閉じられた空に火が落ちる
これは、ひとつの“記憶”の話だ。
曖昧で、歪で、それでも決して忘れられない夜の記憶。
その宿に着いた瞬間から、少女は嫌な気配を感じていた。
山奥にぽつりと建つ、古びた木造旅館。
軋む床、薄暗い廊下、湿った木の匂い。
「安いのに露天風呂付きなんだぞ」
父はそう言って笑った。
「たまにはこういう所もいいじゃない」
母も穏やかに微笑んでいる。
姉は写真を撮り、幼い妹は、はしゃいで廊下を走り回っている。
少女だけが、ずっと落ち着かなかった。
理由は分からないけれど、“ここにいてはいけない”と、何かが訴えている。
案内をしていた女将は、異様な老婆だった。
白髪は乱れ、背は曲がり、色の薄い目だけが妙にぎらついている。
「ようこそぉ」
しゃがれた声が、静まり返った廊下に溶けた。
少女は思わず母の服を掴む。
「どうしたの?」
「……なんか変」
母は苦笑した。
「古い宿だからでしょ」
違う。
古いだけじゃない。
まるで、空気そのものが淀んでいるみたいだった。
廊下の壁には古びた柱時計が掛けられていた。
秒針は止まり、時刻は『二時十七分』を指したまま動いていない。
別の廊下にも、食事処の柱にも時計があった。
だが、どれも同じ時間で止まっていた。
案内された部屋は一階の角部屋だった。
部屋に入ると、じめっとしたカビの臭いが鼻をついた。
少女は思わず鼻をつまむ。
その臭いを、誰も気にしている様子はない。
部屋の外にある露天風呂は、木の板で囲われているだけの簡素な造りで、その隙間からは畑が見える。
「思ったより悪くないじゃん」
姉が笑う。
父も上機嫌で荷物を下ろしていた。
少女は返事をせず、ひとりで部屋を出る。
この宿は何か変だ。
廊下を歩きながら、ふと階段の下に目を向ける。
暗がりの床に、木製の古い扉があった。
妙に気になる。
床下収納にしては大きい。
まるで、人が入るための……。
少女は無意識に、その扉へ近づいていた。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
触れた瞬間、ぞくりと背筋が震える。
冷たい。
まるで、そこだけ他の世界と繋がっているみたいだ。
少女は、扉を開こうとした。
その時ーー。
「お食事の準備ができております」
声がして、少女は肩を跳ねさせた。
いつの間にか、老婆がすぐ後ろに立っていた。
かび臭い吐息が首筋に触れる。
老婆は、にたりと笑った。
その光のない目は、まるで別のものを見ているようだった。
「ここは昔、よく焼けましてねぇ」
老婆は懐かしむように目を細めた。
少女は思わず顔を上げる。
「焼けた……?」
老婆は答えない。
代わりに、廊下の向こうの暗闇を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「空が開く夜というものが、あるんですよ」
老婆はそれ以上何も言わず、暗い廊下の奥へ消えていった。
その夜。
家族は露天風呂に入っていた。
ぬるい風が吹いている。
静かだった。
静かすぎた。
畑が近いのに、虫の声ひとつ聞こえない。
少女は不安げに空を見上げる。
そこに、星の光はなかった。
雲ひとつなく、月すら見えない。
それはまるで、黒く塗り潰された天井みたいだった。
ふと、遠くの暗闇に、小さな明かりがぼうっと揺れる。
赤、黄、橙色を纏ったその影は、すぐに形を表した。
飛行機だ。
だが、その動きは異常だった。
機体が大きく蛇行している。
後方から黒煙を吐き出しながら、ふらつくように空を裂いていた。
「……え」
少女の背筋が凍る。
飛行機はどんどん近づいてくる。
ありえない速度で。
まるで、この宿を目掛けて墜ちてくるみたいに。
窓の木枠が細かく震える。
湯の水面が、びりびりと波打っている。
「やっぱりおかしい!!」
少女は叫び、湯から飛び出した。
家族が驚いて振り返る。
「早く中に入って!!」
少女は緊迫した表情で叫んだ。
父も空を見上げ、ようやくこの宿の異変に気づいた。
そして、すぐに末っ子を抱き上げ、その体にタオルを巻きつける。
母と姉も慌てて湯船を飛び出した。
家族は部屋へ駆け込み、浴衣を掴んで濡れたまま袖を通す。
外の音が急速に大きくなり、窓が細かく震えている。
父は末っ子を抱えたまま、隠れる場所を探し、周囲を見回す。
母は姉と少女を抱き寄せ、不安そうに息を潜めていた。
嫌な予感が、どんどん膨れ上がっていく。
そんな中、少女の頭に浮かんだのは、あの扉だった。
階段の下。
暗闇の中の古い扉。
理由は分からない。
けれど、あそこへ行けば助かる。
そんな感覚だけが、頭の中ではっきり響いていた。
確信もないまま、少女は裸足で廊下を駆けた。
強い揺れで、壁に身体を打ち付けられる。
それでも、足を止めなかった。
階段下に辿り着くと、取っ手を掴んで必死に引いた。
だが扉は重く、びくともしない。
背後で轟音が膨れ上がる。
次の瞬間、父が駆け込んできた。
末っ子を片腕で抱えたまま、もう一方の手を少女の上から伸ばす。
錆びついた金具が軋み、扉がゆっくり浮き上がった。
重く冷たい空気が流れ出す。
そこには、地下へ続く狭い階段があった。
階段の先は暗く静かで、「ピッ、ピッ……」と、機械音が聞こえる。
(ここを降りれば……)
少女は振り返り、叫んだ。
「こっち!!」
その直後。
凄まじい爆音と共に、宿全体が揺れる。
炎と爆風が廊下を飲み込みながら迫ってきた。
「お母さん!! お姉ちゃん!!」
少女が叫ぶ。
炎の向こうで、姉が倒れていた。
崩れた柱に足を挟まれている。
母が必死に瓦礫を退かそうとしていた。
その背後で、炎が広がっていく。
父は、少女に末っ子を託すと、扉の外へ戻ろうとした。
だがその瞬間、天井が軋み、入口の周囲が崩れ始める。
母が振り返った。
炎に照らされた顔で、叫ぶ。
「行って!!」
父が足を止める。
少女の腕の中で、末っ子が泣いている。
「お母さん!!」
少女も涙を流しながら、母へ手を伸ばした。
姉は弱い力で、母の手を掴んだ。
震える声で「ごめん……」と呟く。
次の瞬間。
激しい揺れとともに、崩落が起きた。
扉が落ちるように閉まり始める。
父は反射的に少女と末っ子を抱き寄せた。
真っ赤な炎が隙間から流れ込む。
そして……。
扉は完全に閉じた。
地上の音が、嘘みたいに消えていく。
静まり返った地下で、少女は初めて気づいた。
自分たち以外の人影があることに。
暗闇の中には、何人もの人が座っていた。
誰も喋らない。
煤だらけの着物姿の女。
焼け焦げた軍服姿の男。
皆、ただ俯いたまま動かなかった――。
やがて三人は、救助隊を名乗る男たちに保護される。
彼らは白い服を着ていた。
少女は、その姿に小さな違和感を覚える。
だが、すでに心も体も限界だった。
車に乗せられたあと、少女の意識はゆっくりと沈んでいく……。
目が覚めると、そこは病院のベッドの上だった。
病室のテレビではニュースが流れている。
「――消防によりますと、事故が発生したのは昨日14時17分頃。〇〇山の峠道で――」
「この事故で、崖下へ転落した夫婦と子ども3人の計5人は、全員が意識不明の重体です。」
「また、現場付近には、戦時中の火災で焼け落ちた民宿の跡地がありーー」
目を覚ましたのは、少女と父、そして末っ子だけ。
母と姉は戻らなかった。
父は何も語らない。
ただ、生き残った二人を抱きしめて、静かに泣いていた。
それから何年経っても、少女は時々夢を見る。
焼け落ちる宿。
閉じていく扉。
そして炎の向こう側で。
母が最後に見せた、あの笑顔を――。




