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ずっと自分が悪いと思っていた

 相談者は、四十代前半の女性だった。


 姿勢が低い。

 声も小さい。

 椅子に座ってから、ずっと手を膝の上で重ねている。


「……怒られるのが、怖いんです」


 それが最初の言葉だった。


「誰に?」


 女は、少し迷ってから答える。


「……夫です」


 説明は、短かった。


 怒鳴る。

 物に当たる。

 直接殴られることはない。


「でも」

「怒ると、空気が変わるんです」

「私が、全部悪いって顔をされる」


 女は、目を伏せた。


「謝れば、静かになります」

「だから、謝ります」


「心当たりは?」


「……なくても」


 それで十分だった。


「昔から、です」


「何が」


「怒られたら」

「私が悪いって、思うしかなかった」


 俺は、何も書かなかった。


「親も、そうでした」

「怒ると、理由を言わない」

「でも、逆らうと、もっと怒る」


 女は、淡々と話す。


「だから」

「結婚すれば」

「安心できると思ったんです」


 少し、間が空く。


「……同じでした」


 声は、震えていなかった。

 もう、慣れている声だった。


「逃げようと思わなかった?」


 女は、首を振る。


「逃げるって」

「悪いことをした人が、することだと思ってました」


 来たな、と思った。


「じゃあ、聞く」


 女は、小さくうなずく。


「怒られるたびに」

「自分が悪いって思ってきた理由は何だ」


 女は、すぐに答えられなかった。


「……そう思わないと」

「生きてこれなかったから、です」


 俺は、少しだけ姿勢を変えた。


「正解だ」


 女が、顔を上げる。


「……え?」


「それしか、選択肢がなかった」


 ゆっくり言う。


「怒られたとき」

「相手が悪いって考えたら」

「もっと怒られる」


「逃げたら」

「居場所がなくなる」


「だから」

「自分が悪いことにした」


 女の目が、揺れた。


「それは」

「間違いじゃない」


 女は、唇を噛む。


「でも……」

「私は」

「弱いですよね」


 俺は、首を振った。


「弱い人間は」

「生き延びない」


 女は、はっとする。


「必死だっただけだ」


 間を置く。


「怒りで支配される場所で」

「壊れずに生きてきた」


「それを」

「“間違い”にする必要はない」


 女の目から、静かに涙が落ちた。


「……正しいって」

「言ってほしかったわけじゃないんです」


「ああ」


「分かってる」


 女は、声を詰まらせながら言う。


「ただ」

「必死だったって」

「誰かに、言ってほしかった」


 俺は、短く答えた。


「必死だった」


 それだけだった。


 しばらく、沈黙。


「……じゃあ」

「私、どうすれば」


 俺は、すぐには答えなかった。


「今は」

「答えを出さなくていい」


「え?」


「正しさも」

「決断も」

「いらない」


 静かに言う。


「今日は」

「自分が悪かったって考えずに」

「ここを出ろ」


 女は、ゆっくり息を吐いた。


「……それだけで?」


「十分だ」


 女は、立ち上がる。


 来たときより、背中が少しだけまっすぐだった。


「……証拠」

「いりませんでしたね」


「ああ」


「正しさも」


「最初から、なかった」


 ドアが閉まる。



 事務所に、静けさが戻る。


 相棒が、ぽつりと言う。


「怒りで人を縛るなんて、最低」


「わかってるさ。本人も」


「そうなの?」


「どっちも生きるのに、必死なだけだ」


 窓の外を見る。


 怒られた理由を探す人生は、

 生きるための知恵だった。


 間違いじゃない。


 必死だった。


 それだけで――

 もう、証拠はいらない。


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