第8話 夜中の散歩
どさり。
朔也はベッドに倒れ込み、そのまま天井を仰いだ。
柔らかく体を受け止める感触に、思わず息が抜ける。
「……これ、いいな」
小さくつぶやきながら、視線を巡らせる。
天井から部屋全体を均等に照らしている、白い光――LEDというらしい。
夜なのに、こんなに明るい。
闇を追い払うように、部屋の隅々まで見渡せる。
それだけで、朔也には魔法に思えた。
さらに台所に目を向ける。
そこには、つまみをひねるだけで火が出る装置がある。ガスコンロ、と相羽は言っていた。
一瞬で、火が生まれる。
村では、火を起こすのに何分も、時には何十分もかかった。
薪を組み、火種を守り、風を読み、ようやく炎が立ち上がる。
それが、ここでは――一瞬だ。
「……すごいな」
思わず、しみじみとそう思う。
これが、都会というものなのか。
光も、火も、
すべてが当たり前のように、すぐ手の届く場所にある。
朔也は天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
今日一日で覚えたことは多すぎる。けれど、不思議と悪くない。
この世界は、まだ分からないことだらけだ。
それでも――少しだけ、ここで生きていけそうな気がした。
そして、朔也は時計を見た。
村にも時計はあった。
だから、読み方に困ることはない。
夜の十一時。
「……少し、散歩しようかな」
そう思った。
夜の風に当たるのも、悪くない気がしたのだ。
村では、夜に外へ出るのは危険だった。
野生動物に出くわす可能性があるし、暗闇はそのまま死に直結する。だが、ここではその心配はないらしい。街灯があり、人の作った道があり、危険は管理されている。
――少し、外の世界を見てみたい。
そう思い、朔也は春用の上着を一枚羽織った。
それだけで十分だと感じた。寒さも、思ったほどではない。
鍵をかけ、静かに外へ出る。
街中までは、歩いて一時間ほど。
それを「遠い」とは、朔也は思わなかった。
村にいたころは、川まで行くのに一時間かかった。
しかも、山道だ。足場は悪く、雨が降れば滑りやすくなる。それを思えば、今目の前に続く舗装された道路は、驚くほど歩きやすい。
段差は少なく、道は平らで、先が見える。
迷うことも、踏み外すこともない。
「……快適だな」
そう思いながら、朔也は歩き出した。
夜の街は、まだ眠っていない。
遠くに灯る明かりを眺めながら、彼は静かに、知らない世界へと足を運ばせていった。
ネオンに包まれた町。
深夜だというのに、居酒屋の前には人が溢れていた。
笑い声、グラスのぶつかる音、肩を組んで歩く姿。昼間とはまるで別の顔をした街が、そこにあった。
楽しそうだ。
そして、不思議でもある。
朔也は足を止め、しばらくその光景を眺めていた。
村では、夜に人が集まることなどほとんどない。ましてや、こんなに賑やかに笑い合うことはない。
「もし、一人飲みをお探しですか?」
不意に、声をかけられる。
振り返ると、店の前に立つ男が、にこやかにこちらを見ていた。
一人飲み。
意味はよく分からないが、たぶん――お金が必要な行為なのだろう。
この世界では、何をするにもお金が要る。
相羽がそう言っていた。
「すみません。俺、金持ってないです」
正直に答える。
「ああ……そうですか」
男はそれ以上何も言わず、すぐにどこかへ行ってしまった。
それからも、同じようなことが何度か続く。
「かわいい女の子、いますよ」
「そこのお兄さん、今日は安くしておくよ」
通りを歩くたびに、違う声が飛んでくる。
朔也は、その一つ一つに立ち止まり、
きちんと目を見て、丁寧に答えてしまう。
すると、どの人も決まって、興味を失ったように去っていく。
振り返ることもなく、次の通行人へと向かっていく。
――悪いことをしているわけじゃないのに。
なぜか、胸の奥に小さな罪悪感が残った。
期待させてしまったのだろうか。時間を取らせてしまったのだろうか。
そんなことを考えてしまう自分に、少し驚く。
村では、知らない人に声をかけられることなど、ほとんどなかった。
ましてや、こんなに次々と。
「……なるほど」
朔也は、小さく息を吐く。
「これが、都会なのか」
誰もが軽く声をかけ、
誰もが、軽く去っていく。
その距離感を、まだうまく掴めないまま、
朔也は再び、ネオンの下を歩き出した。
ふらふらと歩きながら、街並みを観察しているうちに、
朔也は、いつの間にかある場所の前に立っていた。
「……あれ?」
見覚えがある。
「確か、ここは……公園、だったか」
朝、相羽に案内してもらった場所だ。
国立公園。木々が多く、昼間は散歩している人や、子ども連れの姿もあった。
だが、今は夜だ。
普段なら、この時間帯には閉園しているはずだった。
入り口のゲートは閉じられ、照明も落とされ、人の気配はなくなる。
――なのに。
その日は、なぜかゲートが開いたままになっていた。
「……ちょっとだけ、覗いてみようかな」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。
理由は、特にない。ただ、気になった。それだけだ。
足が、自然と前へ進む。
何かに引き寄せられている、というほど大げさではない。
けれど、立ち止まる理由も、見当たらなかった。
朔也は、そのままゲートをくぐる。
街灯は、公園の外にしかない。
一歩中へ入った途端、周囲はぐっと暗くなった。
だが、朔也は気にしなかった。
――電気がついていない場所には、普通の人は入らない。
そんな感覚を、彼はまだ持っていなかった。
夜の公園は、静かだった。
音が、少ない。
それが、なぜか落ち着く。
朔也は、暗がりの中を、ゆっくりと歩き始めた。




