」
私は紗枝にアドレスを送ると、担当場所に移動を続ける。
紗枝は別れ際に、絶対今晩メールしますから、と言っていた。
元気なことだ。
◆◇◆◇
次々とやってくる新入生たちに、私は持ち場である、会場にほど近い通路で、機械的にビラを配り続けている。
ただでさえ雨のせいでじめじめとして蒸し暑いくらいなのに、ビラ配りという単純作業を続けたせいで、私は早くも限界を迎えつつあった。
最初は浮かべられていた笑顔が、最早引きつってしまっているのを自分でも感じている。
汗と湿気が服の内側にこもって、不快指数はマックスだ。
あわや環がただのビラ撒きマシーンと化してしまうのか、と思われたその時。彼女は誰かに肩を叩かれた。
「おい環、大丈夫か?ずいぶん疲れているように見えるが。」
振り向くと、そこには見覚えのない青年が立っていた。彼は誰なのだろう。
染めていない黒い髪の、客観的に見て充分にかっこいいと評せる顔。黒を基調にしたラフな服装。
やはり分からない。
私はかなり混乱している上に、暑さでやられつつある頭を高速で働かせ、ある結論に行き着いた。
そうだ、この男はきっとナンパ男なんだ。顔が良いし、何よりこの全身から発するモテオーラ。
こやつ、ただものではない。
時間にしたらたった数秒の逡巡のあと、私はごくりと唾を飲み込み、胃を決して口を開いた。
「あの、私には覚えがないのですが。どなたでしょうか。」
暫定ナンパ男は、それを聞くと傷ついたような表情になり、じっと私の目を見つめた。
「えっ、分からないのか?俺だよ、お前の幼馴染の、篠宮 逸樹。暫く会ってなかったが、『誰?』はないだろ…。そりゃあ、多少イメチェンくらいしたけど、大学用に。」
彼の目を見ていると、確かに多少変わっていても、面影ははっきりと残っているような気がしてきた。
しかし、それと同時に私は恐ろしいことに気がついてしまった。
私が夢で見た4人目と、目の前にいる幼馴染は、まったく同じ容姿をしている。
しかし彼は今、イメチェンと言った。大学用だとも。そうすると、不自然な事が起きる。なぜ私の夢の中の逸樹は、大学デビュー後の姿なのだろうか。
最初に見たとき、咄嗟に私は彼を自分の幼馴染だと認識できなかった。それくらいには、今の彼と以前の彼は、姿が違っているはず。
なのに、どうしてか私の夢に登場した際の彼は、私が知らないはずの、現在の姿だった。
足元が崩れていく感覚。ぐらぐらと視界すらも揺らいでいく。
赤い色が視界の隅をかすめ、頭の中が次第に白く覆われていくような感覚が、私を襲う。
誰かが嗤っている。
やっと、舞台が幕を開けるのだと。
「さあ、始まりだよ。」




