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第一話:断崖絶壁のウェディング・モーニング

その言葉は、まるで祝福の鐘の音ではなく、処刑台の露を払う斧の音のように響いた。


「……エヴァ、もう君を抱かなくて済む」


窓から差し込む朝陽が、夫となった男――ユース・ルグラン公爵の金糸の髪を神々しく照らしている。昨夜、夫婦の契りを交わしたばかりの寝室。シーツの海の中で、彼はこれ以上ないほど爽やかな、聖者のような微笑みを浮かべていた。


対する私、エヴァ・ルグラン(旧姓ヴァニリア)は、肌着一枚の姿で固まっていた。  一瞬、自分の聴覚が修道院の鐘の音でバグったのかと思った。あるいは、昨夜の彼の「義務」とやらが激しすぎて、脳が酸欠を起こしているのか。


「……はぃ? ……今、なんと仰いましたか?」

「だから、もう君を抱かなくて済むって、言ったのだけれども?」


ユースは小首を傾げた。芸術品のように整った顔立ちが、不思議そうに私を見つめている。  

呼吸困難に見舞われ、私は喉を鳴らした。


「私達は王命による政略婚だ。昨日、相応の手順を踏んだ。……私の計算が正しければ、昨日で子が出来ただろう」 「……出来た……?」 「そう。恋愛感情もなく、無理に体を重ねるのは君だって嫌だったろう? もう無理をしなくていい。今日からは別の寝室で、君の好きなように過ごすといい。子どもを産むまで安静に。……ああ、食事は最高級のものを用意させよう」


ユースは「じゃ!」と軽やかに手を振り、茫然自失の私を残して部屋を出て行った。  

バタン、と扉が閉まる音。  


静寂。    


……え、何。  

これ、振られたの?  

それとも、私は「子種を入れるための器」として、一晩で御役御免になったってこと?


そもそも、夫であるユース・ルグラン公爵とお互いの姿を認識したのは、昨日の結婚式が初めてだった。


私は五歳から親元を離れ、王国の最西端にあるマラカイト島の修道院で、質素倹約をモットーとした共同生活を十六歳まで送っていた。  三ヶ月前、伯爵家へ帰ってきて初めて、一歳の時から決まっていた「王命の婚約」があることを知らされたのだ。  帰還早々、「美味しいものが食べられる!」とはしゃいでいた私に、母マルグリット(三十五歳・残念な美人)はこう言った。


『エヴァ、あなたの婚約者のユース様って、スパダリのイケメンよ。モチベ、バク上がりじゃない?』


母の語彙は理解不能だったが、昨日の結婚式で祭壇に立つ彼のシルエットを見た時、私の胸は確かに躍った。母の言う通りだった。

彼は美しかった。  

誓いのキスの時、ベールを上げられて目を閉じれば、空気しか触れてこなかったけれど。  


初夜、寝室で向かい合った時、彼が震える手で私の服に手をかけ、言葉少なに「……義務、だからな」と呟いた時も、私はそれを「慣れない初心な男性の照れ」だと思っていたのに。


 ――蓋を開けてみれば、これだ。


一晩で、御役御免。  


恋愛感情がないから、もう触れない。  

それはつまり、「君には女としての魅力が欠片もない」と言われたも同義ではないか。


「…………ふ、ふざけないでよ」


じわり、と目頭が熱くなる……ことはなかった。  代わりに、修道院で十年以上、木剣を振り続けて鍛えた私の右拳が、無意識にベッドのサイドテーブルを叩きつけていた。


メキッ、という嫌な音がして、高価そうな木材に亀裂が入る。


「……安静にしてろ? 美味しいものを食べろ? なにそれ。私を家畜か何かだと思ってるわけ?」


理解不能。

屈辱。そして、何よりの不快感。    


だが、今の私は公爵夫人。王命の婚姻。逃げ出すことも、離縁することも容易ではない。  

ならば、どうするか。   「……いいわよ。抱きたくないなら結構。こっちから願い下げだわ」


私は、ぐしゃぐしゃになったシーツを蹴り飛ばして立ち上がった。  

とりあえず、言われた通り美味しいものを限界まで食べてやろう。

そして、胃もたれするほど食べた後は――。


「……剣を、振ろう」


このモヤモヤした屈辱を忘れるには、筋肉を追い込むのが一番だ。  

私は呼び鈴を鳴らそうとして、ふと、亀裂の入ったサイドテーブルを見た。


……あいつ、次に私の前に現れたら、絶対に投げ飛ばしてやる。    


初夜の睦事の朝。  


ルグラン公爵夫人は、愛ではなく「殺意に近い闘志」を胸に、新たなる人生の一歩を踏み出したのである。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

「もう抱かなくて済む」――言われた側の気持ち、察してほしいですよね…。

次話、エヴァは怒りを“筋肉”に変換していきます。

続きをぜひお付き合いください!

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