政略結婚した夫の「今は亡き想い出の女性」は、私でした。
ぼろぼろの男の子が、アデラインに助けを求めている。
(大丈夫よ)
アデラインは男の子を抱きかかえ、薄汚れた頭をなでてあげた。
(私がちゃんと、あなたを安全な場所に連れて行ってあげるから)
別れの時が近づくと、男の子はアデラインを追ってきた。だが、アデラインは彼と一緒に行くことはできない。
ここは、ベルセア王国。アデラインはベルセア王国と敵対する、マクナイト王国の人間なのだから。
(さようなら。元気でね)
淡い光が溢れる。
男の子が泣きながら伸ばした手がアデラインのもとに届くことはなく、光の彼方に消えていった。
「おまえの事情は分かっている。だが……俺は、おまえを愛することはできない」
か細い明かりのみが灯るリビングで、本日アデラインの夫となった男・シェイドは冷静に言った。
肩までの長さの髪は、アデラインの故郷ではまず見られない燃えるような深紅。茶色の切れ長の目は目つきが鋭く、薄い唇はまっすぐ横に引き結ばれている。
アデラインの故郷であるマクナイト王国は、ベルセア王国の襲撃によって一夜のうちに滅びた。年若い王子・オーウェン以外の王族は皆処刑され、彼の専属侍女だったアデラインは故郷の民の命の安全と引き換えに、主君と共にベルセア王国に連れて行かれた。
マクナイト王族の大人はろくでもない者ばかりだったが、ベルセア王はまっすぐ育ってくれたオーウェンを人質ではあるが寛大に迎えてくれた。
いずれ彼はベルセア王の娘と結婚して、ベルセアの監視のもとでマクナイト国王として故郷に戻る。だが、きっとこれでマクナイト王国はよい方向に変わっていくだろうとアデラインは思っていた。
そしてベルセア王は王子が信頼するアデラインに、政略結婚を命じた。
相手は、マクナイト王国襲撃戦において活躍した騎士・シェイドだった。
つまりアデラインは、オーウェンが逃げ出したりしないための、脅しのために結婚させられる。アデラインが夫に従順であればオーウェンは無事でいられるし……オーウェンがベルセアに従順であればアデラインも生き延びられる。ベルセア王は二人の間の信頼関係をよく理解し、利用していた。
ということで取り急ぎ婚儀を行いシェイドの屋敷に移ったのだが、彼は婚礼衣装から着替えるなり「おまえを愛することはできない」発言をかましてきた。
(……まあ、それもそうよね)
さもありなん、とアデラインはうなずいた。
「それも致し方ないことでしょう。このたびの婚姻はシェイド様も本望ではなかったことでしょうし、私からは何も異論はございません」
「シェイド、でいい。……それと、俺がおまえを愛せないのはこれが政略結婚だからというわけではない」
「では、私がマクナイト人だから、ですか?」
マクナイトは昔からベルセアにちょっかいを掛けていたし、王族の豪遊の犠牲になった国民が大量にベルセアに亡命したりもした。鷹揚で懐の広いベルセア王は、このままだと自国の民にも被害が及ぶと思い、襲撃戦を命じたと言われている。
アデラインは没落貴族の娘だが、「搾取する側」の人間だったのは事実だ。シェイドは……確か平民上がりの騎士らしいから、敵国貴族のお嬢様なんて嫌に決まっているはず。
だがシェイドは眉根を寄せ、首を横に振った。
「いや、そういうわけでもない」
「では、好いた方がいらっしゃったとか?」
シェイドは貴族生まれではないが、このたびの功績から騎士爵位を与えられている。剣術だけでなく人を率いる力もあり、なおかつこれだけ整った容姿を持つのだから、誰かから思いを寄せられたり誰かに思いを寄せたりといったことがあってもおかしくない。
シェイドは、少し目をそらした。
「……好いた人、というほどではない。だが……忘れられない想い出の女性がいる」
「まあ……」
「もう、死んでいるがな。おまえ、ポーリーナという元王宮侍女を知っているか?」
「え? え、ええ、もちろんです! ポーリーナ様には昔、とてもお世話になりました」
ポーリーナは、オーウェンの叔父にあたる王弟・ジャクソンに仕える侍女だった。我が儘放題の王弟を厳しく、時に優しく支える素晴らしい先輩侍女だったが――そんな彼女を疎んだ王弟の命令により、処刑された。
あ、とアデラインは声を上げた。それを正しく理解したようで、シェイドは寂しそうに笑う。
「……俺は子どもの頃、ポーリーナに助けられたことがある。その時に抱いた感情が恋情だったのかは、分からないが……彼女のぬくもりや優しさがずっと、心の奥に残っている。だから、他の女性に好意を抱くことはできそうにないんだ。……申し訳ない」
「いえ、ご事情は分かりました。……ポーリーナ様は、とても……とても素敵な方でした。もう亡くなっていますが、シェイドが慕うのも当然の方です」
明るくてさっぱりとしていたポーリーナは四年前、二十八歳で亡くなった。王弟が幼い頃からよく彼を支え守ってきたポーリーナが、かくもあっさりと処刑されてしまうなんて、とアデラインは涙に暮れたものだ。
(……そうだわ。ジャクソン殿下は、シェイドに討ち取られたと聞いているわ……)
もしかするとこの騎士は、幼い頃から慕っていたポーリーナの復讐のため、自らの手でジャクソンを討ち取ったのかもしれない。
「そういうことでしたら、私たちは仮面夫婦でおりましょう。私はシェイドにお世話になる身。オーウェン様のもとにいられるのであれば、文句なんてございません」
「……理解が早くて、助かる。ベルセアでは、貴族の夫人が恋人を持つのはおかしなことではない。もし気に入った若いのがいれば、恋人として招いてくれればいい」
若いの、と言うが彼は十九歳のアデラインより少し年上といったところだ。ひとまず、彼は妻の恋愛にも寛容なようだ。
「……ご厚意はありがたく受け取ります。ですが今のところ、そういうつもりはありません」
「……そうか、分かった」
シェイドはうなずくと、立ち上がった。
「オーウェン様は四年後、十二歳になられたらマクナイトに戻るという。おまえは、それに付き従うのだろう? だから、四年間だけ我慢してくれ。その後はすぐに、おまえにとって不都合のないように離婚手続きをしよう」
「……かしこまりました。ありがとうございます、シェイド」
「気にするな。お互い様だ」
二人の間に、「たとえ四年経って離ればなれになるとしても、婚姻関係を継続する」という考えはない。
さくっと別れた方が、お互いのためになるだろう。
シェイドと結婚したアデラインだが、マクナイトにいた頃と同じようにオーウェンの侍女として側にいることを許された。アデラインとしては、これだけで十分すぎるくらいだった。
「アデル、アデル。結婚生活は、どう? シェイドとはうまくやっている?」
八歳のオーウェンに尋ねられたため、アデラインは微笑んでうなずいた。
「はい。とても仲良く……というほどではありませんが、シェイドはわたくしにもよくしてくれますよ」
「本当に?」
「ええ。……ではオーウェン様、お外に参りましょうか。今日は風もなく、絶好の訓練日和ですよ」
「うん!」
アデラインに促されてオーウェンは運動着に着替え、練習用の剣を腰に下げた。
ベルセア国王は、オーウェンに未来の国王としての教育を施させている。学問だけでなく礼儀作法、剣術、馬術、社交術も教え込ませ、「敗戦国の哀れな王子」とさげすまれないようにしてくれている。
オーウェンはいずれベルセア国王の溺愛する王女を娶るのだから、国王としても義理の息子には立派であってほしいだろうし……これからマクナイトがよい国であってほしいという願いもあるのだろう。
オーウェンを伴って下りると、そこにはシェイド率いる第三護衛騎士団の姿があった。平民上がりのシェイドが部隊長を務めるからか隊員も平民出身者が多いが、気さくで陽気で賑やかな者たちばかりだ。
知らない土地で緊張するオーウェンにとって、彼らくらい賑やかな者たちがちょうどいいだろうと国王が判断したかららしい。
騎士団の服をまとったシェイドがオーウェンの前まで来ると、跪いた。
「おはようございます、オーウェン様。今日の鍛錬も、よろしくお願いします」
「ああ、よろしく頼むよ」
アデラインの前では甘えがちなオーウェンはきりっとして言い、アデラインに荷物を預けてからシェイドに連れられて訓練場に向かった。
(……オーウェン様が生き生きとしていて、本当によかったわ)
騎士たちと一緒に体作りの運動をしたり馬に乗せてもらったりするオーウェンを見守りながら、アデラインは思う。
アデラインがシェイドと結婚して、早五日。
彼との間に夫婦らしいやりとりはないが、同居人としてはうまくやっていけていると思う。屋敷の使用人たちも優しい者ばかりで、契約結婚をした夫妻をほどよい距離から見守ってくれていた。
(口数は多くないけれど……こうして見ると普通に格好いいのよね)
ベルセア王国の――それも身分の低い者に顕れやすいという赤い髪をなびかせて戦うシェイドは、文句なしに格好いい。今も、近くを通りがかった令嬢たちがうっとりとした眼差しでシェイドを見つめている。
平民上がりではあるが国王の信頼も厚いシェイドに、かなりの求婚者が殺到したようだ。だがポーリーナだけを想う彼はそれらの全てを断り――国王命令なので仕方なくアデラインと結婚したそうだ。
(何だかんだ言って気遣いはしてくれるし、最低限の会話もできている。愛のない政略結婚にしては、十分すぎるくらいね)
その日の夜、オーウェンが寝るまで側にいようと思ったら彼はぐすぐすと鼻を鳴らした。
「寝るのが怖い。アデル、今日一緒に寝てくれない?」
「まあ……もちろん、このアデラインがお供しますよ」
オーウェンはまだ、八歳だ。いくらマクナイト国王夫妻が国民を虐げる悪人だったとはいえ、それでもオーウェンの両親であったことに変わりはない。
両親を一気に失ってもなお、背筋を伸ばして敵国で生きているオーウェンだって、甘えたくなる時がある。そういう時にうんと甘えさせてあげるのも、アデラインの仕事だと思っている。
……だが翌朝に屋敷に帰ったアデラインを、シェイドは微妙な顔で迎えた。
「おまえ、オーウェン様の添い寝をしたそうだな」
「はい、しました」
「そんなにしょっちゅう、一緒に寝ているのか?」
「……たまに、というくらいです」
アデラインが答えると、シェイドははあ、とため息をついた。
「いくら八歳とはいえ、オーウェン様も男だ。そういうのはそろそろやめた方が……互いのためにもなるだろう」
「……ええと。では、男性であるシェイドが私の代わりに添い寝をして差し上げると……?」
「馬鹿っ、そういうことを言っているのではない!」
思わずといった様子で声を荒らげたシェイドだがすぐにはっとして、気まずそうに視線を逸らした。
「……おまえがオーウェン様の母親代わりのような存在であることは分かっているが、そろそろ親離れをした方がいいだろう、ということだ」
「……それもそうですよね。でも、やはり放っておけなくて」
「放っておけと言っているのではない。……おまえはおまえにできる形で、なおかつ今後のオーウェン様の成長のことも考えた上で、あの方を甘やかせばいい」
その言葉に、アデラインははっと顔を上げた。
シェイドはむっつりと視線を逸らしたままだが、機嫌が悪いというよりは少し困っているような横顔だ。
「……まったく。おまえたちの関係には、俺の理解が及ばない。おまえはそれほどまで、オーウェン様のことが大切なのか」
「ええ、もちろんです。でも、オーウェン様でなくても小さな子どもが困っていたら……どうしても、手を差し伸べたくなります」
さすがにオーウェンとその他の子どもだったら迷わずオーウェンを取るが、自分にもある程度の余裕があるならできる限り、困っている子どもは助けてあげたかった。
そう思って言うと、少しだけシェイドの目尻が下がったようだ。
「そうか。……マクナイトの女は皆、子どもに優しいのだろうか」
「どういうことですか?」
「いや、何でもない。……おまえは今日の勤務は、昼かららしいな。俺はもう行くから……自由に過ごしてくれ」
「……ええ、いってらっしゃい」
アデラインが声を掛けると、シェイドの背中がぴくっと震えた。
彼は何かためらっているかのようにぎこちなく振り向き――そして、「……いってきます」とぶっきらぼうに言って玄関を出た。
シェイドと結婚して、約一ヶ月が経った。
「アデル、アデル! 今日、馬に乗れたんだよ!」
「まあ! それは素晴らしいことです! よく頑張りましたね、オーウェン様」
「ふふっ。シェイドも、褒めてくれたんだ。僕、動物に好かれやすいみたいで、こんなに大きな馬だったけど僕を乗せてくれたんだよ!」
自慢げに報告するオーウェンは、興奮と喜びで顔を真っ赤にしている。そんな彼の背後に立つシェイドも、大きくうなずいた。
「オーウェン様はとても真面目でかつ、意欲的だ。今は体が成長している最中だから、無理はさせられないが……いずれ剣術もかなりの腕前になるだろう」
「本当!? 僕、強くなれそう?」
「ええ、俺が保証します」
シェイドが言うと、オーウェンは「やった!」と両手を挙げて喜んだ。そんな主君の様子に、思わずアデラインは笑みをこぼしてしまう。
(……ああ。オーウェン様が幸せそうで、私は何よりだわ……あら?)
ふとオーウェンの背後を見ると、シェイドもまた穏やかな表情でオーウェンを見ていた。
優秀な教え子を見守る眼差し、ではあるのだろうが、今の彼の様子は弟子を見つめる師匠というより――
「……お父様みたい」
「何か言ったか?」
鋭く聞きつけてきたシェイドがこちらを見たので、着替えのために別室に行ったオーウェンの後をついていきながら振り返ったアデラインは、微笑んだ。
「いえ。今のシェイドがまるで、子どもの成長を見守るお父様のようだったから」
「……。………………おまえ、それ、分かって言っているのか?」
シェイドが瞬時に笑みを消して何やら険悪な眼差しでアデラインを見てきたため、思わず足を止めてしまう。
「ええと? 何のことでしょうか?」
「……分からないならいい」
「……。……あ、分かりました! お父様じゃなくて、お兄様と言ってくれ、ということですね?」
「違う。さっさとオーウェン様のところに行け」
「え、ええ」
なぜかイライラしたように言われてしまったが彼の言うとおりなので、オーウェンの着替えとタオルを引っ張り出したアデラインは急ぎ、主君の後を追ったのだった。
(……そういえば、ポーリーナ様はいつの間に、ベルセア人のシェイドと知り合ったのかしら)
ある日、アデラインは疑問に思った。
ポーリーナは貴族の娘で、敵国人と気軽に触れあえるような環境ではなかったはずだ。シェイドは元々平民とのことだし、社交などで出会った可能性もほぼゼロだ。
……ということが気になったので、アデラインはシェイドの翌日の仕事が休みの日の夜、寝る前のティータイムのときに聞いてみることにした。
「シェイドはいつ、ポーリーナ様と出会ったの?」
最近では敬語なども取っ払って話すようになったアデラインが問うと、ティーカップを置いたシェイドが少し怪訝そうな顔になった。
「……言わなくてはならないのか」
「嫌ならいいけれど、よかったらポーリーナ様の思い出話を聞きたくて」
「……。……まあ、ポーリーナ様とも関わりがあったらしいおまえならいいか」
シェイドは呟くと、腕を組んだ。
「あれは……そうだな。俺がだいたい六歳くらいの頃だったから、今から十五年近く前のことになるか」
「年齢にだいたい、が付くの?」
「俺は自分の正確な年齢が分からないんだ。……まあいいから、聞け。俺は、不思議な体験をした」
* * * * *
今でこそ騎士爵位を得ているシェイドだが彼は貧民の生まれで、幼い頃に親によって奴隷商人に売られてしまった。
手近にあったものを奪って商人のもとから逃げ出したシェイドだが、山の奥で道に迷ってしまった。当時の彼はうまくしゃべれなくて、助けの声を上げることもできない。
そんな彼は、野犬の群れに襲われた。大人ならなんとかなりそうな野犬だが、ちっぽけで痩せ細っていたシェイドは何もできず、追いかけ回された。
もうだめか……と死を覚悟した瞬間、彼が商人から奪った袋の中にあった宝石が光り、粉々に砕け散った。
そうして――彼のもとに、若い女性が現れた。
異国風の衣装を着た彼女は野犬を追い払い、シェイドを守ってくれた。彼女は礼を言うことも事情を話すこともできないシェイドに甘い菓子を与え、抱き上げて怪我の手当てもしてくれた。
彼女は会話の中で、「私は『デンカ』にお仕えしている『ジジョ』だ」と話していた。デンカやジジョの意味は当時のシェイドには分からなかったが、誰かの名前だろうと思った。
やがてシェイドと彼女は、人家のある場所に出られた。だが彼女は家やその近くにいる人たちを見ると顔をこわばらせ、「もうここにはいられない」と言って逃げるように走って行った。
行かないで、と彼女の後を追おうとしたが、彼女はやがて淡い光と共に姿を消してしまった。
彼女は一体何だったのか、幻なのか。
だが彼女が与えてくれた甘い菓子の味はまだ舌に残っているし、優しい匂いも、抱きしめてくれた腕のぬくもりも――怪我の手当のためにシェイドの手に巻き付けてくれたハンカチも、きちんと残っていた。
* * * * *
「後に成長してから俺は、『デンカ』や『ジジョ』の意味を理解した。最初はベルセアの王子殿下のことかと思ったが、年齢的に該当する侍女はいない。まさかと思ってマクナイトの方を調べたら、今から十五年前に当時の第二王子・ジャクソンに仕えていたポーリーナという侍女の存在が分かった。年齢からしても、彼女しかあり得なかった」
そう言っていったんリビングから出て行ったシェイドはやがて、ぼろぼろに汚れた布を手に戻ってきた。
「これが、ポーリーナから受け取れた唯一のものだ。……何度も洗ったしきちんと保管しているんだが、やはり十五年も経つとくたびれるな……」
そう言って布を見つめるシェイドの眼差しは、優しい。
四年前に死んでもなお彼の心を温め続けているポーリーナのことを、心から想っている様子がよく分かる。
……彼の話は、分かった。
だが、アデラインは混乱していた。
(……待って待って待って!? それ、心当たりがあるんですけど!?)
* * * * *
あれは確か、マクナイト陥落より一ヶ月ほど前のこと。
買い物の帰りに城下町で倒れていた老人を助けたら、「願いが叶う石」といううさんくさいものを渡された。なんだこれは、と思いつつ持ち帰ったそれを自室で眺めていたら光が溢れ――アデラインは森の中に立っていた。
世の中には、不可思議な現象がある。魔法、と呼ばれるそれらはかつてはこの世に当たり前に存在していたそうだが、今では伝説上のものになっている。
もしかしたらあのうさんくさい石は本物の魔法の石で、アデラインは魔法により一瞬でどこかの森に転移したのかもしれない。幸い城下町で買った日用品などの入った袋も持っていたので、食いつなぐことはできそうだ。
まずは森を抜けよう……と思って歩いていたら、野犬に襲われる子どもを見つけた。放っておくことができなくて買ったばかりの香水をぶちまけて野犬を追い払い、お腹をすかせている子どもにお気に入りの蜂蜜タルトを与え、真新しいハンカチで傷の手当てをしてやった。
服を脱がしたときに性別は男だと分かったが、年齢不詳、しゃべることができそうにない、しかもかなり汚い子どもだった。
だが、オーウェンに仕えるアデラインは子どもに弱く、彼を抱いて人里を探した。その最中に、「私は『殿下』にお仕えしている『侍女』だ」と話した気もする。
無事に人里を見つけたが、その家屋の形や人々の衣装から、ここがマクナイトではなくてベルセアであると気づいた。敵対する国の女だと分かれば、何をされるか分からない。
だからアデラインは子どもをその場に残して立ち去り――気がついたら光に包まれ、自室に戻っていたのだった。
二日間の旅をしていたが、現実の時間は一時間も経っていなかった。
* * * * *
摩訶不思議な体験をしたアデラインは、「魔法によりベルセアの森に移動した」と思っていた。
だが――それがただの転移ではなくて、「時間の遡行を伴う転移」だとしたら?
アデラインは十五年前の時を遡って、シェイドを助けていたとしたら?
ちら、とシェイドの手元を見る。もうぼろぼろになったハンカチだが、その縁のところに購入した店の名前が刺繍されている。十五年前には、まだその店は存在していなかった。
(……ということは? つまり?)
アデラインが固まってしまったからか、シェイドがハンカチから顔を上げて怪訝そうに眉根を寄せた。
「……どうした? 話が聞きたいと言ったのは、おまえだろう」
「え、あ、そうね。……ええと。それで、シェイドは自分を助けてくれた女性がポーリーナ様だと分かったから、復讐を果たした……のね?」
「……ああ。もっと早く気づいていれば、助け出せたのに……」
シェイドは、悔しそうに拳を固めた。
ポーリーナの救出が間に合わなかったことを悔やんでいるようだが……間に合っていたとしても、人違いである。ポーリーナのことだから、「そりゃあ私じゃないね! あっはっは!」と笑って終わらせそうだが。
(……どうしよう。言うべき? それとも、このままにしておくべき?)
黙ってしまうアデラインだが、シェイドは愛おしそうに目尻を緩ませてハンカチを見ていた。
「……これは恋ではないと思っていたが……案外、俺はあの人に恋をしたのかもしれない」
「ンブッ」
「アデライン。ポーリーナは何歳だった?」
「え、ええと……もし生きてらしたら、三十二歳かと」
「……そうか。俺はだいたい二十一歳だから十一歳差だが――問題ないよな」
「ンンッ」
「顔は思い出せなくても……あの時与えてくれた眼差しやぬくもりは、忘れられなかった。……好きだった、と言えたらよかったな」
(いますいますいます! あなたの目の前にその人、いますから! そしてちゃんとあなたの告白、聞いちゃいましたから!)
とうとうアデラインが頭を抱えてしまうと、さすがに不審に思った様子のシェイドが「おい」と声を掛けてきた。
「さっきからおまえ、おかしいぞ。……ひょっとして、それは恋じゃなくて母親に対する愛のようなものだとでも言いたいのか?」
「え、ええ、いや、そういうわけじゃ……」
「俺が十一歳も上の女性に……それも亡くなった人に恋をするのが、おかしいのか?」
「そ、そうじゃない、そうじゃないけれど……」
うああ、とアデラインは唸った。もしこれをポーリーナが聞いたら「とんでもない人違いだね!」と腹を抱えて笑ったことだろう。
なんとか言い訳を考えようとするアデラインだが、シェイドの機嫌は悪くなっていく一方だ。
「……まあ、いい。別に、おまえに理解してもらおうとは思っていない。何とでも言えばいい。ただ……俺の命をつなぎぬくもりを与えてくれた記憶のことだけは、悪く言わないでくれ」
「……わ、分かっているわよ。でも、その……」
「……言いたいことがあるのなら今、言え。俺だっておまえとこじれたくはない」
とうとう唸るように命じられたので、アデラインはごくっとつばを呑んで決意した。
もう、どうにでもなれ、だ。
「……あなたの記憶や想いを否定したりはしないわ」
「……」
「気を悪くしたのなら、ごめんなさい。今度、あなたの思い出の蜂蜜タルトを買ってくるわ」
アデラインがそう言うとシェイドは「別に……」と言い――そして、さっと顔を上げた。
「……おまえ、どうして、蜂蜜タルトだと……?」
「……。……知ってる? あなたが食べた蜂蜜タルトも手当をしてもらったときにもらったハンカチもだけど……それらを売っていた店は、十五年前にはまだ存在していないの」
「え――」
「あと……あなたの左腰には、小さなほくろがある。そうよね?」
「……」
シェイドは、絶句している。彼と結婚して一ヶ月以上経つが、いつも澄ましている彼のこんな無防備な表情は初めて見た。
アデラインはカップの底に残っていた冷めた紅茶をぐいっと一気にあおると、勢いよく立ち上がった。
「……ということで! 話は終わったから、私はもう寝るわね!」
「おい」
「あ、でも今日はお城で寝ようかしら。せっかくあっちにも私用の控え室があるからね!」
「待て」
「それじゃあ、シェイド。また明日――」
「待てと言っているだろう」
すぐさま逃げようとしたが、驚くべき速さで立ち上がったシェイドに腕を取られてしまった。
今は、振り返る勇気が出てこない。
「アデライン」
「ふ、ふふふ? 何かし――」
「責任を取れ」
「……え?」
振り返ると、そこには顔をしかめたシェイドが。顔をしかめてもその整った造形には全く影響しないあたり、美人はうらやましい、とアデラインはどこかネジの外れた頭で思った。
「俺の、裸を見た、責任を、取れ」
どうやらシェイドもまた、少し混乱しているようだ。
「……え、えええええ? いやでも、あれは子どもの頃で……というか、どうやって取ればいいの?」
「……」
「……」
「……今の、間違えた。すまない」
「あ、はい」
そこでようやく手を離してくれたシェイドは多少冷静になったようで、眉間にはしわが残ったままだが先ほどよりは幾分表情を和らげていた。……だが、その頬はほんのりと赤い。
「……そ、その。俺は……とんでもない間違いをしていたようだ」
「はぁ……」
「俺はその、あれはポーリーナだと思ったんだ。だが……おまえ、だったんだな?」
「……多分。城下町でおじいさんからもらったうさんくさい石が、魔法の石だったみたいで……」
「……その石と俺が商人からくすねた石が何かしらの事情でつながって、おまえは十五年前に飛んできて俺を助けてくれた……ということか」
シェイドはかみしめるように言ってから、ばっと頭を下げた。
「……助けてくれて、ありがとう。あの頃の俺は言葉の意味は分かってもしゃべれなかったから……ずっと、言いたいと思っていたんだ」
「シェイド……」
「なんというか……ポーリーナにもすまないことをした」
「ポーリーナ様は寛容な方だからきっと、笑って許してくれるわ」
なお、シェイドの勘違いによって殺されたジャクソンだが彼は国王夫妻に負けず劣らずのろくでなし王族だったので、ベルセア王国は最初から彼も処刑するつもりだったらしい。
だからもしシェイドが勘違いしていなくても、ジャクソンはいずれ誰かの手によって殺されていたはずだ。
シェイドは小さくうなずいてから、アデラインの両手を握った。
「……ということで、だ」
「あ、はい」
「俺がガキの頃から想っていた女性は人違いで、本物は目の前にいた」
「ですね」
「結婚しよう」
「もうしてますね」
思わず素で突っ込んでしまったが、シェイドは真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。
「俺は……おまえのことを妻としてきちんと見てやれなかった。陛下に命じられたから仕方なく、という気持ちで……おまえのことを持て余していた」
「そんなことないわ。仮面夫婦ではあるけれどあなたは心を尽くしてくれたし、きちんと会話もしてくれたじゃない。オーウェン様の指導もしてくれて、本当に感謝しているわ」
「ありがとう。結婚しよう」
「重婚は禁止です」
「大丈夫だ。同じ相手とだから、法には触れない」
だんだんシェイドの様子がおかしくなっていっている。
「ずっとずっと、このぬくもりが……愛おしかった。ガキの頃から、おまえに恋をしていた。……俺の想いを、受け取ってほしい」
「……ええと」
「だめか? だめなら……分かった。友だちから始めよう」
「そういう問題じゃないと思います」
こらこら、と空いている方の手でシェイドの手を叩きつつも、アデラインは微笑んだ。
「……あのね。私も何だかんだ言って……あなたのことが、好きだと思うわ」
「え……」
「さっきも言ったように、あなたは政略結婚で仕方なく娶った私にも丁寧に接してくれたし、オーウェン様の教育方針で疑問に思うことがあればきちんと言ってくれたりして……本当に、いい人だと思ったわ」
「……そ、そうか」
「本当は、四年経ってオーウェン様と一緒にマクナイトに戻るときに……あなたとの婚姻関係を解消するつもりだった。それが、私にとってもあなたにとっても一番いいと思ったから」
でもね、とアデラインは自分の両手でシェイドの手を挟むようにそっと包み込んだ。
「私、欲張りになってしまったみたい。オーウェン様の成長をこれからも見守ってご一緒したいし……でも、あなたとも離れたくない。これからもずっとあなたと一緒にオーウェン様をお支えしたいし……でも、ベルセア王家に仕えるあなたの邪魔をしたくもない」
「……大丈夫だ」
「シェイド?」
シェイドはぎこちなく微笑み、手に力を込めた。
「欲張りなのは、悪いことではない。……おまえの願いを叶えられる道を、一緒に探そう。俺だって、これからもオーウェン様を支えたいし……おまえとも離れたくない」
「シェイド……」
「おまえのことが……好きだ。その、結婚した日に言ったあれは撤回して……おまえを、愛してもいいか……?」
騎士団では堂々と振る舞っているシェイドらしくもない、ぎこちない告白。
アデラインはくすっと笑い、シェイドと握り合わせた手にこつん、と額を当てた。
「……ありがとう。私も……あなたのことが、好き。あなたの愛が、嬉しいわ」
「アデライン……!」
「アデル、と呼んで。……これから『責任』、ちゃんと取らせてもらうわね?」
先ほどのシェイドの失言を引用してささやくと、彼は「おい……」と言いつつも、その耳や頬を真っ赤にしていたのだった。
「……ふぅん? だから最近あの二人は仲がいいのか」
「そのようですね」
ある日の、オーウェンの部屋にて。
ペンをくるくる回していたオーウェンとの会話に興じているのは、シェイドの部下の一人である騎士。普段からシェイドの副官として側にいることの多い彼から、オーウェンは自分の侍女とその夫のあれこれを聞いたところだった。
「アデル、ばればれなんだよな。城では仕事の顔をしているつもりかもしれないけれど、どう見ても幸せそうにふわふわしてるし」
「……うちの隊長も、案外感情が顔に出やすくて」
「あはは、それ、思った。アデルよりもシェイドの方が分かりやすいな」
ふと、窓の外から声が聞こえてきた。ペン回しをやめてそちらを見やると、庭でアデラインとシェイドが話をしているようだ。
ここからは、シェイドの後頭部とアデラインの横顔しか見えない。きっと、仕事関連の話をしているのだろうが……アデラインの横顔はとても幸せそうで、それを見るオーウェンの頬も緩んだ。
オーウェンが物心つくより前から側にいてくれた、アデライン。城が陥落したときも身を挺してオーウェンを守り、人質としてベルセアに渡るときにも真っ先に名乗り出てくれた。
「……大丈夫だよ、アデル。僕はあと四年で、立派な男になるから」
姉のように、母のように、オーウェンを守ってくれたアデライン。
もう、彼女にとっての「一番」は、オーウェンではない。
それは少しだけ寂しいが……敬愛する侍女が幸せを掴めるのだから、オーウェンは満足だった。
中途半端に会話を立ち聞きしていた使用人「えっ? せ、『責任を取る』!? 奥様が、旦那様の裸を!? わ、わぁ、どうしよう……ドキドキしてきた……!」