第7話 魔女の会話
「……遅いわね」
――やっぱり、言われた。
絶対こうなると思っていた。
ルームシェアの同居人には、今日は術理の勉強につき合ってもらう予定だった。昼には帰ってきて、夜までにはノルマを終わらせる。最初から、そのつもりで段取りを組んでいた。
本来なら、もう少し早く帰ってくるはずだったのだ。
それなのに。
あの――御影朔也とかいう少年。
気になったことは、全部、納得するまで止まらない。バスも、買い物も、金の価値も、生活の仕組みも。一つ説明すれば、次の疑問が出てくる。そのたびに立ち止まり、噛み砕いて説明する羽目になった。
結果、かかった時間は、想定のほぼ倍。
気がつけば、帰宅したころには、空はすっかり夜の色だった。
――最悪。
結月は、内心でそう吐き捨てる。
約束を破ったのは事実だ。言い訳の余地はない。それでも、この疲労感の原因をすべて自分の責任にされるのは、正直、釈然としなかった。
頭が重い。
肩も、脚も、全部がだるい。
今日は、もう何も考えたくなかった。
「学校の用事よ。ちょっと……想定外が多々あってね」
結月は靴を脱ぎながら、早口で続ける。
「常識も何も知らないやつの町を案内するっていう、ガイドの仕事。お駄賃なしのボランティアよ」
自分で言っておいて、嫌になる。
同居人は案の定、不満そうな顔をしていた。
結月と彼女がルームシェアを始めて、もう一年になる。
一年も一緒に暮らしていれば、こういう「面倒事を引き受けてくる癖」は、とっくに見抜かれている。
「……いい加減、その“なんでも安請け合いする癖”、どうにかしなさい」
落ち着いた声だった。
責め立てるわけでもなく、ただ事実を指摘するだけの口調。
「そんなことをしても、あなたにとって何にもならないわ」
神楽坂灰音。
名古屋市にある金鹿女学院の二年生。
肩口まで伸びた、手入れの行き届いた黒髪。
感情を表に出さない穏やかな表情と、年齢以上に落ち着いた雰囲気を持つ少女だ。だが、その静けさには、逃げ場のない正論が詰まっている。
「……分かってるわよ」
結月は小さく息を吐き、視線を逸らした。
「まあ、今回のはこれっきり。さすがに懲りたわ」
自分に言い聞かせるようにそう言ってから、話題を切り替える。
「それより。今日は何の術理をやるつもりだったかしら?」
その問いに、灰音は一瞬だけ結月を見つめ、
小さく息を吐いてから、静かに口を開いた。
「今日は、結界術の授業にしましょう」
灰音は淡々と言った。
「基本中の基本よ。あなたは苦手みたいだけど――認識疎外の結界を張れないのは、術理士として致命的だわ」
そう。
術理士は、世間の人間にその存在を知られてはならない。
だからこそ、結界術は必須だった。隠す、覆う、認識を逸らす。それができなければ、一人前どころか、半人前にすらなれない。
分かっている。
分かってはいるのだが――
「……あれ、難しいのよね」
結月は、正直に言った。
「私は、全部を壊す術理のほうが楽でいいわ」
守るよりも、隠すよりも、
破壊するほうが、ずっと性に合っている。
結月はそういう人間だった。
「そうね」
灰音は否定しない。
「あなたの術理核の特性を考えれば、破壊に特化しているのは事実よ」
一拍。
「でも――結界術が使えない限り、あなたのそのバカ力も宝の持ち腐れ」
容赦のない結論。
ぐうの音も出ない。
反論の余地すらない、完璧な正論だった。
結月は黙り込み、視線を逸らす。
悔しいが、否定できない。
破壊は派手で分かりやすい。
だが、隠せなければ、使う資格すら与えられない。
――だから私は、まだ半人前。
その事実だけが、静かに胸に沈んだ。
「わ、分かっているわよ。だから、ちゃんと真面目に勉強してるじゃない」
そう言って、結月は誤魔化すように髪を撫でた。
無意識の癖だ。指先で前髪を整えると、少しだけ気持ちが落ち着く。
「まったく……あなたは、いつになったら一人前になるのかしら」
灰音の声は、相変わらず落ち着いている。
責めるでもなく、嘲るでもなく、ただ淡々とした事実の確認。
まだ、灰音に術理を教わり始めてから一年しか経っていない。
当然と言えば当然だ。
――もっとも。
術理核そのものを受け継いだのは、もう五年も前になる。
それを思うと、胸の奥に小さな棘が刺さる。
「……それでさ」
結月は、意識的に話題を変えた。
「最近、私たちにちょっかいかけてくる連中のことなんだけど」
空気が、わずかに変わる。
最近、町の様子がおかしい。
いわゆる“吸血鬼”と呼ばれる人間が、目に見えて増えていた。
夜の路地。
人気のない場所。
認識疎外をすり抜けるような、不自然な行動。
それは――神楽坂家のテリトリー内では、ありえない異常だった。
見過ごせるレベルではない。即刻、調べる必要がある。
「ええ、把握しているわ」
灰音は、迷いなく答えた。
「調査も進めている。ついさっき、一体補足したところよ」
淡々とした口調のまま、続ける。
「使い魔に追い込ませているから、もう少しで結界内に誘導できるはず」
「……それって……」
結月は、言葉の続きを探すように、わずかに息を詰めた。
「ええ」
灰音は、静かに頷く。
「あなたの――初陣になるかもしれないわね」
一瞬、部屋の空気が張りつめた。
冗談めいた調子は、微塵もない。
「……いつ?」
問いは短く、覚悟を測るような響きを帯びていた。
「深夜二時、といったところかしら」
「……分かったわ」
結月は、短くそう答えた。
その声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。




