2 相棒
「え? 何で? どういうこと? どうしてジョンが言葉を話しているの?」
「落ち着いてくれ、莉渚。まずは深呼吸だ。ほら、吸ってー、吐いてー」
「う、うん。そうだね。吸ってー、吐いてー。って、どうしてジョンが喋っているの!?」
私はペットに深呼吸を教わるという大変奇妙な体験をしていた。そして、人生で初めてとなるノリツッコミをした。朝から色々なことがありすぎて頭がパンクしそうだ。
「とりあえず、座ってくれないか? 一度状況を整理してみようか」
「う、うん。分かったよ」
ジョンの言う通りに、私は公園のベンチに座った。彼は私の後ろを四足歩行でついてきた。
よかった、四足歩行で。これでジョンが二足歩行を始めたらいよいよ私はどうにかなってしまう。
ジョンは私の目の前でお座りした。その様子だけを見るとただ行儀良くお座りしている犬に見える。
「さて、どこから話そうか」
「いや、待って。やっぱり慣れないよ」
お座りしているジョンから聞こえるバリトンボイスに私は混乱した。朝起きたことを思えば、こうして普通に言葉を交わせることは嬉しい。
しかし、その相手がまさか我が家のペットだとは想像していなかった。いや、こんなことは想像できるわけがない。
「莉渚、いい加減落ち着いてくれ。君が冷静にならないとワタシも話ができない」
「逆にジョンはどうしてそんなに落ち着いているの? それが不思議なんだけど」
ジョンだって私と会話することは異常な状況のはずだ。しかし、取り乱す私と違ってジョンは落ち着き払っていた。
「ワタシも心底驚いているよ。こうして莉渚と会話ができるなんて夢にも思わなかった」
「本当? すごい冷静に見えるけど」
「ほら、尻尾を見てくれ」
ジョンは私に背中を向けた。彼の尻尾はブンブンと荒ぶっていた。そういえば、ジョンは興奮すると尻尾を振ることを思い出した。
「あ、本当だ」
「そうだろう? ワタシは莉渚とは言葉を交わさずとも信頼関係にあると信じている。けれど、こうして実際に話をすることができてワタシはとても嬉しい」
ジョンは笑っていた。私の目の錯覚なのか何だか今のジョンは人間らしく見える。
今みたいににっこりと笑うこともあるし、口を開いて会話する様は人間のようだった。
「ジョン……。ありがとう」
私は彼の頭をそっと撫でた。状況はあまりにもトンチキだが、ジョンのおかげで1人でいる時よりも気持ちが落ち着いた気がする。
ジョンは頭を撫でられて、クゥーンと嬉しそうな鳴き声を上げた。あ、その声はいつもの鳴き声なんだ。あのバリトンボイスではなかった。
「まずは聞きたいんだが、どうして莉渚は家を出たんだ?」
ジョンの問いかけに私はハッとなった。私はジョンに自分の異常をまだ説明していなかった。ジョンからすれば私が突然家を出ていったから驚きだろう。
「実はね」
私はジョンに説明した。朝起きたらお母さんやお父さんの言葉が分からなくなっていたこと、そして、その状況が怖くなってしまい、家から飛び出したこと、お母さんたちと同じように他の人の言葉も分からなくなっていたことを説明した。
私が説明している間、ジョンは黙って耳を傾けていた。
「なるほど。そんなことがあったのだな。今朝、家から出ていく君は明らかにどこか様子が変だったが。大変だったね、莉渚」
「ジョン……」
ジョンのバリトンボイスで慰められると自然と涙が溢れた。今までこの狂った状況を誰にも相談できず、心苦しかった。私は1人じゃないことを実感した。
私を探しに来てくれたジョンの存在がとても嬉しく思った。
「そういえば、ジョンはどうやって私を探してくれたの?」
疑問に思った私はジョンに問いかけた。彼は家の中で飼っているから、どうやってお母さんたちの目を盗んで家を出たのか不思議に思ったからだ。
「ああ、そのことなんだが」
ジョンは何か言いにくそうな顔をしていた。何かあったのだろうか。
「どうしたの?」
「実は君の両親が警察に君の捜索願を出したんだ」
「え?」
私は固まってしまった。警察って、事件を解決したり悪い人たちを捕まえたりするあの警察のことだろうか。私は事態が大きくなっていることを実感した。
「え? 私、もしかして警察に追われるの?」
私は頭の中で警官から逃げ回る自分の姿を想像した。まさか一介の女子高校生である私が警察のお世話になるとは思わなかった。
「いや、違うよ。捜索願を出したからと言って、警察はそこまで全力を挙げて探すわけではない」
ジョン曰く警察は私の情報(年齢や容姿等)をまとめ、通常の業務の傍ら、聞き込みや目撃情報を集めるそうだ。大勢の警官が街中を探し回るのではないらしい。
警察に追われるわけではないと知って、私は胸を撫で下ろした。
「というか、どうしてジョンはそんなに警察に詳しいの?」
「ああ、友達から教わったんだ」
ジョンは何気なくそう言った。警察に詳しいという彼の友達。そんな犬がいるのだろうか。
「それで、君の両親が警察に行っている間に、ワタシは君を探しに家を出たんだ。君の匂いを追ってね」
「なるほど。匂いを辿って私がいる場所が分かったってことだね。あれ? それじゃ、ジョンも家出してきたってこと?」
お母さんとお父さんが出かけている間ということは、ジョンは誰にも言わないで(というか、話したくても話せないけど)私を探しに行ったことになる。両親から見ればジョンも家出したように見えるだろう。
私の指摘にジョンは痛いところを突かれたという顔をした。
「うっ。そう言われるとそうなる。軽率だったかもしれない。けれど、莉渚のことが心配だったから、じっとしていられなかった」
「私は気にしていないよ。ジョンとこうして会えたからね」
私は彼に安心するように笑いかけた。ジョンもまた私に向かって笑顔を向けた。すると、彼は真剣な顔になって、私を見た。
「莉渚は家に帰りたくはないのか?」
「え?」
「さっき、ワタシが警察は追ってこないと言った時、君は明らかにホッとしていた。だから、もしかしたらと思ってね」
ジョンからそう言われ、私は警察に見つかった時のことを想像した。警察によって家に送られ、私はお母さんとお父さんに会うことになるだろう。
そうすると、またあの不快な音を発する両親と会わないといけなくなる。そもそも、警察とも話さないといけない。
そう思うと今の私はあまり家に帰りたいとは思わなかった。
「そうかもしれない。さっきも言ったけど、今の私は人が話す言葉を理解できないんだ。それどころか、耳を塞ぎたくなるような音だからできるだけ人と話したくない」
今の私が家に帰ったところで、両親と会話ができない。そんな状態の私を両親は放っとけずに、病院かどこかへ私の異常を調べるために連れていくだろう。
そうなると色々な人と話をするはずだ。そう思うと、家に帰る気は起こらなかった。
「なら、莉渚はどうしたいんだ?」
「私?」
「ここの公園に来るまで、ワタシは君が家に帰るべきだと思っていた。けれど、今の莉渚の状態を聞くと、無理に帰らなくてもいいと思う。だから、君が何をしたいのか知りたいんだ」
今の私のやりたいこと。そう聞かれると、答えはすぐに出た。
「やっぱり元に戻りたい。いつまでもこんな状態は嫌だよ」
元に戻らないと、今までの日常生活を送ることは難しいだろう。お母さんやお父さん、友達と話すことができないのは寂しい。だから、早く元通りになりたい。
けれど、そのためには明らかにしておかないといけないことがある。
「どうして、私は人間の言葉が分からなくなっちゃったんだろうね。ジョンは原因が分かる?」
私は現在唯一の味方であるジョンに私の異常の原因を尋ねた。私の質問に彼は申し訳なさそうな顔をした。
「すまない、莉渚。ワタシには全く見当もつかない」
「そっか」
私は自分が思ったよりも落胆しなかった。ジョンは私と会話できることにとても驚いていた。
ジョンが私の異常を知っているならああいったリアクションはしないはずだ。だから、原因は分からないだろうなとなんとなく思っていた。
「君が苦しんでいるというのに何も力になれないとは我が身が情けない」
ジョンは俯いた。役に立たなくて落ち込んでいるようだけど、彼が悲観する必要は全くない。
「ううん、気にしないで。私はこうやってジョンと話をしているだけでも嬉しいから」
私はジョンの頭を撫でた。現にジョンは私を探しにこの公園まで来てくれたのだ。たとえ私がこうなった原因が分からなくても、それだけで私は救われた気持ちになった。
「莉渚……。分かった、ワタシは決めたよ」
ジョンは顔を上げて、私を見つめた。その顔は声色と相まって凛々しく見えた。
「ワタシも手伝う。莉渚が元の状態に戻るまで君のそばにいる」
「いいの? 私が元に戻れるまでって、どれくらい掛かるか分からないよ」
私がこんなになってしまった原因は未だに掴めていない。手がかりすらない有様だ。そんな状態で、彼は私と一緒にいてくれるというのか。
「ああ、もちろん。だって、ワタシは莉渚の家族だからね。家族が困っているのを助けるのは当たり前だろう」
「ジョン、ありがとう」
私はこの優しいサモエドを抱きしめた。ジョンの体は温かった。その温かさを感じていると何とかなるような気がする。
「大丈夫だ、莉渚。ワタシたちがいれば必ず元に戻れる。昔もそうだっただろう?」
「昔って?」
「ほら、昔、君とワタシが散歩に行って、迷子になった時があったじゃないか」
ジョンの言葉に私はある記憶が甦った。小学生の頃、初めて私とジョンだけで散歩に行った時のことだ。
私はテンションが上がってしまい、道が続く限りひたすら歩いてしまった。そして、気づけば見知らぬ街にいることに気づいた。
あの当時、小学生だった私は初めて見る景色にパニックになってしまった。
そういえば、あの時もジョンは私が落ち着くまで寄り添ってくれた。もちろん言葉が通じたわけではない。けれど、彼が私を慰めようとしてくれたのは分かった。
ジョンに勇気づけられた私は奮起して、彼とともに散々歩き回り、なんとか家まで帰ることができた。
家に帰った後も、親から怒られたりして大変だったが、とても楽しい思い出だ。
「あの時みたいにワタシと莉渚が一緒に力を合わせれば大丈夫だ」
「うん、そうだね。今回は言葉も通じるもんね」
「その通り。その意気だ」
私の言葉にジョンは嬉しそうに頷いた。私は立ち上がった。私は1人ではない。私には頼れる存在がいる。
「私が元に戻るまでよろしくね」
「ああ、必ず君を元に戻すと誓おう」
こうして、私は頼りになる相棒と共に自分に起きた異常の原因を探すことに決めた。もう現実逃避でブランコを漕いでいる私はいない。
「君の父上と母上もとても心配していたよ。だから、必ず2人で家に帰ろう」
あっ、ジョンって、お父さんとお母さんのことをそう呼ぶんだ。私は彼の新たな一面を発見した。