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閉じられた空に火が落ちる

掲載日:2026/06/16

これは、ひとつの“記憶”の話だ。


曖昧で、歪で、それでも決して忘れられない夜の記憶。



その宿に着いた瞬間から、少女は嫌な気配を感じていた。


山奥にぽつりと建つ、古びた木造旅館。


軋む床、薄暗い廊下、湿った木の匂い。



「安いのに露天風呂付きなんだぞ」


父はそう言って笑った。


「たまにはこういう所もいいじゃない」


母も穏やかに微笑んでいる。



姉は写真を撮り、幼い妹は、はしゃいで廊下を走り回っている。


少女だけが、ずっと落ち着かなかった。


理由は分からないけれど、“ここにいてはいけない”と、何かが訴えている。



案内をしていた女将は、異様な老婆だった。


白髪は乱れ、背は曲がり、色の薄い目だけが妙にぎらついている。



「ようこそぉ」


しゃがれた声が、静まり返った廊下に溶けた。



少女は思わず母の服を掴む。



「どうしたの?」



「……なんか変」



母は苦笑した。



「古い宿だからでしょ」



違う。


古いだけじゃない。


まるで、空気そのものが淀んでいるみたいだった。



廊下の壁には古びた柱時計が掛けられていた。


秒針は止まり、時刻は『二時十七分』を指したまま動いていない。


別の廊下にも、食事処の柱にも時計があった。


だが、どれも同じ時間で止まっていた。



案内された部屋は一階の角部屋だった。


部屋に入ると、じめっとしたカビの臭いが鼻をついた。


少女は思わず鼻をつまむ。


その臭いを、誰も気にしている様子はない。



部屋の外にある露天風呂は、木の板で囲われているだけの簡素な造りで、その隙間からは畑が見える。



「思ったより悪くないじゃん」


姉が笑う。


父も上機嫌で荷物を下ろしていた。



少女は返事をせず、ひとりで部屋を出る。


この宿は何か変だ。


廊下を歩きながら、ふと階段の下に目を向ける。


暗がりの床に、木製の古い扉があった。


妙に気になる。


床下収納にしては大きい。


まるで、人が入るための……。



少女は無意識に、その扉へ近づいていた。


そして、ゆっくりと手を伸ばす。



触れた瞬間、ぞくりと背筋が震える。


冷たい。


まるで、そこだけ他の世界と繋がっているみたいだ。


少女は、扉を開こうとした。



その時ーー。



「お食事の準備ができております」



声がして、少女は肩を跳ねさせた。


いつの間にか、老婆がすぐ後ろに立っていた。


かび臭い吐息が首筋に触れる。


老婆は、にたりと笑った。


その光のない目は、まるで別のものを見ているようだった。



「ここは昔、よく焼けましてねぇ」


老婆は懐かしむように目を細めた。


少女は思わず顔を上げる。


「焼けた……?」


老婆は答えない。


代わりに、廊下の向こうの暗闇を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「空が開く夜というものが、あるんですよ」


老婆はそれ以上何も言わず、暗い廊下の奥へ消えていった。



その夜。


家族は露天風呂に入っていた。


ぬるい風が吹いている。



静かだった。


静かすぎた。


畑が近いのに、虫の声ひとつ聞こえない。



少女は不安げに空を見上げる。


そこに、星の光はなかった。


雲ひとつなく、月すら見えない。


それはまるで、黒く塗り潰された天井みたいだった。



ふと、遠くの暗闇に、小さな明かりがぼうっと揺れる。


赤、黄、橙色を纏ったその影は、すぐに形を表した。



飛行機だ。


だが、その動きは異常だった。


機体が大きく蛇行している。


後方から黒煙を吐き出しながら、ふらつくように空を裂いていた。


「……え」


少女の背筋が凍る。


飛行機はどんどん近づいてくる。


ありえない速度で。


まるで、この宿を目掛けて墜ちてくるみたいに。



窓の木枠が細かく震える。


湯の水面が、びりびりと波打っている。



「やっぱりおかしい!!」



少女は叫び、湯から飛び出した。


家族が驚いて振り返る。



「早く中に入って!!」



少女は緊迫した表情で叫んだ。



父も空を見上げ、ようやくこの宿の異変に気づいた。


そして、すぐに末っ子を抱き上げ、その体にタオルを巻きつける。


母と姉も慌てて湯船を飛び出した。


家族は部屋へ駆け込み、浴衣を掴んで濡れたまま袖を通す。


外の音が急速に大きくなり、窓が細かく震えている。



父は末っ子を抱えたまま、隠れる場所を探し、周囲を見回す。


母は姉と少女を抱き寄せ、不安そうに息を潜めていた。



嫌な予感が、どんどん膨れ上がっていく。



そんな中、少女の頭に浮かんだのは、あの扉だった。


階段の下。


暗闇の中の古い扉。


理由は分からない。


けれど、あそこへ行けば助かる。


そんな感覚だけが、頭の中ではっきり響いていた。



確信もないまま、少女は裸足で廊下を駆けた。


強い揺れで、壁に身体を打ち付けられる。


それでも、足を止めなかった。



階段下に辿り着くと、取っ手を掴んで必死に引いた。


だが扉は重く、びくともしない。



背後で轟音が膨れ上がる。



次の瞬間、父が駆け込んできた。


末っ子を片腕で抱えたまま、もう一方の手を少女の上から伸ばす。


錆びついた金具が軋み、扉がゆっくり浮き上がった。


重く冷たい空気が流れ出す。



そこには、地下へ続く狭い階段があった。


階段の先は暗く静かで、「ピッ、ピッ……」と、機械音が聞こえる。



(ここを降りれば……)



少女は振り返り、叫んだ。



「こっち!!」



その直後。


凄まじい爆音と共に、宿全体が揺れる。


炎と爆風が廊下を飲み込みながら迫ってきた。



「お母さん!! お姉ちゃん!!」



少女が叫ぶ。


炎の向こうで、姉が倒れていた。


崩れた柱に足を挟まれている。



母が必死に瓦礫を退かそうとしていた。


その背後で、炎が広がっていく。



父は、少女に末っ子を託すと、扉の外へ戻ろうとした。


だがその瞬間、天井が軋み、入口の周囲が崩れ始める。



母が振り返った。



炎に照らされた顔で、叫ぶ。



「行って!!」



父が足を止める。



少女の腕の中で、末っ子が泣いている。



「お母さん!!」


少女も涙を流しながら、母へ手を伸ばした。



姉は弱い力で、母の手を掴んだ。


震える声で「ごめん……」と呟く。



次の瞬間。


激しい揺れとともに、崩落が起きた。



扉が落ちるように閉まり始める。



父は反射的に少女と末っ子を抱き寄せた。



真っ赤な炎が隙間から流れ込む。



そして……。


扉は完全に閉じた。



地上の音が、嘘みたいに消えていく。


静まり返った地下で、少女は初めて気づいた。


自分たち以外の人影があることに。



暗闇の中には、何人もの人が座っていた。


誰も喋らない。


煤だらけの着物姿の女。


焼け焦げた軍服姿の男。


皆、ただ俯いたまま動かなかった――。



やがて三人は、救助隊を名乗る男たちに保護される。


彼らは白い服を着ていた。


少女は、その姿に小さな違和感を覚える。



だが、すでに心も体も限界だった。


車に乗せられたあと、少女の意識はゆっくりと沈んでいく……。



目が覚めると、そこは病院のベッドの上だった。


病室のテレビではニュースが流れている。


「――消防によりますと、事故が発生したのは昨日14時17分頃。〇〇山の峠道で――」


「この事故で、崖下へ転落した夫婦と子ども3人の計5人は、全員が意識不明の重体です。」


「また、現場付近には、戦時中の火災で焼け落ちた民宿の跡地がありーー」




目を覚ましたのは、少女と父、そして末っ子だけ。



母と姉は戻らなかった。



父は何も語らない。


ただ、生き残った二人を抱きしめて、静かに泣いていた。



それから何年経っても、少女は時々夢を見る。



焼け落ちる宿。



閉じていく扉。



そして炎の向こう側で。



母が最後に見せた、あの笑顔を――。



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