第2話 頼み事
愛知県桐原市霧ヶ峰町。
四月。
霧ヶ峰高等学校では入学式が行われ、新学期が始まる季節だった。
校門から続く坂道には桜が咲き誇り、春の空気が校舎を包み込んでいる。
そんな晴れやかな日に。
校舎の廊下を、明らかに不機嫌そうに歩く人影があった。
腰に届くほどの長い黒髪を揺らし、
遠慮という言葉を知らない足取りで、ずかずかと進んでいく。
相羽結月。
霧ヶ峰高等学校二年生。
生徒会長。
成績優秀、眉目秀麗。
教師からの評価も高く、後輩からの人気もある――
表向きには、非の打ちどころのない優等生だ。
そんな彼女が、これほどまでに不機嫌な理由は単純だった。
今日は、土曜日。
にもかかわらず、生徒会の担任教師に呼び出された。
それだけで、機嫌を損ねるには十分すぎる理由だ。
(入学式シーズンで忙しいのは分かるけど……)
内心で悪態をつきながら、目的の部屋の前に立つ。
一瞬の間も置かず――
ガラッ、と。
わざとらしいほど大きな音を立てて、扉を開けた。
そこにいたのは、一人の男だった。
生徒会担任――山原貴仁。
二十代の若い教師で、顔立ちも整っている。
女子生徒からの人気も高く、校内では“話しやすい先生”として知られていた。
もっとも。
結月にとっては、別だ。
(この人の、この感じ……)
ひょうひょうとした態度。
深刻さの欠片もない軽い口調。
何でもかんでも生徒会に――
正確に言えば、結月に押し付けてくるくせに、
頼むときだけは決まって申し訳なさそうな顔をする。
だが、その表情の奥に、
本気で悪いと思っている色はない。
どうせ今日の呼び出しも、ろくな用事ではない。
それくらい、最初から分かっていた。
それでも。
(……頼まれたら、断れない)
それが自分の性格だということを、
結月自身が一番よく理解している。
責任感が強い。
投げ出すことができない。
それは長所であり、
同時に、はっきりとした欠点でもあった。
結月は、小さく息を整える。
感情を、できるだけ表に出さないように。
それでも――
怒っていることだけは、はっきり伝わるように。
棘を含ませた声で、結月は言った。
「で?
今日、呼び出したのは……何の御用ですか?」
「あー、来てくれたんだ。相羽さん」
山原の、やけに乾いた言い方。
それだけで、結月のこめかみに青筋が立つ。
(……もう帰ってやろうかしら)
本気でそう思った。
「で?」
短く返し、鋭く睨む。
「いやいや、すまないね。
僕じゃ、どうしようもなかったんだ」
山原は苦笑いを浮かべながら、軽く手を振る。
「どうしても、相羽さんの力を借りたくてさ」
(……嫌な予感しかしない)
土曜日に呼び出してまで、何をさせる気なのか。
結月がそう思っている間にも、山原は一方的に話を続ける。
「実はね、転校生が一人いてさ」
結月は、眉をひそめる。
「今学期からなんだけど、ちょっと……普通じゃなくてね」
嫌な言い方だ、と結月は思った。
「学校のことは一通り説明したんだけど、
一般常識っていうか、そういうのがね……」
山原は曖昧に言葉を濁す。
「こういうのは、生徒同士のほうがいいと思ってさ」
そう言って、机の上に何かを置いた。
「街中を、ちょっと案内してほしいんだ」
差し出されたのは、紙の束。
「一日バスのチケット。
乗り放題だから、街中を回れると思うよ」
結月は、それを一瞥しただけで、即答した。
「帰ります」
間髪入れず、結月は踵を返した。
(……ふざけているのか、この教師は)
そんなもの、生徒に頼むことじゃない。
意味が分からない。
そもそも、なぜ自分なのか。
――普通じゃない。
山原が口にしたその言葉が、
わずかに胸の奥に引っかかっているのも事実だった。
(……普通じゃない、って)
ほんの少しだけ、興味が湧いてしまった自分が腹立たしい。
「まって、まって!」
背後から、慌てた声が飛ぶ。
「お願いだ! 本当に困ってるんだ!」
振り返ると、山原が大げさに腰を低くしていた。
今にも土下座しかねない勢いだ。
(……ああ、もう)
結月は、内心で舌打ちする。
こういうのに弱い。
頼まれると、どうしても突き放せない。
その性格が、自分でも恨めしい。
「……はあ」
深いため息を一つ。
「分かりました。
じゃあ、手早く済ませましょう」
山原の顔が、ぱっと明るくなる。
「その転校生、どこにいるんです?」
「ありがとう! さすが相羽さん!」
山原は大げさに両手を握りしめ、
祈りを捧げるように天を仰いだ。
「……ちょっと」
結月は軽く舌打ちし、
そのまま山原の後ろについて、教師の部屋を出る。
嫌な予感しかしない。




