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月に 子に  作者: やえ
2/2

 白いペンキがわずかにはげた扉を開く。

 なるべく音をたてないように、その軽い木製の扉を手のひらに感じながら、ゆっくりと開いた。

 月明かりに照らされた小さな部屋は、温かな寝息で満ちているにもかかわらず、冷たさと、静けさのようなものをこの視神経に満たす。

 そこには月明かりと、闇の色だけが存在した。



 リラの眠るベットに月光の光が差しこむさまを見つめながら、その細く開いた隙間をすり抜けるようにして中へと入り、曾祖母は握りしめた取っ手をひねって、わき腹の横に小さな音をカチャリとたてた。



 しん――。と、無音が鼓膜を支配する。



 この部屋は、もう六年も前にリラを迎えるために整えられ、すでに何度かの模様替えもして、今ではリラが赤ん坊だった頃の面影など残していない。


 足を弱くしてからはそうそう来ることもなくなっていたその部屋に、曾祖母はわずかな物哀しさを感じて詰まる胸を押さえた。


 しかし、よくよく部屋を見渡せば、初めて見るはずのその部屋が何度も訪れた場所であるかのような、そんな既視感におそわれ目を細める。


 暑い夏の日、庭で古い勉強机がきれいに直されていくのを、頬を上気させながら見つめていたリラの姿が思い出される。

 完成したときには嬉々として家中をはね回り、みんなに報告して回っていた姿がついこの間のことのようだ。

 部屋に並ぶ人形たちは、どれもこれもが見知った顔だし、部屋はリラの好きな色であふれている。

 裁縫の苦手なリラの母が、苦労して編んだレースのハンカチは少しよれながらも、折り目正しくたたまれて、大事そうに置かれている。

 その、ハンカチの中には、つやつやと七色に輝く貝殻が隠されていることだろう。

 こっそりと曾祖母にだけ見せてくれたリラの大切な宝物。


 この部屋の壁紙やカーテンからさへ、元気にかけまわるリラと、関わるすべての者たちの思い出と香りが、優しくただよっている。


 曾祖母は、こつこつという杖の乾いた音をゆっくりと響かせながら、リラのもとへと歩いた。

 ベットの横に置かれた足の細い椅子に腰かけ、杖を机に立てかけると、曾祖母は数日ぶりにリラの顔をよくよく眺める。


 小さな頭をあお向けにして枕におさまる幼い顔は、明るい星空に照らされてもなお青白く、まるで熱を感じさせない。

 十分なふくらみの羽布団から出された、両の手を見とめて、自らの骨張った手のひらをそっとそえた。

 まだ若いその滑らかな手指は氷のように冷たく、曾祖母のわずかな体温では温めることもかなわないようだ。

 小さく愛らしかった唇は乾き、色あせ、わずかばかりの温かな吐息も吐き出している。


 どうしてこんなにも痛ましい様子が、ただの風邪だといえるのだろう。

 忍び寄る影とささやき声が、こんなにも聞こえてくるというのに。



 こうしてリラの顔色を見ることもせず、騒がしく医者を望んだ。それは、周りからうとまれるのも致し方ないことだと思いはするのだが、この、あまりにも無力な己に奥歯をかんだ。



 十日もすれば月は満ち、丸い玉のような満月になる。


 星空のまぶしい、三日月の夜。


 曾祖母がずっと幼かったあの日に味わった、浮遊感と、喉の渇きと、眠りへの誘いが、リラの中に満ちているのを感じる。


 誰が信じるだろうか。この身体が教えるのだ。昔味わった鋭利な空気を。奪い去るような執拗な視線を。誰が信じてくれなくとも、曾祖母は死の歩み寄る音を見ていた。




 まろい光玉の輝きが、どこからか集められ、どうやって欠けていくのか。そんなことばかり考えていた幼かった頃を懐かしんで星を見上げた。


 すると窓の向こうの夜空の中に、美しい三日月と、淡い光が三つ、浮かんでいるのが目に入った。


 三色の星が、数多の星にまぎれてゆらめいている。曾祖母は思わずまぶたをゆっくりと閉じ、もう一度開いた。

 吸い寄せられるように焦点を合わせ、魅入られたようにその光を見つめる。




 まもなくそれは必然性を有して目の前に現れた。


 部屋の窓をそのままに、ガラスとサッシをすり抜けて、広くもないこの部屋の空間にゆるやかな円を描いて、そこにいたった。



 藍色の光の中で浮かぶ赤子の顔が、こちらに問う。


「おや、見えているのかい?」



 止まった時間を取り戻すように、曾祖母は一拍の間のあと、自身に言い聞かせでもするかのようなささやき声でつぶやいた。


「あなた方には、お会いしたことが、ある」




「……覚えていてくれたんだね。君がまだ生まれたての新芽のような幼子の頃、私たちは出会って別れた。そして、今宵もそうなることを私は願おう」


 青い光。インディゴは、ごく感情の読めない顔つきをしてそう答えた。


 ちらちらと光の粒子をただよわせ、温かな青と、鮮やかな黄色と、落ち着きのある紫の輝きが円を描いて重なっては離れ、部屋の中のあらゆるものに光がめぐる。

 それはまるで星の光の洪水のようだ。しかし、不思議とまぶしさは感じない。


 気づくといつの間にかリラの手を握りしめていた曾祖母は、その手を優しく取りなおして真正面を見すえた。



「あなたは、とても優しい方なのですね。生きたいと言った、私の願いはすっかり叶えられました。とても感謝しています」


 光の赤子たちが一様にかたい表情の中、スミレに輝く灰色の髪の赤子だけが、わずかに目元を動かして口を開いた。


「ほんとうによく憶えておいでで」


 オレットのゆるんだ表情がさめやらぬうちに、インディゴはごくゆっくりと曾祖母に語った。それはまるで、幼い子に言い聞かせるような口調だった。


「あれは、間違いであったのだ。あのとき、君の命の炎は尽きていなかった。ほんの小さな灯火ではあったが、確かにそこにあったのだ。君にはふたたび、燃えうる可能性が残されていたんだよ」


「……まだ。まだ、この子の命だとて灯っています。まだ、息をして、生きようとしているではありませんか!」


 これから起こる出来事を告げられた気がして、曾祖母は声が震えるのもかまわず叫んだ。

 羽の生えた赤子たちには、つゆほどにも耳に届いていないのか、そんな曾祖母にこたえようとはしてくれない。


 ふと目を落とした先には、生きているのか死んでいるのか。蒼白な顔から生じる悪寒を、紛らわすように、その小さな頬をしわがれた指先でそっとなでた。

 深く眠ったリラの吐息が、かろうじて呼吸していることをこの手に伝える。

 さきぼそる声をふるって、曾祖母は力強く顔を上げた。


「この子は、連れていかせやしません!」



「それは君が決めることではないのですよ」


 端に控えていたコールが曾祖母の前へ進み出ると、切り捨てるように冷たく言い放った。


 しかし、曾祖母の決意は簡単に崩れはしない。


「私は、そうは思いません。この子はまだ連れていかせやしません。この子の母がまだここにいません。この子の父がまだここにいません。いるのが、私のようなものひとりでは、この子があまりに不憫ではありませんか。今、この小さな子を、あなた方に渡すわけにはいきません!」


 老いた彼女は、年を感じさせない力強さで三様の光に対じする。コールは思わず目を見張った。

 それでもすぐに気をとりなおすと、黄金色に輝く赤子は曾祖母の顔へ威圧するように迫った。


「我らには関係のないことだ」



 いくら年を重ねても、人であるかぎり抗うことはかなわないであろうそれらの者たちに、今日、曾祖母が屈することは許されない。

 そう決意していた曾祖母は、全身に受ける視線で瞳が痛むのもかまわず、座った椅子から滑り落ちて屈してしまいたい衝動にも耐え、顔を下げることはしなかった。



「私が……。この私が、それでは納得がいきません」



 前に陣取り、冷めた目を向けていたコールを、紫の光をまとったオレットが両の翼を広げてやんわりと下がらせた。

 三つの光は、また、もとの距離を保ってリラと曾祖母のわずか上を浮かぶ。


 インディゴが、両端にオレットとコールをたずさえて口を開いた。


「その子は決して、自分のことを不憫だとは思っていない。母に愛され。父に愛され。君に愛されて。幼子は得がたい無償の愛を十分に抱えている。幸せに包まれた彼女の何を憂うというのです」


「幸せなどと……。なぜ? なぜそんなことが言えるのですか。寂しいはずです。心細いはずです。まだ、こんなにも小さくて、これから先、いくつも開けた未来が待っているというのに。まだ、恋もしていない。まだ、本当の愛も知らないのに。不憫にもなるではありませんか」




 インディゴは底の見えない青の瞳を、まっすぐに彼女へ向けた。


「本当の愛とは何?」



 右にひかえたオレットが、紫の瞳に憂いをのせて彼女へ向ける。


「この子はこの世に産まれた。歌い。食べ。あたたかに眠り。この子は母に抱かれた」



 左にひかえたコールは、とろりとしたはちみつ色の瞳を彼女へ向ける。


「この子は感じる。この子は考えることができる。この子は、他者のために微笑むことができるのですよ」



 そして再びインディゴが、どこまでも優しく、身に響く声色で曾祖母の視界を満たした。


「人が、人の幸福を推し量ることなどできはしない。そして君がどんなに訴えようと世界は変わらないものばかりでできているのに変わりがない。それでも、人にはできることがあるのです。君のような人がそばにいて手をそえる。それだけで、子は愛に満ち、愛を知る。君もわかっているはずだ。この子の身のうちには愛が満ちている。この子は我らが連れてゆきます。ですから君は、今宵のことを忘れなさい」



 その言葉には力が宿り、決意をしめあげ、縮んだ肺を苦しめた。それでも曾祖母は潤む目を見開き、しゃべるのをやめない。口が乾き、至極しゃべりづらい口を賢明に動かしていく。


「しかし、しかしこの生まれ育った場所を。父と母と、離れてしまうには、あまりにもこの子は幼いではありませんか……」


「彼女が寂しくないように、我らが離れずにおりましょう。決して迷い子にならぬよう、決して寒くはならないように。我らが寄りそい、白銀の船へと導くと、ここに約束いたしましょう」



「私は。私、は、この愛らしい子に、この、小さな愛しい子に死んでほしくないのです」


「死は何人にも訪れる。そして時を選びません」



「……何としても、この子を連れていくとおっしゃるのですか」


「連れてゆきます」



 三人の赤子は、その身をついにリラへと向けた。

 そこではなめらかな光が細く力強く放たれはじめ、新たな光が生まれでようとしている。まるでこの世の生気すべてが、この小さな身体から抜けでるように。


 取り残されようとしているリラの身体を目の前にして、ぶつぶつとした恐怖が足元からかけ上り曾祖母は寒さに震えた。

 思うようにならない足も忘れて、曾祖母は腰を浮かせ、賢明にリラを守ろうと覆いかぶさる。


「待ってください!」



「退きなさい」


「退きません! この、この老いた魂を先に連れていくのが筋ではないですか! どうか。リラのかわりに、この子のかわりに私を連れてください」



「君の命はまだ残されている。それを君が望もうと、望むまいと」



「この命が、まだ少しでも残されているの言うのなら! 私の命をこの子にあげます! あなたにはそれができるのでしょう?」


 しぼりだすように叫ぶ曾祖母の声はひどくかすれた。

 リラを守るようにしたまま、深い青の瞳をまんじりと見つめ、いつかしたときのようにインディゴに願う。


その視線をうけたインディゴは、一体何を想っているのだろう。曾祖母には分からない。


 しかし、曾祖母は彼を信じた。







「……君に残された時間は短い。それは、子が大人になりきるまでの時間には、あまりにも足りない命だ」



「インディゴ!」


 驚きをかくさず止めに入るコールを目の前にして、曾祖母は意をくみ取ることもできず青と黄色の光を目で追った。

 そこへオレットが割って入る。


「口をはさむな、コール」


「しかし、それでは……」


 コールは眉をひそめながらも、オレットの鋭い静止にその身をふわりと下がらせた。


 納得いかなげなコールを尻目に、曾祖母はさした一条の光をたぐり寄せる想いで、インディゴのその言葉にすがりついた。


「インディゴ。あなたは、インディゴというのですね。幼い日、まだ生きたかった私を見逃してくれたあなたは、またふたたび、私の願いを叶えてくださいますね?」


「君が、それを願うのならば」


 頑なで崩すことのしなかったインディゴの表情がゆるんだ気がして、曾祖母は重い空気を吐き出して息をついた。

 横では、けわしい顔のコールがなにか言いたそうな様子で身構えている。それをおおいかぶせてしまうように、今度はオレットが曾祖母の前へと進みでてきた。


 憂いを含んだまつ毛の下で、磨かれたアメシストの瞳が輝きをみせて曾祖母を見つめる。


「いずれこの子が再び我らの迎えをうけるとき。魂が今宵のような聡明さを損なっていたともなれば、その業をうけるのは彼だ。私は、それを許さない。君は彼女の魂が賢くあり続けると、保証できるといえるのかい?」


「もちろん。保証いたしますとも」


 曾祖母の返答は、少しもゆるぎはしなかった。

 満足のゆく答えを得られた様子のオレットは、楽しげに喉を鳴らすとインディゴの横へとふたたび並んだ。そしてあらためて曾祖母へ目を向ける。



「その言葉を信じ、聡明なる魂の願いを叶えよう」



 インディゴは、最後に言った。


「我らは今宵。君の魂を白銀の船へといざなおう。そして、残された時間を彼女に――」








 ◆◆◆◆◆◆








 夜風をうけるはずもないのに、コールはひやりとする空気を感じて柔らかな羽をわずかに閉じた。

 空はかわらず幾千もの星が散らばり、暗い夜空に光を灯す。

 コールは珍しく気弱な様子でおずおずと言葉をもらした。


「……よかったのですか?」


 澄ました顔のオレットが狡猾な笑みで口の端を上げた。

「ずいぶんと元気がないじゃないか。さっきまでの威勢はどこへいった」


「からかうのはよして下さい! あれがどういうことかということくらい、僕にだってわかっています!」


 そこへ止めに入ったのはインディゴだ。


「あまり大きな声を出さないでくれるか。彼女が起きてしまう」


 インディゴが翼で抱え込むようにしているそこには、小さな光がゆらゆらと浮かんでいる。オレットは身を寄せてその光をのぞき込んだ。


「疲れて眠ってしまったようだね」


「あの子供。目覚めたらひどく悲しみますよ」


 コールはそう言うと、わずかに後ろを振り返り、先ほどまでいた若草色の屋根が小さくなっていくのを目で追った。

 その年にしてはしっかりとした体つきで、しかし、丸めた背筋のためか大変小柄に見える老婆の身体。それはいま、眠るようにして深く椅子にもたれている。


 金色の髪を風になびかせるかのようにしてふるったコールは、地上を眺める視線を戻すと、インディゴと、オレットの横に並んで月を見すえた。

 コールの強いまなざしにオレットは呆れ顔だ。


「この子があの子の魂を保証したではないか」


「それが何だというのです! そんな、不確かな。あの子ひとりの業がどれほどのものか。もし損なわれるようなことがあれば、罰を受けるのはインディゴなのですよ。オレットはそれでもよいと言うのですか!」


「それはよろしくない。よろしくないが、言ったところで私にインディゴを止めることはできないからね」


「勘弁してくれオレット。コールも、私はこういったことをするから見習うなといったんだ。もし船の灯りが弱まれば、もちろん天庭に知られることにもなるだろう。だが、君に責任はない。このことで迷惑をかけはしないから心配するな。ただ少しばかりの間、内密に……」


「僕は、インディゴの身を心配しているのです!!」


 激しく憤るコールに、しっ! と、オレットが黙るよう制した。

 コールは一度、オレットに顔をしかめながらも、声を落としてインディゴへ問いかける。


「確かに、これほどの輝きを船へ導くことができたのは大変よろしかったと言えましょう。ですがあの子は、この子の行いを知りようがありません。あの子がこれから、どのような生を生きるかもわからない。なのに……、これはずいぶんと大きな賭けではありませんか?」


 そこに割って入ったのはオレットだ。彼は幼い顎を上げて自慢気に答える。


「賭とはまた、言い得て妙だね。私は負けるとわかっている賭けはしない主義なんだ」


「では勝つとおっしゃる」


「どうだかね」


 からかうように言うオレットに、コールは嫌味のこもった視線を飛ばし、両者はしばしにらみ合った。

 暖かく小さな光を、インディゴが見つめる。


「あの子は受けた恵みに応えるだろう。そしてきっと、今宵うけた恩恵を忘れはしない。この子があの子を信じたように。我らもまた、信じるのだよ」



 優しげなささやき声は、夜空に輝き光って溶けた。




 彼女は信じた。


 彼らは信じた。


 そうして聡明なる魂が運ばれ、月は満ち、輝いていく。


 リラは明日、美しい月をみることだろう。




――月に光を 子に愛を 輝きの魂 満ちる月――






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