ケチャップごはん
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
寝入りばな、俺は、教室の後ろで友人と談笑している自分の姿を視界にとらえていた。俺の姿を見つめている俺は、なんとも言えない、せつなくも幸せな気持ちでいっぱいだった。ああ、そうなの。そうだったの。そんなふうに思ってくれてありがとう。などと思いながら、眠りに落ちる直前に、ふっと違和感を覚えた。
おかしい。おかしいじゃないか。だって、教室ということは、ここは学校のはずだ。実際、視界の中の俺は制服を着ている。だけど、それって変じゃないか。
すっかり目が覚めてしまい、まぶたを持ち上げると、視界の中の俺はあっさりと消えてしまった。目に映るのは自分の部屋の暗い天井だけだ。
能力と言うよりは、体質だと思っている。俺は、自分に好意を寄せてくれている人物の視界を体験することができた。
初めてのそれは、小学校五年生の時にやってきた。はずむような楽しい気持ちで俺のことを見つめるその人物は、当時一緒に学級委員をやっていた女の子だった。学級会の時、教壇の上、俺の隣から俺を見つめることができるのは、その子しかいなかった。実際、卒業式の日に、ずっと好きだったと告白された。ありがとう、と答えたものの、俺の精神年齢は彼女に比べるとまだまだ子どもだったため、結局そこからの進展はなかった。彼女が俺に告白してくれたその日から、俺が彼女の視界を追体験することはなくなった。
この「視界」というのは、今日のものとは限らないらしい。気付いたのは、中学に入って、もう一度それがやってきた時だった。どうも、ランダムに再生されているようだ。体育でグラウンドにいる俺を窓から見下ろすその人物は、隣のクラスの女子だった。その視界を、俺が追体験したのは冬だ。しかし、視界の中の俺は半袖の体操服を着ており、カラッとした陽射しも夏仕様だったのだ。明らかに昨日今日の映像ではない。告白され、その頃は俺も少し成長していたので、それなりに健全な交際をしたが、結局自然消滅のような形で終わってしまった。その時も、彼女が俺に告白してくれた日から、追体験はなくなった。つまりはそういう仕組みらしい。
必ず、寝入りばなだ。音声はなく、あくまで目で見た映像だけ。そして、その視界の持ち主の、その時の気持ち。俺はそれを追体験しながら眠りに落ちる。うとうとと微睡んでいる頃にそれはやってくる。俺は、いつも俺を見ている。胸がうずくような、心臓がひっくりかえるような、そんな心地で。だけど、確かに楽しく幸せな気持ちで、俺を見ているのだ。
しかし、今回のこれは少し様子が違う。だって、俺が通っているのは、
「男子校だぞ」
思わず呟きが漏れた。要するに、俺は現在、同じ男子校に通う男に好意を寄せられているということだ。
誰だ、ということが当然気になる。俺と一緒に視界の中にいた武藤は違う。しかし、手掛かりはそれだけだ。まあ、視界の持ち主の“彼”が武藤ではないことがわかっただけでも良かったと思おう。それすらもわからないのでは、誰といても気が抜けない。
明日の視界を待ってみるか、と俺は楽観的に考え、再び目を閉じた。微睡みの中、俺はやはり幸せな気持ちで俺のことを見つめていた。
たぶん、“彼”は同じクラスのやつだと思う。登校し、ショートホームルームが始まるまでの間、俺は教室内を見渡して、なんとなく件の人物を探していた。
「なにキョロキョロしてんの?」
いつの間にか俺の机まで来ていた武藤に声をかけられる。
「クラスのやつらの顔を再確認しようと思って」
適当にそう答えると、
「もうすぐ七月だよ。ちさちゃん、まだクラスのひとの顔覚えてなかったわけ?」
と呆れたように言われてしまった。
「そんなわけあるか。覚えてるよ。だから、再確認なんだって」
俺は、再確認の「再」に力を込めて言い返す。
「てか、前から言ってるけど、ちさちゃんてのやめて」
武藤の腕をぺしぺしと軽く叩く。武藤とは、受験の時に隣の席だった。と思う。俺は曖昧にしか覚えていなかったのだけれど、武藤は俺のことを覚えていたようで、「お互い受かって良かったね」と入学式の時に話しかけられた。それ以来、何かとつるんでいる。
「前から思ってるけど、なんで? ちさちゃんって呼び名かわいいのに」
なんでと聞かれても、ちさちゃんなんて呼び方、女の子みたいでなんかやだ以外の理由がなかったために、俺は黙っていた。
「じゃあ、なんて呼べばいいかなー」
武藤が意外に聞き分けのいいことを言う。
「千坂龍基でしょ。たっちゃんとかだとありきたりだし」
「たっちゃんもやめて。普通に千坂でいいって」
「それじゃ普通でつまんなくない?」
「つまんないってなんだ。俺は普通がいいんだよ」
ぐだぐだと言い合っていると、右斜め前の席の村瀬と目が合った。切れ長の鋭い目は、こちらを睨んでいるように見える。すぐにそらされたその目で、実際、睨まれていたのだろう。俺と武藤がうるさくしていたものだから。
「ちょっと声のトーン落とそうか」
俺の言葉に、武藤は村瀬の後頭部をちらりと見て無言で頷いた。
「ちさちゃんて、結構ビビりだよねー」
武藤は俺の耳元でひそひそと言った。当たっているので言い返せない。
「だから、ちさちゃん言うのやめて」
村瀬英吾は、きっと俺のことがきらいだ。俺がそう思うのには理由がある。村瀬は、なぜか俺に冷たい。俺に対する態度だけが、冷たい。
少し前のことだ。村瀬の机の横に落ちていた消しゴムを拾ってやったことがある。
「これ、村瀬くんの?」
そう言って、座っている村瀬に消しゴムを差し出すと、村瀬はその消しゴムをひったくるようにして乱暴に受け取った。そして、それをぎゅっと両手で握り込み、俺を鋭い目で睨み上げた。顔の造作が整っているだけに、村瀬のその表情はとても冷たく、はっきり言ってしまうと、恐ろしかった。
「あ、ごめんね」
俺は、思わず謝った。謝らなくてはいけないことなど何もしていないのに、へらへらと曖昧な笑みを浮かべて謝ってしまった。
これだけなら、その時の村瀬がたまたま不機嫌だっただけかもしれないということで納得することもできたのだが、しかし、村瀬の俺に対する理不尽な冷たさは、これだけではなかった。話しかけるとあからさまに無視するわ、俺が日直時の配布物はやはりひったくるように受け取るわ、とにかく態度が悪い。最初は、誰に対してもそうなのかと思っていたら、他のやつには笑顔で対応しているところを目撃してしまい、その村瀬の好人物っぷりに、俺以外のやつにはそんな素敵な笑顔を見せちゃうんだ、とめちゃくちゃへこんだ。極めつけは、気がつくといつも睨まれていることだ。その鋭い視線を一身に受けて、俺の心はちくちくと痛む。
他人にきらわれるというのは悲しいし、なんだか疲れる。きらわれるって、やっぱり気持ちのいいことではないのだなあ、と身に沁みて思った。そんなに俺のことがきらいなら見なきゃいいのに、とも思う。思うのだけど、きらいなものほど見てしまうという心理も理解できないこともないものだから、なんとなくそのままスルーすることにしていた。俺だって、きらいな芸能人がテレビに出ていたりすると、チャンネルを変えるどころか思わず見入ってしまう。よくわからないけれど、きっと、そのひとのきらいな部分を、ここがきらい、ここもきらい、と再確認する行為なのかもしれない。もしくは、新しくきらいな部分を探しているのかも。要するに、粗探し。そう考えて、俺は村瀬に粗探しをされているんだ、と気がついて、またへこんだ。
村瀬の後頭部を眺めながら、好きになってくれとは言わないけれど、そんなにきらわないでほしいな、と思う。
寝入りばな、俺はまた、俺の姿を見つめていた。“彼”の視界だ。俺は、教室前方のドアのところで、財布の中の小銭を数えているようだった。視点が全く違うのでいろいろと違和感があるが、この時のことはなんとなく覚えている。昼休憩に学食へ行くところだ。隣に武藤もいて、俺の財布を覗き込んでいる。武藤が何か言い、俺は笑いながら武藤の肩を軽く小突いた。途端に、なんだか胸の奥がじりじりと痛くなる。頭に血が上り、きゅうっと心臓が縮まったような心地だ。この感情はなんだ。そう思った瞬間、考える間もなく答えが見つかる。嫉妬だ。“彼”は、武藤に嫉妬している。そこで映像が一瞬暗転し、机の上の弁当箱が視界に入った。“彼”が俯いたのかもしれない。
弁当箱の中には、ミックスベジタブルのケチャップごはんが詰まっていた。
「ケチャップごはん」
朝、目覚めた途端に発した言葉がそれだ。視界の持ち主の“彼”を知る手掛かりは、武藤ではないという意外にはそれだけだ。少なくともあの日、武藤に財布に忍ばせていたコンドームを発見され、「使う予定もないくせになんで持ってんの?」と言われて、「おまえも持ってんだろ。使う予定もないくせに」と笑いながら武藤の肩を小突いたあの日、その光景を見ていた“彼”はケチャップごはんの弁当を持って来ていたということはわかった。
しかし、と俺は思う。“彼”がこんなふうに見つめてくれている俺は、あんな、驚くほどにくだらない会話をしていたのかと思うと、なんとなく“彼”が可哀想になってしまった。せっかく好いてくれているのに、くだらないやつで申し訳ない。そう思いながら、学校へ行く支度をする。
教室のドアを開けると、村瀬と目が合い、睨まれる。それが俺の一日の始まりだ。毎日のことだから、そのうち慣れるだろうと思っていたのだが、甘かった。全然慣れない。やはり、睨まれるとその度に悲しい。
授業の間、俺はいつもなんとなく村瀬の後頭部を眺めてしまう。なんで村瀬は俺のことをきらいなんだろう、などと思いながら。ずっと眺めていたら、村瀬が後頭部をがりがりとかいたので、視線をそらした。視線が痒かったのかもしれない。
「ちさちゃん、学食行こう」
昼休憩、武藤が言うのを、
「ごめん。俺、今日おむすび買ってきた」
俺はコンビニの袋を見せ、断った。
「えー、先に言っといてくれたら、おれも何か買ってきたのにー」
武藤が女子のような文句を言ったが、適当にあしらう。学食に行っていたら、ケチャップごはんの人を見つけられないかもしれない。もちろん、“彼”が毎日ケチャップごはんの弁当を持って来ているとは限らない。しかし、弁当の内容というものは、そうバリエーションがあるとは思えないので、毎日見ていたらいつかケチャップごはんの日が来るかもしれないのだ。
「俺、当分教室で食べるから」
そう武藤に伝える。
「じゃあ、おれも明日からそうする」
そう言って、武藤は学食へ向かった。
こうして見ると、弁当を持って来ているやつは結構多い。村瀬も弁当だ。俺はおむすびから剥ぎ取ったビニールをわざと前方に落とし、それを拾いながら村瀬の弁当箱をさりげなく覗いた。村瀬の弁当は、サンドイッチだった。まあ、そうだろうな、と思いながら、俺は自分の席に戻る。村瀬は俺のことをきらっているのだ。村瀬の弁当が、ケチャップごはんのはずがない。俺は、何を期待していたのだろう。村瀬の弁当が、ケチャップごはんなら、と一瞬思ってしまった。村瀬にきらわれている苦い現実を否定したかったのかもしれない。
おむすびを急いで食べ終わり、教室をぐるぐると歩き回る。窓を開けて外を見てみたり、後ろのロッカーへ辞書を取りに行ってみたり、さりげなくみんなの弁当箱を覗いて歩いた。
「あ!」
俺は思わず声を上げてしまう。
「ケチャップごはん!」
ケチャップごはんの人が、ひとりだけいたのだ。
「チキンライスって言えよ」
苦笑気味に言ったそいつは、馬渕という。クラス委員長だ。
「委員長、委員長」
「なに?」
委員長はきょとんとこちらを見る。
「ちょっとちょうだい」
「え、チキンライス?」
委員長は不思議そうに言い、
「好きなの?」
と聞く。
「うん」
俺が適当な返事をすると、委員長はスプーンにすくったチキンライスをこちらに差し出してきた。
「ほれ、あーん」
と言いながら。
俺はおとなしく口を開け、委員長の差し出したスプーンを口に入れてもらう。
「鶏肉、入ってるね」
という俺の感想に、
「そりゃ、チキンライスだからな」
委員長は不思議そうに答えた。
「ミックスベジタブルとか入ってることある?」
続けて尋ねてみた。
「チキンライスに?」
「うん」
「いや、ない。グリーンピースきらいなんだよ」
「そっか」
俺は頷く。
「好きなの? ミックスベジタブル」
「あー、うん。ミックスベジタブルのケチャップごはんがね」
「チキンライスじゃなくて?」
「チキンライスじゃなくて」
俺は適当に言い、委員長にチキンライスのお礼を言って自分の席に戻る。
委員長のチキンライスは、違う。俺が寝入りばなに見たチキンライスは、ミックスベジタブルのやつだったし、そもそも鶏肉が入っていなかったと思う。チキンライスではないのだ。ケチャップごはんなのだ。
ふと、いつものように村瀬の後頭部に目をやると、こちらを見ていた村瀬と目が合ってしまった。ふいっとすぐに目をそらされ、毎度のことながら悲しくなる。そんなにあからさまにきらわないでほしいな、とやっぱり思う。胸のあたりが、じっとりと熱い。
その晩、寝入りばな、俺が見たのは、委員長にチキンライスを分けてもらっている俺の姿だった。強烈だったのが、その時の“彼”の感情だ。ぐるぐるとどす黒いものが胸の奥に渦巻いているのと同時に、甘やかで愛おしい感情がすぐ隣でくすぶっているような状態。悲しい、苦しい、好き。嫉妬心と恋情がぐるぐるとマーブル模様を描いていて、なんだか泣きたくなってしまった。
「梅と鮭……か」
昼休憩、武藤が俺が買ってきたおむすびを見て言った。
「つまんないくらい普通だね」
「つまんないってなんだよ。俺は普通がいいの。普通が好きなの。てか、おまえのそれ何? なんでおむすびがオレンジ色なわけ?」
武藤が右手に持っているものは、おむすびにしては変わった色をしている。
「チキンライスのおむすびだよ」
武藤は言った。
「へえ、そんなんあるんだ。初めて見た」
「コンビニに普通に置いてあるよ。保守的で普通を愛する冒険心のないちさちゃんは、こういうのが視界に入んないんだね」
憐れむような口調で言われ、むかっとしたので無視してやった。普通を愛して何が悪い。俺は急いでおむすびを頬張る。
「もっとゆっくり食べなよ」
武藤は言うが、ゆっくりしている暇はない。みんなが弁当を食べ終わる前に、俺は教室を回って弁当チェックをしなくてはいけないのだ。
教室をさりげなく歩き回る俺に、
「ちさちゃん、なにうろうろしてんの? 挙動が不審だよ」
口をもぐもぐさせながら武藤が台無しな一言を発した。
「うるさいな。俺はみんながどんなもん食ってんのか見たいの!」
もうどうしようもないので、俺は開き直る。
「なにそれ」
武藤は眉間にしわを寄せて、わけがわからないというふうに俺を見た。
「放っといて」
俺の言葉に、教室中にくすくすと笑い声が広がった。
「だから、昨日もうろうろしてたのか」
委員長が言った。昨夜の寝入りばなの映像で、委員長がケチャップごはんの人でないことは確実なので、もう委員長の弁当には用はないのだが、さっきああ言ってしまった手前、一応委員長の弁当箱も覗いてみる。
「今日はワカメごはんだね」
「いる?」
と、弁当箱を差し出してくれた委員長に、
「ううん、いい。ありがとう」
俺は首を振る。
「ケチャップごはんじゃないから?」
「そう。ケチャップごはんじゃないから」
俺はまた適当に頷く。「見んなよ」とか「食うか?」とか「やらねーぞ」などと言われながら教室にいる全員の弁当を確認し終わった時、
「村瀬の弁当はどんなの?」
と言う、能天気そうな武藤の声が耳に入った。そういえば、村瀬の弁当をまだ見ていない。村瀬はどうせケチャップごはんの人ではないだろうと思い、確認していなかった。
「チキンライスかー。おれも今日、チキンライスだったんだ。一緒だねー。あ、でも村瀬のはチキンが入ってないね。ケチャップごはんだ」
ケチャップごはん!
まさか、村瀬が? そう思いながら、急いで村瀬の机に近寄ると、村瀬は電光石火の勢いで弁当箱に蓋をしてしまった。
「ああっ」
思わず発した声に、村瀬が俺を睨み上げる。そして、視線を下に向けすぐに目をそらしてしまった。俺はすごすごと自分の席に戻り、
「村瀬のケチャップごはん、ミックスベジタブル入ってた?」
武藤の耳元でこそっと聞いた。
「えー、どうだったかな。コーンとか野菜的なものは入ってた気がするけど、それがミックスベジタブルだったかどうか」
と武藤は曖昧に答える。
「さっきの今だろ。なんで覚えてないんだよ」
「え、おれ、なんで怒られてるわけ?」
武藤が言うので、それもそうだ、と思い、「ごめん」と素直に謝った。
自分の、こんな表情を客観的に見るのは初めてかもしれない。寝入りばな、“彼”の目に映る俺は、口を半開きにしてなんとも情けない顔をしていた。しかし、それを見る“彼”の感情は、端から端まであたたかい気持ちで溢れていた。かわいい、うれしい、好き。色にたとえるなら、薄桃色だ。そして、一瞬だけ胸の奥がちくりと痛んだのと同時に、弁当箱の蓋をしっかりと押さえている大きな手が視界に入った。
眠気の吹っ飛んだ俺は、カッっと目を見開く。追体験していた視界も感情も、全てがかき消えた。暗い自室の天井をぼんやりと見つめながら、確信する。
村瀬だ。“彼”は村瀬だ。あの弁当箱は、村瀬のだった。
なんだ、俺、きらわれてるわけじゃなかったんだ。むしろ、好かれてたんだ。なんだ。よかった。
驚きより何よりも、安堵の気持ちが強いことを意外に思う。
よかった。うれしい。村瀬は、俺のことをきらっていなかったんだ。
うれしい、うれしい、うれしい!
俺は足をバタバタさせながら布団をかぶり、ぎゅうっと目を閉じる。軽くなった心で、眠りに落ちる瞬間に見たのは、中学の制服を着た俺の姿だ。俺は、笑顔で“彼”に話しかけているようだった。
あれは、受験の時か?
目が覚めて、昨夜の視界を思い出す。高校受験の日、俺は誰に話しかけた? 武藤と話したように記憶しているけれど、本当は違っていたのだろうか。話しかけた相手は、本当は村瀬だった? 何を話した? 覚えていない。あの日は、とても緊張していた。いっぱいいっぱいだったのだ。それで、記憶が飛んでしまっているのかもしれない。
思い出せないもやもやした気分のまま、俺は教室のドアを開ける。村瀬と目が合い、今日も睨まれた。その視線の鋭さに、あれ? と思う。その冷たい目はなんだ。村瀬は俺のことが好きなんじゃなかったの? 違うの?
やっぱり、村瀬はケチャップごはんの人ではないのかもしれない。俺の勘違いだったのかも。いざ村瀬本人を目の前にすると、昨日の視界が疑わしくなってきた。
あれ、あれ、あれ? と思いながら、自分の席につく。村瀬の後頭部を眺めていると、ふいに村瀬が振り返って、ちらりとこちらを見た。
「おはよう」
と言ってみる。村瀬の目が一瞬驚いたように見開かれ、しかし、すぐに前を向いてしまった。挨拶も無視された。この、安定したきらわれ感。調子に乗って挨拶なんてしなければ良かった。そうすれば無視されることもなかったのに。
やっぱり、違うのだろうか。村瀬はケチャップごはんの人ではないのだろうか。もしかしたら、昨日の視界は、いつものあれではなかったのかもしれない。俺の願望が見せた夢だったのかも。村瀬が俺のことを好きだったらいい。そういう願望が、寝入りばなに見せた夢だったのだ。ぬか喜びも甚だしい。
「ちさちゃん、元気なーい」
昼休憩、武藤が紫色の不気味なパンを頬張りながら言った。紫芋のパンらしい。冒険家め。
「うん、元気ない」
言いながら、俺ももそもそとおむすびをかじる。保守的で普通を愛する冒険心のない俺も、今日はちょっぴり冒険してチキンライスのおむすびだ。
「今日は、みんなのお弁当見て回んないの?」
「今日はいい」
「じゃあ、席が近いとこのだけでも見せてもらったら。そこの村瀬のとか」
武藤がさらっと地雷を踏む。
「いい。村瀬は俺のこときらいなんだから、見られると迷惑だろ」
思っていることが、脳みそを通さずにそのまま口に出てしまった。やばい、聞こえたかもしれない、と思ったけれど、もう遅かった。ちらりと村瀬を見ると、目が合った。やっぱり聞こえていたようだ。しかし、俺を見る村瀬の目はいつもみたいに鋭くなく、むしろ弱々しい眼差しだったので、なんとなく拍子抜けしてしまう。
「えー。村瀬って、ちさちゃんのこときらいなの?」
空気を読め、武藤! そう思うが言葉にならない。というか、すごいな武藤。普通、そんなこと本人の前で確認しないぞ。
おそるおそる村瀬を見ると、眉根を寄せた苦々しい表情をしている。
「おい。困らせるなよ、武藤」
俺は思わず武藤の腕を掴む。
「きらいだ」
苦々しい表情のまま視線を落とし、村瀬が言った。そして、前に向き直ったまま、村瀬はもうこちらを見なかった。
俺は絶句する。わかってはいた。頭で理解してはいたけれど、面と向かって「きらい」という言葉をぶつけられると、やっぱり悲しい。
やばい、泣きそうだ。溢れそうになる涙を必死でこらえる。
「なんか、ごめん」
武藤が小さな声で言った。俺は無言で首を振る。
「てか、ちさちゃん、痛い」
そう言われ、武藤の腕を掴んだままだったことに気が付いた。
「ごめん」
「爪のあと、ついてる」
武藤が言った。知らないうちに力が入ってしまったようだ。
「ごめん」
もう一度謝る。
「ちさちゃん、大丈夫?」
根性でなんとかこらえきった涙を飲み込んで、俺は言う。
「大丈夫」
寝入りばなの視界、中学の制服を着た俺は、“彼”に何かを握らせた。その瞬間に、受験当日のことを思い出した。
ガチガチに緊張していた俺は、右隣に座っていた同じように緊張している様子の“彼”に話しかけたのだ。挨拶もなく、名乗りもせず、唐突に。
「受かったら、同じクラスになれるといいね」
誰かに話しかけることで、緊張を解きたかったのかもしれない。そして、制服のポケットに入っていた交通安全の御守りを“彼”の手に握らせた。「俺のこと、覚えててね」などと言いながら。もう片方のポケットには合格祈願の御守りが入っていたのだが、ずるいことにそちらは手放さなかった。
「わかった」
と“彼”は言った。ただ、それだけ言って、笑ったのだ。「覚えててね」なんて言ったくせに、どうして自分は忘れていられたのだろう。村瀬だった。ちゃんと思い出した。村瀬だった。
「なんで交通安全なの?」
村瀬の手の中の御守りを覗き込んで、そう言ったのが、村瀬の前の席に座っていた武藤だったのだ。
俺は、自分の不義理さと記憶力のなさを呪いながら眠りに落ちた。
思い出した。しかし、だからと言ってなんだというのだ。あれは、例の視界なのか、それともやっぱり俺の願望が見せた夢なのか、俺にはもうわからなくなっていた。
だって、村瀬は俺のことがきらいなのに。はっきりそう言われたのに。
昨日のやりとりがあったからか、今日は村瀬に睨まれることはなかった。そもそも、目が合わない。俺は気になって何度か村瀬のほうを見ていたのだが、村瀬は俺を見ようとはしなかった。こんなふうになるなら、まだ睨まれている時のほうが良かったかもしれない。
しかも、武藤は欠席らしい。おまえが休むのかよー、と呆れてしまう。武藤からは、ラインで一言、『ただ今の体温39℃』と入っていた。病気のやつに文句は言えない。
武藤が休んでいるため、どこがどうこんがらがってしまったのか、体育の二人一組の準備体操で、俺と村瀬があぶれてしまった。こうなったら、もう村瀬と組むしか選択肢はないので、気まずいなりに覚悟をしていたのだが、
「先生、俺ちょっと具合悪いんで保健室行ってきます」
村瀬が発した言葉に、俺の中で張りつめていた何かが、ぷつりと切れてしまった。
「そんなにきらい? そんなに俺のことがきらい?」
いっしょに準備体操もしたくないくらいに?
言葉と共に、涙がぼたぼたとグラウンドの砂の上に落ちる。
「先生、千坂も具合悪いみたいなんで、いっしょに保健室行ってきます」
村瀬の焦ったような声と同時に、腕を掴まれ連れて行かれる。
校舎に入ってから、村瀬は保健室とは逆方向へ歩き出した。
「保健室は?」
尋ねたけれど、返事はなかった。なんかこわいな、と思っていると、村瀬は美術室の横の物置部屋に俺を押し込み、自分も身体を滑り込ませるとドアを閉めた。
窓を塞ぐみたいに乱雑に積まれた段ボール箱や石膏像のせいで、この部屋はなんだか埃っぽくて薄暗い。
掴まれていた腕を引っ張られ、俺は体勢を崩し、村瀬の身体に真正面からぶつかってしまう。
「ごめん」
慌てて離れようとしたのだけれど、ぎゅっと強く抱きしめられて、頭が混乱してしまった。
「なに? なんで?」
村瀬の意図が掴めない。普通、きらいなやつにこんなことしない。
「おまえ、忘れてるだろ」
村瀬が言った。
でも、思い出したんだ。そう言おうとした瞬間、
「好きだ」
耳元で村瀬が言った。驚いた俺は息を飲む。俺に言葉を差し挟む隙を与えず、村瀬は一方的に続ける。
「忘れてるんだろうなあと思ってた。そう思いながら目で追ってるうちに、いつの間にか」
諦めたような口調の村瀬の言葉に、俺の胸は歓喜に震えた。
なんだ。夢じゃなかった。あれは、ちゃんと村瀬の視界だったんだ。ケチャップごはんの人は村瀬だったんだ。村瀬、おまえやっぱり俺のこと好きなんじゃん。俺のこと、すげー好きなんじゃん。
「気持ち悪いだろ」
村瀬は言う。
「気持ち悪い思いをさせるくらいなら、自分から冷たくして、きらわれたほうがいいと思ってた」
「そんなことない!」
言葉を発してみると、思ったよりもヒステリックな声が出てしまい、恥ずかしい。少しトーンを落とす。
「俺は、村瀬にきらいだって言われて、悲しかった」
「ごめん」
「準備体操、してもらえなくて、悲しかった」
「うん、ごめん」
言いながら、村瀬は俺の後頭部を軽く撫でる。初めて謝られた。そして、初めてやさしくしてもらえた。うれしくて、俺は村瀬の鎖骨のあたりに顔をうずめ、村瀬にしがみつくみたいにして抱き返す。村瀬の身体が硬直した。
「なんのつもりだ」
村瀬が驚いたように言う。
「え、だって、うれしくて」
言ってから、はたと我に返る。男同士で抱き合っているこの状況は、なんとなく普通じゃない。
「でも、だって。おまえ、普通がいいんだろ?」
村瀬は情けない顔でそう言った。
村瀬が俺を好きなことが普通のことじゃないなら、普通じゃなくたってかまわない。そう言おうとしたのだけれど、なんだか今更みたいに照れてしまって、言えなかった。代わりに、
「昨日、思い出した。交通安全」
と伝えた。
「まだ持ってるよ」
村瀬が言った。
「うん」
頷きながら思う。村瀬は俺をきらっていない。うれしい。もやもやが消えた。今日は安眠できそうだ。きっと視界も消えている。
了
ありがとうございました。