理想を追い続けて
相談者は、三十代前半の男性だった。
背は低い。
体格も、いわゆる「男らしい」とは言い難い。
ただ――姿勢だけは、妙にまっすぐだった。
「……変な相談かもしれません」
「変かどうかは、話を聞いてからだ」
少し間があって、男は言った。
「性別を、変えました」
「女から?」
「はい。男に」
淡々とした口調だった。
だが、指先は固く組まれている。
「それで?」
「……完璧な男になれないんです」
俺は、何も言わずに続きを待った。
「身長も、低い」
「子どもも、作れない」
「声も、理想とは違う」
「努力は、してます」
「筋トレも」
「服装も」
「立ち居振る舞いも」
「でも」
少しだけ、声が掠れた。
「どこまで行っても」
「足りない気がして」
「やめたい?」
首を振る。
「やめたら」
「怠けてる人間になる気がして」
「……ほう」
「努力し続けないと」
「今までやってきたことが」
「全部、無駄になる気がするんです」
沈黙。
「聞くぞ」
俺は、静かに言った。
「今までの努力で」
「何か、一つでも」
「手に入れたものはあるか?」
男は、すぐに答えなかった。
しばらくして、小さく頷く。
「……あります」
「何だ」
「生きやすくは、なりました」
「だろ」
俺は椅子にもたれた。
「それで十分だ」
男が、顔を上げる。
「……でも」
「理想には、届いてない」
「理想はな」
少し間を置く。
「届かないようにできてる」
「え?」
「努力を続ける人間の理想は」
「常に、半歩先に移動する」
「追いつけないのが、仕様だ」
男は、唇を噛んだ。
「じゃあ……」
「この先も、ずっと……」
「足りないと思い続ける」
即答だった。
「それが、悪いか?」
男は、言葉に詰まる。
「なあ」
俺は続ける。
「足りないと思うから」
「壊れずに、ここまで来た」
「でも」
「足りないと思い続ける必要はない」
「……どういう意味ですか」
「努力をやめるな、とは言わない」
「だが」
一拍置く。
「努力しない自分を」
「怠け者だと思うな」
男の肩が、わずかに揺れた。
「もう気づいてるだろ」
「この道には」
「終わりがない」
「それでも進むか」
「どこかで立ち止まるか」
「それを決めるのは」
「怠けかどうかじゃない」
「自分を」
「これ以上、追い込むかどうかだ」
長い沈黙。
「……努力、してきました」
「ああ」
「逃げたくて、やめたいわけじゃない」
「知ってる」
「ただ……」
「疲れただけです」
「それを」
「怠けって呼ぶのは」
「雑すぎる」
男は、深く息を吐いた。
「……証拠」
「いりませんでした」
「ああ」
「もう」
「分かってたみたいです」
ドアが閉まる。
事務所は静かだ。
足りないと思えるのは、
ここまで来た証拠だ。
終わりがない道だと気づけるのは、
もう、十分進んだ人間だけ。
だから――
努力をやめるかどうかより、
自分を壊す努力を、
いつやめるかだ。
それが分かっているなら、
もう、証拠はいらない。




