3章 5話
私はひどく興奮してしまっていたらしい。
落ち着いた時には逸樹に付き添われて、エントランスの隅に座って、暖かいココアを持っていた。
「あ…。」
「少しは落ち着いたか?」
心配そうに、逸樹に顔を覗き込まれる。
私はなんとか、首を縦に振った。
逸樹によると、彼はあの後半狂乱になった私を宥めつつ、音に誘われてやって来た九重先輩に、寮の管理人と残っていた教員への説明を任せ、なんとかエントランスまで連れて来たそうだ。
「うん。ありがとう、逸樹。」
「き、気にすんな。」
逸樹は赤くなった顔を背けた。
いつもならからかってやるところだが、流石にこの状況で、そんなことをする気にはなれない。
薄々気にはなっていたようだが、話題を逸らすように、逸樹はここで私に尋ねた。
「なあ、そういえばここでなんかチャラいヤツらが言ってた、去年起きたことって、いったい何なんだ?
確か、お前に前訊いたときにははぐらかされたが、いい加減教えてくれよ。」
この質問に対し、私は場の空気を変えざるをえなかった。
これはただ話題を逸らすためだけに語って良い話ではないのだ。
それだけ私たちの間では、この話題は大きな影響力を持っている。
しかし、逸樹もここまで来たら、立派な関係者だ。
いつまでも隠しておくわけにもいかないだろう。
それに、被害者の共通点は、文芸サークルという点しかない。
もし私たちが誰かの怨みを買っていたとしたら、その原因はこれ以外考えられない。
…今がその時なのかもしれない。
私はついに、我が文芸サークルのタブーを語ることを決意した。
おもむろに口を開く。
◆◇◆◇◆
あれは、去年の夏のことだった。
あの日も、今日みたいに雨が降っていたっけ。
風の強い日だったよ。
当時の文芸サークルはもっと部員が多かったんだけど、中核は、まだ部長じゃなくて副部長だった河野部長、九重先輩、私、都馬、夕、そして…3年生だった七海 ユカ先輩。
彼女が部長だったの。
その日、私たちはユカ先輩から新しい絵本の出来を見て欲しいって言われて、やっぱり先輩に呼ばれてた白石先生も交えていろいろ意見交換してたら、気付くとかなり遅い時間になってた。
私たちは寮生だったから問題なかったの。
河野部長も、当時は寮で暮らしてたし。
でもユカ先輩は違った。
危ないから途中まで一緒に行きましょうかって皆言ったけど、自分の我儘でこんな時間になっちゃったからって、先輩は一人で帰った。
本当は、当時、自宅通学だった九重先輩も呼ばれてはいたんだけどね。
用事があるからって、欠席してたんだ。
そして次の日、ユカ先輩は、転落死しているのが発見された。
傍には絵本が転がってたから、多分うっかり手提げを引っ掛けるか何かして、ガードレールの向こうに落ちたのを拾おうとして風に煽られたんじゃないかって、警察の人は言ってた。
いくら事故でも、死人が出たから気味が悪いって言って、たくさんの人たちが辞めていった。
でも当時、先輩を一人で帰らせてしまった時に、その場にいた私たち中核メンバーは、そのまま残って先輩の愛したこのサークルを守っていこうって決めた。
これが、文芸サークルのタブーの全てだよ。
…そしてね。
私たちの誰もが、どこか先輩のことを引きずってる。
死んだ河野部長は、前はもっと、真面目ではあっても明るい性格だった。
でも、先輩の愛したこのサークルを守るために、どんどん頑なになっていった。
そういう事件が一度起こるとね、今まで関係なんてなかったような人が、面白おかしく事件の話を脚色して、騒ぎ立てるの。
こころない噂や人に立ち向かっていくうちに、どんどん先輩の心は、硬く、冷たくなっていった。
夕は、あんまり先輩と親しくなかったから、すぐに立ち直ったけど。
都馬はあれ以来、ほとんどサークルに顔を出さなくなった。
夕とは逆に、先輩とすごく仲が良かったから、辛いんだと思う。
恋人だったって噂を聞いたから。
部室に来るとユカ先輩のことを、どうしても思い出しちゃうんだろうね。
九重先輩は、前からおかしかったけど、道化じみたふるまいが悪化した。
信じられないかもしれないけど、前は少し変わってても、まだまともだったんだよ。
白石先生は、どこか影がついてまわるようになっちゃったみたいだし。
私は先生とはあんまり関わりがないし、そう頻繁に会うわけでもないから、よく分からないけどさ。
そして、私自身もどこか、先輩の死に縛られてる。
どうしてもね、雨の日になると、思い出さずにはいられない。
あの日のことも。
ユカ先輩のことも。
◆◇◆◇◆
「そんなことがあったのか…。」
私が全てを語り終えると、逸樹がうなだれて言う。
こんな状況で、さらに空気を悪くしてしまった。
「ごめんね、なんかしんみりしちゃって。
でも皆、先輩のこと慕ってたから。
余計、そのことは誰も、自然と口にしなくなったの。
次代の人たちには、そういうの気にしないで、『楽しんで』欲しかったから。
それが、いつもユカ先輩が言ってたことだったから。」
私はそう言い残し、席を立った。
一度だけ振り返ると、逸樹はひらひらと、後ろを向いたままこちらに手を振っていた。




