月が綺麗ですねよりも
女は駅で待っている男を見つけ、お待たせと手を振った。男も女に笑顔で手を振り返し、おかえりと女の頭にキスをする。そして男はそのまま女の方へ手を差し出し、女は男の手に自分の手を重ねてお互いの指を絡めた。
実はこの二人は夫婦。結婚して3年たっており、まだ2人の間には子どもはいないものの、3年たった今でも新婚夫婦もしくは付き合いたてのカップルかと思うほどの地域みんな公認の仲良し夫婦、もといバカップルである。
今日は互いにとても忙しく、それぞれ一人で帰ると思いがっかりしていたが、たまたま仕事を終えた時間がほぼ同じだったため嬉しそうに帰っているのだ。そんな二人が仕事を終えた時間は23時ぐらい。いつもの約3時間ほど長かった。そして電車などの移動時間ですでにもう日時が変わっていた。
仲良く帰る中、女はふと空を見上げた。そこには、とても大きくて綺麗な月が浮かんでいたのだ。今日は9月29日、つまり今年の中秋の名月の日であり、女は月の美しさに納得するのだった。そんな素敵な月を見た女は男にある頼みをしてみることにした。
「ねえ、月が綺麗ですねと言ってみてよ」
実を言うと女は文学好きであり、太宰治や森鴎外などの文豪家が書いた作品は大変好みだ。そんな女は勿論夏目漱石も好きであり、本当かどうかは定かではないが、夏目漱石が訳したとされる「月が綺麗ですね」と言う言葉は素敵だと思っていた。折角こんな綺麗な月が浮かんでいるのだから、男にその言葉を言ってもらおうと思ったのである。
男は女の言葉に戸惑いながらも、女の要望通り「月は綺麗ですね?」と疑問文になりながらも答えた。しかし、女はそれでは満足がいかず、今度は微笑むように優しく言ってと無茶振りを要求する。男はさらなる要望に再び戸惑ったが、要望に答えようと微笑んで優しく答えた。
「月が綺麗ですね」
男の素敵な笑顔と甘い低音ボイスに満足した女は、男の肩に寄り添いお決まり文句で返す。
「死んでもいいわ」
そう、女はただこのやり取りを行いたかっただけなのだ。「月が綺麗ですね」と男が言ったことに対して、二葉亭四迷が訳した「死んでもいいわ」を自分が答えるやり取りを。
この憧れのシチュエーションをやれて満足していた女だが、男は女が想定しない飛んでもないことを言い始めたのだ。
「死んでもいいとか、そんな恐ろしいこと言わないでよ」
まさかその言葉を真に受けて泣き始めたのである。確かに男はバリバリの理系で、文学には全くと言って良いほどの無知であるが、この有名なやり取りぐらいは知ってると思ったのであった。
女は経緯を説明したものの、男はやはり納得はしないようだった。さすがに腹を立てた女は、そこまで嫌がる理由を尋ねてみることにした。すると意外な返答が返ってきたのだ。
「昔から言霊があると言われているから本当にそうなったら嫌だし、何より普通に『愛してる』って言って欲しいんだ」
確かに言霊が宿ると教えたのは自分であるため反論は出来ないのだが、やはり腹立たしく思ってつい反論してしまう。
「愛してるなんて普段から散々言っているじゃないの」
最初に説明した通り、2人は仲良し夫婦もといバカップルである。愛してると言い合うのは日常茶飯事なのだ。そもそもから言うとそれは付き合う時からそうであった。そのため女は時には違う言葉で愛を伝え合っても良いのではないかとさえ思った。
「回りくどい言い方は好きじゃないし、シンプルな方が分かりやすいだろう。それに何回聞いても嬉しいから」
男は少し照れ臭そうに少し頬を赤く染めた。ただ単純にシンプルな言葉な方が好きなのだろう。女は回りくどい表現も好きだが、やはり彼からはシンプルな表現な方がときめくし、そう言う素直な所に惚れたのだと思い出した。付き合っている時から変わらない性格に安心してしまう。
「愛してるよ」
先ほどの「死んでもいいわ」は半分好奇心で言ったところもあるが、今度はなんの偽りもないストレートな言葉であった。
「俺も愛してるよ」
男も彼女の素直な言葉に喜びを感じ、心の底からその言葉を女に伝える。
2人はお互いに心が満たされ幸せに満ちていた。先ほど解かれた手を再び握り合い、前へと進み始めた。その道は誰も通っていなかったが、空に浮かぶ美しい月が密かに2人の微笑ましい様子を眺めていたのであった。
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この2人の大学生時代の物語で、
「初めての手作りチョコレート」
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という、甘いお話がありますので、
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