イザベラという少女
イザベラは、ドミナの名を持って生まれた。
他家の者からすれば「?」といったところだろうが、これを理解するにはマグダリア伯爵家の慣習を紐解く必要がある。
ミドルネームは通常、他の称号や先祖の名前……要するに背負っている歴史や繋がりを示すものとして付けられる。二つ以上の家を背負っている場合は必須のようにして負わされることもあるが、基本的には付けても付けなくてもいい。
一番わかりやすいのはイザベラの妹であるサマンサ=リリィであろうか。彼女は曽祖母の名であったリリィをミドルネームとして継いでいた。そして、彼女自身が白百合のごとき乙女として成長したため、好んでリリィと呼ばれることが多い。
さて、ではイザベラのドミナはと言うと。
こちらも先祖に散見される名前である。女性ならドミナ、男性ならドミネ。
しかし共通するのは、それらは一度たりとも誰かのファーストネームだったことがないということ。
……それから、その名はマグダリアの「家長」を意味するということだ。
つまり爵位を継ぐもの、という認識でほぼほぼ正しい。どちらかと言うと慣例に基づくあだ名にも似たところがあり───例外的に、爵位のない次男であっても多大なる功績を成した場合など、自然「ドミネ」を呼び称されることもあった。その場合、伯爵たる長男の立場は……まぁ、考えぬが華だろう。
マグダリアにとって「ドミナ」「ドミネ」とはそういう名前である。
主。
伯爵様。
我々の、あなた。
それ自体が敬称であり、誇りと愛を込めて多くの唇に乗せられる。
────イザベラ・ドミナ・マグダリアは、生まれながらにその名を冠していた。
でも、でもね。
欲しかった訳じゃ、なかったの。
「マリア」
「はい、お嬢様」
就寝前の手入れとしてその爪先を預けながら、イザベラはこのメイドの伏した長いまつげをぼんやりと眺める。
マリアは指のひとつひとつ、爪のひとつひとつに毎晩こうやって、丁寧に精油を塗ってくれるのだった。
どこかうやうやしく、なぜか幸せそうなその姿に、とめる気をなくしてからもう数年経つ。
「あんたくらいよ、ドミナって呼ぶのは」
「光栄です」
「いや、褒めてなくて……」
ふだんはちゃんとお嬢様と呼んでいるのに、感情が昂るとその名、『ドミナ』が口をついて出るらしかった。イザベラにはその気持ちがわからない。
どっちにしろ、古臭い慣習、古臭い名前だ。イザベラは父が───リュシオン・ドミネ・マグダリアがドミネと呼ばれるのを聞いたことが………いや、一度だけあるが、一度きりしかない。
そんな黴の生えた呼び名を、本気で忠誠の証のようにしていたのなんて、もう何十年も昔の話だ。
……でも。
それでも。
「光栄です。私の主」
黴臭い呼び名も、マリアが呼ぶと生命が宿る。
そうやって、意識しながら唇にのぼらせるマリアは、この世の何よりもすばらしい宝物を与えられたかのように、美しくうっとりと微笑むので。
「……ああ、そう」
爪先に塗られた精油が、マリアの動きに揺られてとろりと香る。
その底知れない夜空の瞳は、今日もイザベラをまっすぐ見つめている。
強くて、残酷で、正しくなんてない。
マリアはいつだってそうだった。そしてイザベラは、それをよしとしていた。
伯爵様
そう、なれるだろうか。
そう、なるのだろうか。
イザベラは、ぎゅ、と手入れの終わった両手を握りしめる。丁寧に丁寧に塗られ、磨かれたその両手は、少しだけ赤くなって、手のひらに爪の跡を数秒残した。
「わたしね、マリア」
「はい」
「カインを好きだったわ」
「あの犬畜生、やはり息の根をとめておいたほうが──…」
「ステイ。ステイよマリア。……でもね、それ以上に」
嫌いだったの。
「……お嬢様?」
イザベラはぽつり、そう零すと、静かにその両目を閉じた。
自信家のカイン。努力家のカイン。その努力を知られることを嫌って……意地を張って、見栄っぱりで、一生懸命で。
寛容であろうと努めていたのを知っている。
王者の寛大さを、豪放磊落さを、示そうと必死だったのを知っている。
だから好きだった────そして、大嫌いだった。
カインのそれは、ほとんど成功していた。寛大であろうとする願いはいずれ実を結び、本物の度量へと結びつくだろうことを見てとった。
(でもそんなの、まがいものだわ)
イザベラは、そう思った。
カイン王太子の心根はイザベラに似ていた……嫌というほど!
彼は天才ではなかった、真の意味で寛大でもなかった、王者の器などでは……主君の器などではなかった。少なくともカインもイザベラも、己のことをそう感じていた。
ただ、もう辛いと思ったとき、駄目かもしれないと思ったとき。あと一歩、もう一歩を足掻くことができた。頑張ろう、と決めたことを、普通よりもずっとずっと頑張ることができた。
そんな歯を食いしばる姿を、鏡のように見せられるのが苦痛だった。
(ほらね、寛大なんかじゃない)
己の欠点を他人の中に見出すこと。
それはイザベラのような気質の者にとって、苛立ちでしかなかった。だから。
だから………
「だから、リリィのことが好きなのでしょうね」
お姉様、とこちらを呼ぶ、花のような笑顔を思い出す。
カイン様、と彼女が呼びかけたときの、ほっとしたような彼の顔も。
リリィだって人の娘だ。それなりに欠点もある。……例えばイザベラやカインのように、踏ん張りがきかない。清く正しく美しいがそのぶん汚泥に弱く、言ってしまえば陥れやすくもあるだろう。
でも、その心の広さは本物だった。
そして大きく見開いた瞳は、声は、相手に訴えかける力があった。
───いずれも王宮という『舞台』映えする、有用な能力だとイザベラは思う。
「お嬢様」
はっ、と我に返る。
気づけば手入れはとっくに終わったようで、足には冷えぬようにと柔らかなリネンが巻かれていた。
夜空の瞳が、こちらをひたと見上げている。
この世の哀しみ全てを背負ったかのような、美しく穢れなき星々の光で。
「やはりあのカインとかいう羽虫、わたくしにお任せ頂ければ────…」
「マリア駄目。王太子。王太子だから」
「しかしお嬢様────…」
「しかしじゃないから。駄目。いい? 駄目よ」
「…………はい」
ぜんぜん納得してなさそうな渋さで、マリアが一つ頷く。
その姿になんだか愛嬌を感じて、イザベラは笑ってしまった。
少女らしい、屈託のない、笑顔だった。
一方王宮にて。
第一王子アシュリーベルは己の書斎において、正味5分間にのぼる沈黙に耐えていた。
目の前には護衛騎士にして己の乳兄弟のセト。
殿下ちょっといいですか、から始まり真正面に立たれて以降の無言である。
これにはちょっとアシュリーベルも困った。具体的には、己と違ってガッチリ体型に育った乳兄弟にして幼馴染が、秀麗と言えんこともない眉をひそませつつ目の前に聳え立っていることに対し、純粋にむさ苦しいなと思った。
だが耐えた。セトは元々口下手なところがあるので。
むくつけき騎士の沈黙にただただ耐えていたのだ。
「アシュリーベル殿下、あの、先日の」
「ここは私の書斎だ、セト。別にアシュリーで構わない」
「アシュリー殿下」
「いや……どっちかにしろ」
「ええい混ぜっかえすなアシュリー! 俺は今混乱している! そしてここは王宮であるからしてケジメが肝要。殿下と呼ばせて貰うぞ」
「お、おう」
「ということで殿下」
「切り替え早いな……」
そんな底の浅いケジメなら別になくても構わんのではあるまいか、とアシュリーベルは思ったが、これ以上時間がかかっても面倒なので一旦口を閉ざす。
セトはそれから、あー、とか、うー、とか、ええと、とか散々言い淀んだのち、さらに5分を費やしてからいっそきりりと顔を上げた。
「あの、可憐な女性はどなただ」
「は???」
「凛として美しい。女神かと思った」
「はあ………」
幼馴染に春が来た。
同時に頭の中も若干春めいているようだが、それはたぶん指摘してはいけないやつだろう。
アシュリーベルは目前の男の上腕二頭筋のパワーと、己の非力さとを天秤にかけて見誤ったことは一度もなかった。うっかりとツッコミとかで殺されたらシャレにならない。
とりあえず、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「と言われても。いつ、どこの話だ」
「昨日。テラスで」
「ああー……」
あの状況でよく馬以外を気に留める余裕あるなお前、とか。
そもそも私やカインを護衛する立場なのにそれでいいと思ってるのかお前、とか。
言いたいことは山ほど湧いて出たが、ここで生来の仁徳が顔を出す。
もしや、と気づいたアシュリーベルは困ったように首を傾げた。
「イザベラ嬢か?」
「イザベラ………そうか、この世で最も美しい名だ」
「いや、あのなセト」
彼女は伯爵家の長子で、と続けるタイミングを伺う。
とてもじゃないが身分が違う。あと性格的に合わない。絶対合わない賭けてもいい。
と思いながらアシュリーベルが口籠もっている間に、セトは尚も言い募る。その黒い瞳が、優しげに揺れていた。
「………本当に、戦場に現れるという女神……戦士のために涙するかの聖女のようだと思ったんだ。笑ってくれ、アシュリー。俺は今自分が大馬鹿者だと分かっている」
「セト……」
「だが彼女が颯爽とあの荒くれ馬にまたがり、それをぎりぎりと締め上げ見事昏倒させたとき……あのときから世界が変わってしまった。あれは本当に何一つ無駄のない、洗練された動きだった……流麗なワルツとも見紛うばかりだ」
「セト…………んん?」
「アシュリー、頼む。今は黙っていてくれ、俺はイザベラという女神に浮かされている」
「あ、すまんセト。それはイザベラ嬢じゃなかった。イザベラのメイド、マリアだな」
「マリア………そうか、この世で最も美しい名だ」
「心強いなお前」
王宮だから殿下呼びはどうしたんだろう。やはり浅瀬のようなケジメであった。
それはそれとして、アシュリーベルは真顔で内心怒涛の疑問符を飛ばす。いや、あの場面に惚れる要素あったか? むしろ未知の戦闘力におののく場面じゃなかったか? ……ツヨイオンナ、オレ、ヨメニスル、みたいな戦闘民族の流儀だろうか。我が国の騎士団始まったな。
尚も戸惑いつつ、アシュリーベルは口を開いた。
「ええと、セト」
「はっ、申し訳ございません殿下。お見苦しいところを」
「いや、まぁ見苦しいか見苦しくないかで言えばかなり見苦しかったんだが、もうそれはいい。メレンゲ菓子よりも軽い扱いだった私の尊称もこの際だからいい。ええと、聞きたいのだが、あの……マリアの、どのへんを?」
「? 今申しましたが……流麗なワルツの如くに」
「暴れ馬を締め上げた」
「はい」
「はいって」
「それを見て、俺は思ったのです。この女を護ってあげなくては、と」
「嘘だろお前……」
騎士として正しい本能だが、異次元の結論すぎて頭がついていかない。
しかしアシュリーベルはこの日、己が幼馴染を見誤っていることを知った。
彼は強く、正しく、折れない心を持っていた。つまりは誠の騎士道を。
セトの黒い瞳が、アシュリーベルをまっすぐに見据える。薄い唇がもう一度、あのひとを護ってあげなくては、と繰り返した。
「………社会的に」
「すごいなお前……!」
第一王子アシュリーベル、心からの喝采であったという。