上
曾祖母:九十になろうかという老婆。なにかと誤解されがちだが、面倒見はよい。
インディゴ:濃いブルーの瞳に、茶褐色の髪。まとめ役。曾祖母と会うのは今回二度目。
オレット:灰色の瞳と髪。気品ある皮肉り屋。インディゴとは長い付き合い。
コール:琥珀色の瞳に、ブロンドの巻き毛。初仕事で浮き足立っている。
リラ:曾祖母のひ孫。とても活発な女の子。
――月が満ちていく。
「なんて日が悪いんだろうねぇ。まったく、なんて不吉なこと」
古い家具と、色褪せた絨毯の敷かれた部屋の中で、そのしわがれた声はよく響いた。
ランタンで薄暗く照らされたこの場には家の者たちの多くがいる。だが、その誰も彼もが曾祖母の言葉に呼応するでもなくただ顔をしかめて目を向けた。
もう九十になるという曾祖母は、年の割にはしっかりとした体つきで、しかし丸めた背すじのためか大変小柄に見える風貌をして、いつもとかわらない場所に腰かけている。
窓辺に置かれた古椅子におさまった彼女はガラス越しに上を見つめ、星がまたたきだしたばかりの夜空を一切の動きなくにらんでいた。
鬼気せまる表情と口調に、その挙動を見守っていた一同は曾祖母がもうそれ以上話す気がないと見てとると、それぞれがしかめっ面のまま曾祖母への興味をそらしていく。
今日のような日に、日が悪いだ。不吉だ。などと――縁起でもない。
誰もがなんて不謹慎な。と、思いはしても、それを口に出す者はいないのだ。
ひとつには、曾祖母が古いいい伝えや、神がかった話を好んでするふしがあったからである。そしてなにより、この家で曾祖母に口を出せるような者はそう多くない。
この家の主人であり、絶対的な権限を有した彼女は威厳に満ちたそのたたずまいで、他者を寄せつけない雰囲気を常にまとっていた。
そんな曾祖母に気おされたように、みな何も聞かなかったようにして顔をそらすばかりだったのだ。
部屋の出入口に程近いところで、いく人かが静かな会話を交わしている。
そこで話しを終えた年若い医者は、薬品の匂いをただよわせ曾祖母のもとまで歩み寄ると、早々にいとまを告げた。そして看護婦をともないその部屋を後にする。
医者が他にも往診の依頼をかかえている中。昨日、そして三日前にも曾祖母の強い要望から往診を願い、早馬をつかわしていた。
子どものたんなる風邪。という一同の見解から、今夜無理に往診を願った曾祖母への目は冷ややかだ。
この医者はこれから赤ん坊をとりあげに行くのだそうだ。そんなわけもあって、医者は道すがらの寄り道といった具合で手早く往診をすませていった。
しかしそのことが気に食わない曾祖母は、不機嫌な態度を隠すことなく、渋い顔のまま扉の先に医者が消えるのを見送ったのだ。
ここ五日間ほど寝込んだきりの曾孫に、想いをはせる曾祖母の表情はいっそう険しく、今夜のような空に相応しいとはとてもいえない。
日がとっぷりと暮れ、明るさを増してきた月明かりは千差なく、地上へ煌々と降りそそぐ。
澄んだ空気ただよう、星空の日。
月は美しい弧を描き、遥か彼方の上空で、白く、ぼんやりとした光の輪を灯して浮かんでいる。
美しい三日月である。
その家はゆるやかな丘の上に、新緑の屋根をかまえて建てられていた。カシワの葉がかかるようにのぞく、白壁の古い家は蔦がからみ穏やかな様相をていして長い年月をそこで過ごしている。
常には楽しげな子供の笑い声が響き、訪れる人は絶えず、美味しい食べ物があり、暖かな燈が消えることを知らない。
しかし今、それらは遠い昔の忘れ去られた過去のように、見る影もなく重い静寂がたちこめている。
ただの風邪だったはずだ。四日前にはそうだと思った。
はじまりは熱と咳。誰もが子供にありがちな、よくある風邪だと思っていた。しかし状態は悪くなるばかりだ。
いっとき戻った食欲もたいして食べることなく消えうせてしまった。
曾祖母は言い知れない違和感におそわれていた。
そして、古い、古い記憶にせき立てられるような焦りを感じていた。
かきいだいた肩がけのショールが不安にゆれる。
その夜は草の根にはう虫たちすら、鈴の音をぱったり止め、まるでその身を隠すように静まりかえる。
葉がしげりずんぐりとした木にひそむ二つの目は、音も立てずにどこかに消え去り、そして、夜目のきかぬ鳥たちすら寝床を捨ててどことも知れずあわてて飛び立つ。
家の者たちは気づいていない。
これから赤ん坊が産まれ出ようとしているさなかに、不吉だ、などと口にした理由を。
この家を去る医者に、無遠慮な態度で接した本当の意味を。
手を伸ばせば届きそうな月が、すぐそこまでせまっている。
ダイヤを砕いてまいたような明るい夜空だ。
そんな星たちにまぎれることなく、暗い影をともなう三日月がぽっかりと空に浮かぶ。
はっきりとした境目を描いて輝く眉のようなその月は、本来まるいものなのだと強く主張しているようであった。
そしてそれは、曾祖母の脳裏に幼い日の出来事を呼び起こす。
あれが現実のものかどうか、すでに記憶は薄く曖昧だ。今となっては信じたくもない。だが、初月から徐々に満ちていく今このとき、あの者たちがここを訪れるのではないかという六感がくしくも今夜、曾祖母の頭を満たしていた。
いつか出会うかもしれないと期待していたこの再会を、望まぬかたちで迎えなければならないことに強い悲しみをいだき、年老いた深い皺の曾祖母は空を見つめる。
◆◆◆◆◆◆
誰もいるはずのない夜の空。そこには、楽しげなしゃべり声をのせる者たちがいる。
彼らは、悪魔ではない。
しかし人は、それを死神とよぶ。
またある人は、天使だとも――。
三日月の影から現れた三つの影は、地上に近づくにつれ徐々にかたちをなしていった。
そしてそれは、月光に似た温かな灯し火をつよくして、ゆっくりと舞い降りていく。
「お待ちください! インディゴ。オレット」
快活な声をあげるのは、鮮やかな黄色の粒子をまとったひとつの光だ。
その光をよく見れば、両耳に白く大きな翼を広げた、小さな頭が存在する。
それは人の言葉を解しても、人の姿をなしてはいない。
産まれていくらかしたような愛らしい赤子の頭に、耳には白鳥のようなつややかな翼をはやし、ただそれだけで宙に浮く。
夜空を照らす星たちにまぎれたその存在は、高い上空を吹きぬける風には露ほどの干渉もうけず、ゆらめくように緑あふれる広大な大地へと向かいおりてきていた。
一番先をいく柔らかな藍色の光が、かるく後ろをふりあおぎ声をとばした。
「しっかりとついて来なさい」
すずやかで落ち着いた声が夜空に響く。
それを発するのもまた、赤子の頭だけの存在だ。
彼は濃いブルーの瞳におだやかな表情をあらわすと、軽やかに茶の毛をそよがせてふたたび先へと進みはじめた。
そんな青の輝きを追い、いそぎ足なみをそろえた光色をまとう赤子は、琥珀のようなつぶらな瞳を横へと向ける。彼は頬のえくぼが印象的だ。
「失礼しました。しかし今夜はよい夜ですね。なんて気持ちがよく、薫り高い空気でしょう」
赤子の顔が、あたりの空気を楽しむように小さな鼻を上向かせる。
すると次には、気に食わないとでも言いたげな別の声だ。
彼は青い光をまとうインディゴの横から、紫の輝きをきらめかせてひょっこりと顔をのぞかせた。
銀の髪をさらりとながし、ゆるやかになめる目線は高貴ささえただよわす。しかし彼の中性的なその声には、随所に刺々しさがこめられていた。
「薫り高いも何もわかるものかな? そなたは今夜が初の船方ではないか」
黄色い光の赤子は、その性質をよくあらわした輝くブロンドの巻き毛を生真面目にふり、たたずまいを正すといっそう声を明るくして口を開いた。
「コールです。先ほど自己紹介させていただいたではありませんかオレット。私にもちゃんと名前をいただいたのですから、どうぞコールとお呼びください」
精一杯に刃向かうような印象を与えるその鼻っ柱を、オレットは含みのある笑みで見やった。
「なんとまぁ、賑やかしいことで」
そしてついと顔をそらし、翼をはためかせて少し先の空へと進む。そんな後ろ頭に、コールはむっと口をとがらせた。
オレットと呼ばれた灰色の髪の赤子は、ふせがちな灰色のまつげに隠された瞳から、あまり感情を読みとらせることをしない。しかし、その口は他に知れわたるほどに辛らつだ。
コールは気持ちもあらたに、声を高めた。
「興奮もしてしまいます! 天庭でも名高いインディゴと、待ちに待った初仕事がともにできるなど。私はなんて運がよいのでしょう。辞令がおりたときなど、まだ飛んだこともない身だというのにまるで空に舞い上がるような心持ちでした。もちろんオレットだとて僕の気持ちがおわかりになるでしょう?」
鼻歌でも歌いださんばかりに微笑んでいるコールは、器用にもそんなことをしゃべりながら、三人の中ではいくぶん小ぶりな翼を寄せて、二三回転してみせた。そうしてインディゴとオレットの間に割り込むと、来た道をひとり満足気に見上げる。
オレットが、そんな様子を横目に顔をひどくしかめたのは言うまでもなく、視線をそらすとうっとうし気にちいさく息を吐くのだった。
二人のやり取りに、インディゴは困ったふうに眉を寄せる。
「まあなんだ、どんな噂話がとびかっているのか私は知りはしないがね。そういった話は間に受けないことが賢明だと私は思うよ」
言葉をえらぶようにして口を開くインディゴが、言い終わるが早いか、端で飛んでいたオレットはその自らの翼を優雅なしぐさで一度大きく羽ばたかせると、白銀のまざる紫の輝きをふたりの間に滑り込ませた。
いささかの強引さにもおかまいなく、オレットはすまして会話を続ける。
「まったくとんだ悪評さ。このひよっ子の。いきり屋の。おしゃべり好きが。余計なことを風潮しないようにこれから監督しなければならないなんて、うんざりするというものだね」
あまりに辛らつな物言いにいきり立ったのはコールだ。
「ぼく、ご迷惑をおかけするようなことは致しません! それに悪評などと、インディゴに救われ、船に進んで乗る魂たちもいるのだと私のような者の耳にまで届いてまいります。インディゴの導く魂がどれだけの輝きに満ち満ちているのかと語り合い、慕っている者もそれはそれは多くいるのですよ。インディゴは誰よりも優れたはたらきをしているではありませんか! 私もそのはたらきを見習ってインディゴのようになりたいのです。一緒に仕事をさせていただける。この喜びでついつい口も軽くなってしまうというものです。ぼくはそんなにおしゃべりではありません!」
迫るように意気込むコールから閉口のていで逃れながら、オレットは横へと後ずさった。
そうしてインディゴへと翼を寄せると、
「人の身のような、この耳をふさぐ手がないことがこんなにも口惜しい日が来ようとは思いもしなかったよ」と、オレットは苦々しげにつぶやくのだった。
「おまえも焼きが回ったものだな」
日頃から他者のあつかいに熟達なこの旧知の友が、珍しく感情をあらわにするものだから、インディゴは心底楽しげに喉を鳴らす。
そうしてからインディゴは、紫の光越しに、優しげなブルーの瞳をまっすぐむけた。コールはあわててたたずまいを正すとインディゴの挙動を見逃すまいと真摯に目を開く。
インディゴもまたそれをうけた。
三つの光はゆっくりとだが確実に、土と魂あふれる地上へと近づいている。
視線をうけたインディゴが、ゆっくりとだが、ごく軽い調子で口を開いた。
「コール。どうかもう少し肩の力を抜いて。まだまだ先は長いのだから。それと、これだけは言わせてもらいたいのだがね。なんというかな、私を見習うのはおすすめしないよ。何事にもはじまりは模倣が必要なことがある、が……そうだな、模倣する前にそれは自身に是か非か判断つくのなら、それが一番なんだ。やってしまったことは取り消すことができないからね」
「は、はいっ」
力の抜け切らない様子のコールに、インディゴは軽く笑む。
「私が何をしようとも、君は見失わないでほしい。自身の道理を。自身の輝きにかけて。私が常々している行いは、もしかしたら了見の狭い行いなのかもしれない。そう感じているのがこの私自身なのだから」
ふたりに挟まれ、それを聞いていたオレットは、夜の水面を泳ぐようにして身をひねり、すかさず前に進み出ると、つんとすねて言い放った。
「そうだね。そんなことに付き合っている私は大概な馬鹿者のようだ」
インディゴは目を丸くすると、すぐにくすりと笑って視線を合わせる。
「オレット。私は君にとても感謝しているよ」
優しげなお互いの様子に、あわてたのはコールだ。
「ぼ、ぼくだとて、必ずや役立ってみせます!」
その身を前へと向けたオレットに、競うように進みでてきたコールが並んだ。
オレットは横に目をやり、辛らつな物言いもどこへやらからかい半分茶化しにかかる。
「どうだかねえ。まあ、せいぜいへまをしないように私が目を離さないようにしていようじゃないか。コールも、私に感謝したまえよ」
そのいかにも面白がっている様子のオレットへ、コールは心底嫌そうな顔を向けた。
「ご遠慮致します」
距離をとろうと翼を動かすその素早やさに、オレットは滑らかな目元を動かし、細めた瞳を明けの明星のように輝かせた。
夜空に、オレットにしては珍しい愉快そうな笑い声が響きわたる――。
声を聞くのは、一匹の猫。あるいは、孤高の一輪。
翼ある彼らは、生あるものと相反する。その声を聞くのは運命の悪戯。神の采配。
日もとっぷりと暮れて、ランタンの明かりがちいさく灯る町並みを見おろしたインディゴは、今日の日の仕事場をそこだと決めた。
「さあ。夜の深みもいい頃合だ。そろそろ仕事を始めよう」
やわらかな三つの光は、なだらかに下降しはじめる。