第4話 後悔
その少年は――御影朔也。
先ほど山原から聞いた名前が、頭の片隅で反芻される。
御影は窓際に立っていた。
だが、外を見ているのか、雨を見ているのか、それとも何も見ていないのか判然としない。焦点の合わないその表情は、まるで初めてこの世界に放り出された赤ん坊のようで、意思も感情も読み取れなかった。
――その顔が、無性に癪に障る。
理由は分からない。
自分でも驚くほど、胸の奥がささくれ立っている。普段なら、こんな感情を覚えることはないはずだ。それなのに、なぜか苛立ちだけが先に立つ。
雨の中、呼び出されただけでも十分なのに。
よりにもよって、この土砂降りの中を、街中案内しろ、だなんて。
――仕方ない。これは不可抗力だ。
そうやって頭の中で言い訳を並べ、無理やり自分を納得させる。
これは自分が短気なわけじゃない。状況が悪いだけだ。
そう思わなければ、この胸のざらつきを持て余してしまいそうだった。
「御影くん、お待たせして申し訳ないね。こちらが相羽結月さん。君と同じ二年生だ。君に町の案内を申し出てくれた、心優しい女の子だ。よろしくしてほしい」
――は?
結月は、思わず眉をひそめた。
誰が手を挙げた。そんな覚えはない。誰もやらないから、仕方なく押し付けられただけだというのに。
相変わらずだ。
都合のいいときだけ、こうして美談めいた言葉を並べる。教師という生き物は、本当に性質が悪い。
しかし、時間を無駄にする気はなかった。
結月は御影に視線を向け、感情を隠す気もなく、きっぱりと言い放つ。
「時間が惜しいから、すぐ行くわ。――御影くん、だったかしら」
一拍置き、わざと距離を詰める。
「私は相羽結月。呼ぶなら相羽でいいわ。間違っても、下の名前で呼んだり、“さん”付けしたりしないで」
それは自己紹介というより、最初に引いた一線だった。
御影は、少し考え込むように視線を落とし、それから本当になんでもないことのように口を開いた。
「相羽は、なにをそんなに怒ってるんだ?」
――危ない。
結月の内側で、何かが弾けかけた。
噴火寸前だ。この教師だけでも十分に神経を逆なでされているというのに、その苛立ちを“指摘される”こと自体が、さらに苛立ちを煽る。
この少年、危険だ。
悪意がないぶん、なおさらたちが悪い。
自覚のない刃を、平然と振り回してくるタイプだ。
結月の中で、御影朔也という存在は、初対面にして最悪の評価を叩き出した。
「……怒ってないわ」
声は平坦だった。
感情を抑え込むときの、あの冷たい調子。
「それより。今から何をするのか、あなた分かっているの?」
詰めるように言った、その瞬間。
朔也は慌てた様子もなく、むしろ先手を打つように、すっと手を挙げた。
「いや、まったく」
あっさりと、事実だけを並べる。
「だって、何の説明もなかったんだ。ただ呼び出されて、ここで待機してろって言われただけで」
言い訳でも、挑発でもない。
ただの報告。
――だからこそ、余計に腹が立つ。
結月は、思わず山原を睨みつけた。
本当に――何も説明していないのか。この男。職務怠慢にもほどがある。
その視線に気づいたのか、山原はまったく悪びれる様子もなく、軽く手を挙げる。
「いやはや、こういうのはサプライズが大切だからさ。それより相羽さん、あとはよろしくね。一通り回ったら、そのまま直帰してくれて大丈夫」
さらりと追撃が来る。
「でも明日、報告書は出してもらうから。よろしく」
言いたいことだけ言って、山原は廊下の奥へと消えていった。
――最悪。
結月は、こめかみを押さえる。頭痛がじわじわと込み上げてくる感覚。
だが、目の前の少年に罪はない。それだけは、はっきりしている。
依頼を受けた以上、やり切る。
それが相羽結月という人間だ。
「……それじゃあ、行くわよ」
深く息を吸い、感情を押し殺す。
「とりあえず、バス停の場所を案内するわ」
そう言って歩き出しかけたとき、背後で足音が止まった気配がした。
振り返ると、朔也が不思議そうな顔でこちらを見ている。
「なにかしら?」
一拍。
朔也は、遠慮がちに手をすっと上げた。
「……ばすていって、なんだ?」
――帰りたい。
結月は、心の底からそう思った。
今日という一日を、すでに後悔し始めていた。




