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第5話 何も知らない少年

「……あなた、バス停も知らないの?」


 思わず出た言葉だった。

 この現代社会で、バス停を知らない人間が存在するとは思っていなかった。


 冗談か、何かの比喩か。

 そう疑いたくなるほど、結月には信じがたい。


 そもそも――この少年は、どうやって学校まで通っているのだろう。

 疑問が、次々と浮かんでくる。


「ああ。それはいったい何なんだ。教えてくれ」


 御影は、困った様子もなく、ただ純粋に問い返してきた。

 知らないから聞く。

 それだけの態度。


 ……なるほど。


 山原が、この役目を私に投げた理由が、よく分かった。

 これは、投げたくなる。間違いなく。


 一般常識を知らない、というレベルじゃない。

 根本から抜け落ちている。


 ――どうやって、今まで生きてきたの?


 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに結月は問いを投げた。


「……あなた、ここまでどうやって来たのよ?」


 霧ヶ峰高校は、山の上にある。

 下町まではそれなりの距離があり、徒歩で行き来するような場所じゃない。自転車で通っている生徒もいるが――目の前の少年は、どう見ても自転車に乗れるようには見えなかった。というより、そもそも持っていなさそうだ。


「歩いてきたんだ。……一時間くらいかかったかな」


 ――は?


 結月の思考が、一瞬止まる。

 一時間? 徒歩で?


 何を言っているんだ、この少年は。

 一体、どこから通っているというのか。


「……どこに住んでいるのよ。一時間ってことは、欠町かしら?」


 そう問いかけると、朔也は少し考え込むように視線を泳がせた。


「たしかー……」


 間延びした声。

 嫌な予感が、確信に変わりつつある。


「たぶん、そうだと思う。確か、住民票を登録したときに、そう書いたよ」


 ――住民票。


 結月は、頭の奥がずきりと痛むのを感じた。

 住所を「覚えていない」ことも異常だが、住んでいる場所を“書いたかどうか”でしか認識していないのが、なおさらおかしい。


 これはもう、放っておけるレベルじゃない。


「……いいわ」


 結月は深く息を吐き、結論を出す。


「今日から、バスを使いなさい。その使い方も――今日、ちゃんと教えるわ」


 それは助言というより、半ば命令だった。


 こうして私は、この常識知らずの少年に、一から百まで教える羽目になった。


 最悪だわ。


 バスの乗り方はもちろん、買い物の仕方も知らない。

 貨幣の価値すら曖昧で、値札を見ても首を傾げる始末だ。


 今までお金とは無縁の生活をしていた?

 ――どこの原始人よ。


 しかも、話を聞く限り、今は一人暮らしをしているらしい。

 じゃあ、どうやって生活しているのか。

 そこを突っ込めば突っ込むほど、説明が追いつかなくなる。


 おかしい。

 全部がおかしい。


 なんなんだ、この少年は。


 そうこうしているうちに、空はすっかり夕方の色に染まっていた。

 土曜日は、完全に潰れた。


 ルームシェアしている同居人に、小言を言われる光景が目に浮かぶ。

 ――ああ、頭が痛い。


 せめて機嫌取りくらいはしておかないと。

 結月はため息をつきながら、思考を切り替える。


 お土産を買って帰ろう。

 ケーキでも買っていけば、少しは許してくれるはずだ。


 最後に地元のスーパーに寄って――

 そこで、この少年ともおさらば。


 そう思いながら、結月は足を向けた。


「今日は、ここまでで終わりよ」


 結月は足を止め、振り返らずに言った。


「このスーパー、あなたの住んでいるアパートから近いでしょ。今後はここを使いなさい。利用の仕方は、さっきのコンビニと同じ。あとは自分でやって、学ぶこと」


 朔也は、説明と説明のあいだに余計な口を挟まない。

 それは、今日一日付き合ってきて分かった、数少ない“評価できる点”だった。


 聞いたことを自分の中で噛み砕き、それでも理解できない部分だけを、きちんと質問してくる。

 頭の回転も、記憶力も悪くない。


 ――ただ、知らないだけ。


 本当に、それだけなのが、逆に理解できない。


「わかった。ありがとう、相羽」


「気にしなくていいわ」


 結月は即座に切り捨てる。


「それより、早く帰りなさい。あんまり暗くなってからだと、警察に補導されるわよ」


「よく分からないけど、分かったよ。すぐ帰る」


 少し間を置いて、朔也は付け加えた。


「また、明日」


 結月は、その言葉を遮るように言った。


「明日からは、話しかけてこないで」


 はっきりと、冷たく。


「私たちは友達になったわけじゃない。今日のは、あくまで仕事。――それだけよ」


 じゃあね。


 そう言い残し、結月はスーパーの自動ドアの向こうへ消えていった。


 背後で扉が閉まる音を、彼女は振り返らずに聞いていた。




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