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Nの復讐  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

研究所へは五分ばかり遅刻して到着した。亜衣子は出所していたが深野は来てなかった。

「おはようございます」と言う亜衣子の挨拶に、いつものように「おはようございます」と答えたが声に力が入らなかった。むしろ亜衣子の明るい声に空々しい快活さを感じた。亜衣子が先週までとは全く違う女に見えた。「元気がないわね。田舎で遊びすぎね、きっと。論文なんか書いてないみたいだから。昨日はずる休みでしょ」という言い方は多分一月前と変わっていないとは思うが明には随分と遠い存在に感じられた。実際彼女に語れない秘密が二人の間を遠ざけていた。疲れたという言葉しか明は発することができなかった。

 九時半少し前に、深野が出所してきたので、早速帰省による欠勤のお詫びと今後の報告書作成の確認を改めてすることにした。最初、深野の机の前で説明しようとしたが、深野が応接セットの方に誘導した。「因果関係はないという報告書を書いて、どこかで発表しろということだよね」と言いながら腰をかがめる深野は、明の週末の帰省については全く興味がないようだった。

「さもないと風評被害で損害賠償請求の民事訴訟を起こさざるをえない、という脅しです」

「その人、永山さんって言ったっけ。当然、統計的な仮説検定の意味など、分かってないんだろうな。所詮、確率的に何%水準で有意とか、棄却されるなんていう哲学めいた話は、統計学だけの世界だからな。一般の人には分かってもらえないだろう。まあ、こちとらしがない宮仕えだからね。喧嘩をうって残り少ないキャリアに汚点を残したくはないわな。喧嘩を売るだけの価値があれば別だが。とは言え、ああいうテレビ出演をしておいて、実は、あの仮説は検証されませんでしたと、おめおめと公表するのも、無様でみっともない話ではあるな。まあ、決定的な検証ができない限り穏便に済ませたほうが利口なのかも知れないな。とりあえず、今週中に報告書をあげてくれよ」

 明が自席に戻ると亜衣子が明の後頭部の絆創膏に気づいた。「あら、頭どうしたの?」

「ちょっと、おできができて」と言いながら明は右手のひらで後頭部を触った。昨日よりは少し小さい絆創膏で、頭髪に隠れて目立たなくはなっていた。

 その日一日、何もする気になれなかった。気だるく陰鬱な気分に支配されていた。既に報告書の結論は決まっているからかも知れない。決着が決められていれば、あとは時間を消化するしかやることはない。とりあえず昼休みになってから、盗聴されていることに留意しながら南條に携帯メールを打った。

@南條警部補殿。メールが遅くなりましたが、この日曜日に例の運転手に会うことができました。くだんのバッジは日本メソポタミア同好会の会員バッジで、縦の串刺しはJAPANのj、横の串刺しはNIPPONのnを象徴し、斜めの串刺しは両者を意味しているそうです。「誰かがどこかでバッジをなくしたということは聞いていないか?」という問いには「知らない」という返答でした。都営住宅の少女転落死の事案に関係がありそうな心証は得られませんでした。素人目ではありますが。土岐明@

恐らく、このメールを奈津子か長田がどこかで見ているか、あるいはいずれ見ることになるのだろうと明は思った。このメールに何か不都合があればそれで明の人生は突然終焉を迎える。明は一日中、TDLとUSJに関係しているという自殺の事例について、その検証がいずれも徒労に終わったという詳細を文章化することに費やした。携帯電話を目の前に置き、一人ごとを言いながら文書を作成した。ポジティブな文章は書いていてそれなりに楽しいが、ネガティブな文章は書いていて気だるくやるせないことに初めて気付いた。あす中にも第一次草稿が完成し、深野に見せ、多少の追加注文や修正に応じ、金曜日までには報告書を完成させ、予定通りアルバイトを終了させるという目途がついた。

夕方になって南條から明の携帯電話に着信があった。いきなり「この、ばかやろう!」と言う罵声から始まった。「あれだけ言っただろ!勝手なことをするなって!事件現場に証拠物件を落としたやつが正直に落としましたと言うか!バカ!どこで逢って、どういう会話があったか教えろ!安禄山にすぐこい!」と怒鳴りまくって切れた。これも盗聴されているとしたら、とりあえず今日を生き延びるためにはどうしたらいいのか。明は仕方なく安禄山に電話を入れた。「先日南條警部補とお邪魔した土岐といいますが実は今日もそちらにうかがう約束になっているんですが体調が悪いので行けないと伝えてもらえますか」

「はい、わかりました。のまさんですね」と答えたのは主人だった。

今晩でなくとも再び南條から連絡のあることが予想された。そこで亜衣子がトイレに立った隙に彼女の机の引き出しから速達分の切手を失敬し、墨田署の南條宛に手紙を書いた。

―南條警部補殿。事情があって詳細を話せません。携帯電話もメールも盗聴されています。連絡や要件は郵便かパソコンのメールアドレスにお願いできれば幸甚です。パソコンのメールアドレスはnomanorio@******.netです。土岐明―

ついでに命にかかわることだと書き添えようとしたが思いとどまった。南條が本格的にこの事件にかかわってくるような気がしたからだ。あとは、今晩、安禄山から南條が電話をしてこないことを祈った。その日は、帰宅途中のポストに速達郵便を投函して帰宅した。見慣れた通勤途中の窓外を流れる風景が、昨日までとはまるで違うように見えた。


三月の第1週も終わろうとしていた。その週末までは何事も起こらなかった。深野のだめだしの微調整に素直に応じて報告書を修正した後、完成させた。深野に報告書を提出し、TDLと少女の自殺や事故死との間には因果関係のないことを公表することを確認した。深野の前から立ち去るとき胸に差し込んだ電話に語りかけるように念を押した。深野は、

「打ち上げをしてやろう」と申し出てくれたが、明は「体調が良くないので」と断った。亜衣子も誘われることを期待しているように見えたが、彼女が明の心の中に占める位置は潮が引いていくように次第次第に奈津子に置き換わって行った。統計研究所を後にしたとき再び来ることもないのかと思うと少し感傷的にもなった。僅かばかりのアルバイト収入のために人生が大きく狂い始めたことを明は後悔した。愛着と恐怖の印象の混在した奈津子からは何の連絡もないのが気になった。できれば全てを忘れ、アルバイトをする以前の気軽な生活に戻りたいというのが明の本音だった。

千住のアパートに戻ると、郵便受けに南條からの速達が入っていた。無意識のうちに周囲を見渡して、誰もいないことを確認し、自室に持ち込んですぐに開封した。

―面倒なことだが、事情が良く分からんので、おまえさんの言うとおり手紙を書く。例の運転手の長田は撮影技師として大阪の長田フォトスタジオに1ヶ月ほど前までいたようだ。父親の隆は十年ほど前に死んでいない。母親は存命で、小学校教員をかなり以前に定年退職した。女房はUSJで掃除婦をしている。長田は現在は舞浜の永山整形クリニックにいる。渉外係の永山奈津子はTDLの正規の社員だ。評判は悪くない。しかし、幾度も美容整形をしているらしいという噂がある。噂の出どころは分からない。真偽のほども分からない。父親が整形外科医、母親が小学校教員だった。現在のクリニックの建物は、TDLが開園した頃に建てた物だ。ただし、母親はずいぶん以前に、父親は昨年の春に他界した。周辺に人口がないのでクリニックの客はあまりいなかったようだ。父親が存命だった頃は、TDL内で捻挫とかくじきがあった場合、奈津子がクリニックを紹介していたようだ。こちとらプロだから、以上の身辺調査は一切、奈津子と長田のお二人さんには、気付かれないようにやった。とりあえず、いま分かっているのはこんなところだ。これでロサンゼルスのテーマパーク職員と初等中等教育関係者のつながりと似たようなものが、日本にもあったことが検証された。もう間違いない。これはとてつもないヤマだ。明日は永山奈津子の母親が勤務していた小学校へ行く。お前の方も情報をよこせ。こっちは定年との競走だ。まごまごしていたらこのヤマは片付かないかも知れない。ついでに、俺のパソコンのメールアドレスを教えておく。たったいま、ロサンゼルスのドクター林からメールが入ったが、この内容はいずれ伝える。nanjoh@****.tokyo.jp 南條―

 明は携帯電話をユニット・バス近くの小テーブルの上に置くとTシャツとチノパンツ脱いだ。それからシャワーを浴びながら南條の情報を反芻してみた。頭髪をシャンプーで洗うときの痛みで、この埋め込み手術が永山整形クリニックで行われたのだと推察した。しかし、長田がなぜ最近大阪から来たのか、バッジを都営住宅でどうして落としたのか、バッジを落としたのは誰か、隅田川で溺死した少女とどういう関係があるのか、奈津子がどのようにかかわっているのか、ロサンゼルスの集まりは何だったか、3411は何の意味がある数字なのか、皆目推理ができなかった。シャワーから出て、鏡を見ながら後頭部の絆創膏を市販のものと貼り替えた。何かが埋め込まれているようで、小さなコブができていた。据付のエアコンのスイッチを入れ、コンビニのハンバーグ弁当を食べたあと、ロフトベッドに横になって液晶テレビを見ていると、ドアを控えめにノックする音がした。  

いまごろ誰か?明には心当たりが全くなかった。「どなたですか?」と明はチノパンツを急いではいて長袖のTシャツを首に通し、身構えながら大声で誰何した。「永山です」と奈津子の甘く熱い声がした。その声で明の心臓が一瞬こむらがえった。鼓動が急に早くなった。その脈動が後頭部の傷跡を間歇的にひりひりと刺激した。あわてて南條の手紙をロフトベッドの下の机のサイドの引き出しの奥に隠した。

「どんな御用で」とドアの外をうかがいながら言うのが明には精一杯だった。

「お話したいことがあって」

「でも汚い部屋なんで」

「かまいません」と言われても明は汚い部屋を見せたくなかった。しかし、問答が長くなると、近隣の住民の好奇心をかきたてる懸念があった。「すいません。部屋をすぐ片付けますので」と言いながら、とりあえず二人が座るスペースを確保した。元々散らかっていることが気にならない性分なので、部屋の中はコンビニ弁当の食べかけや衣類や雑誌などが散乱していた。整理整頓には半日かかりそうなので明は諦めてドアを開けた。

「お待たせしました。本当に散らかっているんです。それに男くさいし」

「大丈夫です。気になりませんから」と言いながら、奈津子は狭い玄関に立ち、部屋の中を見渡した。明には、そこだけスポットライトが当たっているように思えた。

「あなたが気にされなくても、僕が気になるんです」と言いながら、立ちふさがっていることに気付き、明は身を引いた。

「そうですね。突然押しかけてきてごめんなさい」と言いながら奈津子はその場に屈み、ピンヒールの靴を手を添えて脱いだ。いつもと同じプリンセス・ワンピースだが、胸が大きく開いていた。色は淡いライラックだった。パンプスを脱ぐと、明の目の高さに彼女の富士額が来た。生々しく息が掛かるような狭い部屋に二人きりになると、明は間近に迫る彼女のなまめかしい肉塊と体臭に軽い陶酔を覚えた。奈津子は腰高に踵を浮かせるように立ったまま、6畳の部屋を点検するように見回した。「これなら半日で引越し完了ですね。来週あたりどうです?来月契約が切れるんですよね」

「ええ。その件で、大家か不動産屋が、あすあたり、契約更新の手続きに来るはずです」と言いながら、明は落ち着かない面持ちで、まじかにある奈津子の眼をちらりと見た。「ちょうど良かったですね。契約は更新しないで、このまま、すぐ引っ越して下さい」

「ちょうど良くないですよ。賃貸契約は今月いっぱいまであるんです。それに退出する場合は賃貸契約では二ヶ月前にこちらから申し出なければならないことになってるんです」と言いながら明は目の前の奈津子を抱きしめようとする押さえ切れない衝動に襲われた。「そうですか。でも、もうここにいてもしょうがないでしょう。お母様やご兄弟や警察統計研究所の方々や大学院の指導教授の方には就職が決まって引っ越すと伝えて下さい」 明には奈津子の言い方が、丁寧ではあるが、少し命令口調であることが少し気になった。「郷里には母が一人で暮らしていますが、まあ、近所に僕の兄弟が住んでいますけど」と言いながら奈津子が昨年死んだ明の父親のことに触れなかったことを不思議に思った。「就職先は永山整形クリニックで、整形市場の統計分析が業務ということでいかがですか」「中卒の母はそれでだませても、僕の指導教授は間違いなくへんだとすぐ気付きますよ」「まあ、そのときは、そのときです。で、引越しの手配は、来週の月曜日の午後一番でよろしいですか?お手数でしょうけれど、すぐに持ち出せるように、午前中に荷造りしておいていただけますか?引越し用の車両を、こちらに寄越しますので。よろしいですか?」「よろしいも何も、僕にいささかでも選択の自由があるんですか?教えて下さい」と明は少し、いきり立った。抱きしめたくても抱きしめられない、行き場のない苛立ちがそうさせた。全く隙を見せない奈津子の態度に、多少もどかしさを感じていた。明は奈津子との心理的な壁を低くし、もっと近くなり一線を越えることを切望していた。

「私達に協力して下されば、私達の仲間になって下されば、どのような自由でもあります」と長く濃い睫毛を引き上げて、潤んだような瞳で明を見つめる。明は心情的に奈津子より劣位にあることを自覚した。「一体、何を協力するんですか?」

「とりあえず、私達に関するどのような情報でも、一切外部にもらさないこと」

「そう言われても、僕は何も知りませんよ。もらしたくても、もらしようがありません」「だって既に、長田さんが写真技師で、最近、大阪から来たことをご存知でしょ。私が、アメリカのロサンゼルスのホスピタリティ・コンベンションに行ったことだって」

「えっ、どうしてそれを」

「ごめんなさい。手紙の方は、隠しカメラで監視していたの」と言われて明もかなり気分を害したが、抵抗できないことを思い出してすぐに諦めた。彼の長所は諦めのいいことであり、それがまた短所でもあった。

「あの天井の隅にある隠しカメラは、引越しのときに、ついでにはずして下さる?」

そう言われて、奈津子が指差す方を見ると天井のしみにまぎれて隠しカメラのレンズがこちらに向けられていた。それを見て、明は全てのことに諦めがついたような気がした。

「汚いけど座りませんか?なんで僕がこんなひどい目にあっているのか話してもらえますか。本当に精神的にそろそろ限界です。こんな理不尽なことは生まれて初めてのことです」と明は部屋のフローリングの床の窓際の隅に倒れ込むようにして憤然と腰を下ろした。

「そうね、あなたは、本当にひどい目にあっているわ。申しわけないと思っているのよ。私の立場をわかって欲しいとは言いません。でもどこから話したらいいのかしら。話してしまったら、あなたは、永遠に元には戻れないのよ。それで本当にいいの?」と言いながら斜めの目線を明からはずさないまま奈津子は横座りに床に腰を下ろした。

「どっちにしても、もうひと月前には戻れないんでしょう?理不尽だけど、諦めています。でも、諦めるにしても、ある日、突然、何も知らずにというのはいやだから」

「まあ、とても素直で、諦めのいいこと。それでは、どの辺から話しましょうか?」

「墨田区の白鬚橋近くの都営住宅の平野慶子の転落死から」

「ああ、あれは、事故死です」

「まさか、じゃあ、なんであのメソポタミア文字の変なバッジが落ちていたんですか?」「あれは偶然だと思います。長田が毎晩あの中学生の携帯電話に転落の暗示をかけていたようです。インフルエンザの病状が進行して行ってタミフルをたくさん飲ませたら彼女が自分から転落して、彼が駆け寄ったときまだ息があったみたいで、最後の力で彼にしがみついてから事切れたみたい。彼は彼女が携帯電話を持ってきたのを確かめて彼女のブログに自殺をほのめかす書き込みをして、そのときにバッジを落としたのじゃないでしょうか」「南條刑事の話では、携帯には本人以外の指紋は残されていなかった、ということだけど」「そうですか。そのへんはどうやって指紋を残さなかったのかは見てないので知りません」

「でも、どうして長田さんは、平野慶子が転落死する近くで様子を見ていたんですか?」「インフルエンザウイルスが効いて、タミフルが有効か、見に行っていたみたいで」

「長田さんが、平野慶子に直接インフルエンザ菌を感染させた、ということなんですか」「ええ、インフルエンザは飛沫感染だから、インフルエンザウイルスそのものを吹きかけたの。舞浜のクリニックで以前から培養しているのよ。人によって基礎体力が違うから潜伏期間もまちまち。インフルエンザに感染させてタミフルを大量に投与して自分から転落させるやり方は長田が考えたのよ。去年の花火祭りのときの浅草の女子高生の場合もそう。彼女の場合は、長田は彼女が明石にいたころからインフルエンザ菌を吹きかけていたのよ」

「たまたま、東京にやってきて、インフルエンザを発症して、花火大会の日に誰にも見られないで、桜橋から隅田川に飛び込んで溺死した。そんなにうまくいくものなのかな?」「私も、詳しいことは知らないけれど、成功の確率はあまり高くないみたい。だから、監視する必要があるのよ。でも、他の方法よりは安全だと言うのが長田の考えなの」

「他の方法って?」

「崖や運河や線路や屋上から突き落としたり廃車に閉じ込めて練炭を燃やしたり、首を吊らせたり密室にしてアルコールで酩酊させてガス栓を捻ったり、風呂場で硫化水素を発生させたり、林道や海上で行方不明にしたり、羽交い絞めにして手首をかみそりで切ったり、裸線で電気を流したり、睡眠薬を粉末にしたものや農薬を鼻をつまんで大量に飲ませたり」

 聞いていて明は、背筋に当たるエアコンの温風が極北の寒風のように感じられてきた。二の腕に泡のような鳥肌が立った。平然と話す奈津子の表情にそら恐ろしい魔性のようなものが潜んでいるのではないかと思えた。「女の子ばかりを自殺や事故に見せかけて殺す目的はなんなんですか」と明が憤然と問いただすと奈津子は質問には答えずに目を大きく見開いて明の目を捉えた。「私を見て、私の目を見て」と言われて明は奈津子の瞳を思いっきりのぞき込んだ。少し茶色を帯びた黒褐色の瞳が明の魂を吸い込みそうな感じで細かく揺れ動いていた。体が浮き上がるような錯覚を覚えた。「どう?何か感じなくって?」

「何かって?」と明がいぶかしがると奈津子はいきなり明の唇に自分の唇を近づけてきた。軽い接触から明の唇が奈津子の舌で押し広げられた。二人の唇が開かれ口がつながった。互いに相手の唾液を吸いあった。舌がからまり唇が押しつぶされるように強く重ねあわされた。やがて二人とも鼻息が荒くなり、ともに両腕で強く抱きしめあった。奈津子の爪が明の背中に食い込んだ。一瞬明の背中に激痛が走った。先に息苦しくなったのは明の方だった。明の想像を超えた力で、奈津子は体を密着させていた。唇から頬に口をずらし奈津子の耳元で大きく息を吸い込んだ。しっとりとした奈津子の頬のきめ細かい肌が明の頬に吸い付いてくるようだった。「ねえ、刑事さんに手紙を書いて下さる?」と奈津子が明の耳元で湿っぽい息を吹きかけるようにしっとりと甘ったるく囁いた。

「どう書けばいいんですか?」

「就職が決まったので、この件からは足を洗いたいって。ついでに引越しもするし、就職先から携帯電話が支給されたので、現在の電話番号とメールアドレスは使えなくなるって。手紙はこれで最後にします。あしからずって」

「でもあの人、クリニックの存在も知っているし、長田さんのこともかぎつけたし」

「それだけ。あとは何もご存じないでしょ。あの人のためにもこれ以上知らない方がいいでしょう。そうじゃなくって?それにあの人、あと3週間で定年よ。警察組織を離れたら、多分何もできないでしょう?キャリアじゃないから退職金も少ないし、離婚した妻子に仕送りもしなければならないでしょうから。定年後、近くのマンションの管理人の口がもう決まっているみたいですよ」

知ってしまえは僕のようになると南條のためにも知らせない方がいいような気がした。犠牲者は僕一人でいい、自力でなんとかこの窮地から脱出しようと明はヒロイックに考えてもいた。分からないことが多かったが奈津子をそれ以上詰問する気にはならなかった。彼女と一緒にいることに不快を全く感じなかった。むしろほっとするような癒されるような満ち足りた感覚があった。奈津子は明の胸に甘えるようにもたれかかっていた。

「あなた、ひとの目を見てその人がどんな人だか分かります?」

「なんとなく。少なくとも自分に対して敵意を持っているか好意を持っているか程度なら」

「そう、普通ね。あなたは信じないかも知れないけれど、私は邪悪な遺伝子を持った女の子の目を見ると、体中に悪寒が走って、体中に鳥肌が立つの。月に一人出会うかどうかという数だけど。もういちど私の目を見て!黒いのが角膜、その真ん中に瞳孔があるでしょ。私はここを見るの。私の瞳孔と女の子の瞳孔が一直線上に並ぶと、その子の心を感じるの。感じるのはここ。触ってみて」と奈津子が自分の眉間を左手の人差指で指差し、右手で明の左手を取り、そこを触らせた。皮膚は柔らかいが、その下に水晶体のしこりのような薄いレンズのような形をしたものが指先に感じられた。「これアジナー・チャクラって言うのよ。仏像にあるのと同じ。ここで感じるの。あなたの瞳を見ていると暖かい水を感じるわ。氷つくような血の流れている少女の瞳を見ると、ここから冷たいパルスが私の脳幹に伝わり、脳幹から延髄へ伝わって延髄から脊髄を瞬時に駆け巡るの。私の母も叔母も同じところにアジナー・チャクラがあったの」

「それで日曜日、ランドで、モラルの低い女の子がいると、その子の目を見ていたのか」「そう、あなた、この間の日曜日、遠くからうかがっていたものね。私が凍りつくほど慄然とする女の子の特徴は、他の人と感情を全く共有できないこと。例えばもらい泣きとか、つられ笑いとか、同情とか、思いやりというのが全くないの。そういう他人と同調する感情の動きが完全に欠けているの。それだけなら、情緒の未成熟な場合も同じだけれど私達が探しているのは、そういう欠落と自己中心の残虐性を兼ね備えた女の子なの。例えば、自分の欲望のために他人に平気で嘘もつくし抹殺もするし、よこしまな計画もめぐらせる。あなたは嘘をつくときどもる癖があるでしょ。普通の人は嘘をつくとき感情の抵抗があるから、手の発汗作用で嘘発見器で簡単に見破られる。でも、彼女らは平然と嘘をつくから、嘘発見器にまるで反応しない。相手が痛がるからとか相手がかわいそうだからとか、もしも自分が相手の立場だったらという心の働きが完全に欠けているから、自分の子供でも兄弟でも両親でも夫でも友人でも同僚でも平気で殺すことができる。女性の場合は自分の思い通りにならない周囲の人をあやめるだけだけど男の場合は何十年に一人、環境が整うと大量無差別殺人者になって登場する。私達の祖先はこういう男たちによって数百年、数千年、数万年前から虐殺されてきたのよ。だけど歴史上は英雄扱いされている人も多いわ」

 話の内容をよく吟味すると荒唐無稽だが、奈津子の肉声を経由するとそれなりの説得力を明は感じた。しかし、言っていることの意味を十分には咀嚼できなかった。奈津子の声が奈津子のふくよかな肩を経て、そこに密着している明の胸に甘く響いた。明はひんやりとしたアパートの白壁を背に、言い知れない至福のときを感じていた。

「遺伝子は染色体で親から子に伝えられることは知っているでしょう。染色体は46個あって、対をなしていて、23対あって、形や性質のもとになる染色体が対になっている。2個のうち1個だけで形や性質が現れる場合を優性って言うでしょ。2個ないと出てこない場合を劣性って言うでしょ。23対のうち1対だけ、X染色体とY染色体からできていて、X染色体が2個ある場合は女の子、XとYがある場合は男の子となるでしょ。この対が性染色体で、これで遺伝するのを伴性遺伝と言うのよ。精子はX染色体の精子と短いY染色体の精子に分かれる。卵子はX染色体だけ。だから、卵子がX染色体の精子を受精すると女の子になって、短いY染色体の精子を受精すると男の子になるの。このくらいは、ご存知かしら」と奈津子が潤んだような瞳に天井の五本の蛍光灯の明かりをきらめかせて、斜め下から明を見つめ上げる。明はまた奈津子を抱きしめたいという衝動に駆られた。「邪悪な遺伝子は色覚異常の遺伝子と同じで、X染色体の長い方の腕に乗っている。遺伝子に異常があるとそれが出てくる。異常なものは正常なものに対して劣性だけど、男の子の場合はX染色体が1個しかないので異常が現れる。でも、女の子の場合では、もう1個のX染色体が正常であれば、正常として現れる。この辺が、女の方が男より遺伝的に優位にある理由ね」と言いながら、目線の定まらない明の理解力に不安に感じて、

「何か白い紙はないかしら」と明に求めた。明は少し腰を浮かせて机の上から不要なコピー用紙を取ってきて奈津子に渡した。奈津子は机の脇の本棚から大判の本を取り出し、それをフローリングの上に置き、その上に白紙を置き、そこにボールペンで式を描いた。

 異常なⅩ+Y=異常な男

 異常なⅩ+正常なⅩ=正常な女

「異常なXをもつけれど、外見的には正常な女の子が母親になると、父親が正常でも息子の半数は異常になって、娘の半数が、異常な因子を持つ母親と同じになって、残りの半数が正常の因子だけになる。これが伴性遺伝。学校の理科で習うメンデルの法則そのままね」と奈津子は理解しているのを確認するように明の顔を見る。彼の思考力が軽い睡魔で低下していると見て取った奈津子は、説明したことを再び同じ紙の上に式に描いた。

 正常な父親=正常なX+Y、正常な母親=異常なX+正常なX

 息子(正常なX+Y=50%の正常、異常なX+Y=50%の異常)

 娘(正常なX+正常なX=50%の正常、異常なX+正常なX=50%の正常)

「父親が正常でも、母親が異常だと、息子は全員異常になって、娘は全員母親と同じで、外見上は正常だけど、異常の染色体を持つ。とくに、両親が異常だと、こども全員が異常になる。だから、異常な母親は、子孫に異常の遺伝子をばら撒く形になる。そういう異常な女の子は千人か一万人に一人しかいない。だから、人数的には男の子の異常の方が圧倒的に多い。殺人者でも犯罪者でも家庭内暴力でも通り魔でも、男の方が圧倒的に多い。でも、おおもとは異常な母親にあって、この母親がいる限り、邪悪な人々はなくならない。だから、邪悪な女の子を一人でも多く探し出して、抹殺しないと」と言いながら、奈津子は眼をとろんとさせてきた明を見て優しく微笑む。明は殺人の話しをしているのに、無性に眠くなる自分が不思議に思えた。奈津子は再び説明したことを式に描いた。

 正常な父親=正常なX+Y、異常な母親=異常なX+異常なX

 息子(異常なX+Y)=100%の異常

 娘(異常なX+正常なX)=100%の正常

「でも、女の子は何の犯罪も犯していない。抹殺すべきは、実行犯となる邪悪な男の子じゃないんですか?」と明は話を聞いていることをアピールするために自らを奮い立たせるように奈津子に質問した。

「確かにそうね。異常とはいえ、まだ罪を犯していない女の子を抹殺するのは、どう考えても常識では、おかしいかも知れませんね。でも、実行犯となる男の子を特定することには、問題があるの。私のアジナー・チャクラがその男の子を認識できない。私が特定できるのは異常な女の子だけなの。だから、男の子の場合は、殺人を犯してはじめて分かるの。それじゃ、遅いでしょ。なんの罪もない無辜で善良な人々が、ある日突然、理不尽に殺害される。一人だけ殺害して逮捕された場合は、死刑にもならない。無期懲役と言っても、二十年もすれば、仮釈放されるでしょう」

 明の睡魔は不覚にも彼の意識をほぼ支配しつつあった。奈津子の声音は子守歌のように聞こえた。確かにあまりにも異様なことがありすぎて肉体的にも精神的にも疲労困憊していた。欲しいのは睡眠だけになってきた。小難しい話を聞くと眠くなるのは癖だった。「もう、遅いからそろそろ帰ります。聞きたいことは沢山あるかも知れないけれど、あなたをまだ完全には信頼していないので、全てを話すことはできません。引越しは、来週でいいですね。それから、これは引越しの費用と当面の生活費です。十分だと思いますが」と言いながら奈津子はハンドバックから札束を取り出した。明の見たことのない枚数の一万円札の束だった。奈津子はその束の銀行の帯封を細い指で破って、明に手渡した。「とりあえず百万円あります。くれぐれもあなたの携帯電話に注意して下さい。忘れるところでしたがこれは携帯電話用の充電器です。携帯電話には強力な充電池が入っているので携帯電話を持ち歩くときは必ずこれを持参して下さい。あなたに死なれては困るんです」「それは矛盾していないですか。それならなんで、僕の後頭部に火薬を埋め込むんですか」と明は後頭部をさすりながら、同情を求めるように言った。

「それは秘密の保持のため。秘密も保持したいし、あなたも失いたくない。両立させようとしたら、こういう方法しかなかったの。本当に、ごめんなさいね。分かってくださる?」と奈津子に言われ、ぎゅっと手を握られて、体は反応しが、心の中では釈然としなかった。

「それからこれは、傷跡の取替え用の絆創膏と消毒薬です」と言いながら、奈津子は絆創膏と消毒薬を明に渡した。「二、三日で必要がなるなると思いますけど」と別れ際に奈津子は明を抱きしめて、軽く口付けした。奈津子は夜の千住に待たせてあった古いBMWに乗り込んで、運転手の長田とともに幻のように消え去った。味はないはずなのだが、明には甘い口付けに感じられた。一人アパートに残された明は部屋の中を見回した。まどろみかけてきた頭で、奈津子の行為の意味を考えようとした。奈津子は僕に好意をいだいているのか?ろくに話しもしていないのに、そんなことがあるのだろうか?それから、引越しの算段を考えようとしたが、そのまま着替えもせずにロフトベッドにやっとの思いで這い上がると眠りこけてしまった。

明のアパートの外階段の影に、奈津子を乗せて走り去るBMWを見送る南條の困惑したようなダスターコートに寒そうにくるまった姿があった。


 翌日の昼ごろアパートを管理している風采の上がらない不動産屋の中年男がやって来た。いきなり更新手数料の話を始めたので明は更新はしない旨を伝えた。不動産屋は肩透かしを食らったように大口を開けたまま一瞬言葉につまって、次に契約違反の説明を始めた。

「契約を更新しない場合は契約の切れる2ヶ月前に申し出ることになっています。三月末が契約切れなので、契約を更新しないのであれば1月末までに申し出なきゃならないんですよね。もう三月になって1週間もたちますからね」

明は、来月末までの家賃を支払った上で、来週の月曜日に引っ越したいと申し出た。すると不動産屋は敷金から差し引かれる金額を説明し始めた。「借りたときの状態に戻すのが契約ですからこれからその査定をしてよろしいですか」と二日酔いの酒臭い息を吐きながら少しむくんだ赤ら顔で言う。

「どうぞ」と明が言うと、不動産屋は金目のものを探し出すような卑しい目付きで少しふらつきながら部屋の中を物色し始めた。「畳と壁紙がだいぶ汚れていますが、これは経年自然劣化ですね。ユニットバスもだいぶ水垢がこびりついていますが半分は経年劣化ですかね。まあ、まめに掃除すれば水垢はあまりつかないんですがね。掃除する必要があるでしょうね」と言いながら、鼻毛丸出しで天井を見上げながら大発見でもしたように叫んだ。「あの天井の隅に穴が!カメラですか?自分で自分を盗撮でもしているんですか?悪趣味ですね。あれは現状に戻さなければならないですね。天板全部の交換になりますね」

「穴の開いているところだけ交換では、いけないんですか」と金欠病の明が百万円の存在を忘れて食い下がった。

「いやあ、そこだけ交換すると他の部分と色合いが変わって、そこだけ新しくなって、違和感があるんですよ。まあ、正確な見積もりは明日持ってきますが、来月1ヶ月分の家賃もあるので、多少持ち出しになりますかね」と金目のもののなさそうな部屋の中を蔑むような目で見回した。不動産屋は、こいつ、カネだいじょうぶかな?というような小賢しいサルのような顔つきをする。四十歳を超えてやっと宅地建物取引主任に合格した不動産屋が帰ると、奈津子から電話があった。「昨夜は遅くまで失礼しました。引越しの件ですが月曜日の一時過ぎにトラックが行きますのでそれまでに荷造りしておいていただけますか」

「はい」と明は胸のときめくままに答えざるを得なかった。


 南條は正午に墨田署を出て、平野鉄工所に向かった。水戸街道を北上し、東向島の交差点で明治通りを左折した。銀杏並木が続いていた。向島百花園を通り過ぎ、歩道橋の下を左折したところに、間口三間ほどの町工場があった。外の明るい外光から見ると、照明のほとんどない工場の内部は薄暗かった。半分上がったシャッターの奥に工場の黒褐色の土間が広がっていた。昼食時のせいか、誰も作業をしていなかった。南條はそこから白鬚橋の交番に電話してみた。すぐ、顔見知りの若い巡査が出てきた。

「南條だ。先日の女子中学生の飛び降りの件では、どうもご苦労さん。お世話様でした」「いえ、こちらこそ、いろいろご指導ありがとうございました。大変勉強になりました」「ところで、ちょっと平野鉄工所について聞きたいことがあるんだがいま行っていいかな」「どうぞ、どうぞ。いま、ちょうど、昼を食べ終えたところです。お待ちしています」

その足で、南條は白鬚橋の交番に向かった。徒歩で5分も掛からずにその交番に着いた。交番では若い巡査が日誌をめくっていた。

「きょうも寒いね。ご苦労さん」といいながら、南條が交番に足を踏み入れると、若い巡査は、椅子からぴょんと立ち上がって敬礼した。

「そこの平野鉄工所についてちょっと聞きたいんだけど、最近、警邏に行ったことある?」「いえ、あそこは人の移動がないんで、行ってないです。ただ、平野鉄工所の裏のアパートに先月引っ越してきた人がいたんで、様子を見にいちど巡邏に行ったことがあります」「で、平野鉄工所の話でも出たの?」

「いえ。その帰りがけに、平日の昼間なのにシャッターがしまっていたんで、ゲンチャリで通りがかった顔見知りのアクアデザイナーのおやじに、ここ、倒産したの?って聞いたら、寸前だ。仕事が滅多にないみたいだというような話をちょこっとしました。どうも町金から闇金に手を出したみたいで、本当に首が回らなくなったみたいだとも言ってました」

「ふうん。平野鉄工所は左前だったのか」と感想を述べながら、南條は都営団地の8階の平野のかみさんの火曜日の険しい顔つきを思い出していた。亭主が経済的に追い詰められているのであれば、あの愛想のない応対も無理はないかと同情的に納得した。不快な記憶が相手に同情することで少し癒されるような気がした。

「それはそうと、その、アクアデザイナーってのは、なに屋だ?」

「あ、近くの金魚屋です。餌や水槽や金網も扱っています」

「金魚屋がなんでアクアデザイナーなんだ」

「元々金魚屋だったんですがそれだけでは食えなくなったもんで庭師みたいに水周りのデザインで食うように商売を広げたようです。何でも高級飲食店の水槽や生簀なんかの水周りのデザインを請け負っているようです。金魚屋じゃ名刺の体裁が悪いんで肩書きをアクアデザイナーにしたと言ってました。羽振りがよくって外車を2台も持っていますよ」

南條は鼻先で、想像を超えた新しい業態に感心しながら、交番の電話を借用した。

「あっ、こちら墨田署の南條と言います。先日の都営住宅の女子中学生の転落死について、保険担当の方のお話をうかがいたいんですが、担当の方に連絡取れますか」

出てきたのは内勤の女性だった。「先日の件ですね。担当は五月女ですが、今出ています」

「連絡を取りたいんですが、携帯の番号を教えてもらえますか」

「教えてもよろしいんですが、昼食時にこちらに戻ってくるという連絡が入っています」「そうですか。それじゃ、これからお邪魔してもよろしいですか」

「多分構わないと思います。警察からいつ問い合わせがあるか気にしてましたから」

「じゃあ、1時ごろにうかがうと伝えて下さい」と言って受話器を置き、交番を後にした。

南條は交差点角のファミリーレストランで、日替わりランチを食べたあと、曳船駅に向かった。駅前に4階建てのビルがある。保険会社の建てたものだ。1階がファミリーレストランで、2階から上が貸事務所になっている。保険会社は4階にあった。階段を上り詰めた正面に保険会社の事務室のドアがあった。南條は階段を上りながらどこかで聞いているラジオの1時の時報を聞いていた。事務所の中は真ん中に6つほどの事務机が向かい合わせにあるだけだった。窓とは反対側の壁の手前に書類ケースがあり、法律関係の書籍が二十冊ほど並んでいた。その他の壁には、大きな模造紙が画鋲で留められていた。その紙にはマジックで、5本の棒グラフが描かれていた。タイトル書きから、外務員の保険契約金額の累計であることが分かった。室内には三人しかいなかった。一番奥の机に爪楊枝を口に挟んだ眼光の鋭い中年の男、ドアの近くにプレーンヨーグルトをスプーンで食べている気だるそうな二十歳代前半の女子事務員、中ほどの机にカラのコンビニ弁当を前にして口紅を引き直している四十前後の女がいた。南條は一番近くの若い事務員に声を掛けた。「あのう、さっき電話した墨田署の南條と申しますが」というと事務員は斜に構えて、きょとんとした眼差しで南條を見上げる。

「都営住宅の転落死した中学生の保険の件で」と南條が言い添えるとやっと反応があった。「さっきの電話ですね。こちらが五月女さんです」と事務員は斜め前の中年女を指差した。

「何でしょうか」と中年女は南條の顔を正面から見据えた。奥の中年男から声が掛かった。

「警察の方にそちらにかけてもらったら?」そう言われて中年女は椅子から立ち上がり、ドアの横にある応接セットに歩いてきた。「こちらへ、どうぞ」と南條はソファに導かれた。南條が座るのを見届けると女は部屋の一番奥の湯沸かし器からお湯を出し、急須に入れた。なんとなく落ち着かない南條の前に、カラの湯飲みが置かれ、その中に女がお茶を淹れた。

「どういうお話でしょうか?」と女が愛想笑いを浮かべながら切り出した。

「先日、都営団地から転落した女子中学生の生命保険の件について、ちょっとうかがいたいことがありまして。担当されていたということで」

「たしか、自殺ということでしたよね、警察の方は」

「ええ、今のところその方向で処理しています」

「変更されることがあるということですか」

「まあ、場合によっては」

「いずれにしても事件の場合は契約者が犯人でなければ、保険金は支払われます。詐欺罪が成立しませんから」と言いながら女はメンソールタバコをライムのポシェットから取り出して火をつける。シルクのグリーンの花柄のプリントシャツの胸が強調されている。

「契約日はいつですか?」

「ちょうど2年と数日前です」

「ということは、自殺免責ぎりぎりということですか?」

「そうです。審査部のほうでも調査していますが警察と違って捜査権がないので、限界があります」と言いながら女はタバコを持つ手の小指で、下唇の下をものほしそうになぞる。

「警察の捜査とは別に事件性がありそうな場合は、こちらで保険金の支払いを遅らせているんですが、契約者の方から早々に保険金の支払いの催促がありまして。二千万円だったと思いますが。どっちにしても、もう掛け金は入金されてこないので、私の営業成績は下がります。掛け金は普通、銀行の口座引き落としなんですが、平野さんの場合は現金払いで毎月入金してもらうのに苦労しました。私の給与は少し減りますが、ほっとしています」「この保険契約について、何か変だと思われるようなことは、ありませんでしたか?」

「現金払いが変と言えば変なところで。旦那はなかなか捕まらなかったし向島の工場で捕まえても一、二万円の現金すら手元にないことが多くて。仕方がないんで夜、奥さんのスナックにとりに行くことがありました。あそこは日銭商売ですからとりっぱぐれることはなかったんですが、でも奥さんは契約者じゃないんで本当はいけないんですよね。去年の秋頃スナックに伺った時、まだ売上がないと言うんで諦めて帰ろうとしたら酒代を先払いしてやろうと言って代わりに払ってくれた酔狂な客がいましたね。関西訛りのある人で」

「四角い濃い顔の男かな?げじげじ眉の」

「さあ、薄暗かったんで。四角いと言われてみればそうだったかも」

濃い化粧が男好きのする顔を造っていた。かりに事件性があって契約者が犯人となれば、会社は保険金を払わないで済むが、外務員にとっては月々の掛け金収入が減る分、給与が減ることにかわりはない。どうでもいい、という投げやりな態度がうかがえた。そのせいか、南條が声を掛ければホテルでも旅館でも、どこへでもついてきそうな雰囲気を感じた。

南條は曳船駅から半蔵門線、都営大江戸線、東京メトロ東西線を乗り継いで浦安駅に向かった。浦安駅から浦安市役所まで歩き、住民票で永山奈津子の転出元の住所を調べた。転入は一九八三年になっていた。日暮里1―16―1という住所をメモした。つぎに、浦安駅から東京メトロ東西線で大手町駅で降り、千代田線に乗り換え、町屋駅で降り、徒歩で荒川区役所に行った。教育委員会で公立小学校の古い名簿から、永山姓の女教師を探した。永山信子という名前の住所を確認し、小学校を突き止めた。ついでに、その頁をコピーした。そこで、夕方になったので、日暮里駅まで歩き、京成本線で上野駅で降り、地下鉄銀座線で浅草駅まで行き、安禄山に向かってその日を終えた。


翌日、日暮里の小学校の校門の前に南條が立ったのは夕方近くだった。小学校のモルタルの校門は閉ざされていた。校舎に人の気配はなかった。片側一車線の道路沿いの小学校の隣にひなびた古本屋があった。店先には漫画週刊誌が山積みになり、店内には漫画の単行本がびっしりと並んでいた。店の奥に店主らしい初老の頭の禿げ上がった貧相な男が、仕入れてきたマンガ本を品定めしていた。価格のシールを貼り付けて売価をボールペンで書き込んでいた。南條はその店主が土着の住民らしいとあたりをつけた。

「今晩は。こういう者ですがちょっと隣の小学校の話をうかがえますか?」と南條が警察手帳をちらりと見せて近づくと禿の店主は差し込んでくる弱い夕陽にまぶしそうな渋面をつくりながら「はあ、なんですか?」と薄汚れたうらなりのような寝ぼけた顔を上げた。

「だんなは、こちらの住まいは、永いんですか?」

「ええ、店を構えて、先代からだから、もう五十年以上になりますか」

「ということは、だんなの出た小学校は、このとなりで?」

「ええ。あまり、レベルは高い小学校じゃなかったけど、隣なんで、わざわざ越境することもないでしょう。まあ、親もあんまり教育熱心じゃなかったけれど」

「それじゃあ、永山という女の先生を覚えていないですか?もう亡くなられたんですが」「俺の担任は、渋谷と桑田だったけど」と言いながら店主は薄暗い本棚に細めた目を泳がせながら記憶の細い糸をたぐっている。腕を組んで首を垂れた。記憶を促すように「その旦那は整形外科医なんですが」と南條が言う。店主ははっとしたように顔を上げた。

「いたかな?なんせ全校で四十クラス近くあったからな。ということは教員はそれ以上いたわけだ。もう学年やクラスが違うとぜんぜん分からない。ちょっと、となりの看板屋に聞いてみよう」と言って、店主はピンクのビニールサンダルを毛糸の靴下につっかけて、一旦店の外に出た。引き戸の開け放たれている隣の看板屋に入って行った。南條はそれについて行った。古本屋の店主が「たけしちゃん!」と声を掛けるとしばらくして店の奥からでっぷりとした巨漢が現れた。ずっと昼寝をしていたような眠そうな顔をしている。しきりに頭髪をかきむしっている。「もう亡くなったんだけどさ、永山という女の先生を覚えていないか?旦那は医者だって」と店主がぞんざいに聞くと、太った男はゆるんだ二重の目を両手の甲でこすりながら「ああ、いたなあ。熱心な先生だった。いつも遅くまで仕事してたな。それがどうしたの?」と言うと、南條が店主の脇にしゃしゃり出た。「すいませんお休み中。墨田署の者ですが何かほかに覚えていることはありませんか?」

「どんなことで?」と目を大きく見開いて、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。「事件とか」

「事件?そういえば事件じゃないけど、自殺だか、事故だかががあったよな。とっても成績のいい女の子が、屋上から飛び降りたか、転落したかした。自殺にしちゃあ動機が不明でね。しばらく、この辺じゃうわさが絶えなかった。それを発見したのがたしか永山先生でちょっと、手伝ってくれってんで、自宅の整形外科医院にうちの親父と一緒にその子を運んで行った。結局、しばらくして死んだみたいだったけど」

「そのうわさというのは、どういううわさですか?」

「変態か何かに襲われて、転落したんじゃないかって」

そこに古本屋の店主が割り込んできた。「そうそう、そういえばあったな。でもあの子、うちの店でずいぶん万引きしてたんだぞ」

「それは初耳だ」と看板屋は口を開けたまま閉じない。前歯が煙草で薄茶に染まっている。

「証拠がないんだよな。ただ、あの子が帰ると、いつも何冊か本がなくなっていた。いつもあの子がくると、気をつけろと先代に言われてたけど、とうとう尻尾を出さなかった。あの子が亡くなってから、万引きが減ったことは確かだった。死んだあと、何年かして年子の兄貴がやって来て、妹は毎月、月刊誌を立ち読みしていなかったかと妙なことを聞きに来た。そういえば大人の月刊誌を発売日に必ず立ち読みしに来ていたことを思い出したって言ったら合点がいったって訳を説明してくれた。何でも父親がその月刊誌を郵送で取り寄せていてその雑誌の数学パズルを家族で解くのが恒例になっていて妹がいつも高得点をとって算数が得意だった兄貴はいつも負けてばかりいたらしい。そのクイズの得点で毎月の小遣いが決まるんで妹より少なかった兄貴は悔しくて仕方がなかったそうだ」と古本屋が首を縦に振りながら言う。その語尾にかぶせるように看板屋が「あと林間学校へ行った女の子が山登りで崖から転落したというのもあったな。その子は確か動物の解剖が大好きで蛙やねずみの解剖に飽き足らなくなって山の中で解剖用の小動物を捕まえようとして転落したんじゃないかという噂があった。その時も死亡を確認したのは校医の代役で行っていた永山医院の院長だった」と振り返る。

「そう言えばあったな。事故死といえばこの通りで飛び出して轢かれたというのもあった。いまわの際にその女の子が誰かに押されたって言い残したんで誰だというのが話題になったこともあったな。そうか、そういえばその時もその女の子は永山医院に担ぎ込まれたんだな」と古本屋が看板屋に相槌を求める。「そうそう、このちかくに病院がなかったから小学校で急患が出て校医の手に負えないときや校医がいない休日や夜なんか永山医院に応援をよく頼んでいたな。また院長の永山先生が仏様みたいな人でさ。温厚で。夜中であろうと休みであろうとどんなときでもいなや顔ひとつしなかったな。永山医院が学校から近いこともあったし、ちょっとした怪我でもここの小学生はみんな医務室よりも永山医院のお世話になっていたよな、遊び感覚でサ。お菓子もくれたし女の子なんか一人のときは金を取らなかったこともよくあったらしい」そこで南條が二人の思い出話に割って入った。「その話は全部、担任の永山先生が関係している?」という問いに看板屋が先に答えた。「どうかな?そんなような気もするけれど、そうでもないような気もするし、そうであれば覚えているとは思うんだが、昔の話しだし、あまり目立つような先生じゃなかったから。ガキの頃は気づかなかったけど、今思えば美人は美人だったな。でも、よく見ないと美人だと分からないような控えめな人だった。それより、父兄のトラブルに巻き込まれていたのを覚えているよ。さっきの交通事故死した女の子の母親と林間学校で転落死した父親が兄妹で、なんでも二人の母親、つまり死んだ女の子のおばあさんが妹の方に金を預けたら、その金をねこばばして死ぬ間際におばあさんが、あの金どうした?って聞いたら知らないととぼけたもんでえらい兄妹喧嘩になって、そっちのほうが女の子の事故死より父兄の間では話題になっていた。なんせ当時の金で一千万円だったから。待てよ、ということは事故死した女の子はいとこ同士で同じ担任だったということか?ということは永山先生か」

「いや、ちょっと待て。林間学校で転落死した女の子の担任は野田先生じゃなかった?」と古本屋が思い出したように人差し指を立てた。看板屋がうなずいた。「そう言われりゃ、そうかも。野田先生は永山先生より幾分若かったけど二人は仲がよくって、いつも一緒にいたんだよな。あのとき二人は同じ学年を担任していたということか」

「野田先生は誰が見ても美人だったな。スタイルがよくって、日本人離れしていて、肌が少し浅黒くって、だいぶ気の強い先生だったな。でもすぐいなくなったんだよな、たしか」と言う古本屋の店主を残して、南條は看板屋を出た。迷宮入りした殺人事件のほとんどは、殺意が明らかでないか、通り魔的な事件だと呟きながら南條は安禄山に向かった。


明は日曜日の一日で、荷造りをし、インターネットで電気と水道とプロバイダーの解約の手続きを済ませた。ついでに、岩槻先生のパソコンに挨拶の電子メールを打った。

@岩槻先生。たいへんご無沙汰をいたしております。先日は、メソポタミア文字のご教授、まことにありがとうございました。さて、私事で急なことではありますが、おかげさまで急遽就職が決まり、上京以来定住していた千住のアパートを引き払うことになりました。転居先はここからそれほど遠いところではありませんが、アカデミックな世界からは遠ざかることになりそうです。後日、これまでのご高恩への御礼かたがた、大学の方にご挨拶にうかがわせていただきます。まずはとりいそぎ、ご連絡まで。土岐明@

 メールを送信したあと、大事なものを喪ったような寂莫たる思いに囚われた。才能がないと自覚していた明にとって、大学院生活はなんとなく違和感を覚えるものではあったが、アカデミックな雰囲気の高尚さには、それなりに愛着もあった。今月中に春学期の研究生の授業料を納入しなければ、自動的に除籍となるが、除籍という言葉に犯罪者のような響きを感じていたので、奈津子からもらったカネもあるし、可能であれば授業料だけでも納入し、研究生の身分だけでも維持したいと思っていた。片付いた部屋の中を見渡して家財道具の少なさに自分がいかにぎりぎりの生活をしてきたかを思い起こすと、感慨深いものがあった。ロフトベッド、マットレス、布団、机、パソコン、プリンター、冷蔵庫、液晶テレビ、衣類ケース、本棚、CDケース、あとはこまごまとしたものだった。奈津子からもらった懐の百万円が場違いな感じがした。しかしそれだけで心が豊かになったような気がするから不思議だった。ひと休みしているところに亜衣子から電話が掛かってきた。「今日は。能美です。いまどちらかしら?」

明はとまどいながら「自宅です」と答えたものの、聞きなれた声であるにもかかわらず、ひどく遠くからの電話に思えた。

「お別れ会を用意していたのに、その後、お元気?浅草か上野でお別れ会でもしませんか」

「ありがとう。でもいま取り込み中で。引越しの荷造りの最中で」

「えっ、いつ引っ越すんですか?」

「明日の午後」

「それじゃこれからお手伝いに行きます」と言う亜衣子の心が推し量れない。

「いやあ、あなたの手伝いが必要なほど、荷物はないんで。それに、もうすんじゃったし」「そちらの住所知ってますから。千住大橋ですよね」と言ったなり、電話が切れた。腕時計を見ると五時を過ぎていた。六時前には千住大橋駅に着くだろうと見当をつけ、シャワーを浴びた。後頭部の痛みは感じられなくなっていたが触るとヒリヒリした。念のため奈津子にもらった絆創膏を取り替えた。安普請のユニットバスだが、これが最後と思うと愛着が湧いてきた。思えば予備校に通っていた半年、大学の四年間と大学院の五年間、研究生の一年間、足掛け十一年間住んでいた。シャワーから出てロングトランクスとTシャツでエアコンの下で液晶テレビを見ながら茫然としていると亜衣子から電話が掛かってきた。

「いま駅に着きました。どちらへ行けばいいんですか?」と言う声に疼くものがあった。「いや、そこの改札にいて。5分ぐらいで行くから」と言い切って、電話を切った。デニムのストレッチパンツにベージュのジャンパーを羽織り、十万円と携帯電話をポケットにねじ込んでアパートを出た。夕風に洗い髪が冷えた。駅に着くと亜衣子はターコイスの格子柄のテーラージャケットにライトグリーンのジーパン姿で、改札の近くにミュール履きで居心地悪そうにきょろきょろしながら立っていた。明が軽く手を上げると飛ぶように駆け寄ってきた。「なんか寂しげな駅ね。場末って感じ。都心からそんなに遠くないのに」とまだ夕暮れの駅前を見渡して亜衣子が言った。確かに、駅前であるにもかかわらず、広場がなく、商店街もなく、イルミネーションもない。駅の隣には民家がすぐ迫っている。「まあ、江戸のはずれだからね。千住大橋を渡った先だから、江戸時代は所払いになった土地だ。昔は隅田川の河原だった。小塚原の刑場もすぐそこだし」と明は先に立って交通量の多い日光街道に出た。「焼肉でいいかな?ひなにはまれな美味しいお店があるんだ」

「高級なお店は駄目よ。あなたのお別れ会の予算、あまり用意してきていないんだから」「いや、あなたにはいろいろとお世話になったんで、今日は僕が出すよ、お礼をかねて」「だってあなたフリーターみたいなもんでしょ。深野所長からも少しいただいているのよ。それに引越しでいろいろと物入りでしょ。私、経理やっているから、統計研究所からあなたがいくらもらっていたのか知っているのよ。生活するのが、やっとだったでしょ」と亜衣子に言われて、そういう心遣いのある言葉を早く言ってもらいたかった気がした。

「大丈夫、臨時収入があったから」と言いながら、明は日光街道を短い青信号で渡り、ガード脇の千寿苑という高級焼肉店に入った。店のつくりは確かに高級そうではあったが、なんとなく品がないと亜衣子は見渡してそう思った。店内には狭いボックス席が2つ、テーブル席が4つあった。先客はなかった。明は、ボックス席に亜衣子を招じ入れた。

「さあ、どんどん注文して」と空々しいほど明るく言い放った。

「いつもと違う感じ。本当にお金持っているみたい」と亜衣子は頼もしそうに明を見た。

ただお別れを言いに、わざわざやって来たのか?それとも、それ以上の何かがあるのかと明は食べながらさぐりを入れたが亜衣子が考えていることは分からなかった。それは、自分の人間としての未熟さや女性とのつきあい頻度の少なさにあると思った。亜衣子を酔わせて、本音を聞きだす目的で真露を注文しようとしたが、やめた。亜衣子はアルコールはあまり好きでないし、アルコールを摂取して、自分の後頭部の血管が膨張し、火薬に点火でもしたらと考えたからだ。消沈した心持で、酔いたい気分でもなかった。

話題は深野と報告書だけで趣味や人生観の方向に広がることはなかった。明はあらためて亜衣子とは心の接点があまりないことに気付いた。亜衣子によれば深野は新しい報告書について記者会見をする予定はないとのことだった。既に、最初の報告書のことはマスコミに忘れ去られていた。深野によれば「ここでかりにTDLと少女の自殺の因果関係を否定する記者会見をしたところで、風評をぶり返すだけのことで、マスコミも内容的にのってこないだろうから、やる意味がないんじゃないか。マスコミは新しいことにすぐ飛びつき、すぐ捨て去る」とのことだった。確かに、因果関係がありそうだというネタならマスコミは食いついてきそうだが、ないというネタでは、食いついてきそうにないという深野の判断は正しいように思えた。それを大ごとにしようとするならば、風評を世間に思い出させることになり、奈津子の想定とは逆の方向に世間の関心が向かう可能性があった。深野の本音は面倒くさいという辺にあるのではないかと明は推測した。それに、前言を翻すのは格好のいいことではないという意識が深野にあっても不思議ではない。しかし明はポケットに入れた携帯電話で、この会話が盗聴されていることを意識していた。「でも因果関係がないということを公表しないと風評被害でTDLの本社から損害賠償の民事提訴があるかも知れない。報告書はもう僕の手を離れたけれど、そのことをもう一度、深野さんに確認してもらえないだろうか。以前深野さんには言ったことではあるけど」と亜衣子に頼んだ。そんなことを、散漫に話しながら、盛り上がることもなく、しっくりこないままに三十分も食べると二人とも満腹になった。半人前のクッパでしめて、デザートの小ぶりのシャーベットを食べ終えると七時を少し過ぎていた。

店の外に出ると辺りは別世界のようにとっぷりと暗くなっていた。墨絵の書割のような暗がりに亜衣子を引きずりこんで抱きしめようかという考えが一瞬脳裏をかすめたが、その考えはすぐかき消えた。明の肉体はすっかりなえていた。荷造りの疲れからかも知れない。これまでの人生が終わったという想いからかも知れない。亜衣子が違う世界の遠い女のように思えた。千住大橋駅での別れ際、亜衣子が何かを言いたそうな素振りを見せた。明と合わせた瞳が少し潤んでいるようにも見えた。明にはその潤みの意味が理解できなかった。聞いてみようかとも思ったが躊躇われた。聞いてどうするのかという分別が、聞くことを思い留まらせた。切符を買うと亜衣子は改札の中に消えた。後姿の小さな肩が堪らないとおしく見えた。声を掛けようとしたが、言うべき言葉が見つからなかった。

何を言えばいいのか?こうなってしまったいま、亜衣子とのこれからの係わり合いになんの展望も描くことはできない、もう、彼女とは会うこともないだろうと明は思った。駅で亜衣子のさびしげななで肩に別れを告げると、明はがっくりと肩を落とし、重い足を引き摺りながら、一人悄然とアパートに帰宅した。


 翌朝、かすかな後頭部の疼痛で目が覚めた。この頭痛が明を悪夢のような現実へと引きずり戻した。うとうととしながら、これまでの三十年にも満たない人生を顧みてみた。あらためて人に誇れるようなことは何ひとつないことに気付いた。格好よさそうだというだけの理由で何となく大学院に進学したが、修士課程で既に、自分の研究者としての資質に疑問を抱いていた。と言って民間に就職したいとも強く思わなかった。決断を延期するためにモラトリアムとして博士後期課程に進んだが、ここで研究者としての適性のないことを改めて思い知らされた。まず他人の論文を読んでも十分に理解できなかった。統計学研究で最重要となる数学と英語が不得意であることが致命的だった。自分で論文を書いても、計算間違えや論理的な誤りが多かった。民間に就職しようとしても、年齢的にとうが立っていた。大学の助手や助教に応募したが、博士号を取得していないことがネックになった。とりあえず、研究生の身分を得たものの、アルバイト程度の就職先しか求人はなかった。そうこうしているうちに、永山整形クリニックに強制的に就職させられることになった。よくよく考えてみるとこうなった最大の原因は自分自身にあると明は想到した。奈津子を恨む気持ちのないことが自分でも不思議だった。むしろ、彼女に従っても構わないような気分があった。彼女の唇や舌の感触を思い出すと、もはや彼女には逆らえないような気がした。主体性のない自分に対して自己嫌悪を覚える。しかし、そうした自己嫌悪はいまに始まったことではなかった。これまでも幾度となく自分自身に対して嫌気のさすことはよくあった。そのたびに、熟慮することもなく自分を誤魔化してきたのがこれまでの人生だった。そんな気分のまま床に置いた液晶テレビのスイッチをいれて、ブランチのカップ麺を食べながら、モーニングショーを見ていると玄関のドアをノックする音がした。ジャージ姿のままだったので、そのまま立ってドアノブのところでドア越しに誰何した。「速達小包です」ドアを開けると郵便配達員が小さな小包を持って立っていた。「印鑑をお願いします」と言われてショルダーバックにしまった印鑑を取り出して押した。小包の差出人を見ると南條だった。分厚い書籍ほどの大きさだったが、軽かった。ドアを閉めてから、天井の監視カメラを探すと、フローリングのダイニングキッチンと部屋との境の鴨居が遮蔽になってそこから見ることはできなかった。部屋に背を向けて小包のガムテープをはがした。中にはメモ用紙のような手紙と安っぽい携帯電話が入っていた。

―お前さんの携帯電話が盗聴されていると言うので、最安値の携帯電話を急遽用意した。電話とメールとGPSだけの機能しかない。連絡をとるのであれば、これで十分だろう。絶対に体から離すな。早く情報をよこせ。こっちは、定年まで秒読みだ。南條―

 明は南條に電話しようとしたが、自分の携帯電話で盗聴されていることを思い出した。メールなら盗聴されないかと思いなおしてメール文を書こうとしたが、躊躇した。何を書くか?自分のおかれている状況を伝えれば奈津子を裏切ることになる。ばれれば命はなくなる。何も送信しなければ南條はあやしんでここに乗り込んでくるかも知れない。あるいは奈津子や長田に任意同行を求めるかも知れない。南條が何かをかぎつければ、南條自身の命もあやうい。被害者は自分一人でいい。巻き込むことはないと考えながら、奈津子に言われたとおりに、メールを自分の携帯電話から送信することにした。南條が送ってきた携帯電話は監視カメラに背を向けながら、ショルダーバックにしまい、手紙は破ってアパート生活の垢の詰まったポリエステルのゴミ袋に捨てた。

@南條警部補殿。連絡が遅くなって申しわけありません。急に就職口が決まりましたので、この件からは足を洗えれば幸いです。ついでに引越し、就職先から携帯電話が支給されるので現在の電話番号とメールアドレスは使えなくなります。メールはこれで最後にします。あしからずご了承いただければ幸甚です。いろいろとお世話になったことを心より感謝いたします。かげながら円満な定年退職を迎えられることを祈念しております。土岐明@

 送信したあと、このメールを見て、南條が飛んでくるような予感がした。はやく引越しをしなければと思いつつ、カップラーメンのブランチを済ませた。それから南條が郵送してきた携帯電話で監視カメラに背を向けて、ためしに岩槻先生にもメールを送信してみた。

@岩槻先生。秋学期終了以来、ご無沙汰をいたしております。昨日もメールに書きましたように、急に就職が決まり、本日これから引越しをします。せっかくお世話いただいた研究生の身分ですが、一年間だけでやめることにいたしました。思えば、学部三、四年の二年間、修士課程二年間、博士後期課程三年間、大変お世話になりました。ろくなご恩返しもできないまま、就職することは心苦しい限りですが、いずれ改めて御礼にあがりますので、ご容赦下さい。先生におかれましては、くれぐれもご自愛のほどを。土岐明@

送信してから、しばらくすると、正午少し前に、黄土色の作業着で長田がやってきた。部屋の中の荷物を鋭い眼光で見渡し「これなら軽トラでも大丈夫だったな」と明に同意を求めようとした。窪んだ眼に険があった。長田にはなんとなくそりの合わないものを感じていたので、その言葉を無視した。

「それじゃ、大きい荷物のほうからいこうか」と長田は机を指差した。言葉の表現は文字にすれば慇懃だったが、物腰はぞんざいで無礼だった。「携帯電話をポケットに入れて、そっち側をたのむ」という長田の要請を聞いて、作業員は長田一人らしいことに気付いた。携帯電話は長田に言われなければうっかり忘れるところだった。アパートの外階段の脇に横付けにされた幌つきの普通トラックに引越し荷物を全て載せるのに小一時間も掛からなかった。部屋の中の荷物が全て運び出されて、空になった部屋の中で、長田は新しい携帯電話を取り出た。「これは、クリニックから支給された携帯電話。色は違うが、そっちの携帯電話と同じ機種だから。電池パックの交換をしよう」と言いながら、長田は明の携帯電話を受け取り、電池パックをはずし、新しい携帯電話に装着した。「電池パックの交換は三分以内で。三分を越えると、起爆装置が作動するので」と注意を言い終えたところに、先週末の不動産屋の中年男が二日酔いの腫れぼったい顔と臭い息でやってきた。明は提示された見積もり通りに残金を支払った。

「これで清算の方は大丈夫だと思いますが、何かあったときの連絡先をお願いできますか」と言われた明の代わりに長田が答えた。「私が転居先の大家になるので、こちらの携帯電話に連絡を下さい」と言いながら、不動産屋に電話番号を教えた。不動産屋がいなくなると長田は最後に天井の監視カメラをはずした。はずし終えると、一服するため、からっぽになったフローリングの部屋の中央に腰を下ろし、胸のポケットからタバコを取り出し、右手で百円ライターで火をつけた。

トラックで千住から舞浜まで1時間足らずの行程だった。明は運転手の長田の冷酷そうな角ばった横顔を見ながらおそるおそる聞いてみた。「関係者は何人いるんですか」

「舞浜は2人。大阪も2人」

「たったそれだけですか?舞浜が2人というのはあの男の子をいれてですか?」

「そう。いずれにしても、関係者は少ない方がいい。必要最小限でないと、情報が漏れる。日本全体でも、最多で十人を越えたことはない。全世界でも百人もいないはずで」

「関係者が少なくなくなった場合は、どうするんですか?」

「プリンセスがあの男の子のような子供を生むか、一般大衆の中から探す、君のように」と長田が言うのを聞いて、明は絶句して、硬いシートに座りなおした。

「僕をどうやって探したんですか?」そうしなければ、こんな酷い境遇に追い込まれることはなかったという思いが続いた。

「例のテレビ報道のあと、あの報告書の責任者を探した。それが君。君の身辺を調査した。深野という課長が聴きもしないのにぺらぺらとなんでも教えてくれた。兄弟が多い。長男ではない。就職していない。結婚していない。ガールフレンドもいない。つまり、君はある日、突然消えたとしても、社会的にほとんど影響のない人間だった。そこで、風評被害の解決という口実で君を舞浜に呼び出し、君の携帯電話に盗聴器とGPSつき電池パックを入れ更に調査した。次第に君は南條警部補を通じて様々な秘密を知るようになってきた。君がそこまで情報を入手しなかったら、現在のような状況にはなっていなかった。君は兵隊だ。兵隊ということは消耗品。こちらにとって不都合になれば、いつでも消えてもらう。君が生きながらえるためには、こちらにとっていつまでも好都合な人間でなければならない。変なことをしない限り、君の身体的自由は拘束されない。つまり、君は我々と利害をひとつにして、我々の仲間として行動すれば生存を保証されるが、そうでなくなれば、疑惑だけでも、その保証はなくなる」と長田は奈津子と同じようなことを平然と話した。

大人が二人しかいないということは、僕のGPSは長田が監視しているのか?誰が携帯電話を盗聴しているのか?奈津子は勤務しているから、長田しかいない。その長田はときどき大阪に帰ることもあると南條警部補の手紙にあった。そのときが、チャンスかも知れない。しかしGPSと盗聴装置をBMW内に持参し、それで東京と大阪の間を移動しているとすればノーチャンスかも知れないと明は考えながら、しばらくは様子を見ることにした。バックミラーの周りの景色が泥のようにリアウインドに吸い込まれて行った。

 舞浜に着いて、永山整形クリニックで明に与えられた部屋は月曜日の朝に目覚めた二階病室の個室だった。冷蔵庫、クローゼット、ユニット・バス、ベッド、テレビなど生活に必要なものはひと通り揃っていた。引越しは1時間あまりで完了した。解体したロフトベッドや机や本棚を部屋に入れると移動するスペースがほとんどなくなった。作業が全て終わると、夕方になっていた。オレンジ色の冷え冷えとした夕焼けが廊下側の窓から差し込み、ベッドをセピア色に染め上げた。深い疲労感が明の体を取り囲んだ。6時ごろになると、室内電話のコールがあって「1階の食堂で夕飯です」という奈津子の呼び出しがあった。その声に疲労を癒す清涼飲料のようなものを感じた。食堂は入院患者用のもので、受付の奥の厨房の隣にあった。たった四人の食事にしてはかなり大きな食堂だった。厨房を使った形跡はなかったので惣菜はどこかで買ってきたものらしかった。明は食事には興味がなかった。しかし奈津子の隣の幼児椅子に座っている男の子の容貌に釘付けになっていた。眉の太い角ばった輪郭だった。自分で食事ができず、奈津子が世話を焼いていた。

「平均より少し小さいけれどすぐ二歳になるの」と言いながら奈津子が頭を撫でる。

「その子のお父さんは、どうしているんですか?」

「わかりません。私も一度会ったきりです」

「そのときに、できた子なんですか?」

「そう。おどろいて?」

「先日、TDLで入園客と携帯電話の番号を交換していたけれど、あんな感じの男の中の一人が、その子のお父さんということですか?」

「まあ、そんな感じかしら」

 明にとってどうも会話がかみ合わなかった。奈津子の言っている意味が良く理解できなかった。長田は二人の会話に興味がなさそうに、タバコを取り出し、右手でライターの火をつけた。夕食を終えて、一服していた長田がいなくなると「私の部屋は二階の右奥のスイートルームです。鍵は掛けていないので、いついらっしゃっても結構ですよ」と奈津子は甘ったるく囁いた。明にはその艶やかな囁きの本当の意味がよく理解できなかった。

「あした、初仕事ですから」と言い残して奈津子は厨房に去った。明はそのあと、自室に戻ったが、どう考えても、奈津子の言ったことの意味が理解できなかった。部屋に来てもいいということは、夜這いしろという意味なのか?単に茶飲み話に来いという意味なのか?明は奈津子の美貌に好意を抱いていたが、奈津子が自分に対して愛情めいたものを感じている雰囲気はないように思えた。奈津子のことは何も知らない。彼女だって僕のことは知らないはずだそう考えながら、新吉原のソープランドで女性を買うときの感覚はこんなものなのだろうか?と思ったりする。ソープランドの受付で顔写真のリストを見る。その中で最高の美人を指名する。浴室に通されると奈津子が待っている。奈津子は手順通りに明を欲情させようとする。明はその気になれない。違うだろう?という思いが明の脳裡から消えない。明には、その準備ができていない。一向に気分が高まらない。噛み合わない歯車。サイズの合わない入れ物と中身。ベッドの中で、うとうとと、そんなとりとめのない想像をしているうちに寝入っていた。


 翌朝、夢うつつの中で長田と奈津子が言い争っているような声が明に聞こえてきた。

「私もうやめたい」と言っているような奈津子の涙声がかろうじて聞き取れたが内容は良く分からなかった。奈津子が他人を仲間に引き入れるようなことはやめたいと言っているのだと思った。それから暫くしてドアを強くノックする音で明はベッドから跳ね起きた。

「朝食」と長田のどすのきいた声がする。良く寝たという感覚があった。なぜ室内電話をつかわないのかと考えながら外から鍵を掛けられていることを思い出した。急いで身支度し一階食堂に下りて行くと一人分の朝食が用意されていた。ファストフードのブレックファストのようなメニューだった。食堂には誰もいない。コーヒーを持って長田が現れたので「今日、初仕事だと昨日、永山さんから聞きましたが」と探りを入れた。

「食事を終えたら出かける。それから、今日は運転をしてもらうので免許証を携帯して」と長田は事務的に言う。明は彼の慇懃無礼な態度に、どうも彼を好きになれなかった。精神的な距離のとり方が分からなかった。明の食事中、長田はタバコを吸い続けていた。一本吸い終わると次の一本を取り出し右手でライターで火をつけていた。食後、免許証を取りに自室に戻り、ついでに南條から送られてきた携帯電話を密かにポケットに忍ばせた。何かのときに、使えるかも知れないという淡い思いだった。電話にGPS機能がついていることが、どういう結果をもたらすのかということについては深く考えなかった。

二人は年代もののBMWに乗って、国道沿いのホームセンターに向かった。

「十万円ぐらい持ってくるように」という長田の指示があったので明のポケットには奈津子からもらった百万円から抜き取った一万円札が十枚あった。これまでの散財は不動産屋への支払いと亜衣子と食べた焼肉だけだったので、まだ八十万円が近く残っていた。

 助手席で明は長田の横顔を見ないようにして、探るように聞いてみた。

「3411という数字はどういう意味なんですか?」

「我々は名簿のたぐいを持たないので、一種の会員証のようなもので。会員証であれば、いくつでもいいんんだが、BC3411年は我々の先祖が、虐殺者に復讐を宣言した年なんで」と長田は、ハンドルをゆったりと切りながら、淀みなく言う。

「先祖?」と明は想定外の言葉に問いたださざるを得なかった。

「いまから、5千4百年以上前、いまのドイツのライン川支流のデュッセル川にある谷に住んでいたようで、そこは現在の北ライン西ファーレン州にある。地理的にはデュッセルドルフに近いところで、世界的には一八五六年にこの谷でネアンデルタール人の化石が発見されたことで有名だ」とゆっくりとハンドルを回しながら長田が言う。

「それでnか!」と明はおもわず叫んだ。

「なにがn?」と長田はハンドルを握りながら落ち着いた声で聞き返した。

「メソポタミア文字のバッジ」と明は長田のジャケットの襟穴を助手席から指差した。「いまはつけていないけど、この間、初めてお会いしたとき舞浜でつけていましたよね」

「そう。ヨアヒム・ネアンダーにちなんで我々の仲間のしるしのバッジのロゴをメソポタミア文字のnにした。そう提案したのは我々の仲間のジェイソン・ノイマンという人物で」

「ジェイムズ・ノイマンでは?」と明はアナハイムで覗き見したことを思い出していた。

「良くご存知で。ジェイムズはジェイソンの息子で。だから、バッジがそうなったのは二十世紀前半の第二次世界大戦の初期のころ。もっとも、紀元前三千五百年ごろ、我々の先祖はメソポタミア地方にいたようで。そこでメソポタミア文字を習得し、それ以降現在に至るまで使用している。とくに、メソポタミア文字が、歴史的に使用されないようになってからは、秘密の文書に使っていたようだ」

「ヨアヒム・ネアンダーってどんな人ですか?」と明はその名前を繰り返した。

「ネアンダーは英語的な発音でドイツ語発音では最後は巻き舌になってネアンデルになる。なんでもカルビン派の教会の神学者だったらしい。欧米では一般的に讃美歌の作者として知られている。元々との姓はノイマンだった。それを同意のギリシャ語に変えてネアンデルとなった。十七世紀後半、ハイデルベルクで家庭教師をしていたらしい。デュッセルドルフでラテン語の教師に、次いで聖職者となった。近くにデュッセル川があった。その谷で説教をしていた。十九世紀はじめに彼にちなんで、その谷の名がネアンデル谷、つまり、谷はタールだから、ネアンデルタールとなった。一八五六年にネアンデルタール人の骨が発見され、この地名が有名になった。北京原人もジャワ原人も、みんな地名から来ている」

「ということは、あなた方の先祖は、そのネアンデルタール人ということなんですか?」「かつては、そう信じられていたが、最近のDNA鑑定では人類と〇・五パーセント違うことが明らかになった。だから、多分違うんだろう」と語りながら長田はちらちらとバックミラーに視線を向ける。後方の交通が気になるようだった。

「そう信じられていたという根拠、そう信じたという根拠はなんですか?」と明は荒唐無稽と感じながらも長田の話に引きずり込まれていた。

「我々の先祖はアフリカの大地溝帯から北上してきた人類に滅ぼされかけたという言い伝えだ。しかし絶滅はせずに数十人の集団の規模でヨーロッパ中に点在していた。我々の先祖はヨーロッパ一帯で平和に生活していた。人を疑う、だます、殺す、傷つけるということを一切しない人々だった。ところが南方から来た今の人類に殺戮され、僅かな人数が隠れるようにネアンデル谷あたりに住んでいた。いまから六千年ぐらい前に女帝が現れて。女帝と言えば天照大御神も卑弥呼も女性だ。恐らくたぐい希な霊能者だったんじゃないか。その女帝がある日、川のほとりで人類の女の子と出会った。そのとき背筋が凍りつきそうな戦慄をその女の子に覚えた。その女の子が生む男の子に将来、仲間が虐殺されると予言した。その予言は三十数年後に的中した。女帝が生んだ女の子と僅かな連れがかろうじて生き延びた。流浪の民となった。女帝の子孫のうち女の子は代々、邪悪な虐殺者を将来生むことになる女の子に出会うと体中に悪寒が走った。全身に痙攣が起こるという霊能力を継承した。我々の先祖はこの六千年間、ひそかにそういう女の子を抹殺してきた。永山奈津子はその末裔で、今日も一人、そういう女の子を消す予定だ」と語りながら、国道沿いの駐車場入口から誘導路を一気に上り、長田はホームセンターの屋上にBMWを停めた。

屋上から、エレベーターで一階に降りた。明はカートを押しながら、長田に命じられるままに安物の白い寝袋とガムテープと腐植土を四袋購入した。代金は明が支払った。「領収書はなくさないで大切に保管して。今回は、インフルエンザが有効でなかった。寝袋の中に女の子を腐植土と一緒に入れる。人跡未踏の谷底に遺棄する。安物の寝袋だと裂けやすい。そこから細菌やバクテリアなどが侵入する。腐植土の中の細菌とともに遺体を早く腐食させ分解する。野生動物が食べてくれるとなおありがたい。また白は雪にまぎれて、発見されにくい色だ。アメリカではいたるところに人跡未踏の場所があるが、日本にもかなりある。国土の大半が山林だから。そこまで車で、ここから少し時間は掛かるが」「僕は何をするんですか」と明は買物カートをエレベーターの中に押し進めながら聞く。

「まあ、コーヒーでも飲みながら、相談しよう」と言いながら、長田はホームセンターのとなりの喫茶店に明を誘った。途中、買った荷物をBMWのトランクにしまい、長田はグローブコンパーメントから甲信越の道路地図を取り出した。隣の喫茶店のテーブルに着くと、長田は地図を広げ、目的地に人差し指を立てた。「遺棄はここ。長野県と山梨県の県境あたり」と長田は小声で辺りを見回すように言う。

「一人で行くんですか?」と明はアメリカンコーヒーを口に含みながら小声で確認した。「俺が行ってもいいんだが、車のタイヤを換えるのは面倒だし、それにそれでは兵隊が増えたことにならない。今日はそれを証明してほしい。我々の仲間の一人であることを」と長田に言われて、明ははやばやと殺人に手を染めることに慄然とした。

「これから女の子を誘拐する。まず、そのアシストをしてくれ。その女の子を寝袋に押し込めるのはおれ一人でやる。君の方はカーナビつきのレンタカーを借りて、先に行って、中央高速道路の双葉サービスエリアで待っていてくれ。そのサービスエリアか、高速を降りたところで、その寝袋を渡すから、あとは一人でやってくれ。いいかな」と言われても、明には言われていることの実感がなかった。こんなに簡単に人を殺していいものだろうかという思いが頭の中から消えなかった。長田がメモを取り出した。「カーナビにはこのメモの住所を登録して。ここは遺棄する地点で、周辺に人家はない。狭い山道ですれ違いできない箇所がほとんどで、その地点に警笛鳴らせの交通標識が立っている。通仙峡というバス停の近くで目印はメソポタミア文字のjだ。その標識の柱にいたずら描きのようにして墨汁で描いてある。左側は切り立った崖だ。右側の谷底に遺棄する。多分夜なので真っ暗で何も見えない。今の季節は残雪の谷底で遺棄したあとは突き出た崖が覆うので道路からは寝袋は見えないはずだ。春になれば樹木に覆われる。地肌が露呈する夏を迎える頃には死体は完全に腐食している。終えたらすぐに舞浜に帰ってくれ。一部始終は俺が携帯電話のGPSで監視している。くれぐれも失敗のないように」

「それで、その女の子を誘拐するアシストは?」と明が催促するようにいうと、長田は初めてニヤリとした。内ポケットから折りたたみの茶色の革の財布を取り出して言った。「スポーツセンターの水泳の帰りに誘拐する。この財布をその子に渡してこう言ってくれ。このへんに交番はあるか?この近くで、この財布を拾ったんだけど急いでいるのでかわりに交番に届けてもらえないかと。女の子が受取ったら、足早に消えてくれ。あとは俺が名乗り出て、交番に届ける前に、その女の子から財布を受け取り、お礼をするといって車に乗せて、誘拐する。君の方はその足でレンタカーを借り、中央高速の双葉サービスエリアへ行って、駐車場で待機していてくれ。多分、五時過ぎには落ち合えると思う」

 なぜそういう誘拐の仕方をするのか、明にはよく理解できなかった。二人はぬるくなったブレンドコーヒーを飲み終えると、江戸川区の京葉道路から東京湾よりに一本路地をはいったところにある三階建てのスポーツセンターに向かった。京葉道路は交通量が多いが、一本路地を入ると車も人通りもほとんどなくなる。正午過ぎに水泳のレッスンが終わるというので狭い路地の住宅のブロック塀にBMWを幅寄せして出入口を注視していた。「レンタカー会社は京葉道路沿いの東京寄りで、ここから十分ほどのところにある。現場は崖沿いの山道だからあまり大きい車は避けたほうがいい。といって、軽やリッターカーだと、山登りがつらいかも知れないので、千五百ccくらいのコンパクトカーがいい。情報ではそれほど雪深いところではないが、タイヤはスタッドレスでないとまずいだろう」と長田は目線を黄色と青色で派手にペイントされた建物の出入口に固定したまま説明する。表情に感情の動きが見られなかった。十二時を少し回った頃、小学校高学年の一団がスポーツセンターの2階出入口の自動扉から吐き出された。十数名の学童はガラス扉の出入口付近で二手に分かれた。三々五々、広いコンクリートの階段を下りて来る。長田は足の長いすらりとした女子を指差した。「あの子だ。少し目の吊り上がった、ブルーのトレーニングウエアの女の子」と言う説明をもとに探すと、多分あの子だろうという見当がついた。「あの子はこれから、京葉道路と平行している裏道沿いに千葉方面に歩いて行く。ゆっくりと尾行して、女友達と別れて一人になったところで、さっき渡した財布を渡してくれ」と言われて、明は見失わないように急いでBMWから降りた。女の子は首都高速7号小松川線の高架の一本手前の路地をスニーカーでスキップを踏みながら歩いていく。やがて、十字路で女友達と手を振りながら別れた。一人になった。ほかに人通りはない。そこで、明は長田に言われたセリフを思い出しながら、小走りにその女の子の背後に近寄った。「ちょっと君。この近くに交番あるかな」と明は台本を棒読みするような口調で言った。「あるけど、なんで?」とその女の子は、明の大根振りにいぶかしそうに振り向いた。きつい目だと明はその女の子の表情にどうしようもない不快感を覚えた。

「いま、そこでこの財布を拾ったんだけど、お兄さん、ちょっと急いでいるんで、僕の代わりに交番に届けてもらえるかな?」とうまく言い終えて、ほっとした。

「いいけど、お礼はもらってもいいの。一割だっけ?」と上目遣いに手を出す。

「いいよ。あげるよ」と言いながら茶色の革財布を渡すと女の子はすぐに中をあらためた。「なァんだ、あんまりはいっていない」

「じゃ、お願いしたよ」と言い残して東京方面に明は足早に去った。京葉道路に消えて行こうとする明とすれ違うようにBMWがその女の子の横に滑り込んで停車した。長田は少女に車で近寄ると声を掛けた。

「そのお財布、多分おじさんが落としたものだと思うけど」少女は不審そうに長田を見た。「本当?じゃ、いくらはいっているか言ってみて」

「いやあ、たいして入っていないよ。千円札で六千円ぐらいだったかな」

「当たり。でも私が拾ったんだから交番に届ける。そうしないとお礼がもらえないでしょ」と少女は疑い深そうなしかめっ面で口をとがらせる。

「交番まで行かなくてもお礼をあげるよ」と長田は穏やかな口調で別人のように優しく語りかける。明は背後のそのやりとりを遠巻きに確認して路地を京葉道路方向に右折した。

東京方面に十分ほど歩いたところに、長田の言った通り京葉道路沿いにレンタカー会社があった。言われた通りに、スタッドレスタイヤの千五百ccのコンパクトカーを借りた。カーナビゲーションは標準装備になっていた。運転免許証の住所が千住のアパートになっていたので申込書に同じ住所を書き入れた。手続きに手間取ったのでレンタカー会社を出たのは二時近かった。早速、長田のメモ書きにある住所を登録し、高速道路標準でナビゲーションをスタートさせた。いきなり、首都高速の入口に向かうように指示されたので、それに従った。錦糸町ランプから7号小松川線に入り、環状線を経由して、4号新宿線に入り、高井戸から中央自動車道に入った。分岐のつど、カーナビゲーションから音声指示があった。年度末のせいか、首都高速も中央高速も業務用トラックでかなり混雑していた。途中、石川パーキングエリアで軽い昼食にした。次の談合坂サービスエリアまで距離があるので、駐車する人が多く、とてつもない混雑で、1時間近くかかった。そこから八王子、相模湖、上野原、大月、勝沼、一宮御坂、甲府南、甲府昭和のインターチェンジを通過して、双葉サービスエリアまで、二時間近くを要した。断続的な渋滞があったので、高速走行できたのはほんの数区間だけだった。これなら軽でも同じだとレンタル料が半額近い軽でも良かったのではないかと思った。

日はまだ高かったものの傾きかけた黄色い太陽に春の気配がそこはかとなく感じられた。双葉サービスエリアの駐車場内を三周してみたが、長田のBMWはまだ到着していないようだった。ひとまず駐車し、トイレに寄った。自動販売機で冷たいコーヒーを飲んで喉の渇きを癒し、眠気覚ましに食堂で熱いコーヒーを飲むことにした。レストランの座席に着いて腕時計を見ると五時前だった。ブレンドコーヒーを飲み終えた頃、長田から受取った携帯電話が鳴った。明が出ると「いま、食事か」という長田の落ち着きはらったような声がした。「これから須玉インターで出て、ひと気のない林道で寝袋を渡す。俺が先導するのでついてきてくれ。いま窓の外にいる」

 レストランの大きなガラス窓から駐車場を見ると、見覚えのあるBMWが窓の近くに停車していた。急いでコーヒーを飲み干しレストランを出た。レンタカーに乗ると長田のBMWがゆっくりと先に動き出した。スモークガラスで車内は見えなかった。韮崎インターチェンジの次の須玉インターチェンジで中央高速を出ると長田のBMWはひと気のない緩やかな斜面を北上し始めた。積雪はなかった。民家が殆どないスーパー林道の両側には葡萄畑と野菜畑が続いていた。八ヶ岳を望める見晴らしのいい台地にある畑の途切れたところから鬱蒼とした杉林が続き民家も畑もないさみしい窪地でBMWがハザードランプを点滅させて停車した。前も後ろも上り坂になっていて見通しが悪かった。前方の山の斜面のところどころにまだらな積雪がうかがえた。明はBMWの後ろに停め、近づいてくる車の気配のないのを確認してトランクを開けた。長田もトランクを開け中の寝袋を抱え出し、明のレンタカーに近寄ってきた。寝袋は外からガムテープがぐるぐる巻きになっていた。

こんなにガムテープをぐるぐる巻きにしたら、野生動物が食べにくいんじゃないか?ガムテープ一本全部つかったのか?と思いながら、明が寝袋を受取ろうとすると「いいから」と言いながら長田はレンタカーのトランクに寝袋を納め、急いで閉めた。

「それじゃ、あとはお願いする。俺は先に舞浜に帰っている」

「まだ息はあるんですか?」と明が遠慮がちに聞くと「君にお願いするのは遺棄だけ。捨てたものがたまたま死体だったというだけのこと」と他人事のように長田は答えた。

標高の高い林の中のせいか、春近い日差しが上空にあるだけで既に薄暗くなっていた。BMWはゆっくりとUターンして、東京方面に滑らかに走り去った。明がレンタカーに戻ってカーナビゲーションの画面を見ると目的地まで、あと三十キロという表示になっていた。道はほぼ一本道なので、迷う心配はなさそうだった。追い越してゆく車も、すれ違う自動車もほとんどない。なんとなく心細い思いだった。まして、積んでいるのは昼間出会った少女の死体だった。スーパー林道は片側一車線ではあったが、陥没も凸凹もない運転しやすい舗装道路だった。ただ、知らない道でもあるし、直線道路がほとんどないので、あまりスピードは出せなかった。数キロ走ると日が山に落ちたのでヘッドライトをつけた。やがてブナ林の中をだらだらとした山登りが始まった。つづら折りが続きしばらく走ると今来た道が葉を落とした木々の間から眼下に見えるようになった。そのとき下の方から同じ道を登ってくる車のライトが枯れ枝の間を点滅しているように見えた。気のせいか?と思ったが、そうではなかった。ライトの大きさから、軽自動車のようだった。そのうちにうねるような道幅が狭くなり、一台通るのがやっとという幅員になった。曲がりくねった道なのでスピードも出せず、対向車があるとすれ違うこともできそうになかったので、前方の交通に気を配りながら、ゆっくりとレンタカーを走らせた。残りあと二十キロぐらいになったとき、下の道を走行する後続の軽自動車が崖下にはっきり見えた。どこかで見たことがあるような赤い軽自動車だった。まさか!南條警部補の軽自動車?確かに車種は同じようだった。しかし、同じ車種の車は何万台とある。そんなことが、ありうるか?と明は一瞬どうすべきか狼狽した。幅員のあるところで停車して、やり過ごしてみるか。どっちにしても、南條警部補であれば、職務質問を受け、それを盗聴され、話の雲行きが怪しくなれば、頭に埋め込んだ火薬が点火して、この人生があっけなくおわると思うと、追いつかれないようにという思いが強くなった。アクセルを踏む足に力が込められた。同時に、軽自動車もアクセルをふかして追尾してくるような気がした。幸い、山陰に日が落ちてきたので、対向車があれば、ヘッドライトで確認できるようになった。明は、ガードレールや崖をこすりそうになりながら、スピードをあげた。後続の軽自動車を確認するゆとりはなかった。カーブを切るたびに、その先の道にヘッドライトが当たらないので、カーブを曲がりきるまで盲目状態で運転せざるを得なかった。ひやりとしたり、はっとしたりする運転が続いた。ペーパードライバーだった明にとって、長時間の運転は久しぶりだった。ようやく、目的地に近づいたとき、暮れなずんでいた山間の陽が完全に没した。民家も街路灯もないので、ヘッドライトに浮かぶ山林や崖以外は全て闇の中に埋没した。「まもなく目的地です。案内を終了します」というナビゲーターの音声に、スピードをゆるめると、かなり急な曲がり角に、警笛鳴らせというブルーに白絵の交通標識が見えた。車を崖側の路肩に停めて白い柱を確認すると濃い目の墨汁で書かれたメソポタミア文字のjが確認できた。あたりに人家も車の気配もなかった。谷の下のほうにも灯りはなかった。軽自動車をかなり引き離したようだった。千五百ccの車の威力であったのかも知れない。「軽自動車やリッターカーは借りるな」と言った長田の忠告に感謝した。軽自動車に追いつかれる前に、誰も通りかからないうちに遺棄しようと、焦る気持ちにせかされるように、明はトランクをあけた。寝袋を谷底に投擲した。寝袋が枯れ枝に接触する音がガサガサとしばらく続き、最後にストンという音がして、落下する音が止んだ。精神的に追い詰められていたせいか、寝袋はやけに軽く感じられた。落下してゆく音も、野生動物が動き回る程度で、誰かに聞かれた心配はなかった。ただ、その音の方向から、息苦しそうな軽自動車のエンジン音が聞こえてきた。谷底をのぞき込むとえぐれた崖になっていた。漆黒の枯れ枝の間に、ちらちらと軽自動車のヘッドライトがまだらに動いていた。明は車に戻り、軽自動車から逃げることを考えた。Uターンして軽自動車とすれ違い、脱兎のごとく逃げ去ることを考えたが、その場ではUターンできそうになかった。しかたなく、Uターンできそうなところまで、さらに山道を登攀して行くことにした。十分ぐらい走ったところで崖をえぐり取って退避所にした箇所があった。山側には白樺の林が続いていた。そこでKターンをして、車の方向を反転させた。そのまま、退避所に停車し、後続車の気配をうかがった。ついでに、カーナビゲーションに目的地としてレンタカー会社の電話番号を入力した。あたりにいくら耳を澄ませても、時折聞こえてくるのは、枯れ枝をかすめる木枯らしの音だけで、漆黒の闇と谷底の清水のせせらぎだけがあたりを支配していた。かりにあの軽自動車が南條警部補であれば、息を切らしながら登ってくるはずだ。そこで、すれ違いざまに山を一気に駆け下りれば、まくことができるだろうと考えながら、エンジンを切った。ヘッドライドを落として、下から登ってくる車の気配に耳を澄ませた。エアコンの停止とともに室内の温度が下降し始めた。五分たった。パワーウインドウを開けて耳を澄ませた。エンジン音のないのを確認しパワーウインドウを閉めた。十分たった。小さな虫が室内に飛び込んでいた。パワーウインドウを開けて、手で追いやっても出て行かない。サンバイザーに止まった。漆黒の闇の中を時が緩やかに流れた。冷たく乾燥した空気の中で後頭部から背筋に掛けて悪寒が走った。一向に登ってくる車の気配はなかった。

南條警部補は諦めて山を降りて行ったのか?あるいは、あの軽は地元の人のもので途中で家に辿り着いて、夕食をとりはじめたか、風呂にでも入っているのか?

五分待って山を下ることにした。室温は外気よりも少し高くなっていた。五分たった。ヘッドライトをオンにして、レンタカーをそろりと発信させた。オートマチックのギアをセカンドに入れ、ブレーキをかけずにアクセルもふかさずに静かに斜面をゆっくりと下っていく。ヘッドライトの下の路面は車の下に巻き取られるように向かってくる。エンジンブレーキが利かなくなったので、ギアをローに入れた。下りの傾斜が緩やかになると車がとまりそうになった。再びセカンドに入れなおす。それでも加速がきかなくなるとドライブにギアをチェンジする。そういうギアの入れ替えを頻繁に繰り返しながら下ってゆくと、やがて寝袋を投擲した交通標識に戻ってきた。標識どおり、警笛を鳴らし、急カーブを切ると、突然、対向車が現れた。あわてて、ブレーキをかけて止まると、対向車は幅寄せもせず、山道の中央に停車していた。ヘッドライトが小さいので、軽自動車だとすぐ分かった。すれちがうだけの幅員がないので明は相手の出方を待った。すれ違えるところまでは、上り下りとも二、三十メートルはバックしなければならない。しびれをきらして、明がバックしようとしたとき軽自動車の前に見覚えのある野球帽をかぶった南條が現れた。

「おい、土岐くん。車を降りろ。職務質問だ」

この状況が分かれば長田は起爆装置のスイッチを入れるに違いない。万事休した。僕の人生は終わった。なんとつまらない人生だったか。人に誇るべき何ものもない人生だった。いい加減な生き方をしてきた。全ては自業自得か。それだけの思いが一瞬のうちに脳裏を駆け巡った。明は身動きができなくなっていた。頭の中が真っ白になった。心臓の鼓動が早まる一方で、後頭部から血の気が引いていくのが分かった。体が硬直し、ハンドルを握っている手がほどけなかった。かろうじて解いた右手で、ポケットにあった携帯電話をコンソールボックスにしまった。盗聴装置を音源から少しでも遠ざけて、長田の起爆装置のスイッチを押させまいとする試みだった。そうこうするうちに、南條が近づいてきた。

「土岐君よ。御無沙汰だね。暫く逢わないうちに奴らの仲間になっちまたな。ミイラとりがミイラになるとはよく言ったもんだ。永山奈津子の色香に血迷ったか。いま県警を呼んだから覚悟しな。俺が目撃者だ」と南條が凄んできた。安禄山でビールを共に呑んだときに見せた人懐っこい表情が消えていた。ドアウインドウを閉めたままでもよく通るだみ声だった。耳を澄ますと下の方から谷に木魂すようなサイレンの音が上ってきた。軽自動車の前に仁王立ちになっている南條とレンタカーの中で縮こまっているの明が対峙しているところにふもとの方から県警のパトカーが到着した。地域係の制服の警官が二名、南條の脇に出て、何かを話している。南條は交通標識の柱のマジックを指差して説明している。

「これはただのいたずら書きではない。テロルの暗号だ。この下の木の枝が、生爪を剥がしたように折れているだろう。ここから女の子の死体を遺棄したんだ。ちょっと、懐中電灯を」と言う南條の傍らに懐中電灯を持った若い警官が立った。「ちょっと見えませんね、崖がえぐれているんで。明日の朝にしたらどうでしょう」と若い警官が甲州訛りで戸惑いがちに言う。南條はどういう名目で明を拘束するか考えていた。不法投棄の現行犯なら無難だが。しかし南條は明が投棄した現場を実際は目撃していない。

「とりあえず、いまのところは不法投棄の現行犯で緊急逮捕します。しかし投棄したのは少女で、ひょっとしたらまだ息があるかも知れないので、レスキュー隊の応援を願えませんか?」と南條は若い警官に懇願した。

「それは大ごとになりますね。投棄したのが少女だというのは本当なんですか?本当なら遺棄致死傷ですね」と若い警官は当惑気味に言う。

「犯人にここで尋問してみましょう」と言いながら南條はレンタカーの中で茫然としている明に指先で出てくるように指示した。明は条件反射的にコンソールボックスの中から携帯電話を取り出してポケットに忍ばせた。長田から手渡された携帯から離れることに恐怖感があった。しかし、携帯を身につければ盗聴されることを覚悟しなければならない。

「犯人は土岐明、土岐のマは間。明は世紀の紀と夫、二十九歳。無職。新潟県出身。住所不定」と南條は若い警官がメモしやすいようにゆっくりと言った。

「少女を投棄した、間違いないな!」と南條に詰問されて、明は仕方なくうなずいた。後頭部の火薬はいつ破裂するのか?とそのことばかりが気になった。南條の言動についても上の空だった。ポケットの中の携帯電話に音声を拾われないように、右手で携帯電話を覆うように押さえつけた。

「女の子はまだ生きていたのか」という南條の質問には「わかりません」と明は答えた。

「よし、それじゃ、レスキュー隊が来るまで、犯人をパトカーに拘束して下さい」と南條は若い警官に指示した。若い警官は南條の剣幕に気圧されたようだった。明はその警官に左の二の腕をつかまれて、パトカーの後部座席に押し込まれた。

「とりあえず、不法投棄の現行犯で逮捕します」と言ったことのない言葉に呂律が怪しくなりながらもその警官はなれない手つきで、明の両手首に手錠をかけた。ひんやりとした硬い感触が明の手首をとりまいた。もう一人の警官がパトカーの中で署活系無線でレスキュー隊の応援を要請していた。状況説明で現在位置、少女の転落、谷底などを要領よく伝えていた。同じような内容の連絡を須玉署の捜査一課にも入れていた。応援を頼んでいた。そういう会話の飛び交う中で明は思考停止の状態にあった。疲労のせいもあった。全てが終わったという喪失感が体中を支配していた。このまま、脳内出血でこの人生を終えるのも悪くないかも知れない。でも、挫折ばかりで、本当に、つまらない人生だったと思ってみたりもした。押さえつけた携帯電話と太腿の間にしびれが滲み出てきた。早速、パトカーの中で別の若い警官の職務質問をうけた。「そこから、何を投げたんだって?」

「寝袋と腐植土とガムテープです」

「それを証明するものはあるの?」と言われて明は手錠をはめられた不自由な手で左のポケットからホームセンターで受取った領収書を取り出して、警官に見せた。長田はこういう状況を予想して、レシートを捨てるなと言ったのか?と思いながら、長田と二人でホームセンターで買い物をしたことを遠いできごとのように思い出した。

「なるほど、なんでそんなことしたの?」

「なんとなく、むしゃくしゃして」と明は何も考えず、思いつくままに言った。

「墨田署の刑事さんは、女の子が入っているって言っているけど」

「さあ、見たわけではないので」と少し投げやりな言い方になった。

「でもさっき、墨田署の刑事さんに聞かれたら女の子を捨てたことを認めていなかった?」「いいえ」

「じゃあ、寝袋の中になにが入っていたの?」

「だから、腐植土とガムテープが入っています」と少しぞんざいな言い方をした。

「良く分からないね。なんでそんなものをいれて、捨てなきゃならないの?」

「なんとなく」としか明には言いようがなかった。明は長田に盗聴されていることを前提に警官の質問に慎重に答えていった。いずれ寝袋が見つかれば全てが明らかになることだった。それ迄なんとか1秒でも長く生き延びることを考えた。虚しいわる足掻きだが、自然にそうしていた。無意識だった。そこにレスキュー隊が特殊救急車で到着した。長いロープを抱えた赤茶色のつなぎと白いヘルメットで身を固めた隊員が二人、ガードレールと交通標識の柱に夫々ロープを結び、ヘッドライトをかぶり掛け声をかけながら崖下に下りていった。道路の上からはハロゲン投光車両からサーチライトが照射され警官が崖下を覗き込むように「右だ、左だ」と怒鳴っている。南條も気がかりそうに崖下を覗き込んでいる。やがて崖下の方から「白い寝袋か」という少し間延びのした隊員の声が微かに聞こえてきた。パトカーの後部座席に明と一緒に座っている警官が咎めるように聞いてきた。

「投げ捨てた寝袋は白か?」

「はい」と明が答えるとその警官は窓から斜めに首を出して「そう!白」と怒鳴り返した。暫くして再び崖下から声がした。「よしガードレールの方のロープを引き上げてくれ!」

その声で、明を職務質問していたほぼ同年輩の警官がパトカーの外に出た。南條が明の顔色をのぞき込むようにして代わりにパトカーに乗り込んできた。若い警官が二人で、声を合わせて、ロープを引き上げていた。崖下に下りていた隊員は交通標識の柱に結んだロープ伝いに、一人ずつ自力で駆け上がるようによじ登ってきた。

「よし、犯人を立ち合わせてくれ」と南條がパトカーの外に出ながら叫んだ。明は南條に促されて、ガードレール脇に引き上げられた寝袋の前に行った。

「ご丁寧にガムテープをぐるぐるまきにして」と言いながら南條がサーチライトに照らし出された寝袋に巻かれたガムテープを剥がし始めた。それを若い警官が制止した。「それはこちらでやりますので」

「つまらない縄張り意識を出すんじゃないよ。そんなことを言っているから初動捜査が後手後手になるんじゃないか」と南條は気色ばんだがもう一人の警官が南條を寝袋から強引に引き離した。その警官が寝袋のガムテープを全部剥がすのに五分位かかった。丁寧な剥がし方だった。もう一人の警官はその周囲に捜査線のテープを張り始めた。警官が剥がし終えると「あの寝袋に間違いないな」と南條がもう一人の警官に聞こえるように明に念を押した。明は黙ってうなずいた。警官がチャックを引き開けると、中からガムテープでつなぎ合わされた腐植土の袋が四つ出てきた。一つの袋は中央をガムテープでくびれるように形成され人間の首のようになっていた。その下に胴のような袋がガムテープで接着され、更にその下に足のような形になった二袋が繋がっていた。明を事情聴取した警官が覗き込みながら「本当だ。寝袋と腐植土とガムテープだ」とぽつりと言った。慌ててもう一人の警官がパトカーに戻り、署活系無線で、須玉署を出たらしい一課の刑事に連絡を取った。状況を説明し、来るに及ばないことを申し添えた。

「この野郎!」と南條がいきり立って明の胸倉を掴んだ。明のサファリジャケットのボタンがひとつ飛んだ。明はされるままに爪先立ちになった。それを若い警官が制した。「これは軽犯罪ですね。逮捕には及ばないでしょう」と南條をなだめながら、明の手錠をはずした。それを見届けて、ロープの後片付けをしていたレスキュー隊の二人は警官に小さく挨拶をして、特殊車両で、なにごともなかったかのように下山して行った。

「レスキュー隊も呼んじゃったんで、とりあえず、署まできてもらって始末書を書いてもらいます。全く、お騒せだな。ま、ガセネタで、事件でなくて良かった。事件であれば、今夜は帰宅できないところだった」と警官はとがめるように明と南條を見た。

「そうか、今日は予行演習だったのか。まんまとはめられたな。道理で尾行しやすかったわけだ。やられたな」と南條は悔しそうに呻き肩を落としてほぞをかむ思いで唇を噛んだ。

 明は須玉署の二階の薄暗い取調室で始末書を書かされた。当直の刑事と若い警官の指示通りに用紙に書き込み拇印を押した。現住所を書き込むときに躊躇した。引っ越してしまった千住のアパートにするか舞浜にするか実家にするか。南條が同席していなかったので千住のアパートの番地を記入した。刑事は明の運転免許証を見ながらそれを確認した。

「まあ、犯罪は犯罪だけど、軽微だし、犯罪歴はないようだから、今回は書類送検しないであげるけど。もう、こういう馬鹿なことはするなよ。いずれは博士さまになるんだろ?しかも、南條警部補の知り合いなんだろう」と小柄なサル顔の刑事は額に3本の皺を寄せて、さも迷惑そうに、恩着せがましく言った。

須玉署を出るとき、軽自動車の中から南條が近寄ってきて明の肩を抱え耳元で囁いた。「俺はこれで定年まで間違いなく謹慎だ。何回目の謹慎か数え切れないが多分これが最後だろう。もう自由に外回りができなくなる。だがお前の所在地はこの間渡した携帯電話の微弱電波で、大体補足できる。充電していつも携帯しておけよ。何かあったら、その携帯電話でおれにメールを送信しろ。俺は、お前の味方だぞ」明は南條の声が盗聴されないように、ポケットの携帯電話を手で押さえていた。それに気をとられていたので、あいまいな返事をした。南條の声は聞こえていたが、その声音は意味を持った情報として聞き取れなかった。明は心の中で、まだ生きているという言葉を呪文のように繰り返していた。

 南條を須玉署に残し、山梨県警のパトカー先導で、レンタカーに乗った明が須玉インターまで誘導された。料金所の職員が何ごとかと戸口から短い首を出してUターンするパトカーを見送った。明は夜の中央高速をすっ飛ばした。首都高の錦糸町で降りてガソリンを満タンにした。レンタカーを返却し、タクシーを拾って舞浜に戻ったのは深夜だった。 

奈津子が風呂上りの上気した淡いピンク色の頬で起きていた。化粧を落としたその顔に明はなまめかしいものを感じた。触れると、吸い付きそうなきめ細かい肌をしていた。奈津子は白いネグリジェ姿のままで明を食堂に招じ入れた。明は、今夜の顛末を逐一、奈津子に報告した。つい数時間前の出来事が、明には、遠い過去の夢のように思えた。奈津子は最後まで黙って聞いていた。

「本当にお疲れさまでした。あなたのことは信じていました。目障りな南條警部補の封じ込めに成功したようですね。あの人も気になる存在だけど、定年で警察組織を離れれば、もう何もできないでしょう。あと、3週間たらず。かりに後輩の刑事に申し送りをするとしても、今夜の件で信用はなくなったはずだから、これでひとまず安心ね。警部補のためにも良かったと思うわ。あと定年の日まで墨田署で静かにしていれば、退職金を満額受取ることができるのだから。毎月、仕送りをしているお子さんや離婚した元の奥さんのためにも、これでよかったんだと思うわ」と言いながら、電子レンジでハンバーガーの夜食を出してくれた。薄紙に包まれたハンバーダーを差し出した白いむき出しの腕から、ボディーソープとお湯の匂いが立ち上った。象牙のような肌の下に青白い静脈が透けて見えた。

「明日の夜は、いよいよ本番です。警察の邪魔者の南條警部補は、長田の機転できれいに排除したのでがんばって下さい」と言われても、明は釈然としなかった。空腹のはずだが、口に含んだハンバーガーの味があまりしなかった。食欲があまりないのは、疲労困憊しているせいかも知れなかった。

「これはやっぱり、テロでしょう」と明はかぶりついたあとのハンバーガーの中身を漫然と見つめながら言った。

「テロというのは、大量殺人を言うのでしょう?しかも無差別。政治的なものや宗教的なものをテロと言うのじゃないのかしら」と言う化粧を落とした洗い髪のままの奈津子の表情に生々しいむき出しの女を明は感じていた。

「多少性格の悪い女の子が将来、邪悪な人間を産むというのは一種の宗教じゃないですか」

「でも、本当にそうなのよ」

「だって、少女が成長して子供を産んでからじゃないと本当のことは分からないでしょ」と明はハンバーガーを義務のようにかじりながら、食べているという実感がなかった。

「成長して子供が生まれ、その子が自分の利益のために二人人間を殺したとしたら、その刑罰と自分の利益のためではなくて誤って一人人間を殺した刑罰とどちらが重いかしら」

「それは、二人殺した場合だけど」

「人を殺すって簡単なのよ。駅のホームに立っている人を電車の進入と同時に押して線路に突き落とすのは誰でもできるでしょ。刃物を忍ばせて心臓を一突きにするのもそれほど難しいことではないし、食べ物に農薬を混ぜたり、車でひき逃げをしたり。善良な人は考えもしないことばかり。だから邪悪な人間はそういう人々を簡単に殺せる。善良な人々は、殺されてから邪悪な人間を罰する。ということは殺されるまでは、そういう邪悪な人々は、いつでも殺したくなったら殺しなさい、と言われんばかりに野放しの状態に置かれている」「でも、そういう邪悪な人はごく少数でしょ」

「そう少数。でもとてつもなく邪悪な人は大量の人を殺戮する。厄介なのはそういう邪悪な人は自分は英雄とか救世主とかだと思っていること。それを信じる少し邪悪な人々もいること」と言いながら、奈津子は残り少なくなった明の手元のハンバーガーを見ている。

「まさか、イエス・キリストやモハメッドは善良な人でしょ」

「当然、キリスト教やイスラム教の信者はそう思っているでしょう。でも、宗教戦争に名を借りて、この二千年近くの間に数億、数十億の人々が虐殺されたでしょ。人類の歴史はそういう殺戮の歴史でしょ。ユダに密告をそそのかしたのは、私達の先祖だという言い伝えがあるほどだわ。嘘かも知れないけれど」

「でも、根性の悪い少女を殺して、邪悪な人が減って、そうでなければ殺害されたとおもわれる無数の無辜の人たちがいるということは、どうしたって永遠に実証されないでしょ」「あなた、戦国時代のあと二百五十年続いた江戸時代の平和は幕藩体制のせいだと思う?それとも偶然?明治維新以来、二十年ごとに戦争をしてきた日本が、第二次世界大戦で負けてから半世紀以上も戦争をしてこなかったのは平和憲法のせいだと思う?それとも日米安全保障条約のせい?それとも偶然?江戸時代のようにうまくいけば、あと二百年か三百年は日本は戦争をしないですむでしょう。日本を戦争に導くような人が現れ、それに同調する多くの人々が現れない限り平和は続く。それでも、平和が長く続くと、私達の先祖が見落とした邪悪の家系が徐々に増えていったように、やがて大量殺戮の時代を迎えるかも知れない。この六千年足らずのあいだ、その繰り返し。戦争、虐殺、殺戮、犯罪はいまでも世界中に絶えない。私達は、そういう忌まわしいことがなかった時代、旧約聖書のエデンの園の時代、人類に邪気のなかった時代に戻そうとしているの。こうした闇の中の仕事があと、何年続くかはわからない。でも、いま世界戦争が勃発したら人類全てが滅びるでしょう。そうならないためにも、いましていることはやめられないの」

そんな馬鹿なことはありえないと思いつつも、明は納得したように首肯していた。

「私の先祖は江戸時代は寺子屋でそろばんとお習字を教えていたみたい。ひとつのお寺だけではなく、いくつものお寺を掛け持ちしていて、しかも一箇所には定住しないで、日本中のお寺を渡り歩いたようなの。そこで見目麗しい、邪悪な少女を見出すと間引いていたって聞いたわ。当時は身分社会だから、寺子屋に来るのは町人で、町人は支配階級ではないから、邪悪な女の子はせいぜいやくざになるような子供を産むくらいでしょう。だから、武家に見初められそうなかわいい女の子を捜したみたい。戦国時代の大殺戮でほとんどの邪悪な女の家系は武家社会では途絶えていたけれど、僅かに残った残虐な家系が二百五十年の間に徐々に増えて行って、町人や農民の間にも増えて行って、明治維新以降それがついに暴発して太平洋戦争に至った。太平洋戦争で、かつての戦国時代の大掃除と同じように、邪悪な家系はかなり途絶えたけれど、生き残った軍属もかなりいたので、戦後のベビーブームでは、小学校を中心に私の祖母や母が教員になって、小学校単位で少女を排除していたけれど、治安が維持されるにつれて、次第にやりにくくなって。それに小学校単位では、転勤を希望したとしても、カバーできる範囲があまりにも狭いので、大人数の少女が一箇所に集まる場として、最初に目をつけたのが、大阪万国博覧会だった。でも、これは効果はあったけれど、たった半年で終わってしまって、それに子供の数の減少から、小学校の先生になるのも段々難しくなって、私の場合は、TDLに職を得て」

「でも、そういう危険な犯罪を続けてきたあなたの家系がなんで六千年も続いたんだろう」「それは多分少女の殺害が発覚したことも過去には、きっとあったでしょう。でも、月に一人少女が食中毒や、崖下に転落して死んだって二十世紀後半までは事件にもならなかったでしょ。歴史的にも残るのは大量殺人だけで、私達の先祖がしてきたことは歴史の闇の襞に埋没してきたのよ。かりにいま、あなたが世間にこのことを公表しても、荒唐無稽だと言ってだれも信じないでしょう。それに実行犯は絶対に口を割らない。あなたも、私も、そして長田さんも、だれも言わないでしょ。言う理由がないのよね。六千年前からずっと」

聞きながら、明は、次第にうとうととし始めていた。体の芯から疲労困憊していた。奈津子は寝物語のように、甘ったるい声で話しを続けた。「私達の先祖は、これは言い伝えだけど、アーリア人がインダス文明に侵入した紀元前二千年から千年にかけて第六王朝のバジ王朝のときにバビロニアを出ました。いまのインド北部に移住して占いを生業にしていたの。インド人に彫りの深い顔をした人がいるでしょ。あれがアーリア人よ。インダス文明を作ったのは、いま南インドに住んでいるドラヴィダ人で、どちらかというと丸顔で、アーリア人とは明らかに違う。ペルシャ帝国を征服したアレクサンダー大王は、紀元前三二六年にインダス川を越えてパンジャブに侵入した。ヒュダスペス河畔でパウラヴァ族を破った。インド中央部に向かおうとした頃、私達の先祖はさらに東に移住しました。中国の戦国時代の終わり頃、匈奴に身を投じたの。前漢の武帝の時代の大将軍、衛青が七回目の匈奴討伐をしたときにみんな捕虜になったの。それで中国の長安に移住したの。中国でも霊能力を生かして、易経を学んで、それを教えることを生業にしてたの。その能力を買われて、元の時代、一二七四年の文久の役のとき、日本侵略の日取りを占ったけど、これがはずれて台風に遭い、罰を恐れて戦乱のどさくさにまぎれて元から逃亡し、瀬戸内海の因島に渡り、和寇を組織し、江戸初期まではそこに定着していました。『高麗史』や『明史』に和寇は日本人だけではないという記述があるのだけれど、多分私達の先祖のことを言っているのかも知れないわ」とそこまで話してきて明が全く聴いていないことを察知した奈津子は、早々に話を切り上げ、彼に就寝を促した。


 翌日の朝、明はいつものように長田のノックで目を覚ました。枕元の腕時計を見ると十時をとっくに過ぎていた。階下の食堂に行くと、誰もいなかった。ファストフードのモーニングセットのようなものを長田が電子レンジから取り出して明に提供してくれた。いつもきっちりとセットしている長田のリーゼントに、五、六本の頭髪のほつれがあった。「昨夜はご苦労。予行演習だったことを事前に言わなかったことを不愉快に思ってる?」「いいえ、言われても、言われなくても同じことです」と明はなげやりに力なく言った。昨日の疲労が全く取れないせいか、体中から気力が漏れ出しているような気がした。

「今日も昨日と同じようなレンタカーをあそこで借りてもらうが、お金はまだあるね?」「まだ、八十万円足らずありますが」と言いながら明はトーストにバターを塗りつける。

「あのう、つまらないことを聞くかもしれませんが、このお金はどこから出ているんですか?永山さんは中間管理職の下ぐらいで会社自体の給与水準が高いと言ってもそれほどの高給取りとも思えないし、あなたも毎日働いているようには見えないし」

「スポンサーがいる。スイスの我々の仲間が、随時、我々に送金してくれている」と言いながら、長田は自分専用のビールジョッキのようなマグカップでコーヒーをすする。

「あの大手町のスイス系銀行でおろしたお金は、ずいぶん沢山の金額だったようですが」「この間の大手町で引き出したお金だね。まあ、ファンド全体からすれば、たいした金額ではない。元々は、第二次世界大戦でナチスによって虐殺されたユダヤ人の預金だ。一九三三年から一九三九年にかけて、ドイツは経済活動から、ユダヤ人を排斥し始めた。アーリヤ人以外の公務員は解雇された。ユダヤ人の会社は解散させられたか、非ユダヤ人の経営する会社に廉価で売却された。ユダヤ人の貯蓄や利益は、特別課税の対象となった。ゲシュタポによってアウシュビッツの強制収容所に送られる直前に多くの金持ちのユダヤ人が永世中立国のスイスの銀行に全財産を預金した。その集金に協力したのが我々の仲間だった。巨額の預金を集めたが、かれらユダヤ人は家族もろとも虐殺された。相続人がいなくなった。もちろん、遠い親戚をさがせばいたんだろうけど、そういう親戚もスイスの銀行に膨大な財産を預金したことは知らない。銀行もわざわざ相続人を探すということはしなかった。相続の可能性のある人々は、財産はナチスに没収されたと思っていたんじゃないか。いずれにしても第二次世界大戦中のスイスを除くヨーロッパは大混乱だった。日本の銀行や郵便貯金や生命保険も同じようなことをやっているけどね。身寄りのない老人が預金残高や生命保険契約を残して死んでも、銀行も保険会社も郵便局も相続人を探すということはしないから。かれらは請求されない限り支払う義務はないと言い張っている」と言いながら、長田はブラックコーヒーをすすった。右手には火のついたタバコがはさまれている。一服吸うと乾いた口腔を湿らすように、コーヒーを口に含む。それを繰り返す。「スイスがEUに加盟しないひとつの理由もそこにある。EUは通貨同盟でもあるから、加盟するとなればスイスの銀行は全ての情報を明らかにしなければならない。イギリスが経済同盟には参加しても、通貨同盟には参加しない理由もスイスと似たようなものだ。その巨額ユダヤ資金をもとにして、固定為替相場制から変動為替相場制に移行するときの1970年代初めに、為替差益で大儲けした。巨額資金を形成して、現在に至っている。その当時、チューリッヒの小鬼と呼ばれていた。ロンドンのシティの小鬼たちはその陰に隠れて目立たなかった。その後もロシア通貨危機やアジア通貨危機でも大儲けしている。ジョージ・ソロスの影にまぎれて、大っぴらにはなってはいないが。金融関係で巨額損失が生まれるとニュースになる。新聞や雑誌のネタになるが、金融の場合はそれと同額の利益がどこかに出るので、そのつど、大儲けしている。幸い、儲けた場合はあまり大きなニュースにはならない。トヨタ自動車が利益を十倍にするには、工場設備の投資や従業員を十倍にしなければならないが、金融業者が利益を十倍にするにはゼロをひとつキーボードで打ち込めばいい。ほかに何もいらない。いずれにしても為替相場のように秒刻みで乱高下する相場は、どっちに転んでも利益が出る。これが我々の資金源になっている」

長田の長い話を聞いているうちに明はトースト二枚とハムと玉子焼きの朝食を終えた。「それでは、昨日のレンタカー会社に送って行こう。昨日と同じような車を契約して、ここに戻ってきて。あっ、それから南條警部補は今日から定年の日まで墨田署内での謹慎になるそうだ。まだ正式な処分は出されていないようだが、これで安心していいだろう」と長田に言われるままに、明はドライブの準備をした。自室に戻ると、免許証と現金十万円をポケットにねじ込んだ。既にポケットに入れていた長田から渡された携帯電話のほかに、南條から送られた携帯電話もこっそり持つことにした。微弱電波で明の所在を南條が追尾できたとしても、南條は署内謹慎で外出はできないはずだった。持って行くかどうか躊躇したが結局持って行くことにした。迷ったときはポジティブな行動を選ぶというのが明の主義だった。持って行く、行かないで逡巡したので、持って行く方を選んだが、置いていく、置いていかないで逡巡していれば、置いて行く方を選んだことになる。明はどちらにころんでも何とかなるのではないかと二股をかけた。亜衣子と奈津子も明にとっては片想いの二股だった。結局奈津子を選んだことになるが積極的に選んだわけではない。相手のある選択肢の場合は相手に選ばせるというのが明のもう一つの主義だった。

 昨日のレンタカー会社まで、長田のBMWで二十分も掛からなかった。明をそこで落とすと、長田はUターンして去った。レンタカー会社の事務員は、明を覚えていた。

「昨日と同じ車をお願いします」と明が申し込むと「まだ、整備点検していないので」と事務員は渋ったが「そのままでいいです」と明がごり押しをすると、すぐに折れた。明がレンタカーで戻ってくるとBMWは車庫の前に路上駐車していた。長田はガレージに入れるようにとレンタカーを誘導した。明が頭からガレージに突っ込もうとすると長田はそれを制し、バックでいれるように要請した。明がバックで切り返しながら車庫入れすると、シャッターが下ろされ車庫内は真っ暗になった。やがて蛍光灯が点灯された。

「トランクを開けて、こっちに来て」と言う長田の声がした。隣の車庫を見ると、奈津子のスカイラインGTが納まっていた。

「あれっ、永山さんはまだ出社していないんですか」と明は不審そうに長田に聞いた。「今日は、保育園の遠足だそうで、朝早く、二人を保育園まで運んできた」と言いながら長田は母屋に通じるドアを開けて、明を手招きした。レンタカーのトランクを開けて、長田のあとについて行くと、車庫から母屋に続く渡り廊下の先で長田は手術室の観音開きのドアを開け、手術台のかたわらに立った。そこには、緑色の繊維質の袋があり、生身の肉塊が入っているように見えた。

「その足の方を持って」と言う長田の指示に従って二人でその袋を持ち上げた。目検討で四十キロ程度に見えたが腰の辺りでくの字に折れ曲がっているようで持ち運びにくさのせいで五十キロ以上あるように感じられた。前日見た女の子のイメージよりも少し重いように思われた。「なんか少し重いですね」と明は滑りそうになるもち方を変えて感じたままを言った。「今回は腐植土を多めにいれてある」と長田は持ち運びながら言った。重いのは長田も同様であるように見えた。しかし明には昨夜の腐植土の入った寝袋の倍ぐらいの重量がありそうに感じられた。長田が両脇の辺りに手を差し込むような形で後ろ向きに先導し、ガレージ迄二人で袋を運んだ。非力な明の腕力がなくなりかけていた。レンタカーのトランクの中に袋の腰の辺りを先に入れ、足のあたりを折り曲げてトランクを締めた。

「腐植土をたくさん詰めてあるので、袋を開けるとこぼれる。絶対に袋は開けないように。遺棄する場所を教えるので食堂に来て」と言う長田の要請にしたがって、先刻朝食を取ったばかりの、食堂に引き返した。ガレージから母屋に続く細い廊下を行くと、左手に手術室があり、その先に食堂があった。食堂につくと長田は甲信越の道路地図を出し、死体の遺棄先を示した。汚れた食器がまだかたわらのテーブルの上に置かれたままになっていた。「今日は、長野県と新潟県の県境に遺棄してもらう。どこもそうだが、県境というのは行政の公共事業の入りにくいところで。公共事業をやるとなれば、県庁同士の調整が必要だ。お互いの懐具合の問題と落札させる予定の土建業者の問題があるので。だから、人跡未踏の地形が多い。中央高速で松本まで行って、そこから糸魚川街道を北上し、中土で小谷温泉方面へ右折し、その途中で遺棄してもらう。昨日と同じような地形で、同じ交通標識の柱に、墨汁で例のメソポタミア文字が書いてある。昨日書いてきた。雨が降ると消える可能性があるので、そのときは、レンタカーのナビに登録するこの住所を目印にして。多分、夜中であれば通りかかる車もないとは思うが、くれぐれも目撃されないように。何か不都合があった場合は、往きか帰りの山道で脳溢血の頭痛に襲われて、前後不覚になって崖下に転落することになると思う。多分交通事故で処理されるだろう。転落する場所によっては、長い間発見されない、ということもあるかも知れない。あるいは、対向車と正面衝突するか、または、山側の壁面に突っ込んで激突することになるかも知れない」と長田に言われて、盆の窪に埋め込まれた火薬チップを思い出さずにはいられなかった。

「急ぐ必要はない。ゆっくり行って。スピード違反のネズミ捕りに引っかかってトランクを開けられたら君も我々も一貫の終わりだから。制限速度を守って行けば時間的には丁度いいくらいだ。でも帰宅は多分深夜になるだろう。帰宅したときささやかなパーティの準備をして待っている。君が我々の仲間になったことを祝って」と長田が言いかけたとき、

「ゆっくり行って臭いのほうは大丈夫なんですか」と明は気になっていたことを訊いた。

「防臭剤が沢山入っている。一日ぐらいなら大丈夫」

「そうですか、それじゃあ、もう行っていいですか?」と明の方から出発を言い出した。「どうぞ、いってらっしゃい」という長田の声にあわせて明は再び車庫に向かった。レンタカーのエンジンを掛けると、ガレージのシャッターがゆっくりと巻き上げられて、春めいた陽光が差し込んできた。トランクに死体さえなければ、信州へのドライブに心ときめくところだが、明の気分は消沈していた。犯罪者の集団の一員として、もう引き返せないところまで来てしまったという思いが沈鬱な気分を醸成していた。 

高速湾岸線から首都高速に入り、午前中に中央自動車道に入った。一時すぎに、双葉サービスエリアで昼食をとった。トランクに少女の死体があると思うと食欲は進まなかった。昨日の昼間、スポーツセンターから出てきたこまっしゃくれた少女の姿とブルーのトレーニングウエアが頭の中にちらついた。記憶は鮮明だった。昼食後、レストランの椅子に腰掛けて、南條にもらった携帯電話で南條に別れのメールを打つことにした。

@南條警部補殿。僕のせいで署内謹慎の由、申しわけありません。無事定年まで勤め上げ、退職金を満額受領できることを祈念しています。昨夜は大変お手数をおかけいたしました。再びお目にかかることはもうないとは思いますが、安禄山でご馳走していただいたことをこころより感謝いたしております。定年後の生活が安穏であることをお祈り申し上げます。この携帯電話は、明日にでも送付いたします。土岐明@

 送信し終えて、南條に会うことがもうないと観念すると、寂寞とした感情に襲われた。双葉サービスエリアを出たのは二時ごろだった。韮崎、須玉、長坂、小淵沢、諏訪南を通過して、岡谷のインターチェンジには三時前に着いた。春近い日がまだ高かったので、長野自動車道を使わずに一般道を岡谷から塩尻、塩尻北を経て松本に出て、糸魚川街道に入ることにした。曲がりくねった片側一車線の道がフォッサマグナに沿って延々と続いた。運転しながら明は三十年足らずの自分の人生を振り返った。自意識が芽生えたのは中高生あたりからだから、本当の自分の人生と言えるのは十五年程度しかない。その間一体何をしてきたか。したと言えるほどのことをなしえたのか。人生最初の選択は大学受験だった。進路指導教員に有名大学を受験したいと申し出たとき「お前の偏差値で合格するわけがない。身の程を知れ」と言われた。理系に進んだのも、理数系が得意だったからではなく、文科系が不得意だったからという理由だった。人生の選択は常にポジティブチョイスではなく、ネガティブチョイスだった。大学院に進学したのも、就職したくなかったからで、さらに勉強をしたいという理由ではなかった。三流大学の大学院を出たところで、教職の口は母校以外にはなかった。指導教授の岩槻先生は前任校を定年で来た外様だった。政治力がなく、明を後任にねじ込むことはできなかった。その間、多少学会の注目を浴びるような論文を書いたかというと、否定的な答えしか出てこない。つまり明のこれまでの人生はあってもなくても、いいようなものだったと明自身が感じている。かりに今日、脳溢血で死んだとしても、悲嘆にくれるのは母親ぐらいで、兄たちは遺産相続の頭数の減ったことを喜ぶかも知れない。そうでなくても、大学院に進学した弟を誇りに思うどころか、母親のへそくりを食いつぶす穀つぶしとして、うとましくさえ思っている。そう思わせたことには、自分の言動も多少は影響しているかも知れないが、所詮兄弟とはそんなものだと思っている。心の中の強い結びつきなど何もない。母にしても一人息子ではないから、数週間もすれば、忘れるだろう。大学院の博士課程を終えた息子の将来がたいしたこともなさそうだということに最近気付き始めている。恋愛もぎこちない付き合いばかりで、ふられたり、ふったり、気まずくなったりで、いい思い出がない。亜衣子も最初はいい感触だったが、次第に色あせて行った。亜衣子にはのめりこんでいくことに、なんとなく気分がフィットしない違和感があった。奈津子には違和感がなかったが、惹かれているだけに、のめりこんで行って知れば知るほど底知れない恐ろしさを感じる。結局、何ひとつハイライトのないつまらない人生だった。ニールス・ヘンリック・アーベルは二十六歳で肺結核で死んだが、五次以上の方程式は、代数的に解けないことを最初に証明した。代数関数の積分に関するアーベルの定理を確立した。二項定理を無理数や虚数をふくむ場合に拡張した。その赫々たる業績は、アーベル積分、アーベル方程式、アーベル関数、アーベル多様体、アーベル群に燦然と輝いている。数学辞典をひもとけば、アーベルを冠した項目がどっさりと列挙されている。シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは未知の等式を発見した。合計で三千二百五十四個の数学の公式を発見した。三十二歳で肝炎で病死した。エヴァリスト・ガロアはガロア理論を残した。たった二十歳で決闘の負傷がもとで死んだ。人間的にはいろいろ問題があったが、数学関係で名前を見ないことがない。聴覚障害者のジョン・グッドリックは変光星アルゴルの変光のメカニズムを明らかにした。二十二歳で肺炎で死んだ。ヘンリー・モーズリーは元素の特性X線の波長と原子核の電荷の関係をモーズリーの法則に遺した。二十七歳で第一次世界大戦で戦死した。自分はどんな業績を残したか。何もない。怠惰で自堕落な生活を繰り返してきただけだ。レイモン・ラディゲは『肉体の悪魔』と『ドルジェル伯の舞踏会』の文学碑的二作品を遺して、二十歳で死んだ。自分は何を書いたか。何も書いていない。アルチュール・ランボーは十九歳で『地獄の季節』を書いて詩作をやめた。自分は後世に残るべき何をなしたか。何も残していない。吉田松陰は松下村塾で、久坂玄瑞、木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋などの幕末や明治維新に活躍した志士たちを教育した。自分と同年の二十九歳で刑死したが、その遺志を塾生に遺した。自分は教職を希望しながら教育に情熱を持つこともなく、まだ一人の人間も教育していない。天に五体満足の命を与えられながら、これまで無為に生を浪費してきた。いまこういうみじめな境遇にあるのは、与えられた命を粗雑に生きてきたことに対する命を与えた天による復讐なのかも知れない。 

春近い橙色の太陽が山肌にかかりかけた頃、色あせかけた緑の山陰を映す木崎湖が見えて来た。冬の終わりを溢れそうな濃紺色の湖面に映して静かに横たわる姿はなんとも喩えようもなく美しい。静謐の湖畔の空き地に車を停めて湖のたたずまいを眺めているうちに、明は全ての真実を伝えることが、自分のなすべきことではないかと思い始めていた。南條警部補からもらった携帯電話でメールを送信し、全てを告白したらどうなるだろうか。南條警部補は墨田署長に直訴し、謹慎の身を解いてもらい、長野県警に連絡し、自分を逮捕し、同時に舞浜の長田と奈津子を逮捕するだろうか。長田の逮捕のとき、脳内火薬の起爆装置が手元になければ生き延びることができる。そうでなければ、この人生は終焉を迎えるが、どうということのない人生であれば、そのほうが意味のある人生だろう。女を通して遺伝して行く邪悪な遺伝子が明るみに出て、将来の人類の英知がその断絶に立ち向かうだろう。奈津子の家系は途絶えるかも知れないが、少女の邪悪な気質を感受できる能力の科学的な解明が進めば、いずれ邪悪な遺伝子の発見が容易になるかも知れないと思い至った時点で、明は南條に南條から送られた携帯電話でメールを送信することを決意した。

@南條警部補殿。全てを告白します。長田尊広と永山奈津子は少女連続殺人の犯人に間違いありません。小さな火薬が僕の脳内に埋め込まれていて、その起爆装置をかれらに握られているため、今日まで真実を語ることができませんでした。状況は今も変わりませんが、真実のためにリスクを負うことにしました。後のことはお任せします。土岐明@

 とりあえず、そこまで打ち込んで送信した。木崎湖の湖面に冬に別れを告げる冷風が吹き渡り、暮れなずむ陽が若芽が息吹きつつある枯れ枝で綴られた山の稜線にかかり始めた。長田がGPSを見ているとすれば、いま日没を待って時間調整していると思うだろう。メールを読んだ南條警部補は隅田署長に申し出て、舞浜の長田と奈津子を事情聴取するか、逮捕連行するだろう。ついでに長野県警に連絡して、僕の身柄確保を依頼するだろうと想像しながらメールを送信したあと、それを幾度も読み返した。しかし、そのメールで南條が全てを理解できるかどうか、不安になった。追伸メールを送信することにした。

@南條警部補殿。現在、糸魚川・静岡中央構造線上の糸魚川街道の木崎湖のほとりにいます。レンタカーのトランクには少女の遺体があります。これから、小谷温泉方面に糸魚川街道を左折し、昨夜と同様に交通標識の柱に例のメソポタミア文字のある地点で遺体を遺棄する予定です。できれば、遺体を遺棄する前に、遺体遺棄未遂か遺体遺棄幇助で逮捕していただければ幸甚です。長田に渡された携帯電話にGPSが組み込まれ、現在位置を把握されているため、警察に自首することができません。また、携帯電話から十メートル以上離れると、自爆装置が起動するため、携帯電話から離れることもできません。長田か奈津子が持っている起爆装置をかれらから奪取していただければ、僕の命は救われます。少女連続殺人事件の全容解明ができれば、僕の命など、取るに足らないものとは思いますが、なにとぞ、ご高配のほど宜しくお願い申し上げます。土岐明@

 そこまで打ち込んで送信した。しばらく、返信を待っていたが、マナーモードでのメール着信のバイブレーターに着信の振動がなかった。あまり長く停車していると、長田に疑われるかも知れないので、太陽が山の稜線に半分以上隠れたのを合図にレンタカーのエンジンを起動させた。南條からもらった携帯電話は、コンソールボックスに格納した。ナビゲーターは目標までの残りの距離を四十四キロメートルと表示していた。平均時速二十キロとして目標地点に七時前に到着する。山あいだから、到着する前に谷間は闇が支配する。明はゆっくり走行することにした。左手に小さな中綱湖が見えた。その先に大きな青木湖が水を満々とたたえていた。青木湖の東岸を抜け、南神城、神城、飯森、白馬、信濃森上、白馬大池を越え、更に北上すると、フォッサマグナの渓谷の中を148号線と姫川と大糸線が絡み合って並走し始める。短いトンネルを幾度もくぐる。崩れてきそうな崖の横っ腹を街道は蛇行していた。千国、南小谷を経て中土駅前の小谷村営バスの塗装のはがれたバス停でひとまず駐車した。白ペンキのはげかけたバス停の時刻表を車内から見ると、最終のバスは午後7時前だった。死体を遺棄している最中にバスにこられると困るので、少し時間があったが、最終のバスの出るのをバス停の数メートル手前で待つことにした。JR駅前には何もなかった。民家すらぽつん、ぽつんとある程度だった。エンジンを切り、車窓の外に目をやって村営バスを待っていると、携帯電話のマナーモードの振動音がした。音源は胸ポケットの長田からもらった携帯電話ではなかった。コンソールボックスの中の携帯電話が、プラスチックの空洞の中で、振動音を共鳴させながら存在を主張していた。コンソールボックスを開けて、南條からもらった携帯電話からのメールを急いで見た。

@いま、そっちに向かっている。待っていられない事情があるようだから、とりあえず目的地に行け。しかし、絶対に遺棄はするな。南條@

たったそれだけだった。最終バスはほぼ時間通りにやってきた。乗客はほとんどいない。セーターにくるまったバスの運転手はバス停に乗客のいないのを確認し、バス停に停車せずに徐行して行った。明は村営バスにゆっくりとついて行くことにした。左右に枯れ枝の山肌の迫る峡谷に点在する残雪を隠すような夕闇が迫っていた。使い古された村営バスはぼんやりとしたヘッドライトをともして川尻を糸魚川街道から右に折れ、山間の狭隘な登り道に入った。山の稜線に切り取られた空はかろうじて空と分かる開放された闇を保っているものの、太陽は既に山の向こうにあとかたもなく没していた。対向車も追い越す車もなかった。村営バスは自転車程度の速さで、息苦しそうにガードレールのない山道を登って行く。バスに接近しすぎると、退避スペースでバスが追い越しを待つ可能性があるので、十分な車間をとってバスの後方をついて行った。小谷温泉までの白岩、瑞穂、長崎、松本橋、戸石、高地、真木、牧下のバス停で乗り降りする客はいなかった。目的地が近づいてきた。カーナビゲーションがそのことを告げる。村営バスのテールランプを除けば、街路灯も人家の明かりも何もない暗闇の中を、明は交通標識を探しながら登って行った。しかし一方で後方から追いかけてくる車の気配を求めて、幾度もバックミラーをのぞき込んだ。はやく追いついてくれ、南條警部補という思いが明の胸に充満していた。 

小谷温泉の直前の急カーブにその標識はあった。あたりは濃い墨汁の山水画のようで、完全な闇に徐々に近づいていた。村営バスのエンジン音ははるかに遠ざかって、既に聞こえなくなっていた。明はレンタカーを停めて、車外に出て交通標識の柱を見た。山の冷気に身震いした。白い息が靄のように掛かった。例のメソポタミア文字が墨色に描かれていた。その向こうのガードレールの下方にかろうじて見える葉を落としたはだかの樹木の様子を確認した。その交通標識のあたりは、三月にはいってもざらめ雪が点々と残り、崖がえぐれていて谷底が見えなかった。少女の死体を包む寝袋を遺棄しても、コブのように突き出た崖が落下地点を覆い隠し、この道路から発見されることはないように思えた。明がレンタカーに戻り、トランクを開けようとしたとき、人跡のすくない自然の夜のしじまの中で、携帯電話のマナーモードの着信バイブレーター音がかすかに鳴った。一瞬、二つある携帯電話のどちらに着信があったのか分からなかった。胸の携帯電話には振動はなかった。マナーモードにしていないので、胸ポケットにある長田から受取った携帯電話のはずはなかった。その携帯電話を胸ポケットから尻ポケットに入れ直した。コンソールボックスから南條からもらった携帯電話を取り出した。車の外からドアを開け放ったまま、上半身を突っ込んで受信した。「はい、土岐です」としっかりした小声で答えた。

「南條だ。声が小さいな。どうだ、目的地に着いたかな。まだ遺棄していないな」と言う南條の声にかぶさるようにサイレンがふもとの方角からこだますように聞こえてきた。

「はい」と言う声は渇きのせいか極度の緊張のせいか風邪をひいたように掠れていた。

「そのまま、そこで待て」と言って切れた。明は寒気にたえきれず、レンタカーの中に戻った。サイレンは次第に大きくなってきた。ふもとの方から闇の中の樹間越しに、ちらちらと移動するヘッドライトが見えた。サイレンはその動きに少し遅れて聞こえてきた。サイレンの音が盗聴されるだろうとは思ったが尻ポケットの携帯電話をコンソールボックスに格納するだけにした。かわりに南條からもらった携帯電話を胸ポケットに差し込んだ。サイレンがうるさいほどに聞こえた。ヘッドライトがまぶしいほどに明るくなった。パトカーがレンタカーの後ろに停車した。止まるなり、南條の野球帽が飛び出してきた。暗い車内の明を見つけるとレンタカーの窓をノックし、首を突っ込もうとした。明はそれを制し、車から出てフロントドアの前に立った。

「いいか、お前は何も知らないのだぞ。長田に運搬と遺棄を頼まれた。ブツが何かをお前は聞かされていない。いいな」と大声の叫びを押し殺して南條は言い放ち、パトカーに戻りかけた。しかし、県警のパトカーから若い警察官が二人出てくるのを見ると踵を返して、もう一度明に念を押した。「いいな!お前は何も知らないんだぞ」と言い捨てて南條は二人の警官の前に立った。「このトランクの中のものを職務質問して下さい」と南條が言うと片方の制服の警官が明の所にやって来た。「すいません、うしろのトランクを開けてもらえますか」と少し訛りのある間延びした発音で明に要請した。明は運転席に座りなおしヒューズボックスの下のレバーを引いてトランクの錠を解いた。もう一人の頬の蒼い警官がトランクを大きく上げて中を懐中電灯で照らした。その懐中電灯でドアウインドウを軽くノックする。「ちょっと出てもらえますか?外へ」と警官に促されて明はレンタカーの外に出て後ろのトランクに回り込んだ。明を待っていた警官が質問してきた。「長野県警の者ですが、ちょっと、職務質問します。これ。この緑色の袋はなんですか?」

「東京のあるひとから、ここで捨てるように頼まれたもので、中身は何か知りません」と明が答えると、かたわらで腕組をしていた南條が小さくうなずいた。

「この袋、開けていいですか?」と警官が南條と明の顔を交互に見た。

「はい」と明が応じると南條がトランクに野球帽の首を泥鰌のように突っ込んできた。

「それじゃ袋を開けます」と言いながら警官は袋のジッパーを押し下げた。半透明の樹脂ファスナーが左右に分かれてゆく。その内部を警官の懐中電灯の明かりが、揺れながら照らし出す。その警官が小さく、強く叫んだ。明は後頭部に意識を集中させ死を覚悟した。これでいい、なんの後悔もない、どっちにしたって死ぬ運命だと明は幾度も繰り返し、目を閉じた。尻ポケットの携帯電話の中に長田の耳が入っているような錯覚をおぼえた。警官の叫びを聞きつけてパトカー後部座席にいた亜衣子が好奇心に耐えられなくなって外に出てきた。アイボリーのライナーつきジャケットの下にネイビーカラーの厚手のフレアチュニックをまとい、インディゴのスキニーデニムをはいている。警官が袋の中のばらけた腐植土を掻き分けると眠れる森の美女が現れた。その後ろから亜衣子が爪先立ちで覗き込んだ。白い喉元に鬱血したような褐色の痣が二つあった。腐植土の中に垣間見えた白蝋のような死に顔を覗き込んだ明は膝から力が抜けてその場にへなへなとしゃがみこんだ。体中がわなわなと震えて止めようとしても止まらなかった。亜衣子が明と入れ替わってトランクの前に立った。明には亜衣子がここにいる理由を問いただす気力も失せていた。

「永山奈津子じゃないか!」と南條が大声で叫んだ。明に見せまいとしたが、その必要はなかった。明はレンタカーのリアドアにもたれかかり後頭部を両手で押さえ、息を荒げてかがみこんでいた。足の裏から地面の冷気、背中からは車体の冷気が明に伝わった。「いずれにしても長田の身柄確保だ」と言いながら、南條は携帯電話で墨田署に連絡した。かすれかけただみ声が弾んでいた。

「仏を押さえた。永山奈津子だ。いま、小谷温泉の近くだ。けさの手はず通り、死体遺棄容疑で長田尊広の身柄を抑えてくれ。それから、舞浜署に捜査協力依頼して、永山整形クリニックのガサ入れだ。詳細は、追って小谷署から連絡する。それから、大阪府警の小関刑事に、うちの署長か副署長か刑事部長から、長田尊広の自宅フォトスタジオのガサ入れの依頼と、やつの母親とかみさんに、明日いちばんにでも任意同行を求めて、事情聴取を依頼してもらってくれ。こちらからも直接、小関刑事には連絡は入れとくが、よろしく」   

その間、明は頭を抱えてレンタカーの脇にうずくまって硬直していた。目は開けていたが焦点が定まらない。何も見えていない状態だった。かたわらに亜衣子が寄り添っていたがそれさえ気付かない。盆の窪に神経を集中させて、火薬がいつ爆発するか身構えていた。小さな衝撃が後頭部を襲い、血管が破裂して動脈の血液が、ほとばしるように盆の窪の下に広がる。その溢血が神経を圧迫し、激しい頭痛にのたうちまわる。そのうち、意識が遠のいて人生を終える。そういうシナリオを想像しながら、身動きのできない状態でいた。後頭部に意識を集中させればさせるほど、盆の窪のあたりの血流が波打った。心臓の鼓動と同調して、体全体に余震のように脈動を伝播させているのを強く感じた。次第に息苦しさに、呼吸が乱れてきた。いまか、いまかと火薬の破裂を待つ明の肩を南條が叩いた。明はびっくりしてのけぞった。腰を道路に落とし、両手のひらを地面についた。手の平に塵埃と、たまたまそこに捨てられていたタバコの吸殻が、押しつぶされて付着した。

「だいじょうぶ?」と亜衣子が明の肩に軽く手を置いて、心配そうに耳元で声をかけた。「どうやら、大丈夫のようだな。千に三つ程度のリスクはあったが、賭けに勝った。飯田橋から引っ越したばかりの警察病院の若い脳外科医の言ったことは、確かだったようだ。まあ、詳しいことは、ふもとの小谷署の取調べのあとで、ゆっくりお前に話してやろう」と言いながら、南條は亜衣子とともに明の肩を抱きかかえて、パトカーに押し込んだ。運転席では、警察官が小谷署の一課に署活系無線で応援を依頼し、状況を説明していた。もう一人の警官は、現場維持のためにレンターカーの周りに黄色い捜査線をテープで張り始めていた。それを眺めながら「これだから初動捜査が遅れるんだ」と南條はうそぶいた。


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