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Nの復讐  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

さすが岩槻先生だった。今後の身の振り方についての面倒見の悪さについては少し気になったが明は今更ながら岩槻先生の該博に感服した。早速楔文字のサイトを開けてみた。携帯画面が小さいので少し見づらい。アルファベットとの対応表が載っていた。ペルシャ楔文字一覧のサイトを見ると串刺しのおでんや尖ったブーメランを組み合わせたような紋様のような文字が並んでいた。アルファベットの小文字と大文字に対応する文字があった。かなり複雑な形になっていた。aからZまで見てみたが、南條が手帳にメモ書きした図案の記憶に一致するものはなかった。次にメソポタミア楔文字一覧を見てみた。こちらはペルシャ楔文字よりはかなりシンプルだった。aから順に確認して行き、jに至って思わず息を呑んだ。南條の手帳のメモ書きの記憶にぴったり一致した。上を三角形の長辺、下を三角形の鈍角の頂点にした文様が三個つながり、一番下の三角形の鈍角の頂点から真下に棒が伸びている。しかしその四つ先のnのところにも全く同じ文字があった。ただしこちらは横向きだった。どう違うのかと明が呟いているところに南條が店に入ってきた。

「すまん、すまん、だいぶ待たせたかな」と眉を八の字にしてなさけないような本当にすまなそうな顔をしている。タコに似ている。南條が明の前に腰掛け、お絞りで無精ひげの顔をごしごしと拭き終えたところに明は携帯電話のWEB画面を突き出した。南條の手の動きがあごの辺りでぴたりと停止した。南條はその画面を食い入るように注視したが、一瞬意味がわからないような表情をして、首を捻った。明がバッジというキーワードを言うと、南條の表情が険しく変わった。南條はジャケットの内ポケットから市販の手帳を取り出すと、メモのページを開き、明の携帯携帯を受け取り、両者を見比べた。

「確かに同じだ。お前は天才か!」と明をおだてる南條に、老婆が注文を取りに来た。南條はうるさそうに「生ビールとおまかせ三千円」と言い放った。注文を受けた主人の威勢のいい声がカウンターの中から聞こえてきた。「ちょっと説明してくれ」と言いながら南條は黒いボールペンを取り出してその頭を親指でカチッとノックした。

「あのバッジの模様はペルシャ文字のnかjなんです」

「nかj?どっちなんだ」と南條はメモを取りながら低い声で怒鳴った。

「串刺しが立っていればn、寝ていればjです」

「まてよ、バッジは丸いから、立てれば立つし、寝せれば寝るぞ」と言いながら、南條は白髪まじりの無精ひげでざらついた頬を手のひらで撫でる。

「どういうバッジなんですか?ピン止めですか?ねじ止めですか?ねじ止めだと回転するから上も下もないけどピン止めなら普通ピンを横に止めるから上下が分かるでしょう?」と明が指摘すると、南條は目を泳がせ思い出すようにしてバッジのオスとメスを両手の親指と人差し指に挟み右手の指を回転させる仕草をした。「止めるところは壊れていたんだ。焼き物だからな。でも、雰囲気としてはこんな感じだから、ということは、ねじ止めか」

「それじゃあnかjかどっちかわからないですね。だけどねじ止めで焼き物のバッジというのは見たことがないですけどね」

「そうだけど今日見た運転手のバッジはどうついてた?」

今度は明が思い出す番だった。歩きながら運転手の右隣りから、横をのぞき込むようにしてちらりと見た瞬間、首を少し斜めにしたせいなのか、串刺しは縦向きでも、横向きでもなく、斜めであったような気がした。自己紹介して、後部座席から改めて斜め正面からまじまじと見たときも斜めであったような気がした。

「斜めだったような気がするんですが、ねじ止めのバッジなら締め方次第で斜めになることもあるでしょうね。いや、そもそも傾きはどうでもいいのかも。あるいはペルシャ文字のnとjに似ているのは偶然で、全く違う意味なのかも。それにちらりと見ただけなので、正確にこれと同じであったかどうか、確信がもてません」そこに生ビールが来た。南條が凄むようにささやいた。「おい、振り出しに戻すなよ。他になんかねえのか」

「先に進めます。楔文字は粘土板に刻まれて、重要な文書は焼かれて保存されたそうです」

「現場に落ちてたバッジも焼き物だった。ということはねじ止めのオスのほうを抜けたり、ぐらぐらしないように粘土に差し込んで焼いたという訳か。その部分が壊れたということか。壊れやすいだろうな。少しはこれで前進したな。あとはその運転手だ。何の運転手だ」

「TDLの渉外係の人を運んでいた人で、長田とか言う人で、顔は四角くて目がギョロ目で、男の癖に上の眉毛も下の睫毛も異様に長かった。車はなにわナンバーのBMWで」

と言いながら、明は携帯電話を取り出し、車の中で盗撮した長田の写真を南條に見せた。「これが、その運転手なんですが見覚えありますか?」

「なんだ映りが悪いな。性別程度しかわからんじゃないか。でもまあ、ねえよりはいいか。なんとなく、どこかで見たような気がしないでもないが。でも知らねえな。弁当箱みたいな四角い顔にげじげじ眉か。犯罪者の顔写真はこれまで何千、何万枚と見てるかんな」と言いながら携帯電話の写真を遠ざけたり近づけたりして顔を顰めてためつすがめつしてみている。そのうち諦めて携帯電話を明に返した。「とりあえず、俺の携帯に転送してくれ」

「すんません。盗撮したもんで。すぐに、転送します」と明は言われた通り、南條のアドレスに運転手の写真を転送した。

「そいつに連絡取れるか?」

「ええ、名刺があります」と言いながら明は薄い財布から永山奈津子の名刺を出した。

「なんだ、女の運転手か?おかまみたいなとんでもない女だな」

「いえ彼女がTDLの渉外係なんです」

「じゃその運転手は渉外部つきの運転手ということか?」

「さあ?彼女は遠い親戚だとか言ってましたが」

「なんだお前、しっかりせい。もし、お前らの仮説が正しいとしたら、これは大ヤマなんだぞ。この名刺もらっとくぞ」と言いながら、南條はその名刺を手帳に挟み込んだ。明はあげるには少し惜しいような気がした。奈津子のにおいが染み込んでいるのだ。

「すんません。東京駅に着くまでバッジのことは、からっきし気がつかなかったもんで。それに現物を見てないもんで、同じものかどうか確信も持てないし」

「まあ、お前を責めてもしょうがない。まず身辺調査を先にやってからでないと、逃げられるかも知れんな。さて、どうすっか?」と言いながら南條は毛むくじゃらの腕を組み始めた。そこにお通しが二つ出てきた。金曜日の夜にもかかわらず、時間のまだ早いせいか、二人の他に客はまだ来ていなかった。明が思い出したように南條に聞いた。

「でも、バッジのことを慶子の母親に聞いてましたよね。一緒に慶子の家に行った日に。なんで、聞いたんですか?」

「勘だ。聞いた瞬間、母親の瞳孔がピッと動いた。見覚えがあるという心からの信号だ」「へーっ、そんなこと分かるんですか。気がつかなかったなあ」

「職務質問を十年もやっていれば、目の動きで嘘か本当かすぐわかる。嘘発見器なんぞ必要ねえ。お前は能美亜衣子が好きだろう」と南條に言われて明は返答につまった。

「分かった。お前はあの子が好きなんだ」と南條に見透かされて明は少しむくれた。

二人の会話が途切れたところで、いがぐり頭の主人が自家製のなま湯葉を自ら持ってカウンターの外に出てきた。「毎度、警部。さっきからペルシャがどうの、メソポタミアがどうのって、耳にはいちゃいましたが、考古学の話題ですか?」

「警部じゃねえの、警部補」と南條が訂正した。

「警部でいいじゃないですか。もうすぐ定年なんでしょ」

「俺は警部補であることを誇りにしてる。警部昇格への昇任試験を拒否し、内勤を希望せず、試験勉強もせず、上司に媚びへつらわず、出世のための仕事はこれっぽっちもしてこなかったというノンキャリの勲章なんだから。訓告、懲戒、厳重注意、減俸処分、数知れずだ。現場をなんにも知らない青っちょろいキャリアはいきなり警部補だ。馬鹿らしくて警部補だってなるつもりはなかったんだ。上司に『下がつっかえているから、昇任試験を受けてくれ』と懇願されて人助けでいやいやなったようなもんだ。生涯一警察官で良かったんだ。人を管理するなんておこがましい。人間はみんなフラットだ。上も下もねえ」と言う南條の話を聞いて、明には初めて行ったときの墨田署の受付の婦警の含み笑いの意味がなんとなく分かったような気がした。

「まあまあ、で、今の話は、考古学の」と主人はなだめるように聞きなおした。

「俺がそんな酔狂に見えるか?」と言いながら南條は野球帽をかぶりなおす。

「うちの店名の安禄山、外のちょうちんに書いてあるでしょ。名前は楊貴妃とのからみで聞いたことがあると言うんですが誰に聞いても中国人だと言うのが百パーセントで」

「えっ!中国人じゃないの?」と明が目を丸くして素っ頓狂な声をあげた。

「トルコ系なんですよ」と主人が嬉しそうに揉み手をしながら言う。

「知らなかった。センター試験で世界史を受けなくて良かった」と明が胸をなでおろす。

「なこたあ、どうでもいい。要はその運転手の素性だ」という南條の剣幕で主人は黄ばんだ前掛けを締め直して、カウンターの奥に戻って行った。

「なんなら僕が調べてみましょうか。年間パスポートももらったことだし」と明が小さな封筒の中から年間パスポートを取り出すと南條はそれを手にとってしげしげとながめた。

「お前さんにお願いできれば何の問題もないんだが、こちとら他の事案の整理で手一杯だ」

「南條さんの言われるとおりにすれば問題はないんでは」

「そうもいかない。民間人にまかせてドジを踏んだら、マスコミにいいように叩かれる。まあマスコミも本当はどうでもいいんだが、民間人を利用するのは俺の主義に反する」

「それじゃ、こうしませんか?僕は僕のほうの調査で運転手の素性を勝手に調べます。だから、墨田署とは無関係。そこで、警部補の方からアドバイスをもらえませんか?その見返りとして何か分かったら連絡します」

「あんまり気は進まないが、人手もないし、予算もないし。しかし、これはあくまでも非公式だ。だから、お前にお願いするとは絶対に言わねえ。邪魔もして欲しくねえから、何をするか、必ず事前に言ってくれっか?」

「結構ですよ。でもこちらからもお願いが。例の証拠のバッジのデジカメ写真お前ルで送信してもらえないですか?例の運転手のと同じものかどうか、確認したいんです」

「それはたやすいことだ。それはそれとして例のねえちゃんはどうしたの。ああいうのを小股の切れ上がったいい女っていうんだよ。昔は向島や柳橋あたりに結構いたもんだが。最近はしょんべん芸者ばかりで」

「小またってどこ?コマネチですか?」と言いながら明は両手でハイレグの仕草をした。

「そういうことを聞くな。そんなことより、お前らの仲はどうなってんだ。進展しているのか、後戻りしているのか。石屋の引越しじゃないのか?」

「なんです?石屋の引越しって」

「石屋が引越しすれば、石が『おもい、おもい』って言うだろう?相思相愛ってえこった」

「なんだ、判じ物みたいですね。どうにもなっていません。担当者とアシスタントというだけの関係です。不即不離というところでしょうか」

「まあいいや。生ビールと三千円分の料理をおごるから、しっかり連絡してくれ」

 あとは南條の身の上話だった。南條が妻子に逃げられて東向島あたりの安アパートで一人住まいで、朝食抜きで、自炊は面倒だから昼食はコンビニ弁当で、夕食はいつも安禄山で済ませていること、自炊しないから冷蔵庫はカラで、小物入れになっていることなど、明にはあまり興味がなかったので聞き流していた。

「若い頃俺は人の心について不可知論の立場を取っちまった。今思えばこれが人生最大の過ちだった。人の心は計り知れない。だから忖度しても仕方がないと短絡した。人間関係でこれがどう作用したかというと、南條は思いやりがないとか、言いたいことを言うとか、心配りがないとか、気遣いがないとか、気配りがないとか、口が悪いとか、そんな人物評価を固定化させちまった。つまり俺とかかわる人間が俺と一緒にいたり、話をしたりしても心和むとか、心安らぐとか、癒しを感じるとかがなければ当然敬遠の対象やいとわしい対象となる。それに薄々感づいてはいたが若い頃はそれをへとも思わなかった。傲慢とか、驕慢とか、尊大とか、若気の至りとかいうものかな。何様ってえ奴だ。そのうち分かってはいても修正がきかなくなった。こちらが修正しようとしても相手が昔のイメージで相対するから思うように行かない。しかしこの商売ではこういう対人関係の距離のとり方というのはいい面もあるのだ。例えば害者やホシに過度に感情移入しないんで見落としが少ないとか、勘が鈍らないとか。しかし身内にこれをやったら逆効果だ。妻も子も俺に愛想を尽かしちまった。確かに人の心は分からない。しかし分かろうとしようとする行為そのものに意味がある。相手は分かろうと努力していることは分かるのだ。たとえ、わからないとしてもだ。それに三十年近くも気付かなかった。愚かなことだ」と南條は話しながら目をとろんとさせ次第に呂律が回らなくなっていった。「若い頃はそうでもなかったが、この年になると人間関係の齟齬が身に堪える。心の耐久力がなくなったのか、心の筋肉が衰えたのか、良く分からねえが夜になると心の癒しを求めている。後悔と反省ばかりだ。かと言って酌婦は嫌いだし、カネもねえから、ここのばあさんで我慢しているがこのまま定年を迎え、このまま人生を終えると思うと寂しい限りだ」と南條は一人でしんみりしている。かと思えば「いまの俺の仕事はなさけない。おみやさんの資料整理や事件性のない事故の検証ばかりだ。アメリカじゃ、お宮入りをコールド・ケースと言うそうだ。確かにもうすぐ定年だから中途半端で、時間のかかりそうな事案を任せられないという上の考えは、分からんでもない。しかし、なんで刑事生活三十年を越える経験と知識を活用しねえんだ。いくらでも利用できるはずだ。なんも知らねえ若い連中が、無手勝流で無駄なことばっかしやってる。なんで俺のアドバイスを封じるんだ。ああ、胃がキリキリと痛くなってくる。ピロリ菌が暴れまわっていやがる」と白髪混じりの鼻毛を引き抜きながら嘆いたりもした。

おまかせの料理を食べつくしたころ、店内がサラリーマンと地元の連中でごった返してきた。潮時と見て南條が老婆におあいそを促した。明は少し先に店の外に出ていた。悪寒の走るような乾燥しきった夜気が明を包んだ。南條が出てくると「ごちそうさま。パスポートがあるんでさっそく明日行ってみます」と何かの役に立てるつもりで言った。

「まあ待て、身辺調査が先だ。本人に気取られたら元も子もない」

「はい!」と素直に明は直立して答えた。

「返事だけは立派だ。これは間違いなく事件だ。俺は定年最後のヤマにしたい。俺の刑事生活三十有余年の総決算だ。どうせもう先がないんだから、多少のルール違反はあえておかす。お前もそのつもりでやってくれ。カラ出張で溜め込んだ裏金を使いまくってやるぞ」

 

翌日の土曜日の早朝、明の携帯電話にベートーベンの運命のメールの着信音が鳴った。枕元の携帯電話を開けて見ると南條からだった。件名に@バッジ@とだけあって、添付ファイルに写真があった。短いメッセージもあった。

@写真を添付する。バッジの現物は鑑識に回っている。鑑識も立て込んでいて、緊急性がないということで後回しにされそうだ。署内での俺のポジションは脆弱だ。せっついてはいるが、時間が掛かりそうだ。鑑識の結果はわかり次第、いずれ教えてやろう。南條@

写真を開くとバッジが映っていた。まさしく、黒地に金文字はメソポタミア文字だった。もう一枚はその裏の写真で中央部分が抉れたように欠けていた。明はそのバッジの写真と長田の盗撮写真を添付して亜衣子のパソコンのメールアドレスに転送することにした。亜衣子はまだ明に携帯メールアドレスを教えていなかった。明はメールを打ち込んだ。

@能美様。例のバッジの写真と多分この写真と同じバッジをつけていた、どこで会ったかどうしても思い出せない男の写真を添付します。映りも悪いし、画素も少ないので、見づらいとは思いますが、何か思い当たることがあったら、ご連絡下さい。土岐明@

 明は、その週末と翌日の日曜日はいつものように、いつまでたっても慣れない家事に明け暮れた。テレビを見聞きしながらいやいややるので、掃除にしても洗濯にしても仕上がりがかんばしくない。そういうことをあまり気にしない性格が一人身の生活を長引かせていたのかも知れない。日曜日の夕方、亜衣子から携帯電話に着信があった。モーツアルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークが流れた。

「写真ありがとう。パソコンで拡大してみたけど、画素が少ないんで、不鮮明だったわ」「ごめん、僕の携帯電話、安売りで買ったもんだから」

「ううん。でも、私のビデオ・アイには十分な映像だったわ。写真の男はたしか、町屋の斎場の受付にいたわ。しかも、襟穴にバッジをつけて」

「えーっ!あの町屋の平野慶子の葬儀会場の受付にいたの!すごーい!良く分かったね」「だから、ビデオ・アイ子と呼ばれているって言ったでしょ」

「でも、そのとき本当にあのバッジをつけていたの?」

「まちがいないと思うわ。ピカピカしていたもの。模様までは確認できなかったけど。葬式にひかりものはいけないのよ。だから、宝飾は真珠に決まっているでしょ」

「僕はそうそうにあの会場の前を立ち去ったけど、そういえばじろじろ見ていたもんね」

「ビデオ・アイはじろじろ見るのがこつよ。だから、向こうもこっちをじろじろ見ているはず。でも、それを記憶しているかどうかが、ビデオ・アイかどうかの分かれ目ね」

「でも、なんで、運転手が、平野慶子の葬儀会場の受付にいたんだろう?」

「運転手ってなに?」

「話すと長くなるんで、月曜日に研究所で説明するよ」と言って明は携帯電話を切った。さっそく、南條にメールでこの事実を伝えた。

@南條警部補殿。大発見です。舞浜の運転手は火曜の町屋斎場の平野慶子の葬儀で受付をやっていました。しかも、例のバッジを襟穴につけていたそうです。平野慶子の遺族に受付をやっていた運転手は何者なのか、確認する必要があるかと思います。土岐明@

 

二月最後の月曜日の朝、南條は刑事が全員出払った部屋で平野慶子の遺族宅に電話した。例の中年女が出てきた。

「はい、平野です」という寝ぼけたような物憂げな声が返ってきた。

「あ、墨田署の南條です。先日はどうも、失礼しました。早朝から申しわけありません。ちょっと、お訊ねしたいことがあって電話しました。実は、先だっての火曜日のお嬢さんの葬儀で受付をしていた男のことなんですが」

「町屋斎場の、ですか」と声はまだ布団の中を夢遊しているようで、覚醒していなかった。「町会から来た人です。初めてあった人です」と言う声音に酒臭さが臭ってくるようで、それがなんですかと言いたげな余韻があった。

「どういう人なんですかね。名前は分かりませんかね」

「さあ、葬儀のあとの精進落としにも来なかったし。町会の方に聞いて貰えますか?」とそっけない返事をして、電話が一方的に切れた。仕方なく南條はインターネットで電話番号を調べて、町会の会館の方に電話してみた。当番の女らしいのが出てきた。

「墨田署の者ですが、先日の平野鉄工所のお嬢さんの葬儀のことでお聞きしたいんですが」

「私は何も知らないんで町会長のお宅に電話してもらえますか?」と言うなり、事務的に電話番号を読み上げた。南條はそれをメモし、復唱もせずにそこに電話を掛け直した。老婆のしゃきっとした江戸弁の声が出てきた。

「こちら、墨田署の南條という者ですが、町会長さんはご在宅ですか?」

「はい、少々お待ち下さいよ」

ややあって、様子をうかがうような老齢の鼻声が出てきた。「はい、山崎です」と二日酔いのような、思考のピントが合っていないような声だった。

「町会長さんですか。墨田署の南條といいますが、先だっての平野鉄工所のお嬢さんの葬儀のことで、ちょっとお尋ねしたいことがあって」

「はい、なんですか」と背筋を少し伸ばしたようなトーンに声が変わった。

「当日、町屋の斎場で受付をやっていた男のことなんですが、名前は分かるでしょうか?」「平野さんの親戚の方だと思うんで、平野さんに聞いてもらえますか。香典詐欺ですか?」

「いえ、いえ、町会の人でないというのならいいんです。平野さんに聞いてみます。朝早くからお邪魔しました」と電話を切ってから南條は少し考えた。どっちかが嘘をついてる、町会長に嘘をつく理由が見当たらないから嘘をついているとしたら平野慶子の遺族の方か?いや、運転手が両方に嘘をついたのかも知れない。なぜ葬儀の受付なんかやっていたのか?本当にそうなのか?能美亜衣子の証言は信頼に足るものか?どちらにしても、運転手をマークしなければならないと南條は思った。

昼ごろになって、南條は墨田署でコンビニの一番安い海苔弁当を食べ終えてから、奈津子の名刺の電話番号に掛けてみた。「永山奈津子さんはおられますか」

「はい、私です」と言う即答に、本人が出てしまったかと南條は音を出さずに舌打ちした。「こちら、先日テレビのワイドショウで女の子の自殺とお宅のテーマパークの関係について見た者ですが、それについて是非聞いていただきたい重要な情報があるんですが、お会いできないでしょうか?」

「どんな情報でしょうか?」

「それは、込みいっているんで、お会いしてから」

「そうですか。いま、どちらですか?」と言う奈津子の落ち着き払った問いかけがあった。「いま、ランドのゲートの前にいます」

「すぐまいりますので、そこでお待ちいただけますか。あ、お名前をいただけますか」

「住田と言います」

「スミタさまですね。失礼ですがどんな服を着ておられますか?」

「ブルーのダウンコートを着ています」

「分かりました。すぐ伺います」という電話が切れて3分程して南條は同じ番号にかけた。呼び出し音が五回して女が出た。「渉外係です」と文言は同じだが奈津子の声ではなかった。

「永山奈津子さんおられますか?」

「今、席をはずしております」という返答に、はずさせたのは俺だと南條はほくそえんだ。

「ちょっとお話をしたいことがあるんですが、今日は何時ごろ退社ですか?」

「今日は彼女早番なので、三時の予定になっています」

「帰りの足はなんですか?」

「車です」

「BMWですか?」

「いいえ、スカイラインGTです」と聞いて南條は一瞬眉根に縦皺を寄せた。じゃあBMWは誰の車だと疑問を抱きつつ電話の向こうの女に鎌をかけた。「ボディは白でしたっけ」

「いいえ、シルバーです」

「そうですか。伝言を願えませんか?今日、この時間にゲート前でお会いする約束をしたんですが、急に所用ができていけなくなったので、すぐ連絡してもらえないですか?」

「はい、承知しました。で、お名前は」

「住田といいます」

 午後一時を過ぎると昼食を終えた南條はタバコで一服しながら明の携帯電話に掛けた。「南條だけど、いま、統計研究所?抜けられるかな?」

「多分大丈夫だと思いますが、一応深野さんの許可を得てからでないと」

「まあ、そうだろう。じゃ、許可を取ってくれ。署に二時ごろまでに来てくれ」と用件だけを言って南條の携帯電話は切れた。明はすぐ、深野の机の前に行った。「午前中に報告したTDLの風評被害の件で、墨田署の南條刑事が今日これから相談にのってくれるというので、これから早退したいのですが」

「そう。まあ、それも業務の一環と言えないこともないな。南條さんによろしく」と深野は元気なく言う。マスコミの忘却はあまりにも早かった。深野は忘れ去られていた。ネタを出し続けないと、マスコミは忘れ去るものだと深野は知った。

 明は深野の許可を得たあと、亜衣子に早退を告げて、すぐ墨田署に向かった。

明が墨田署に到着したのは二時少し過ぎだった。建物の中に入って受付で南條を呼び出そうとしたら、薄暗い階段を膝のぬけたよれよれズボンのがに股が下りてきた。

「よし、行こう」と南條は行き先も言わずに署の建物を出た。

「どこへ行くんですか」と明はさすがに訊ねずにはいられなかった。

「この通りの裏の駐車場だ」とぶっきらぼうに言う南條の早足について行くと署の裏手に五台ばかり駐車できるスペースがあり年季の入った赤い軽自動車が一台だけ駐車していた。

「乗れ」と言う南條の指示に従って乗り込んだが窮屈だった。助手席を目いっぱい後ろに引いても、膝が少しつかえた。

「こんなのを警察は使っているんですか。軽じゃ暴走族に簡単にまかれちゃうでしょ」

「こんなんで悪かったな。これは私物だ。ガソリンは公費だが」という南條の言葉で明は口をつぐんだ。車が走り出すとゴーカート程ではないが目線が低く、大型車にはない走行しているという臨場感があった。明はしばらく黙っていたが「永山奈津子はBMWを使ってない。彼女の通勤車はシルバーのスカイラインGTだ」と言う南條の話しかけには答えた。「じゃ運転していた男は運転手でなくて自分の車に乗っていたということですか」

「そうかも知らんが、ものを調べるときは決めつけてはいけない。決めつけると大体見落とすことになる」と南條は明をたしなめた。

車は路面の凹凸をそのまま座席に伝えて、錦糸町方面に南下し始めた。

「大体勤務地が千葉で、なにわナンバーということはないだろう。BMWは最近こっちに誰かが乗ってきたもんだろう。その誰かってえのは、お前さんの言う運転手かもしれねえ。それにしてもその運転手が平野慶子の町屋の葬儀で受付に座っていたというのは確かか」

「ビデオ・アイ子がそう言ってました」

「びでおあいこ?誰だ、それ」

「あ、能美亜衣子のニックネームです。彼女、見た映像の記憶力が超人的で、いくらでも再生可能だと自慢しているんです。その彼女が町屋の斎場で受付の男を見ているんです。あれだけじっとみていれば記憶できても不思議ではないと思いますが。僕は人見知りだから彼女みたいにアカの他人をじっとみつめることはできないですね。で、先週、BMWに乗ったとき後部座席から運転手の顔をバックミラー越しに携帯で隠し撮りした写真を、彼女に例のバッジと一緒に転送したんです。そしたら、男もバッジも町屋の斎場で見たって」

「それはお前からのメールで見たが、本当かいな?にわかには信じがたいな。思い込みじゃないのか?チラッと見ただけだろう?写真の方もかろうじて男だと分かる程度だろ」

「でも彼女は自信たっぷりに間違いないって言ってました」

「証言の確かさってえのは裁判官が判断するんだ。たった一度ちらっと見ただけの男と、映りの悪い携帯写真の男が同一人物だという証言を裁判官が採用するかどうかの問題だ」

「でも、彼女が嘘をついているとは思えないなあ」

「お前の気をひこうとしているのかも知れねえぞ」

「まさか」

「男と女はまさかばかりだ。それで男女は成り立っている。ただ、葬儀の受付にいた男については遺族も町会長も知らないと言っている。もっとも、みんなが本当のことを言っていればの話しだが」と言う結論めいた南條の一言で、明は黙ってしまった。

亜衣子の主張は嘘ではないとしても、女性特有の思い込みかも知れない。本人はそれが真実だと思い込んでいるから、証言に嘘はない。しかし、客観的に真実であるかどうかは別問題だ。そうであるとすれば、亜衣子の話は自分の存在感を増そうと意図したガセネタかも知れないということになる。

「でこれからTDLに向かうんですか?何分位かかるんですか?」

「まあ小1時間とはかからないな」

「で、僕は何をするんですか?」

「俺と同じこと」

「運転ですか?いま免許証持ってないですよ」

「バカ、二人で運転できるか。ハンドルは1個しかない。永山奈津子の尾行だ」

「だって、自宅なんかTDLに電話して聞けばすぐ分かるでしょ」

「だから藤四郎は困る。警察だと言えば確かに容易に聞き出せるが、聞かれたことを本人が知ったら証拠隠滅をはかるだろ。そうでなくっても貴重な情報が入手できなくなる可能性がある。上質の情報は手間暇かけなければ手に入らないんだ。料理と同じだ。安禄山がなぜはやっているか分かるか?」

「いえ上質の情報となんか関係があるんすか?」

「安禄山の斜め向かいに、石狩という居酒屋がある。こっちはぜんぜんはやっていない。混雑をいとう酔客だけが石狩に行く。なぜだか分かるか?」

「なんか、関係があるんすか?」と言う察しの悪い明に対して苛立って、南條がため息を吐くようにして言う。「安禄山の大将は毎早朝、築地の魚河岸に通い、昼過ぎから仕込みを始める。だから店そのものは五、六時間程度しか開いていないが実労働は十時間以上だ。だから安くてうまいもんが出せるんだ。それに対して石狩のマスターは昼間は浅草のお釜の連中と墨田公園でテニスをやっている。全く仕込みに時間をかけてねえんだ。実際、近所のスーパーで惣菜や魚や肉の特売があると石狩のかみさんとよく出くわすことがある」

「だから、いい情報をとるためには、仕込みに時間をかけろということですか」と明は持って回った言い方に、少しまだるっこしさを感じて言った。

「まあ、そういうこった。それに永山奈津子が自宅に帰るとは限らん」

「でもそれだけなら、僕はいらないでしょ」

「捜査は二人一組が原則だ。そうでないと、トイレにも行けない」

「だって、僕は民間人でしょ」

「それを言うな。おれも切ないんだ。数週間で定年なもんで、まっとうな捜査をやらせてもらえない。部下もつけてもらえない。いまは資料の整理だ。あとは刃傷沙汰のドメスティックバイオレンスとか、自転車の盗難の累犯とか、出会い喫茶の黒幕の張り込みとか、どうでもいいようなこまごました事案の担当と書類の整理。お前ラインからはずされて暇だろうってんで便利屋みたいに交通や生活安全のお手伝いに借りだされることもある。まあ、定年途中で事案を引き継がせる不都合も分からんでもないが定年間際にはまともな事案は担当させないというお偉いさんのありがたい配慮だ。いまこうしているのも極秘だ。俺の勝手な行動は、前の署から札つきで墨田署にも知れ渡っている。万年警部補なんてのは、まがい物の骨董品扱いだ。価値もありそうもないし、誰も値踏みができない。どうせもう定年で、先がないから、お互いに深く関わらずに、勝手にするのが一番だ」と南條の繰り返しのぼやきが始まった頃、TDLの駐車場に到着した。

駐車場の係員を探して従業員専用の駐車場を聞き出し、そのブロックに辿り着いた頃にちょうど三時になっていた。

「永山奈津子は今日は早番で三時退社だそうだ。駐車場をぐるっと一回りするから、シルバーのスカイラインGTを探せ」と南條に言われて明はスカイラインのエンブレムを探し求めた。半周したところで、駐車場の中央あたりにシルバーメタリックのスカイラインGTが見つかった。うっかり見落としそうなほど年季の入った古い型式だった。

「ありました」と明は声をあげた。すると、南條は「他にないか?もう一回りしよう」と元の位置に戻った。もう一回りしてもシルバーメタリックのスカイラインGTは一台しか見当たらなかった。あとで見失わないようにとりあえず登録ナンバーの3411を記憶した。南條はその車がかろうじて見える駐車場の端に赤い軽自動車を止めた。「陸運で確認しておこう」と言いながら南條は携帯電話で墨田署の交通課を呼び出した。ナンバーを告げ、車籍照会を依頼した。明は登録番号の全てを覚え切れなかったので、瞬時にナンバーを記憶した南條の職業技能にいまさらながら感心した。

「これが私用車のつらいところだ。覆面ならナビとパソコンが一体になっていて、陸運のデータベースにすぐアクセスできる。車籍照会なんか、あっと言う間だ。こんな面倒な手順を踏まなくてすむ。でもまあ、デカになりたての頃と比べれば格段の進歩だ」と言っている間に、南條の携帯電話がなった。南條は携帯電話で所有者の住所を聞きながら「おい、永山奈津子の住所を言うからカーナビにいれてくれ」と明に命令した。明は言われるままに、南條が復唱する住所を登録し、登録名を永山奈津子と入力した。

「一の四十一の三か。とりあえずこれからの行き先をそこにセットしといてくれ」と南條が言い終えたところに見覚えのあるクリーミーローズのプリンセスワンピースの奈津子が緋色のフェルトガウンを羽織って駐車場の入口からスカイランGTに向かって歩いてきた。「あれが永山奈津子か。ほう、むしゃぶりつきたくなるような美人だな。お前、あんな美人と間近で風評被害の交渉をしたのか」と南條は思わず卑猥にうなるように言った。

奈津子のスカイランGTは加速も滑らかに猛々しい排気音とともに駐車場を出て行った。南條の軽自動車はあえぐばかりで、加速がままならず、駐車場から離される一方だった。広大な駐車場を出る頃には奈津子のスカイラインGTは見えなくなっていた。

「やっぱ、軽じゃ尾行は無理ですね」と明は感じたままに嘆息した。

「だから住所を入れといたんだ。ここから一里もないだろう?」と南條に焦る様子はない。「どうせ、まかれたから急ぐ必要はない」と南條はマニュアルの赤い軽自動車をゆっくりと走らせた。エンジン音にカラカラという夾雑音が混じっていた。カーナビゲーションの指示にしたがって、運河沿いに東京湾方面から北上して行くと、埋め立て地の殺風景な道路沿いに、永山整形クリニックというピンク地に白抜きの看板が見えてきた。そこでカーナビはナビゲーションをやめた。

「あれかァー。あの女、整形もやってんのか?まさか、二足のワラジじゃねえだろうな」「勤め人でそれはむりでしょう。それにしてもこんな交通の便の悪いところで商売がなりたつのかな?彼女の身内がやってんですかね」と明が言うほど、周囲に住宅が見当たらなかった。一番近い建物は数台の中型トラックが駐車している倉庫だった。電信柱の住所表示の番地を見ると1―41―3となっていた。一丁目四十一番地三号かと明は呟いた。

南條は、そのブロックをとろとろと一回りし、永山整形クリニックの車庫のグレーのシャッターが、かろうじて見える三十メートルばかり離れた倉庫の前に軽自動車を止めた。身を隠すような障害物が一切ない町並みだった。張り込みとばれそうな位置関係だった。「あの車庫ずいぶん大きいな」と南條が言うので、明は相槌を打った。「言われてみれば、そうですね。シャッターの幅が2台分ぐらいありそうですね」

「いや、2台分だ。シャッターが分かれている。同じ色だが、右のシャッターの方が少し新しい。真ん中に一本、支柱が入っているだろう」と南條に言われて良く見ると確かにそうだった。そのとき、シャッターのひとつが巻き上げられて、明の見覚えのあるBMWが出てきた。出てきてから一旦停止し、助手席の窓から奈津子がリモコンをシャッターに向けた。シャッターが巻き戻って、閉まり始めるとBMWはすべるように加速して走り出した。赤い軽自動車には気づいていないようだった。そのとき、明は登録ナンバーを確認した。3411だった。明は思わず「あっ!」と叫んだ。

「スカイラインと同じ番号だ。あの番号、縁起のいい番号なんですかね」

「最初の場札がサンタで、もういっちょ来いでヨツヤを引いて、シチケンだ。シチケン引きなしで、ここで普通は札止めだが、相手がそれ以上と分かっていれば、勝負とばかり、もういっちょ来いで、インケツを引いて、これでオイチョだ。これ以上札は引けないから、相手がカブなら負けだ。負けたところで悔しまぎれに未練がましく山から一枚札を引いたら、またインケツでカブになった。チクショー、ということか?」

「なんですかそれ?」と明には南條が不意に陰陽師の呪文を唱え始めたように聞こえた。「オイチョカブだ。3411を合計するとカブになる。最初の浅草署で覚えさせられた」「カブって9のことですか。3411ってそういう意味なのかなあ」と話しかけたが、南條は聞いていない。アクセルをふかすことに夢中だった。南條は急いでアクセルをふかし続けたが、車は息切れするだけで、BMWはあざ笑うかのように遠ざかるばかりだった。「また、見失うんじゃないですか?せっかくナンバープレートを確認したのに。軽じゃ」「なんとかなるさ。どのみち橋につかまるから。見てろ」と南條に焦りはない。確かに交通量も少なく、堤防沿いの一本道だから、しばらくは見失うことはないかも知れない。

「ほら、みろ。あの橋を渡る道に左折するところで止まってるだろう?」と南條は数百メートル先に左折のウインカーを出してBMWの停車していることを指摘した。明は目を凝らしてようやく確認することができた。軽自動車は車体をきしませながらエンジン全開で追尾したが追いつく前にBMWは逃げるように悠然と左折し始めた。信号が青のうちに軽自動車は左折できそうになかった。案の定、南條の軽自動車は次の赤信号につかまった。「ああ」と明は嘆いた。南條は明の肩を押して「どっちに行くか見てこい」と叫んだ。明は押し出されるように外に出されて、寒む気に縮み上がった。走りながら大通りを左折し、BMWの後姿を目で追いかけた。息が白い。背伸びをすると、かろうじて特徴のあるテールが確認できたが、橋を渡りきったところで、少し湾曲している道路の向こうにすぐに消えて行った。そこに軽自動車が止まり「乗れ」と南條が前を向いたまま怒鳴った。「どっちへ行った?」と前方の交通を見据えている南條の声に怒気がこもっていた。

「道なりです」と明が答えると軽自動車は再び息を切らせるように目一杯の走行性能で走り出した。暫く行くと信号に捉まった。南條は大型ダンプトラックの脇をすりぬけバイクのように停車している車列の一番前に出て、停止線を越えて横断歩道の上に割り込んだ。

「これが、軽のいいところだ。都内は信号が多いから、BMWも軽も平均時速は同じだ。国道は幅員にゆとりがあるから、軽なら路肩走行が可能だ」と言いながら背伸びをするように前方にBMWを探した。野球帽が車の天井に触れている。「いるぞ、いるぞ、この前の信号にとっつかまっている。ざまあみろだ。へっへっへい」 

そういう尾行の繰り返しが都心まで続いた。適度な距離があるので車の尾行としては適当だった。赤信号で停車するたびに路肩を通って前の車をすり抜けるという手法を使った。追い越される車の中には不快さを露にした運転手もいた。南條と一緒でなければ明もびびるところだが、警察官と一緒であればむしろ、そういう運転手に怒鳴り込んで来てもらいたいという心境だった。怒鳴り込んで来たところで、南條が警察手帳をそいつの鼻先に見せる。頭が高い、この金色の旭日章が見えないか、と警察手帳を見せられたガラの悪い運転手は平身低頭する。そういう情景を思い描いて明は一人でにやにやしていた。

葛西橋を越えて永代通りに入ると交通は一寸ずりになった。そのたびに南條は明を車外に出して前方のBMWを確認させた。BMWは千代田区のビル街に入ると大手町のほぼ中央のブロックの一方通行の真ん中あたりで止まった。南條の車はそのブロックの三十メーターばかり手前の端に急停車した。遠目ではあったがBMWから降りたのは奈津子と運転手の二人だった。奈津子は地味なグレーのツーピースに着替えていた。それを見届けて、

「よし降りるぞ」と南條が号令をかけた。歩きながら明が「駐車違反だいじょうぶですか」と心配すると「昔はいくらでも揉み消せたんだがなあ。まあ、いまでも揉み消せないことはないが、駐車の取締りをアウトソーシングしたもんだから手続きが面倒くさくってかなわない」と言う間に二人が消えた厚いガラス張りの薄墨色の瀟洒なビルの前に来た。スイス系銀行の東京支店だった。店舗の正面シャッターは既に降りていた。脇のビルの出入口から奈津子と運転手の二人は入ったようだった。南條はBMWの斜め後ろに立つと携帯電話で墨田署の交通課に登録ナンバーを告げた。所有者を陸運局のデータベースから突き止めるように車籍照会を依頼した。それから中の様子を窺うようにそのビルのエレベータホールに足を踏み入れた。エレベータホールの奥に銀行の通用口があり分厚いガラスドアから店舗の内部の様子がうかがえた。南條は通行人のような素振りでその前をゆっくりと通り過ぎエレベータホールの縁を巡るようにして入口に戻ってきた。

「二人とも中にいるぞ。お前も来い」と言われて明も南條に続いた。三基のエレベータの前の二メートルほどの観葉植物と一メートル弱の高さのスタンド灰皿の間で南條は立ち止まった。そこからかろうじて銀行の内部がうかがえた。南條はポケットからジッポライターを取り出すと、明に渡した。予想外に重かった。

「もっていろ」なんで?と言いたげな明にうむを言わせない威圧感があった。

「ポケットにしまって」と南條が頭ごなしに指示する。明が重いジッポライターをダッフルコートのポケットにしまうと南條は胸ポケットからピースを一本取り出し、唇にくわえた。明が気を利かせてライターを取り出そうとすると「まだだ」と制した。明には、なにがまだなのか分からない。そこに、三基のエレベータの真ん中からサラリーマン風の男が二人、談笑しながら連れ立って降りてきた。

「今だ。点けろ」と南條がピースを口にくわえ、ゾウガメのように短い首を突き出した。明は慌ててジッポライターを取り出し不器用な所作で火をつけた。南條の野球帽の庇が遮蔽になってタバコの先が良く見えない。サラリーマン風の男二人はちらりと一瞥しただけで暖房の効いていない玄関ホールを出て行った。刺すような寒風が飛び込んできた。

「もういいぞ。消せ」といいながら南條はやっと説明した。「男一人が意味もなくつっ立っていると目立つ。二人なら、何かの待ち合わせと思い込む。記憶や印象に残るというのは、見る者に不自然さを感じさせる場合なんだ。男二人でも、ただ立っていると印象に残る。印象に残らせないためには、ごく自然な動作を目撃者に見せることだ。周囲の風景に溶け込むというやつだ。印象に残らなければ記憶にも残らない」と言いながら南條はタバコを手にしているが、火がついていない。

「でも、さっきの二人のサラリーマンは、永山奈津子とは全然無関係でしょ?多分」

「それが甘い。人間関係のネットワークはどこでどう繋がっているか分からない。さっきのサラリーマンがこの銀行の行員と友人関係にあれば、明日昼飯時か何かに、昨日の四時ごろお前の店の外に怪しいやつが二人、中の様子をうかがっていたぞと言うかも知れない。その情報は銀行員から永山奈津子に伝わり警戒され証拠隠滅が図られるかも知れない。人間の口と耳はどこでどうつながっているか分からない。本人にとって不都合な情報は本人に伝わらないから鈍感なやつは悪口を言われていることに全く気づかない」

「そんなこと考えたら、なんにも、できないんじゃないですか?神経衰弱になりますよ」「いいか、あの能美とかいうコマネチねえちゃんとデートするときは、研究所の連中の悪口を言っちゃあならねえぞ。ねえちゃんが、何気なくお前の言った悪口を他の連中にいうと、そのことが組織の中で利用される。当然、自分にとって有利になるように利用するわけだから、お前にとっては、不利になる。まあ、アルバイトだから、どうということもないかも知れねえが、組織っちゅうもんは、そゆうもんだ。ひとの口っちゅうもんもそうゆうもんだ。お前もいずれ、ちゃんとした組織に就職するだろうから、そういうことに気をつけたほうがいいぞ。つまらんことだと思うかも知れねえが、人生を左右する」そこで南條の携帯電話の着信音がした。着信音らしからぬ目立たない音だった。ふた言み言、小声でやり取りがあって、切ってから南條が携帯電話の内容を明に教えた。「BMWの持ち主は長田という大阪の男だ。登録の電話番号から検索したら職業は写真屋だ」 

そのとき銀行の中で動きがあった。運転手の長田がくわえタバコで黒く薄いアタッシュケースをカウンターの上に乗せて開けた。ノーネクタイの銀行員らしき男がそのかたわらに札束を置き、奈津子が書類に何かを書き込んだ。長田はタバコを灰皿で揉み消し、札束をアタッシュケースに入れて閉め、ダイヤルを回した。それと同時に奈津子が書き込んだ書類を銀行員に渡した。二人が立ち上がり始めると「いくぞ、走れ」と南條は吸い掛けのピースを揉み消した。低音で「急げ」と叫びながら走り出した。そのビルから飛び出した。軽自動車に向かった。明も慌てて、それに続いた。冷気がほほを打った。

「一千万あったな。あの一束は百万だ」と言いながら南條は軽やかに走った。底がゴムで、靴音がしなかった。南條と明が軽自動車に駆け込んだところで、奈津子が先頭に立って運転手とビルから出てきた。左右を見渡すでもなく、警戒心が全く見受けられなかった。「なあんだ、カネを下ろしに来たんですか」と明が言うと南條の血相が少し変わった。「なんだじゃない。なんで、だ。なんで、現金なんだ。なんで、スイス系の銀行なんだ」

「そう言えば送金手数料がかかるとしても、舞浜で下ろした方が手間も時間も節約できる」「小切手を換金したんだな」と南條があたりをつけると左ハンドルのBMWが動き始めた。

「てえことはあの銀行に口座を持っている者が振り出した小切手だ。これは厄介だ。ただでさえ顧客情報は守秘義務を盾に事情聴取ができない。ましてや外銀だから政治的圧力をちらつかせて任意情報を取ることもできない」という南條の話を明は理解できなかった。

 ゆったりと周囲を睥睨するように走り続けるBMWが有楽町界隈の商業地区の旅行代理店の前で再び停車した。奈津子だけがツーピースで颯爽と降り、店内に消えた。軽自動車も三十メートルほど手前で停車した。旅行代理店は全面ガラス張りで、目いっぱいチラシが貼ってあり、近寄ればポスターの隙間から内部を全部見渡せたが、こちらから良く見えるということは向こうからも丸見えということだった。おまけにBMWの車内には運転手の長田がいる。長田はウインドウを少し開け、タバコをくわえ、右手でカーライターの火をつけている。南條は車内で自重することにしたようだった。

「何をしてるかはあとで確認するか。それにしてもあの運転手。どっかでみたことがある」

「町屋の斎場じゃないんですか?」

「俺は行ってねえ。見たのは最近じゃねえ。多分。まあ、これまで顔写真を何万枚と見ているから、どんな顔でも、どこかで見たような気がするというのも、当たりめえと言えば当たりめえだが」と南條が明に語りかけたとき、奈津子が旅行代理店から無表情に出てきた。BMWが走り出した。再び、尾行が始まった。都心から離れるにつれて交通量が少なくなった。葛西橋の手前でついに見失ってしまった。

「ここまでくれば、舞浜のクリニックに戻ったということか」と南條は一人合点し、葛西橋の手前でUターンした。そのときだった。「あのホームレスだ」と突然、南條が大声で叫び、ハンドルを両手のひらで強く叩いた。

「ホームレスって、隅田川岸のですか」とあまりの大声にびっくりして明が聞き返した。「そうだ。多分間違いない。去年の夏のあのホームレスだ。なんとなく、関西訛りがあるんで変だなとは思っていたんだ。これは一体どういうことだ。間違いなくこれはとてつもないヤマだ。それに記憶がどうもはっきりしないがあいつは金のバッジをつけていたような気がする」と言ったなり南條は黙った。長い沈黙を保ったまま先刻の有楽町の旅行代理店に引き返した。店の前に車を止めると南條は明を車に残して店の中に入った。さっそく警察手帳を出してカウンターの店員に見せた。「こういう者だけどちょっと話を聞かせて下さい。さっき、三十分くらい前かな、永山奈津子という人が来たでしょう?」と言うと、丸顔の女性店員は「それなら担当は彼です」と奥の浅黒い男性社員を振り返った。その男は話を聞いていたようで「なんでしょうか」とカウンターに近づきながら南條の方を見た。

「彼女はチケットでも受取りに来たのかな?」

「ええ、ロサンゼルス行きの。あさっての夕方ごろの便です。JALです」

「帰りの便は?」

「ええと、日付変更線を越えるので、たしか、現地発が今週の金曜日だったと思います」「明後日出発で現地時間で金曜に帰国か。あの客とは顔見知り?よくここに来るの?」

「顔見知りと言う程では。年に一回くらいで。とっても綺麗な人なんで印象に」

それなら刑事がかぎまわっているとこのあんちゃんが永山奈津子に伝えることもないだろうと南條は安堵した。

「去年は品のいいご老人と。お父様とおっしゃってましたが、その方とご一緒で。その方は一昨年はお一人でお嬢様の分とご自分の分のチケットをお取りに来られたと思います」

「毎年来ているんですか?」

「ええ、すくなくとも、私がこの支店をまかされた五年前からは」

「そう。ありがとう」と言いながら名刺を渡そうとしたがやめた。何かの折に奈津子に知られる可能性を恐れたからだ。南條は、その店をさっさときりあげた。車に乗り込むなり「さてと、ところでパスポートは持っているか?」と明に聞いてきた。

「どっちのですか?TDLのか、海外旅行用のか」

「海外旅行用だ」と南條は面倒くさそうに口早に言う。

「ありますが、再来月に切れます」

「そんだけありゃあ、十分だ。急でなんだけど、あさって、ロスに行ってもらえっかな?」「えっ」と言ったなり明は声が出なかった。南條の言っている意味が分からなかった。

「あすの午前中に経理のやつを脅して、裏金が使えて、JALに空席があればの話だが」

「そうですか。警察研究所の方はもう作業がほとんど終わって、あとは報告書におとすだけなんで、深野課長の承諾は、得られるとは思うんですが」

「駄目かも知れねえが、とりあえずお前のアパートに寄ってパスポートを預る」

 有楽町から、昭和通りに出て入谷経由で千住大橋を渡ると、五分もしないうちに明の二階建ての安アパートに着いた。南條は、一階の玄関口で明のパスポートを受取ると、日の落ちかけた薄ら寒い隅田川方向へ軽自動車で去って行った。


 火曜日、警察統計研究所で明が報告書をワープロで書いていると、昼近くに南條から電話連絡があった。「チケット取れたぞ。研究所の方は大丈夫かな」

「課長に言ってないですが大丈夫だと思います」と明は知らず知らず小声で話していた。

「ロスに行くとは言うなよ。どこから情報が漏れるか分からない。それから飛行機は奈津子の一便前のを取ったから先に行って待ち伏せだ。現地に俺の知り合いがいるから、出迎えさせる。林という台湾人だ。もうリタイアしているから、大丈夫だと思う」

「リンさんですね」

「チケットとパスポートは署の受付に置いとっから帰りに寄っちくれ。用件は一緒のメモに書いておく」と言いたいことだけ言って切れた。明は「一人住まいの郷里の母の具合が悪いようなので明日から今週いっぱいは休ませて欲しいんですが」と深野に申し出て了承を得た。その日の夕方、研究所を定時に去るとき帰り際に亜衣子が「お母様、お大事に」と気遣ってくれた。その言葉に涙こそ出ないものの、ほろりとした。

 明は約束通り、墨田署に寄り、受付で封筒を受取った。開封すると自分のパスポートとエアチケットと林の連絡先と南條からのメモがはいっていた。その場で、開けて読んだ。―永山奈津子の行動を逐一報告してくれ。現地滞在費は林博治が面倒をみてくれるはずだ。明日、空港に出迎えに来ているはずだ。支度金も小遣いも支給できないが、その辺は帰国後、安禄山で埋め合わせる。この航空費用は、裏金からでているので他言無用。カラ出張とカラの捜査協力費で溜め込んだ裏金を最後っ屁の裏出張で使い切ってやる。南條―


 翌朝、明は着替えの下着とキーネックTシャツを三着ずつとジップアップブルゾンを大きめの黒いショルダーバッグに詰め込んだ。成田へは京成本線の正午過ぎの特急で向かった。スカイライナーなら多少乗車時間は短いが別料金をとられるので、普通特急にした。成田空港についてからは、都市銀行に寄り、残高を千円単位で全て下ろした。これで今月のアパートの契約更新のために貯めておいた更新料が消えた。正規大学院生の半額ではあるが、研究生の授業料も払えない。金欠の情けない思いに空港ビル内にこだまするアナウンスがうつろに聞こえてきた。なけなしのカネの中から書店でロスアンゼルスのガイドブックを購入した。思えばアメリカ旅行は初めてで、英会話も中学生程度の能力しかない。そう思うと、突然不安が襲ってきた。それにしても永山奈津子は何をしにロサンゼルスに行くのかと税関を通る前に疑問に思った。そこでTDLの固定電話の方にかけてみた。夕方ロスへ出発するにしても、奈津子は事務室には、もういないはずだと明は踏んだ。

「はい、渉外係です」と言う女性の声がした。予想通り、奈津子ではない。そこで、

「永山奈津子さんは、おられますか」と聞いてみた。

「今週いっぱいは、出社しませんが、どちらさまでしょう?」

「統計研究所の土岐ともうしますが、どちらへ行かれたのでしょうか?」

「アメリカの方へ、今日の夕方立つ予定です」

「アメリカのどちらのほうへ?」

「ロサンゼルスへ。本部のホスピタリティ・コンベンションに参加する予定です」

「そのホスピタリティ・コンベンションは、どういうものですか?」

「全世界のDL関係者が、年一回、ロサンゼルスで一堂に会して、テーマパークのホスピタリティに関する提言とか、経験とか、発見とかを、二日間にわたって討議するんです」「ああ、日本企業で言えば研修会のようなものですかね。永山さんは、その大会に毎年参加しているんですか?」

「ええ、私の知る限り永山が行っているようです」

「わかりました。どうもありがとうございました」と言って携帯電話をオフにした。

以前から予定されていたもので、しかも、毎年行っているということは分かったものの、不安は飛行機に乗り込むと増す一方だった。搭乗すると後ろの座席に韓国人の老婆が座っていた。明が眠ろうと座席をうしろに倒すと罵声を浴びせられて、背中を思いっきり蹴飛ばされた。唯一の救いは、スチュワーデスが好意的で、安定飛行に入った段階で、エコノミークラスの最前列に座っていた明に「ビジネスクラスに空きがあるのでどうぞ」と優遇してくれたことだった。血の気の多い韓国人から離れられてほっとした。警察が手配したチケットであることが効いているのかも知れないと明は考えた。滞米中は食費を切り詰めようと機内食を目いっぱい食べ、ドリンクを何度もおかわりして目いっぱい飲んだ。うんざりするほど長い飛行だったが、初めてのビジネスクラスは快適で、映画を見たり、新聞や雑誌を読んだり、イヤホーンで音楽を聴いたりして、居眠りしているうちに、ほぼ予定通りに現地時間午前十時頃にロスアンゼルス国際空港に到着した。

永山奈津子の便は午前十一時に到着予定だった。林という台湾人がどこで出迎えているのか知らされていないので、見つからない場合はどうしようかと不安になった。そうでなくても、十分な英会話ができないし、林の連絡先は住所だけで、電話番号も分からない。税関を通って、出口から外に出ても、出迎えに来ている人はまばらだった。それらしい人を探したが、年配の男性の東洋人ということ以外、見当がつかなかった。到着ロビーで途方にくれてうろうろしていると、よれよれの長袖のTシャツにチノパンツのホームレスのような風采の上がらない東洋人が近寄ってきた。「失礼ですが、土岐さんですか?」

「ええ」と明が答えると、つやつやした丸顔のその男は、破顔一笑して「はやしひろはるです」と自己紹介した。

「リンさんではないんですか?」

「まあそれは林の音読みですが、中国語読みとも少し違いますな」

「でも、流暢な日本語ですね。台湾の方ではないんですか?」

「生まれも育ちも台湾ですが外省人が来るまでは学校も家庭も日本語でした。でこれからの予定は」と聞かれて空港内の時計を探した。腕時計はまだ現地時間に合わせてなかった。

「ええと、この次の便で到着する人を尾行します」

「尾行?あなたは警察の方ですか?」

「すいません。自己紹介が遅れました。警察統計研究所でアルバイトをしている者です」

「ああ、それで南條警部の紹介なのですな。南條警部とは十数年前、日本人がロスで犯した保険金殺人事件で知り合いました」

「林さんも警察の方ですか?」

「いいえ、大学病院の解剖医でした。昨年リタイアしましたが。それで次の便は何時着で?」「ボードの掲示によると予定通りで、一時間たらずあとですね」

「尾行するということですが、どちらに行くか大体見当はついているのですか?」

「多分、ディズニーランドだと思うんですが」

「尾行される人はどうやっていくのですかな?バスならディズニー・エクスプレスという直行便がありますが」

「あれですか?」と明はターミナルの出口を出て車道を渡ったところにある緑色の『Buses & Long Distance Vans』と表示されたバス乗り場を指差した。その一角に、『Hospitality Convention』と書かれたプラカードが見えた。そのカードのあるヴァンには既に何人かの参加者らしき乗客が乗り込んでいた。

「ああ、多分、あれに乗っていくんだと思います」と明はそのプラカードを指差した。「ヴァンですな。それでは、私の車をバス乗り場の近くまで持って来ましょうか。で、荷物はそれだけですか?」と林は明のショルダーバックを不審そうに見た。

「ええ、たった二泊ですから」

「それじゃ、一緒に駐車場まで来て下さい。はぐれると困るので」と林に言われて明は国際空港の広大な駐車場に向かった。林の車はかなり走りこんでいそうなスカイブルーのキャデラックだった。後部座席に日本人の感覚では大人が3人ほどゆったり座れそうだった。明はそこにショルダーバッグを置いて、助手席に座った。ショックアブゾーバーが急発進を吸収して、ゆるやかにバウンドするように走り出した。荒っぽい運転だか、急ハンドルの衝撃を板バネが全て吸収するので、波乗りのような乗り心地だった。バス乗り場の背後でターミナルの出口がうかがえる場所に到着したとき、既に十一時近かった。

「日本と縁の深い家庭では一時期、日本人と同じような名前をつけるのが流行ったのです。私の名前はそのはしりです」と言う林の話の腰を折って明が丁寧な発音でゆっくりと質問した。「解剖医ということですが、アメリカの医師免許をお持ちなんですか?」

「もちろん。日本の医師免許も持っていますよ。若い頃休暇中に日本に行って受験したのです。日本の医師は定年がないでしょう。で、弟が横浜の中華街で開業しているもので、日本に移住しようかとも考えたのですが、居住費を聞いたら、とても高いのでやめました。こちらはビバリーヒルズの住宅街は別ですが、土地は基本的にただみたいなものですから」「解剖医と検死官は別なのですか?」

「勿論。でも東洋人が多いですな。かつて日本の穢多非人が皮なめしを生業とするのが多かったように所謂WASPはあまりいませんな。この国は露骨な差別社会ですから。憲法に差別撤廃を謳わなければならない程差別が激しい。私の場合は一番なりやすい職業だったから。そう言えばマリリンモンローを検死したのは確か日本人でしたな」と話しかけたときターミナルの出口から小ぶりの茶のサムソナイトを転がしながら永山奈津子が現れた。

「あ、彼女です」と明は指差した。昼の日差しにまぶしそうにしながら颯爽と通りを横切り、バス乗り場に向かっている。

「ほう、あの東洋人ですか。とびきりの別嬪さんですな。南條警部が言っていたように面白くなってきましたな。オリエンタルの美人は私にとってはとてもリアリティがあって堪らないですな」と林が感嘆した。ぽかんと開けた口から涎が垂れそうだった。使う日本語のボキャブラリが同年輩の日本人と違うようだった。明は奈津子が乗り込んだヴァンの登録ナンバーを記憶した。林のキャデラックはそのヴァンの後ろにぴたりとついて行った。

「おっしゃれる範囲でいいのですが、彼女は何者ですか?」と林がカーナビゲーションで行き先をディズニーランドにセットしながら聞いた。

「東京ディズニーランドの渉外係です。今日と明日、アナハイムとフロリダ、東京、ホンコン、パリの全世界の担当者を集めたホスピタリティ・コンベンションがあるようです」

「そのことではなくて、あんな佳人がどういう犯罪と関係があるのですか?」

「殺人事件です。それも少女の」

「へえ。妹とか、叔母さんとかを殺したのですか?」

「いいえ、大量無差別殺人です」

「テロリズムということですな。それは恐ろしい。でもそんなニュースは聞いていないですな。あのような麗人が日本で少女を無差別に大量に殺せば、絶対にこちらでもニュースになるでしょう」と言う林のハンドルを持つ手が小刻みに震えている。年齢によるものなのか興奮によるものなのか、明にはわからない。

「いえ、まだ確定したわけではないんです。証拠も全くありません。少女の大量無差別殺人というのは、僕の勝手な推理です」

「では、証拠を捜査中ということですな。何か、ぞくぞくしてきましたな」

リタイアして、仕事がないのであれば、退屈しのぎに、ちょうどいいかも知れないと明は、林の丸い黄土色の横顔と瞼の厚いスリットのような眼を見ながら思った。

南東に下るサンタアナ・フリーウエイは信号もなく、1時間足らずで、奈津子の乗ったヴァンはアナハイムの直営ホテルの車寄せに横付けにされた。玄関のかたわらに、『Hospitality Convention』というマリンブルーの地に白い文字の大きな横看板が掲げられていた。奈津子は数人の乗客とともにヴァンから吐き出され、ヒスパニックのドアボーイにサムソナイトを任せ、ホテル正面の自動扉の中に消えた。林と明は停車したキャデラックの中でしばらく様子をうかがっていた。すると、アフリカ系アメリカ人のドアボーイがチップほしさにキャデラックに近づいてきた。

「どういたしますか」という林の間延びした問いかけに「とりあえず、中の様子を見てきます」と明は助手席のドアを開けた。

「それでは、私はホテルのパーキング・ロットで待っています」と明がドアを閉じるのと同時に林はキャデラックを駐車場に向けて発進させた。黒人のドアボーイが二、三歩走りよって、キャデラックの尻に向け、悔しそうに指を鳴らした。

明は奈津子が吸い込まれて行ったホテルの正面玄関脇の回転ドアから中に入った。ホテル受付はコンベンション関係の人々でごったがえしていた。奈津子の姿を探したが見当たらなかった。既に会場の方へ行ったようだった。明はフロントの金髪で長身の青い目の男子事務員に拙い英語で聞いてみた。「永山奈津子の名前で宿泊予約がはいってますか」

ホテルマンは明に名前をもう一度確認し、パソコンにその名前を入力した。「はいっています。今晩と明晩の二泊です」とかろうじて聞き取れた。それから「ホスピタリティ・コンベンション・ホールはどこですか?」と聞いた。

「エレベータホールの奥です」と言うのも何とか聞き取れた。言われた通りにエレベータホールの奥に進むと、トイレの向かい側にそれらしき観音開きの扉があった。入口に受付の折りたたみテーブルが置かれていた。テーブルの上には出席予定者のネームプレートがアルファベット順に並べられていた。その傍らにその日のタイムスケジュールが書かれたアジェンダ・ボードが立てかけられていた。プレゼンテーションやコーヒーブレークの時間割の最後に、ディナー・パーティーの時刻が6時からとなっていた。とりあえず、6時まではどこかで時間をつぶさないとと思いつつ、明はホテルから出て、右手奥の駐車場で林のキャデラックを探した。ボディラインが旧式で、いかにも中古のガソリンを垂れ流すような車はすぐ見つかった。林はエンジンを掛けながら、エアコンで暖房をきかせて、カーナビゲーションでネットワークテレビのクイズ番組を見ていた。

「6時まで大会のようです。どうしましょうか」と明は言いながら助手席に滑り込んだ。薄ら寒い外気と比べると、車内は汗がにじみ出そうなほど暖かかった。

「まあ、とりあえず、ランチにしますかな?腹が減っては戦にならぬと言いますから。武士は食わねど高楊枝とも言いますな」と言いながら、林はキャデラックをだだっぴろい駐車場から発進させた。明には林が日本語を話すことを楽しんでいるように見えた。

5号線沿いに北上し、左折したブルヴァード沿いの平屋建てのファミリーレストランの駐車場に車を滑り込ませた。屋根に巨大なたまねぎをシンボルとして載せたその建物以外には周囲に建造物はなかった。周辺には背丈ほどもある雑草が雑然と生い茂っていた。

「ここのサラダバーは、いいですよ。しかも安い」と林は車を降りながら言った。安いと聞いて明はほっとした。さわやかな春風が駐車場に吹いていた。

店内は五百平米ほどの広さだった。南を除く全方位が、大きなガラス窓になっていた。その窓に沿って、6人掛けほどの広いテーブルが配置されていた。中央には百平米ほどのスペースに野菜やパンやスープなどが山盛りになっていた。これは日本のビジネスホテルの洋風バイキングの朝食と同じだと明がボリュームに圧倒されるように見とれていると、いちご模様のエプロンを巻いた黒人のウエイトレスが「Pay first」と言いながら近寄ってきた。明が薄っぺらな財布を取り出そうとすると「ここは安いから、いいですよ。南條警部に貧乏学生だと聞いていますから」と林は胸ポケットから素早く皺だらけの二〇ドル紙幣をつまみ出した。「この店のチェーンはものすごくはやっているのですよ。安いこともあるけれど先払いなのでチップを払わなくてすむ。もちろん、習慣で、食後テーブルの上にチップを置いていく人もいるけれど、セルフサービスだから原則的に払わなくていい。実際、レストランに行っても払いたくないような店や店員もいる。だからといって払わないと露骨にいやな顔をするウエイトレスやウエイターがいる。まあ、チップは給料の一部だから、それはそれでしかたのないことではあるけれど、なかには駐車場まで追いかけてくるやつもいる。こっちが白人ならそういうことはしないのだろうけれど」と言いながら林は入口付近のトレイ台からトレイと大皿をひとつずつとり明に手渡した。巨大なズッキーニやエッグプラントやアルファルファなど一通り野菜を取り終えたところで最後にドレッシングを選ぶときに林は四種類の中のひとつを薦めた。「日本に観光旅行で行ったとき、ブルーチーズのないのに閉口しました。私、これが大好きなのです。どうして日本にはないのですかな。匂いがきついからですかな。もっともドレッシングの中ではブルーチーズが、スーパーマーケットでプライスを見れば分かりますが、一番高価ではありますが」と薦められるままに明もどろっとしたブルーチーズを山盛りのサラダの上にたっぷり掛けた。食べ放題だと聞いてはいたが、明は飛行機の中でスナック程度の朝食しか口にしていなかったので、夢中になってがつがつと食べた。どの素材も味が濃く、大味で、ゆっくりと味わって食べるようなしろものではなかった。ドーナッツやケーキやアイスクリームなどのデザートも口がただれるほど甘かった。

「アメリカ人の先祖は基本的にヨーロッパの難民なのです。自由を求めて来たなんて言いますけれど、それはごく少数で、食い詰めたヨーロッパの難民が大半です。元貴族なんてお目にかかったことがない。難民だったものでDNAにヒモジイ想いが刻み込まれている。とにかく食は量のプライオリティが高い。つぎは、濃い味。濃い味は食欲を満たすのに適しているのです。少量で薄味という日本の会席料理はこの国では貧民か家畜の食事です。ようは、食文化がないのです。アメリカの代表的な料理と言えば、ハンバーガーとホットドッグとドーナッツとTボーンステーキぐらいでしょう。結局、ヨーロッパの難民ばかりだから、フランス料理や中国料理のような宮廷料理の文化がないのですよ」という林の講釈を聞いているうちに満腹になってしまった。よく食べた。ズボンのベルトをゆるめた。「さてと、6時までどうしましょうか。ゴルフでもやりますかな?」と林は両手を合わせて座ったままで、ゴルフクラブを振る動作をした。

「ゴルフは、ちょっと。へたなもんで」と明は気の進まない表情を見せた。アメリカまで来て恥をかきたくない。日本でたった一回なけなしの数万円をはたいて金持ちの友人の道具を借りてその友達とやったことがあった。楽しかった思い出がなかった。

「すいません。今回は遊びの資金を持ってこなかったもので」

「なんだ、お金の心配をしていたのですか。いいですよ、安いものですから」と林は既に夕方までゴルフをする気でいた。昼食後、林のアナハイムの西にある自宅に寄り、そこから十分ほどの市民コースに行った。林がゴルフバッグとセーターを貸してくれた。クラブハウスで一人二十ドルほどのハーフ料金を林が払い、二人でスタートホールに並んだ。「ゴルフシューズを借りますか?」と林が気を遣ってくれたが「これでいいです」と明は日本から履いてきたスニーカーで回ることにした。先着の家族連れのパーティーが二組ほど待っていた。五分ほどで10番ホールを出発した。明は練習もしていないので、空振りやダフリやトップやソケットばかりだったが、キャディもいないし、自分でゴルフバッグを背負って、へたなりに自分のペースで楽しめた。林がディボットに転がり込んだ明のゴルフボールを打ちやすいように置きなおしても誰も文句を言わない。安いこともあってか、どのパーティーも友人や夫婦や親子連れで、ラフな思い思いの格好で、骨董のような木製のクラブを振り回してピクニック感覚で楽しんでいた。これなら、楽しめるなと明は太平洋の反対側に、日本とは全く異なるゴルフのあることを知った。ハーフをラウンドしたころには、五時近くになっていた。あたりはまだ、昼間のように明るかった。

「6時に直営ホテルに行くのですな。私の家でシャワーを浴びて着替えてから行きますか」という林の誘いに乗って、彼の自宅で明はシャワーをあびた。お湯の出が良すぎて、シャワーのお湯が皮膚に突き刺さるようだった。

林の自宅は海岸近くの住宅街で、一軒ごとの敷地が千平米ほどあった。二階建てで、建坪は百坪ほどでベッドルームが三つあり、そのうちのひとつが明に開放された。そこで明は着替えた。ベッドルームから窓越しに見えるバックヤードには芝生が敷き詰めてあった。中央にピンが立ててあっった。パットとグリーン周りの寄せの練習場になっていた。「そろそろ、行きましょうか」という階下からの林の声に促されて、明は屋外に出た。外はまだ明るい。車庫には大型車三台分のスペースがあり、キャデラックの他に日本製のサブコンパクトカーがあり、もう一つのスペースにはエンジンつき小型ボートがあった。

「これをアメリカン・ドリームって言うんですかね」と日本の手狭な自宅アパートと比較して、うらやましそうに言う明に、林はだぶついた頬の肉を震わせながらかぶりをふった。

「それほどではないですね。だれでもそこそこに真面目にこつこつと努力すれば、これは普通の生活です。アメリカン・ライフです」

再び、ディズニーランドの直営ホテルに向かおうとして、車庫の前に立つ明のところに、林の奥さんがやっと現れた。林は「家内です」と彼女を簡単に明に紹介した。林の奥さんは若い頃の美貌を髣髴とさせる容貌で、日本語が堪能だった。髪型も化粧も日本人とほとんど変わらなかった。「まだお一人なのですか」と五十前後の彼女に聞かれて明は不覚にも少しどぎまぎした。「定職がないものですから」と答えたが聞き取れなかったのか林に救いの目を向けた。「恒産がないのだとさ」と林がインタープリターのように説明した。「恒産なき者、恒心なしだ」と林は明に理解できないことを奥さんに話した。そういいながら林はキャデラックを車庫から出し明を乗せた。車の中で林は不安そうに言った。「6時からコンベンションのディナーパーティーでしたな。彼女はどういう予定なのですかな。私はどうしましょうかな」

「すいません。僕、足がないもんで、英会話もおぼつかないし、一緒にいていただけますか?本当に、すいません」と明は両手を膝の上に揃えて、懇願した。

「いや、そんなに恐縮しなくていいですよ。もう、リタイアして暇をもてあましていますから。それになんとなく、面白そうですな。あ、それから忘れていましたが、これは家内に頼んでおいたレンタルの携帯電話です。二日間だけ借りました」と言いながら、コンソールから携帯電話を取り出し、明に手渡した。画面を見ると見慣れない記号が並んでいたが、大体の操作はボタンから想像できた。

駐車場に着いた。車を置くと二人で直営ホテルに向かった。ようやく日が没し始めたが、それでもまだ夜という印象がない。

「もう6時で、日は没したのに空は明るいですね」と明が言うと、林は日本人旅行者にこれまで幾度もそう言われたようで「海に障害物はないから」とつまらなそうに答えた。

 ホテルの玄関まで百メートルほどあった。フロントに着いたとき、ホスピタリティコンベンションのディナーパーティーは既に始まっているようだった。英会話で困ったら助けてもらうことを期待して、二人で受付の前に立った。明は置いてあったメモ用紙を一枚破り、何も書かずに畳んで「今日泊まる予定の永山奈津子さんにこのメッセージを渡してもらえないか?」と言いながら、ブルーネットの女子事務員に渡した。すると、白い顔中そばかすだれけの彼女は背後の壁面にある305号室の小ボックスにその紙片を入れた。明は林に向かってウインクした。

「なるほど、彼女は305号室ですか」と感心したように林はうなずいた。それから二人でコンベンションホールに向かった。入口に昼間置かれていた受付テーブルは撤去され、両扉がストッパーで開放されていた。

「夕飯はいらないかも知れないですね」と明が中をのぞき込んで卑しそうに言うと、林は彼の背中を押した。二人とも会場の中に踏み込んだ。天井の高い会場の中には百数十人程の、様々な人種の様々な髪の色と様々な膚の色の人々が、歓談しながら立食していた。明は伏し目がちに奈津子を探した。先に探す必要があったので必死だった。少し目線を低くして会場の壁際を忍者のように伝うようにして歩いた。その滑稽さに林は微苦笑を堪え切れなかった。入口から十メートルほど入ったところで、背の高い銀髪の白人と背の低いアジア人と三人で談笑している奈津子を発見した。奈津子は胸にTOKYOというネームカードをつけていた。白人の方はPARISというカードを、アジア人の方はHONG KONGというカードを胸につけていた。林も同時に見つけたようだった。そのとき、奈津子がこちらに視線を向けかけたので二人はくるりと背を向けてあわてて会場の外に出た。「尾行だから当然彼女にばれたらまずいのでしょう?」と林は少し興奮した口ぶりで言う。「そういうことです。彼女は自分が疑われていることに気付くでしょうね」

「それではあの何も書いてないメッセージはフロントから回収した方がいいですね。さっきのブルーネットが我々を覚えてくれているといいのですが。でこれからどうするので?」

「パーティーは7時に終わるので、ひとまず、ホテルのラウンジで待機したいんですが」

「夕飯どうします?おいしいプライムリブを食べさせてくれる店を知っているのですが」と林は団子のような鼻の下で舌なめずりをする。

「7時までラウンジでいいですか?」と明は念を押した。

「わかりました」と林は意味もなく笑う。二人はホテル入口のラウンジの沈み込みそうな緑のソファに腰掛けて奈津子を待つことにした。明がコンベンションホールの方に背を向け、林がホールから出てくる人間をウオッチすることにした。明はゴルフ場のコースで汚れたスニーカーの土が気になって、クオーターコインでせっせと落とした。奈津子は林を知らないから、かりに目が合ったとしても全く気に掛けないに違いない。林は滅多に見かけない美形ということで奈津子の顔をはっきり覚えていた。「白人の美人さんはあまり見分けがつかないのだけれど東洋の美人さんは百人百様で識別できるから不思議ですな」とスニーカーの上に屈み込んでいる明の後頭部に話しかけた。

 7時まで三十分ほどあった。林は話し好きのようで、明にしきりに話しかけてきた。普段日本語は使っていないと思われるのに、よどみがなかった。「日本にはなんでプライムリブがないのですかな。東京中のステーキハウスをタクシーに乗って探したけれど、やっと五軒目でカリフォルニアに本社のある店でありつけましたよ。赤坂でしたかな。どうも、アメリカの大使館員を相手にしているみたいで、それがまた、ランチで出したプライムリブを持ってきて、ぱさぱさでまずいのなんのって、OZビーフだからか。プライムリブはジューシーでなければいけないのです。でもその店は、ロバートモンダビをおいてありましたね。あの赤坂のモンダビの値段にはびっくりしましたな」

そのとき、林の目が瞳孔を収縮させたようにして一点に止まった。明に目配せをする。どうやら、奈津子が出てきたようだ。林の目はエレベータホールに移動して止まった。

「エレベータに乗ったら、部屋まで行ってくれますか」と明が背後の奈津子に振り返らずに言うと、林は目線をエレベータホールに固定したままの姿勢で立ち上がった。

「すいません。僕は顔を知られているので、ここで待機していますから、何かうごきがあったら携帯電話で連絡をお願いします。彼女がシャワーでも浴びて、部屋に落ち着くようだったら夕飯に行きましょう」と林の背中に声を掛けた。林は「オキドキ」と言いながら、足早にエレベータホールに向かった。三階でエレベータを降りると305号室を探し、廊下の人通りに気を遣いながらうつむき加減に奈津子の部屋の前まで来た。ノックをする振りをして部屋の中の物音に注意するとシャワーを浴びている様子はなかった。しかし、かすかな物音がするので、在室であることは間違いなかった。林は部屋から少しはなれ部屋を背にして、明に電話をかけた。数秒して明が出てきた。

「林です。彼女はシャワーを浴びている様子はないけれど、どうしますか?」と聞かれても、明に具体的な指示はできなかった。「もう少し様子を見ましょうか」と曖昧な指示を出したところで奈津子が黒いワンピースの肩にシフォンボレロを掛け、ショールカラーのジャケットに着替えて部屋から出てきた。林は、それを一瞥で確認し、あわてて廊下をエレベータホールとは逆方向に歩きながら、携帯電話を切った。明は「ハロー、ハロー」と言い続けた。切れたことが分かって明が待ち受け画面にしたところに再び林からかかってきた。「今そっちに行きました」と言っただけでまた切れた。明がエレベータホールを背にしてホテルの出入口に向かう人の後姿を注意深く追っていると、奈津子が背後から現れた。かたわらに背の高い銀髪の白人と背の低いアジア人がいた。白人がベルボーイと何かを話している。タクシーを呼んでもらっているらしいことが分かった。そこに林が息を切らせて非常階段の方角から戻ってきた。「車をこちらに持ってきますから、彼女がどちらに行くか見届けておいて下さい。携帯電話をかけっぱなしにしておいて下さい」と言うなり、駐車場へ小走りに駆けて行った。お世辞にも、足が速いとは言えないが、定年を迎えた老人にしては不恰好ではあるものの身軽に見えた。明は奈津子と白人とアジア人の三人がタクシーに乗り込むのを回転扉の陰で確認すると外に飛び出し、低姿勢でイエローキャブを追いかけ、フリーウエイを北上するところまで確認した。陽がほぼ没し、首筋に冷たい夜気を感じた。何かわめいている携帯電話を耳にすると「いまどこですか?」という林のせかせるような声がした。

「車寄せの下のところです」と明が言うとキャデラックが背後から急停止した。明は右ドアに回りこんで助手席に飛び乗った。「フリーウエイを北へ」と明が口早に叫ぶとキャデラックはもんどり打つようにタイヤを軋ませて急発進した。あたりはようやく夜らしくなってきたが、それでもまだヘッドライトをつけなくても走行できた。明はサンタアナ・フリーウエイを北上したらしいことをもう一度告げた。林は猛スピードで追尾を始めた。二、三分で、イエローキャブの斜め後ろに追いついた。肩に少し後ろ髪がかかるミディアムの髪型で奈津子らしいことを後部座席に確認した。隣にはアジア人が、助手席には白人が座っているらしことが推理できた。

「このタクシーです」と明が言うと林はハンドルを握る両手でハンドルを軽く叩いた。「あとの二人はパリと香港から来たみたいですね」と林が明に同意を求めてきた。

「あの二人、さっきコンベンション会場で奈津子とスリーショットで話をしていたんです」

 奈津子たち三人を乗せたタクシーは、リバーサイド・フリーウエイを左折した。さらに、605号線を越えてから、レイクウッドの市街地に南下して行った。ようやく夜の漆黒のとばりが降り始めていた。タクシーはデベロッパーが開発した高級住宅街に入って行った。住宅街のエントランスにロータリーがありロータリーの真ん中は芝生で覆われたマウンドになっていた。タクシーがスピードを落としたので林も接近しすぎないように速度をゆるめた。タクシーは住宅街の奥の比較的大きな平屋建ての家の前で停車した。林の車はその20メートル手前で止まった。五、六台の型式の古い大型車が道路の左側に停車していた。歩道からのアプローチが二本の樫の木の間を縫って十メートルほど続いていた。奈津子たち三人がタクシーを降りた。顔が半分隠れるようなバタフライの大きな眼鏡をかけた奈津子が門灯の点いている玄関に近づくと待っていたかのように門扉が開き、家の中にグーフィーのぬいぐるみを着た人が立っていた。助手席にいた白人は銀髪が黒髪になっていた。アジア人は目だし帽をかぶっていた。明と林は、その玄関の斜め前、二十メートルほどのところに車を止めて見ていた。白人とアジア人が先に入って行った。奈津子は玄関に出てきた男と何かをやり合っているように見えた。胸のバッジを見せているようだった。両者とも大きな身振りで何かを主張しているようだった。最後に奈津子が変装用のバタフライの眼鏡をはずした。そこで、やり取りは終わり、奈津子は家の中に招じ入れられた。

その家の周りには塀も壁もなく、潅木が隣家との境界になっているようだった。玄関を右か左に回ればバックヤードに出られた。そこからリビングがのぞけるような気がした。「裏庭に回って偵察してきます」とドアサイドレバーに手をかけた明を林が制した。

「まだ空が多少明るいでしょう。プライベイト・プロパティだから、住居不法侵入で、銃殺されても文句は言えないですよ。真っ暗になるのを待ちましょう」

藍色の空が漆黒になるまで、明は林の身の上話を聞かされた。林の父は戦前、中学野球で甲子園に行ったことがある。彼は台湾の医学部を出たものの、国民党侵攻で、親日派だった本省人の家族が居づらくなり、戦後、家族でアメリカに移住してきた。滞米中は家族ぐるみで台湾独立派に属していたため、国民党のブラックリストに載り、李登輝が総統になるまで台湾に帰れなくなっていた。そうこうしているうちに夜の帳がそろそろと降りてきた。黄昏時が過ぎ、宵闇が訪れつつあった。家の中から外の景色は見えなくなっているだろうと思われた。

「もうそろそろいいでしょう。くれぐれも見つからないように。何か変な動きがあったら電話しますから」と言う林の忠告を受けて明は車を降りた。外は昼間の暖冬が嘘のようにしんしんと冷えて来ていた。玄関の左側はキッチン、右側は半地下のゲームルームになっているようだった。明は白い木造の建物を玄関前から右に回って、芝生を敷き詰めたバックヤードに出た。庭の隅に使い古した芝刈り機が放置してあった。裏庭にはレースのカーテンの隙間からリビングの照明が煌々と漏れていた。明は建物の窓の下の影を伝うようにして、リビングの横にたどりついた。そこからカーテンの隙間を通して部屋の中をうかがった。正装に近いいでたちで仮面をつけた十数名の男女が手に手にワイングラスを持ち、プロジェクターで映し出されたパワーポイントの画面を見入っていた。画面の内容がどのようなものであるかはよく見えなかった。画面が変わるたびに談笑しているように見えた。窓際の男はフラワーホールに、女は胸のあたりのブローチあたりに、あのメソポタミアのバッジをしているようだった。普通の会員バッジのようで陶器製のようには見えなかった。さらによく見ると金文字ではなく、明瞭に見えたわけではないが、おでんの串刺しは斜めになっているように見えた。ということはnかjと明は自分に言い聞かせた。奈津子の姿も見えたが、彼女のバッジがどうなっているかはわからなかった。そもそも全員があのバッジをつけているかどうかも確かではなかった。奈津子は額から後頭部まで禿げ上がった男と何かを議論しているようだった。手振り身振りを交えて話しているようだが何を話しているのかは皆目分からなかった。しかし奈津子の阿修羅のような真剣なまなざしは、はじめてみるものだった。不意に明を、見つかったときの恐怖が襲った。それ以上の収穫はなそうだったし、見つかったら何が起こるか分からなかったし、急に空腹を覚えたので、明はその場を切り上げることにした。キャデラックに戻るとウインドウを半開にして林はカーナビゲーションでMLBのニュースを見ていた。エンジェルスとドジャーズのオープン戦のデーゲームの結果が放送されていた。明が車に乗り込むと「その家、何番地でした?」と林がディスプレイから目を離さずに言った。

「どこに書いてあるんですか?」

「郵便受けか、そこになければ玄関のドアの上か、玄関ポーチの柱の上に」と言われて、明は引き返して玄関の扉の上を見たが書いてない。郵便受けに真鍮の数字が埋め込まれていたが、暗くてよく見えない。見えるところまで近づいて見ると3411になっていた。再び、キャデラックに戻って、林に番号を告げると「今夜はこれで切り上げて、明日知り合いの検視官を通してロス警察に頼んで、住民の情報を聞くことにしましょう。それでは、おいしいステーキハウスに行きますか」と言いながら林がエンジンを掛けた。そのとき明の頭の中を衝撃が走った。その住居番号が奈津子のスカイラインと長田のBMWの車籍ナンバーと同じであるのに気付いた。「すいません。あの家の前に止まっている車のナンバープレートをライトアップしてもらえますか」と林にお願いするとヘッドライトの明かりの中に最後尾の型式の古いドッジのナンバープレートが浮かび上がった。同じ番号だった。

「その前の車のナンバープレートもお願いします」と明が言うと林は車をゆっくりと前進させた。その前の車のナンバーも州は異なるが同じ3411だった。中には前後にアルファベットを含むものもあった。車の型式はいずれもかなり古かった。車が五、六台、固まって駐車している光景はそこでホームパーティでも開かれていれば何の変哲もない光景だった。しかし駐車している車の登録ナンバーが全て同一か、同一ではないものも全て3411を含んでいて、かなりのオールドカーあることに気付けば突如異様な光景に変わる。

「もういいですか?ナンバープレートが、どうかしたのですか?」

「みんな、おんなじ番号なんです。3411」

「アメリカではよくあることですよ。空いていれば、自分の好きな番号を選べますから。割り増し料金を取られはしますけれど。家族や恋人同士で誕生日とか、ラッキーナンバーとかで同じ番号にすることは、よくあることですよ」

「3411って、なんの番号ですか?」

「覚えやすいように、住所と同じにしたのではないですか?」

「集まった人たちは皆、他の州のどこかの町の同じ番地に住んでいるということですか?」

「さあ、そこまでは知らないけれども。でも、そんなに気になるのなら、メモをとっておいたらどうですか?明日、ロス市警の友人に、所有者がどんな人物か、聞いてみますよ」「それに、あそこの車、ずいぶん古いものばかりですよね」

「この車だって、同じくらいの年式ですよ。二十年前や三十年前の車は全く珍しくない。日本と違って、この国では車は乗りつぶすというのが一般的で、エンジンが動く限り、故障しない限り乗り続けるという文化です。何年か前、日本からの留学生に、どうして日本人は車を乗りつぶさないのか、と聞いたらば、車検費用が高い、という答えでした。あと、日本では自動車は重要な資産の一部だという意見もありましたな。この国では車は動けばいいので、床の抜けた車や助手席のドアが開かない車だって平気で走っていますよ。だから、日本のようにまだ走れる車が廃車になるなんてことはありえない」と林は興味なさそうに会話を打ち切った。明はとりあえず、駐車している車のナンバープレートの州と番号をメモした。脳裏に4桁の数字、3411がこびりついた。

 それから夜の住宅街の帳の中をどこをどう走ったのか明には皆目見当が付かなかった。林は住宅街のこんもりとした潅木の中にある小さなタウンハウスの前で車を止めた。店の看板もなく、普通の民家のように見えたが、数台の大型ファミリーカーが駐車していた。「さっき、予約を取ったのですよ。幸運にも、二人分だけテーブルがあいていました」とうれしそうに先に車を降りた林の後に明はついていった。外観も玄関も普通の民家のように見えたが、床が高く、中に入ると民家から壁を取り払ったようなレストランになっていた。先客が五、六組いて、いずれも太いろうそくの薄暗い明かりで食事をしていた。明と林は火のない暖炉の前のテーブルに通された。メニューはキング、クイーン、プリンス、プリンセスの四つしかなかった。それぞれにポンド表示の重さが書かれていたが、明には何のメニューか分からなかった。

「一番小さいのがプリンセス、お子様プライムリブステーキかな。日本人にはこれが適量かも知れないけれど、せっかくだからクイーンサイズにしておきましょうか。一番美味しいのはキングサイズなのですけれど。焼き加減はどうします?私はレアですけれど」

「僕は食べつけていないので、ミディアムにしておきます」

「それなら、ミディアムレアにしたらどうです?レアのほうがおいしいですよ」

「じゃそうします」と答えたところにヨーロッパの村娘のような民族衣装でウエイトレスが注文を取りに現れた。付けあわせをベイクトポテトにして注文すると七、八分で出てきた。クイーンサイズのプライムリブは明が初めて見る大きさのステーキだった。焦げ目が全くなく茹でたようにジューシーな粗い霜降りの走ったピンク色の分厚い肉の塊だった。

「こんなに大きいステーキを食べるのは、生まれて初めてです」と明は心底驚嘆の声をあげた。食べきれるかどうか、全く自信がなかった。

「そうですね。日本のステーキは名ばかりでステーキではなくてビーフソテーですよね。これは1キロ近くはあるでしょう。でもキングサイズはこれよりもっと大きいのですから」明は見ただけで腹の膨れる思いがした。完食できるかどうか不安だったので、拳ほどの大きさの付け合せのベイクトポテトは最後に食べることにした。

 

翌朝、ためらいがちなノックの音で目が覚めた。

「朝食ができました」と言う林の声がした。急いで綿パンと長袖のTシャツをショルダーバックから取り出した。二階の二十平米程のゲストルームから階下の食堂に下りて行った。食堂は玄関と車庫の間にあった。十八畳ほどの広さで、中央に六人掛けの黒檀のダイニングテーブルがあった。天板に蓮の花弁が象嵌されていた。テーブルとバックヤードの間の目の粗いレースのカーテンの脇に月下美人の鉢があった。夫人はスープを出しながら、

「この白いのは去年の夏の夜咲いた月下美人です」と説明してくれた。

「そう。はかない花でね。たった一晩しか咲かない。しかも夜だけ。まさに美人薄命です」と林が眼を細めて鉢を見ながら補足説明する。

「この豚肉といためてあるのも月下美人の花です。息子が好物なんですよ。いまニューヨーク州のロチェスター大学の医学部に行っていますけれど」と言いながら、夫人は明の前にベーグルに添えられたその料理を大皿に乗せて出した。明は昨夜のプライムリブがまだ喉の奥に残っているようで食べられそうになかったが、無理やり口の中に押し込んだ。

朝食後、林は友人の検視官のオフィスに電話をかけた。明は応接間で、林と向かい合って座り、話を聞いていたが、全く理解できなかった。しかし、林の発音はジャパングリッシュとも違うが、明の耳に馴染む声音だった。林は明が昨夜メモしたナンバープレートを読み上げた。電話をかけ終えてから会話の内容を説明してくれた。

「昨夜行った家の住民についての情報をお願いしました。分かったら市警察の方からこちらに電話をくれるそうです。で、ナンバープレートの方は今読み上げましたが、パソコンのメールで送信してくれということなので、そこのパソコンで送信します」と言いながら、明のメモ書きを再び受け取り、部屋の隅の机の上のデスクトップの電源を入れた。

「いまはもう、ぜんぜん仕事はされてないんですか?」とつまらない質問をして、明は自分で気まずくなってしまった。

「ええ。解剖なんて仕事はお金を貰わなければ絶対にやりたくない仕事ですよ。よく、三十年も我ながらやってきたと思いますよ。アメリカ人は内臓脂肪が多くて、腑分けをするのが大変でしたよ。血管も動脈硬化でゴムホースみたいになっていて、こんなんでよく生きていたものだと仰天することが多かったです。そんなようなことを一人ごとのようにテープに録音しながら解剖してそれを助手がタイプしてそれを私が添削してという仕事を飽きもせず営々と三十年もやりました」と林は老眼鏡をかけて、明のメモを見ながらメールを打っている。あまり楽しそうに話しているとは思えなかったので、居候の身分を自覚して明は話題を変えた。「今日は、昨日の晩行った家の住民を調べようかと思うんですが」

「それなら市警からの電話を待ってから行きましょうか」と言う間もなく林はPCメールを送信した。そこで明は思いついたように「3411でWEB検索してもらえますか?」

「そうですな、何かヒットするかも知れないですな」と言いながら林は検索ワードに3411と打ち込んでエンターキーを叩いた。ムカデの子供が巨大な卵から排出されるようにヒットしたサイトがうじゃうじゃと出てきた。

「こんなにあるんですか」と腰をかがめてディスプレイをのぞき素っ頓狂な声で驚嘆した。

「三万件以上ありますな。電話番号、登録番号、掲載番号、ページ番号ということですか」と言いながら林はひとつひとつ画面をスクロールしながら確認し、クリックを繰り返した。

「きりがないですね。他にキーワードがないから、絞りようがないですね。日本に帰ったらいろんな検索エンジンでやってみます」と言いながら明は日本に帰ってからゆっくりと見ることにしようと考えた。

「一昨日から、南條警部のメールが五月雨的に来ているのですよ。あの人、思いつくとすぐ送信するみたいで、今回の件について断片的なメールが、もう十通ぐらいあるのです。まるでメールのジグゾーパズルみたいです。でも、この件についての彼の気迫が伝わってくるようです」と言いながら、林は保存ファイルに格納された南條からのメールの件名リストを明にみせた。件名は通し番号になっているだけで内容は分からない。

「まだじっくり読んでいないのですがあなたにも依頼したが私の方からもこちらの様子お前ルで送信してくれと言うので昨日の状況は今朝あなたが眠っている時間に送信しておきました。すると早速返信があって色々と質問があって、まだ全部には回答していないのですがホスピタリティコンベンションについての調査依頼もありました。年を取ると、早朝に眼が覚めてしまって、一度トイレで眼が覚めると、それからもう寝付けないのです。で、久しぶりの日本語のメールで、いい時間つぶしになりました」と好々爺のように林は話す。

それからしばらくして、林の携帯電話に着信があった。林が出た。どんな会話が交わされているか、明には分からなかった。やりとりが数分の間続いた。電話が終わるとツンボ桟敷の明に林が通訳ガイドのように説明してくれた。

「あの家の住民は、ジェイムズ・ノイマンです」

「ジェイムズ・ノイマン?ということは、イニシャルは、J・Nですね」

「それがどうかしたんですか?」

「バッジです。かれらが胸につけていたバッジが、J・Nなんです」

「バッジにイニシャルがはいるのはよくあることです。ほらエンゲージリングにお互いのイニシャルを入れるでしょう。MLBのワールドシリーズで優勝したチームもイニシャル入りのチャンピョンズリングを作りますよ。肩こりしそうな馬鹿みたいに大きいやつで」「いえ、それがアルファベットじゃなくてメソポタミア文字なんです」

「メソポタミア文字?なんですかそれ?」

「メソポタミア文字でjとnを表す記号を記したバッジを彼らはつけていたんです」

「へー、偶然ですかね。それとも会員証か何かの代わりなのですかね。それで、さっきの続きですが、あそこのノイマン夫婦ともディズニーランドの着ぐるみの職員だそうです。四十代の夫婦二人住まいで、子供はいないそうです。近所や勤務先の評判は悪くないそうです。ただ、旦那の方は少女を自分の車に連れ込んだところを駐車場の職員に何回か目撃されていて、すぐ解放したそうですが、ロリータ趣味があるのではないかと、ロス市警にマークされているようです。本人は迷子の少女を自宅まで車に乗せて行ったと言っているようですが。いまのところ、それだけで、前科はないそうです」

「その、少女というのが気になりますね」

「そうは言ってもこの国では少女の行方不明は日常茶飯で今朝の新聞の訊ね人の欄でも少女の写真が何枚も並んでいましたよ。でもどういう訳か少年も皆無ではないけれど矢張りミッシングガール、少女の方が多いですな。この国には人が滅多に通らないような土地が沢山あってそういう所に死体を投げ捨てたらまず見つからないでしょうな。住宅街を少し抜けるとそういう土地がごろごろしていて、ぞっとするような怖い国柄です。実際未解決の殺人事件が多くて、つかまっていない殺人犯がうようよいるような土地です。殺人事件だと分かればまだいいほうで、死体が発見されないので行方不明で処理されている殺人は、恐らく事件化されたものの数倍、いや数十倍はあるのではないでしょうか」と言う林の話を聞きながら、背筋がエアコンの温風に煽られて凍り付くような悪寒を明は感じていた。

「それから、ナンバープレートの所有者に関する情報は車当たりしているので、もう少し待って欲しいということです。自動検索でやるので、フィンガープリントと同じで、データ量は膨大なんですが、それほど時間はかからないと思います」

 二人は昼近くになって、ホスピタリティ・コンベンションのある直営ホテルと昨夜の民家に再び行ってみることにした。先にレイクウッドに行くことにした。

「車の免許証は持って来ましたか?」と林が走り出して、すぐ聞いてきた。

「国際運転免許証ですか?」

「ええ。この国では免許証と車がないと、生活が成り立たないのですよ」

「時間がなかったんで、国際運転免許証を用意できませんでした」

「南條警部は警察の方だから、お願いすれば、すぐに用意できたのじゃないですか」

「そうかも知れないんですが、所詮ペーパードライバーで自家用車も持っていないんです」

「そうですか。この国ではやさしいことの比喩に運転を使うのですよ。アズ・イージー・アズ・ドライビングって。このあたりは、交通量が少ない住宅街なので、運転免許証の実地試験をよくやっていますよ」

「こんな市街地で車の免許証試験をやっているんですか?」

「私もそれで免許を取得したのです。ペーパーテストが通ったあと、おねえちゃんみたいな試験官がやってきて、私の隣に座って試験開始でした」

「自分の車でやるんですか?」

「そうです。それで縦列駐車やら、なんやら試験されて最後に『Kターン』をやれと言われて何のことだか分からなかった。Uターンなら知っていたのですけれど。でもターンだから、とりあえず車の向きを変えようとして、でも道幅が狭かったので、Uターンができなくて。歩道側に頭を突っ込んで、バックして向きを変えたら、それがKターンだった」

「なるほど試験官もUターンできそうもないからKターンしろと言ったんですね」と言っているうちに昨夜の民家の前に着いた。辺りに高い建物がなく空が広いせいか底抜けの開放感があった。暗い空に抑圧されたような昨夜と比べると印象が全く違っていた。その民家には誰もいないようで生活のしるしがうかがえなかった。時折、空っ風のように自動車が通り過ぎるだけで、人通りが全くなかった。この道路に限らず、自動車に乗っていると滅多に歩行者を見かけない。たまたまマウンテンバイクに乗った少年が通りかかったので、車の中から林が声をかけた。何を聞いているのか、明には全く分からなかった。ひと言、ふた言会話を交わしただけで、赤毛の少年はお尻を浮かせて飛ぶように去って行った。

「昨夜のことを聞いてみたのですが、毎年来ているみたいですな、この時期に。ということは、毎年、ホスピタリティ・コンベンションにあわせて、ここに集まるということなのでしょうかな」と林が短くて太い腕組をして思案しかけたところに携帯電話の着信音が鳴った。林はポケットから取り出して、もどかしそうに受信ボタンを押して聞きながら、

「ナンバーを書いたメモを見せて」と明の顔の前にころころした熊のような手を出した。明がポケットをまさぐってメモを出すと、林はしかめ面でそれを遠目に見ながら携帯電話に聞き入っていた。電話を終えると林は内容を改めてまとめ直して説明した。

「みんな盗難届けが出ているそうです。かなり古いもので廃車扱いだそうです。西海岸と中西部で、みんなここからそれほど遠くはない。と言ってもどこも半日はかかる地域で。ただ盗難届けの主に公立の教育関係者が多い。しかも小学校からハイスクールまでで大学関係者はいないようですな。乗っていたのが車泥棒だとすると、その関係者の集まりだったのですかな。みんな盗難車に乗って。そうか、廃車ということは車検をしていないはずだから、その辺を確認しておけばよかったですな」

「永山奈津子も、あの家の住民も教育関係者ではないですよ」

「そうでしたな。アミューズメントパークと初中等教育あるいは車泥棒の間に何か関係があるのでしょうか」

「あります。集まったのが教育関係者であれば少女です」

「そりゃまあ、そうでしょうけど。少女なんかファストフードのお店にもいますからな。どこにだっているし、テーマパークと学校に限ったものではないでしょう」と林に言われて明は黙った。何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。いろいろなことを考えてみたが思考が散漫になるばかりで、さっぱりまとまらなかった。しばらくして、

「それから詳しいデータはメールでくれるというのであとでプリントアウトしてお渡しします。そろそろ直営ホテルに行って見ますか?」と林の方から声を掛けてきた。

「ええ。これ以上ここにいても、収穫はなさそうですから」

「そう言えば」と林がハンドルをゆっくりと切りながら言い出した。「あの別嬪さん、どこかで見たことがあるような気がしていたのですが。アメリカに長くいると目がアメリカ人的になって東洋人の顔はどれも同じに見えてくるのですが私も初めてアメリカに来てアメリカ人を見た時は違いは髪の毛の色と眼の色と肌の色の違い位で、どの人も同じように見えたものですが、あの別嬪さん、オリエンタルエンジェルの面影があるような気がします」

「オリエンタルエンジェル?」と明は林の横顔を見ながら聞き返した。

「伝説の美少女です。私はその手の趣味がないので、ちらりと見ただけなんですけれど、いまからもう三十年近く昔になりますかな、児童ポルノのスーパーアイドルとして有名でした。その種の嗜好のない私でも知っているくらいですから」

「写真を入手できないですか」と明は俄然興味を示した。

「あの頃から、児童ポルノの当局の取締りが厳しくなって、、まだ、インターネットが普及する前だったので、写真もハードコピーだったと思うので」でも警察にはあるんじゃないですかと言いかけて明はやめた。林が全く興味を示していなかったからだ。林が興味を持っているのなら彼の方からそう言い出すだろうと明は思った。それに林にはお世話になりっぱなしでこれ以上のお願いをすることが躊躇われた。


 明をロスアンゼルスに飛ばした翌日の午前中、南條は黒いハンチングを被って新幹線で大阪に向かった。新大阪で降りて、JRゆめ咲き線のユニバーサル・シティ駅で降りた。BMWの登録者の住所を書いたメモを見ながら、運河沿いの工業地帯をマフラーを首に巻きつけてダスターコートで歩いた。大阪の街中はそれほどでもなかったが、運河沿いでは海風が冷たかった。駅から十分ほど歩いたその住所には、敷地百坪ほどの二階建ての灰色のモルタル造りの外壁に『長田フォトスタジオ』という看板が掛かっていた。壁のモルタルに稲妻のようなひび割れが走っている築三、四十年はたっていそうな古い建物だった。住所をもう一度確認すると、11―4―3となっていた。デジャヴのような感覚が南條の脳裏を捉えた。テーマパーク、湾沿いの運河、周辺に住宅のない店舗、番地。舞浜の番地は1―41―3だったが、使われている数字は同じだった。写真館の入口の周辺を歩いてみたが人通りがなく客が出入りする気配はなかった。玄関に近づいてよく見ると網ガラスのドアのノブに本日休業というプラスティックのカードがぶら下げられていた。その建物の周囲を外側から一回りして確認したが内部に人の気配は感じられなかった。玄関の両側にはショーウインドがあり、七五三の記念写真や結婚式や成人式や見合い用や証明書用の写真などが所狭しと展示されていた。七五三の記念写真に写っている少女に南條の目が止まった。古い写真だった。白黒写真だがセピア色になりかけていた。飴の袋を提げ赤い着物を着ているが目鼻立ちが化粧をしているのではないかと見まごうほどくっきりしていた。丸顔の美少女だが、その顔を少し細長くすると永山奈津子に似ているように見えた。この少女が永山奈津子だとしたら、長田と奈津子はどういう関係なのか?奈津子は土岐明に親戚だと言っていたそうだが、本当かどうか。親戚であればここに奈津子の写真があってもなんの不思議もないと考えながら帰りかけたとき、浅黄色の作業服を着た5分刈りの中年の男がママチャリに乗って演歌のような鼻歌を歌いながら通りかかった。

「すいません」と南條は声を掛けた。無意識のうちに警察手帳を取り出して見せていた。

「ちょっと、おうかがいしたいんですが」

男は一瞬おびえたように首をすくめ、関東弁と警察手帳に少し気色ばんだ様子だった。男はチャコールグレーのイージーパンツの片足を地面につけた。

「この写真館ですが、ずっと休業ですか?」

「よう知らんがその筋のおっさんがやっとんのとちゃうか?前は家族でやっとったけど」

「女性はいないんですか?」

「ばあさんとかみさんがいたみたいやけど、ばあさんの方は昔小学校の先生やっとったらしいが、もう定年とちゃうか。かみさんのほうは、USJの掃除婦かなんかをやってるっちゅう話や。ほな」と言い捨てて男はペダルを踏み込んだ。さらに、質問しようとしたが、男はそれをさえぎるようにして走り去った。

それから南條は区役所に寄り長田尊広の戸籍と住民票を調べた。母親の浪江と配偶者の規子の三人暮らしだった。父親の隆は十数年に死んでいる。区役所を出たあと、南條は明石まで足を延ばした。隅田川に入水したらしい女子高校生の父親が三十年近く勤務していたという三州瓦の工場は港の近くにあった。正面入口に低い常緑の生垣があり、ロゴつきの社名プレートををはめ込んだ礎石の周りに三本の旗が立っていた。中央が日本国旗、両脇が社旗になっていた。通りからは何の工場か分からないが、裏手の製品置き場に回ると、銀鼠や濃紺や赤茶色の瓦が山積みになっていて、そこが瓦製造工場であることが分かった。 

製品を野ざらしにしていいものかと不審に思ったが、外に置いておけないようなものは瓦にゃならんか、倉庫は必要ないということかと南條は自分で自分を納得させた。工場を一回りしたあと正面玄関に向かった。入口は門構えになっていて3階建てのビルではあったが入口が小さな切妻の瓦屋根になっていた。見上げると屋上も半切妻屋根になっていた。建物全体が嵌め殺しの大きな窓で覆われている造りとの言いようのない不調和を感じた。南條は観音開きの自動扉から受付に向かった。受付に丸い顔をした化粧の濃い若い女が、茶封筒に宛名書きをしながら座っていた。南條が「昨年、東京の支社に転勤した水野という社員について、尋ねたいことがあるんですが」と警察手帳をちらつかせながら言うと「水野のどんなことについてお尋ねでしょうか?」と関西訛りで受付嬢が聞き返してきた。

「まあ、とくに何ということではないんですが」

「では、人事課の者でよろしいですか?」と目をしばたくとマスカラが落ちそうになる。南條は、誰でもいいと言いかけたが呑み込んだ。

「ええ、人事課の方で結構です」

「それでは、しばらくお待ち下さい。すみません、お名前を頂戴できますか?」

「東京の墨田署の南條といいます」と言いながら南條は名刺をとり出した。

「東京の刑事さんですね」と受付嬢は確認して内線で人事課を呼び出した。「今すぐきますのであちらにお掛けになってお待ち下さい」と受付嬢は傍らの応接セットを指し示した。言われるまま南條は黒い革張りのソファに腰掛けた。そこから壁全面のガラス越しに玄関前の人工池が見えた。池の中には色とりどりの小ぶりの鯉が泳いでいた。ピースを吸おうとポケットから取り出して、ジッポライターで火をつけようとしたところに声が掛かった。

「お待たせしました。人事課の有馬と申します」と小柄な三十代の男が両手を添えて名刺を差し出した。南條もピースを口に加えたままジッポライターをガラステーブルの上に置き、ズボンのポケットから名刺入れを出した。名刺交換を終えて二人はガラステーブルを挟んでソファに腰掛けた。南條は受付を背にして、有馬は玄関のガラス扉を背にしている。

「で、お尋ねのことはなんでしょうか?」

「実は、去年の三月までこちらに勤務されていた水野さんのお嬢さんが、昨年夏に東京で亡くなられたんですが、ご存知でしょうか?」

「高校生のお嬢さんですか?それは、知りませんでした。お悔やみ申し上げます。当方としては、既に昨年三月に退職された方なので、その後のことは全く存じ上げていません。在職中であれば、当然、職員組合の方から、弔慰金が支払われますが」

「えっ、退職されたんですか?東京支社で営業課長をされているんではないんですか?」「東京には支社はありません。それに営業課は本社だけで、東京は支店に販売課があるだけです」と有馬は語尾のイントネーションを少し上げて言う。

「で、昨年の三月に退職されたということですが、定年で、ということですか?」

「いえ、弊社の定年は六十で、水野さんの場合はまだ六十前で自己都合だったと思います」

「どういう自己都合だったんですか?」

「さあ、詳しいことは存じあげておりません」と言う有馬の顔を南條はまじまじと見た。この社員が嘘をつく動機はないから水野の妻が嘘をついているのか?水野の妻は水野が腰を痛めて、東京支社の営業課長に転出したと言っていた。亭主が女房に嘘をついているのか?夫婦の間で定年がらみの嘘が1年近くもの間、ばれないものか?自己都合での退社を隠したい理由があるということか?あるとすれば、それは何だと記憶を引き出し、有馬の証言と照らし合わせた。思考を巡らせながら、収穫のあったことに旅の疲れがいくぶん癒される思いがした。しばらく会話が途絶えた。有馬の目が落ち着きなく動いている。南條は有馬の名刺をしげしげと眺めながら質問できることがないか考えた。「つかぬ事をうかがいますが、有馬さんは愛知の本社の人事部からの出向なんですか?」

「いえ、十数年前までは、この工場には人事課はなかったんです。人事課ができたのは、工場労働者の一部を派遣に切り替えるようになってからです。まあ、厚生年金の負担や福利厚生費や退職引当金を削って、人件費は安くなったんですが、人の入れ替わりが激しくなって、いろいろとこちらで管理したり、指導したりしなければならないことが多くなったので、人事課が必要になったということです」

なるほどというように小さくうなずきながら、南條はメモ用に取り出した市販の手帳に水野・自己都合退職とだけ書き込んで、ポケットにしまった。「どうも、お忙しいところありがとうございました」と南條は別れの挨拶をしながらも、質問すべきことがまだあるのではないかと考えていた。首をかしげているその様子が有馬には分かったようだった。

「また、何かありましたら、ご連絡下さい」

南條は、薄くなった後ろ髪を引かれる思いで、分厚いガラス張りの自動扉の外に出た。ハンチングを被りなおして振り返ると、有馬が受付の前で、もう一度お辞儀をしていた。南條は有馬の視線から逃れるように道路を右に折れ、先刻見た工場裏手の製品資材置き場に再び向かった。潮風が黒いハンチングからはみ出たぼさぼさの髪をもてあそんでいた。その潮風に乗って三州瓦をパレットに載せたオレンジ色の車体のフォークリフトがモーターをうならせて南條を追い越した。南條はフォークリフトの運転手に背後から声を掛けた。「すいません。ここの派遣社員の方ですか?」

運転手は浅黄色の作業帽の鍔の下からむっとしたような目付きで片目だけで振り返った。「いや、正社員やけど」

「お仕事中申しわけないですが、一、二分お話してもいいですか。こういう者ですが」と言いながら、南條は小走りにフォークリフトを追いかけ、警察手帳の頭を運転手に見せた。「いやあ、いま仕事中なんや、あと五分ぐらいで、終わるさかい、このへんで待っといてもらえんか」と運転手は、警察手帳をちらりと見た。モーターの回転音を高めて、パレットが山積みになっている資材置き場の奥へ走り去った。南條は待つことにした。待っている間、改めて工場建屋を見回した。工場の屋根には灰白色のスレート瓦が葺かれていた。灰白色の壁面には、大きくロゴと社名が書かれている。敷地は千坪ほどで、工場の建坪は五百坪ほどで、事務所は百坪ほどの土地に3階建てになっていた。残りの土地は、資材と製品の置き場と駐車場になっていた。セピア、青緑、黄金、チョコレート、銀黒、銀鼠、銀赤、黄土、浅黄、青銅、鶯、赤茶、桃など、色とりどりの瓦が色ごとに起伏の激しい山並みのように積まれている。ひんやりと湿った風が潮の香りを含んでいた。工場の背後に広がる港が鼠色の海の臭いにまみれていた。南條が四方をものめずらしそうに見渡していると先刻の運転手が作業服のまま現れた。肩から黒いランチボックスを掛けていた。

「お待たせしました。歩きながらで、ええですか。旦那も駅へ向かうんとちゃいますか?」「それじゃ、駅まで」と南條は、くたびれたタウンスニーカーで運転手に並んだ。運転手の太い首筋は、こげ茶色に日焼けし、深い溝のような皺が二本刻み込まれていた。

「ところで、昨年の三月に退職された水野という人をご存知ですか?」

「ああ、水やんね。よう知っとりますよ」

「自己都合で退職されたということを、人事課の有馬さんから聞いたんですが、詳しいことをご存知ですか?」と南條は有馬という名前を強調した。事情聴取では固有名詞や人名が効力を発揮することが多いという経験を持っていた。その問いに運転手の足が止まった。彼は、改めて南條の顔をしげしげと見つめた。「なんかあったんでっか、水やんに」

「ええ、昨年の夏、東京でお嬢さんが亡くなられて」

「ああ、高校生の子やな。それは、ご愁傷様です」

「で、退職したわけは」と南條が聞くと、運転手は話すことを決断したかのように、ゆっくりと歩き出した。「まあ、魔がさしたんとちゃいまっか。ゆうて、ええのんやろか。まあ、わいが言わんといても、そちらさんで調べればどの道、分かることやと思うけど」と運転手は自分が情報を洩らすことの損得を狭い額の奥で計算しているようだった。「わいがゆうたちゅうことは、言わんといてもらえまっか?」

「わかりました。約束します」と言いながら南條は運転手の目を見た。二人は工場街の通りの労働者で溢れた横断歩道を渡りながら、会話を繋いだ。

「水やんは会社の金に手ェつけたっちゅうことや。結構な金額で、明石の自宅を売っても追いつかんかったらしい。それ以上くわしいことァ知らんけど。町金やら闇金やらに手ェ出して、全額弁償するゆうことで刑事告発を免れたっちゅう噂や。まあ、会社も、金は戻ったことやし、ええ話やないし、会社の評判落とすんで、表沙汰にしたくなかったんやろと思うけど。刑事さん、お願いやで、わいがゆうたっちゅうことは、内緒やで」

 二人はJR山陽本線の明石駅で上りと下りに別れた。フォークリフトの運転手は姫路方面、南條は大阪方面に向かった。大収穫があったと言えるかどうか不確かなまま南條は梅田から御堂筋線で本町まで行き、そこで堺筋線に乗り換えて谷町四丁目で下車し、中央区大手前の大阪府警に立ち寄った。少年課の担当者の小関にUSJ関連の気になる事案について情報を得ようとしたが、ていよく追い払われかけた。本当に情報がなかったのか、権力が集中している東京が嫌いだからなのか、理由は分からない。それでも、南條は帰り際に長田尊広の情報を伝え、メールアドレスを教えて、身辺調査の送信をしつこく依頼した。

「これはとてつもないヤマかも知れない」と南條が耳打ちすると、担当の刑事は多少眼の色を変え、やる気になったような素振りを示した。夕方になって、その担当者の小関と梅田の地下の飲食店街に行き、名物の串かつをカウンターで食べた。生ビールを呑みながら、ともに譴責、訓戒、謹慎、減俸処分の回数を自慢しあい、ノンキャリの悲哀で意気投合した。南條の権力に対する反骨精神は持って生まれた性格のように見受けられたが、小関のそれには様々な要因が夾雑していた。南條は長田に関する疑惑を小関にしつこく説明し、南條が欲しい情報の提供を小関に確約させて東京に戻った。


 土曜日の昼間、自宅のアパートで南條はメモを書いた。明に見せる目的もあったが、ついでに情報を整理する目的もあった。直感には自信を持っていたが、論理的な推理能力にはやや欠けることを自覚していた。調書の作文はとくに不得意だった。この能力が一人前であれば、大学にも進学できただろうし、警部の昇任試験を受けようとする気にもなったであろうし、数々のこまごまとした反抗的な不祥事をしでかしたとしても定年間際には警部に昇格できていたかも知れない。夕方になって、赤い軽自動車で近所の格安のスーパーマーケットで買い物を済ませ、自宅アパートに帰ってきた南條が荷物を下ろしたところに携帯電話が鳴った。明からだった。「土岐です。いま成田に着きました。これから安禄山に直行すると七時を過ぎたころになりますが、どうしますか」という問い合わせだった。

「よし、先に行って待ってる」と答えてから、安禄山に予約の電話を入れた。

「警部。予約でいっぱいです」という主人の返答だったが「カウンターの隅の荷物置き場になっているところでいいからさ。そのうち帰る客もいるでしょ」と強引に予約をとった。

 南條は七時少し前に墨田署に立ち寄った。アナハイムの林にメモ書きと同じ内容のメールを送信した。林からのメールはなかった。それから安禄山に向かった。着いたのは七時半近かった。。店は既に満員だった。老婆がてんてこまいで、南條に挨拶すらできない状況だった。南條は自分でカウンターの上の新聞や週刊誌や郵便物などの荷物を片付けて、そこに席を作った。その気配に気付いたのか、主人が調理場のほうから「警部。空きができたらすぐ席を作りますから。あっすいません、警部補」と声を掛けた。

「もう警部でいいよ。どうせ、すぐ定年だ」とつぶやきながら、南條はタバコに火をつけ「とりあえず、生ビール」と言いながら、長袖のポロシャツの胸ポケットから、昼間書いたメモを取り出すと、もう一度確認してみた。

―大量偽装少女殺人?自殺?→犯人?=永山奈津子?長田尊広?/証拠?=メソポタミア文字jかnのバッジ?/関連情報=ナンバープレート3411・整形クリニック・写真館・テーマパーク・風邪の意味?―

 結局全ての情報にハテナマークがついている。事件の確信はあるものの、証拠という観点からは事件性そのものが疑問だった。南條には長年の勘から、事件性に一抹の疑念も抱いていないが、事件であるとの証拠がなかった。それに、南條には事件の絵図がおぼろげにすらも描けなかった。生ビールをなめるように呑みながら、昼間、紙片に自分で書いたメモが、メモにすらなっていないことに気付いた。暗澹たる思いで生ビールを流し込んでいると、八時近くになって、明がのれんを潜って入ってきた。

「よう、ご苦労さん」と言われて、明はショルダーバッグを肩から下ろした。座るところがないのでおろおろしていると、老婆が調理場から丸椅子を持ってきた。親切というよりは、そこに立っていられると邪魔という感じだった。明はとりあえず狭いカウンターに貼りついてはみたが、そこには小皿や小鉢やコップなどの瀬戸物が山積みになっていた。「まあ、とりあえず、無事の帰国を生ビールで乾杯だ。おばさんよろしく」と南條が声を掛けると、老婆は明の顔を見ながら震える手首で生ビールをジョッキに注いだ。明はそのジョッキを置くところもないので、持ったまま素早く飲み干した。背筋に悪寒が走ったが、喉が乾いていたのでうまかった。その明に南條は昼間書いたメモを見せた。それを見て、明も、ショルダーバッグを膝の上に乗せ、そこで手帳のページを一枚破りながら、メモを書き始めた。最初の1枚を南條に見せた。

―大量行方不明少女=失踪?殺人?→犯人?初等中等教育関係者+テーマパーク職員=?オリエンタルエンジェル=永山奈津子?―

 南條は説明してくれと言いたげにメモから目線を上げ、時差ぼけ気味の明の目を見た。「アメリカでは大量の行方不明者がいて、一番多いのは少女です。一説では変態者の犠牲になっているのでは、というのがあるらしいんですが、確証はありません。その犯人が初等中等教育者と書いたのは、永山奈津子がディズニーランド職員の家で、十数名のそういった人たちとひそかに会っていたからです。仮装パーティーみたいでした。殺害の方法は違いますが、少女大量殺人疑惑という点ではこちらと同じではないかと思います。また、林さんの記憶では、永山奈津子に三十年ほど前にオリエンタルエンジェルというニックネームで、児童ポルノの世界で有名になった幼女に面影が似ているような気がするとのことでした。それから、これが林さんからもらったロス市警のデータのプリントアウトです」「うーん。全て確証なしというところか。こっちと同じか。そのプリントアウトはいいよ。しまってくれ。俺はノンキャリだから、英語はからっきし、ぜんぜん駄目なんだ」  

次に明は、切り取った紙に―メソポタミア文字=nかj―と書いて説明した。「実は、夜目、遠目で、はっきり見たわけではないんですが、感じとして例のメソポタミア文字は斜めになっていたのでnかjです。確認したわけではありませんが、その家に集まった全員がそのバッジをつけていたようです。でも金文字ではなくって陶器でもないようでした。それに、その家のあるじの名前はジェイムズ・ノイマンで、頭文字がJ・Nで一致します」と言いながら、明はさらに続けてもう一枚書いた。

―3411=住所+ナンバープレート―

「なんだ、これはこっちと全く同じじゃねえか」

「そうなんです。奈津子が連中と密会した民家の住所番号が3411でそこに集まってきた五、六台の車のナンバーが州は違うんですが、全て3411でした。その集会は毎年、同じ家で同じ時期にやっているそうです。同じ時期というのはホスピタリティコンベンションのあるときです。一晩だけですけど。その家の住民はディズニーランドで着ぐるみの仕事をしているそうです」

「その、ホステス・コンバンワってえのはなんだ?」

「いえ、ホステス・今晩は、ではなくってホスピタリティ・コンベンションです。企業研修会のようなものでしょうか。いかに客に接遇するか?まあ、サービス業の真髄を討議したり、報告したりする会のようです。まあ、テーマパークというのはリピーターがいないとゴーイング・コンサーンとして成立しませんから、そういったことが重要になるんだと思います。とくに、アナハイムから始まって、フロリダ、東京、パリ、ホンコンと世界展開してきたんで、文化の違いでホスピタリティの概念が異なるとか。そんなようなことを」

「昼間はそういう会議に参加して夜は大量少女殺人の相談てえことか?」と言いかけたときに、三人連れの客が勘定を済ませて、出て行った。テーブルは片付いていなかったが、二人は老婆の仕事を手伝いながらその席に移った。

「明日の日曜日、TDLに行って見ようかと思うんですが」と明が椅子を引き寄せながら提案した。南條が聞く。「行ってどうする?」

「もう一度、永山奈津子に会ってきます」

「逢ってどうする?」

「気付かれないように尋問してみます」

「それは無理だ。お前はどしろうとだ。尋問はできるかもしれねえが、気付かれるから、奈津子は答えないか嘘をつく。間違いなく失敗する。それに明日は代休で休みじゃないか」

「いえ、成田からの電車の中で電話で確認したら、明日出社するそうです」

「わかった。逢うのはいいが、尋問するのはやめとけ。やぶへびだ。こっちはまだ何の証拠も集めちゃいねえ。気付かれて湮滅されたら元も子もない」

「分かりました。それじゃ尋問はやめときます。でもそれとなく言ってみて彼女の反応を見てみます。それから唐突なんですが永山クリニックの住所の1の41の3と3411のナンバープレートは何か関係があるんでしょうか」そう言われて南條は初めて苦笑いした。「お前も気づいてたか。偶然にしてはあまりにも数字が一致しすぎている。長田尊広の大阪の住所も11の4の3だ。出てくる数字が1と3と4だ。しかし、なんの脈絡もない」

 それから南條と林の出会いと友情の話に移った。南條が保険金殺人事件の証拠集めでロスアンゼルスで林と出会い、戦後の日本人が失った琴線の認識で意気投合した。台湾人の林がなぜそれほど日本人を憎んでいないのか、という話題から、日本軍の植民地政策の是非に発展した。朝鮮半島の人々がいまでも日本人を憎む理由は、陸軍の植民地政策が徹底した差別政策と朝鮮民族の民族性にあったと林は説いた。台湾人が日本人を朝鮮半島の人々ほど憎んでいない理由は、国際性豊な海軍の非差別的な植民地政策と戦後台湾を統治した国民党軍の本省人差別の政策にあったと林は主張した。最後に二人は戦争は民族差別から始まるという見解で一致した。そういう話が延々と続いた。疲労と時差とアルコールで明は朦朧としてきて、南條の話が間歇的に次第に遠くなるのを感じていた。結局、その晩は記憶を失い、どうやって自分のアパートに帰宅したのか記憶がなかった。


 晴れ渡った三月最初の日曜日の朝遅く、朝食も取らずに昼近くになって明はTDLに向かうことにした。アパートを出るとき亜衣子を誘うかどうか迷った。誘えば来るような気がしたがカネがなかった。それに奈津子に出会ってから亜衣子がなんとなく重たく遠く色あせて感じられるようになっていた。うきうきするような軽い感覚が消えて、じめじめするような湿っぽく重い心情が芽生えていた。いずれにしてもカネのないのが絶対的な制約だった。亜衣子は男の面子を立てるという心遣いからか、ワリカンにしようとは絶対に先に言ってこなかった。それに誘う方がワリカンとは言いづらい。交通費の出費も痛かった。前回の分は近郊出張扱いで出ると亜衣子は言っていたが、結局深野の承認が得られなかった。今日の分も自腹を覚悟しなければならない。それでも奈津子がジェイムズ・ノイマンの家で何をしていたのかを明らかにしなければならないという思いが明にはあった。

それにしても、あの運転手は何者か?安禄山がトルコ系だと主人が言っていたが、あの運転手もトルコ系と言われれば、そう思えないこともないと考えながらJR京葉線で舞浜に着いた。ゲートで、さっそく奈津子にもらった年間パスポートを使ってみた。入園できたので本物であることが証明された。入園してから、前回、舞浜駅から掛けた固定電話の番号を呼び出して繋いでみた。「あのう、土岐と言いますが、永山さんはおられますか?」

「永山はいま、ランドに出ておりますが、永山の携帯からそちら様にかけなおさせますので、お電話番号を頂戴できますか?」

「いえ、それでしたら結構なんですが、永山さんは何時ごろお戻りですか」

「今日は、午前中は迷子係りで、午後は夕方までランド内を巡回していると思いますが。なんなら永山の携帯の番号をお教えしましょうか」

「いえ、結構です。知ってますので。歩きながら永山さんを探します」

「そうですか。5分ぐらい前にアドベンチャーランドから業務連絡があったので、彼女時計回りに移動するので、いまごろは、ウエスタンランドあたりではないかと思うのですが」

明は電話を切った。奈津子はこの広い園内のどこかにいる。携帯で連絡を取れば一発で場所を確認できるが、その後をどうするか?電話をした後でいろいろなことをどうやって聞きだすか?しかし、こうしていてもらちが明かない。とりあえず、会ってみて状況を見定めて聞き出すか?その前に奈津子の働き振りを遠くから見てみるか?ロサンゼルスのアメリカ人の着ぐるみと奈津子のスノーホワイトの衣装に何か関係があるのか?何かヒントが分かるかも知れないと思ったが、心の深層では奈津子とじかに接する準備がなく、遠くから見ていたかったのが明の無意識の本音だった。

 アドベンチャーランドは三月最初の日曜日にもかかわらず、以前亜衣子と来た日曜日ほど混んではいなかった。まだそこにいるかも知れないので、明はなるべく通りの右側の建物の縁に沿って縫うように歩いて行った。とりあえず足早に一周してみて、見つからなければワールドバザールから逆時計回りに探すつもりだった。それでも見つからなければ最後の手段として携帯電話で連絡を取ることに決めた。何を、どう聞き出すかも、考えながら歩いた。アドベンチャーランドにはそれらしい姿は見かけられなかった。明には遠目でも一目で分かる自信があった。ウエスタンランドを通り過ぎて、クリッターカントリーに左折するか、ファンタジーランドへ右折するか迷っていたとき二十メートルほど先のその分岐点の中央に白雪姫の姿を認めた。派手なヒヤシンスブルーのプリンセス型ワンピースの姿形から遠目にも奈津子に違いなかった。空飛ぶダンボとキャッスルカルーセルの間あたりで、少し前傾姿勢になって、家族連れに道案内をしているようだった。その家族連れがクリッターランドへ歩き去ると、左右を見回しながら通りをジグザグにゆっくりと踵から先に地面につけて歩き始めた。始終下を見てゴミがあるとすぐ拾い、近くのゴミ箱へ持っていくという動作を繰り返していた。あるカップルはアリスのティーパーティーの前で彼女にデジタル・カメラのシャッターを押してくれと頼み、別の若い男の二人連れは、ピノキオの冒険旅行の前で代わる代わる奈津子と腕を組んでデジタル・カメラの写真を撮り合っていた。かと思えば、プーさんのハニーハントの前で青年三人連れを彼らの携帯電話3台でそれぞれ写真を撮っている。それから奈津子を中央に、二人がその左右に代わる代わる立ち、交代で写真を撮り合っている。なるほど、これがホスピタリティかと明は感心しながら、彼女に声を掛けるチャンスをうかがっていた。そのときだった。奈津子の五メートルほど先を中学生くらいの男の子と腕を組んで歩いていた小学校高学年の女の子がトゥーンパークの前で紙くずをポイ捨てした。奈津子は小走りして、それを拾い上げると、さらに小走りしてその女の子をグーフィーのはずむ家の前で追い越して振り向いた。

ゴミをすてないでとでも、注意するのかと明はうかがっていたが、奈津子は腰をかがめ、女の子の目線で女の子の前に立ち、手を後ろで組んで後ずさりをしながら、口を結んでにこやかにしているだけだった。しかし、目は笑っていない。女の子の顔をじっと見つめているだけで、話しかけているようには見えない。二、三歩後ろ向きに歩いたところで奈津子は踵を返した。後ろ手にさっきの紙くずをもっているのが見えた。そのまま彼女はスーベニア・ショップに立ち寄った。入口は回転扉で、先に十歳ぐらいの男の子が勢い良く飛び込んで行った。その後ろの若い女性が回転扉に挟まりそうになって「きゃっ!」と叫び声をあげた。奈津子はさっと近寄り、回転扉の動きを抑えた。それからその若い女性を回転扉の中に送り込んだ。自分自身もその後に続き、店の中に消えた。店内の様子はガラスに外光が反射して、外からは良くうかがえなかった。明は十メートルほど手前の別の回転扉から、店内に入ることにした。店内は身動きのできないほどではなかったが、家族連れやアベック客で溢れていた。かれらがブラインドになって奈津子の様子を程よく観察することができた。彼女は回転扉の手前で店の外から入ってくる客に挨拶をしていた。そのなかに先刻の男の子のように勢い良く回転扉を回転させて店内に駆け込んでくる中学校低学年の女の子がいた。その少女が店内に入ってくると、先のポイ捨ての女の子にしたのと同じように、少し前かがみになり、女の子の目線で前に立ちふさがり、口を結んだまま、にこやかに腰を折っている。先刻と同じようにやはり目は笑っていない。回転扉はゆっくりまわしてと注意するのかと明は見ていたが、その女の子のいかにもなれない化粧をしたという顔を凝視するだけで奈津子が話しかけている様子はなかった。口頭で注意するとホスピタリティの精神にもとるということか?注意は無言で相手の目を見てにこやかにということかと明は勝手に解釈した。

 奈津子はその店を出るとトゥーンタウンのレストラン街に向かった。さっきと同じようにゆっくりと踵からジグザグに歩き二階建てのレストランに入った。そのレストランには旧式のスケルトンのおもちゃのようなエレベータがあった。子供たちが面白がって飲食もせずに乗り降りしていた。奈津子はそのレストランに入るとテーブルの間を舞うようにして歩いた。やがてエレベータに乗ろうとすると、先に乗った高校生らしいソバージュの茶髪の女の子がこちら向きになったまま、閉じるボタンを押して奈津子の目の前で扉を閉じた。奈津子はかたわらの螺旋階段を駆け上りながら、体の向きを回転させてスケルトンのエレベータの中の少女を見守るように見つめ続けた。目の前で扉を閉められてカチンときたのかと思いつつ、ゆっくりと上ってゆくエレベータに沿って、螺旋階段を足早に回転しながらにこやかに上っていく奈津子を目で追った。奈津子の微笑みの中に名指しがたい妖しいものを感じていた。やはり目は笑っていない。あの表情は職業的に取り繕っているのだろうが何故エレベータの女の子を追って行くのかと疑問に思いながらあることに気付き背中に凍りつくような戦慄が走るのを覚えた。女の子ばかりと確認するかのように明は呟いた。見たくないものを見てしまったような気もした。毒リンゴを持つ魔法使いの老婆のイメージがオーバーラップした。次に奈津子に相対したとき自分の気持ちがどのように変わっているのか推測できなかった。暫くして奈津子が螺旋階段を下りてくるのを見届け、明はトゥモローランドを経由してワールドバザールに戻った。スウィートハートカフェの前で意を決して奈津子を携帯電話で呼び出してみた。呼び出し音が三回して出てきた。

「はい、永山です」という事務的でしっかりした話し方に明は気後れを感じた。「あのう、先週お会いした統計研究所の土岐ですが」

「土岐様ですか。先日はどうも」と言われて、明はどういうべきか、言葉につかえた。

「どうかされましたか」という艶のある声音ににこやかな彼女の表情が容易に想像できた。「じ、実は、い、いま、TDLに来たところなんです」と言葉を噛んでしまうのは、うそを言うとき、どぎまぎして言語中枢を制御できなくなるという明の癖だった。

「どちらのあたりですか」

「ま、まだ入口をはいったばかりのところで」と自分でもいやになるほど舌がもつれた。「そうですか。ではメインストリートの真ん中あたり。アイスクリームコーンとリフレッシュメントコーナーの間あたりにいていただけますか。すぐにうかがいますから」と言って電話が切れた。明は携帯電話を耳に押し当てたままだった。所在無く、ランダム・ウォークする人々が途切れたあたりを見回していた。暖冬の日曜日のせいか、家族連れが多かった。中高年の父親、それより少し若そうな母親、子供は二十前後から三歳ぐらいまで、男女様々だった。たった一人だけという入場客はいない。一分も二分も所在なげに立ち止まっている人もいない。明は周囲の人々から自分一人が際立って浮いている感覚を強く持った。奈津子が来るまでに、何を質問するか考えようとしたが、旅の疲れのせいか、軽い二日酔いのせいか頭がからっきし回転しなかった。五、六分して奈津子が現れた。髪のセットにほとんど乱れがない。かろうじて額のあたりに一本だけ、産毛のような短い髪が冷たい微風に揺れていた。髪を飾っているティアラは贋造に違いないだろうが正真正銘のTDLのヒロインのような雰囲気があった。華やかな雰囲気が明にもたらされ人々の視線を集めていることに気付いた。少女大量殺人に関係があるとは微塵も感じられなかった。永山奈津子が殺人に関係があるという想定は誤りかも知れないと明は真剣に思った。

「お待たせしました。今日はどのような御用向きで」と純白の前歯を少しのぞかせて、軽く息を切らせて奈津子が言う。早足で来たに違いなかった。

「いえ、先週うかがったばかりなのでとくにありません。呼び出してすいません。じつは、この間の運転手の方にちょっとお聞きしたいことがありまして」と明は言ってしまった。言いつくろういとまも、心のゆとりもなかった。奈津子を見ていると思考回路が硬直し、考えていることが、そのまま口から出てしまった。

「どのような、質問ですか。私ですむようなことなら、お答えしますが」と言う彼女の人の心を拘束するような瞳の動きを見ながら、初対面のときと同じ篤い好意を抱いていることを明は感じていた。「いえ、ぜひご本人にお会いして」

「そうですか、呼び出すのに少々時間がかかりますが、よろしいですか」

「ええ、構いません」

「それでは、あまりお見せしたくないんですが、事務所のほうにご案内します。こちらへどうぞ」と奈津子は明の手を引こうと、静脈が薄っすらと透けて見える手を差し出した。「このへんのレストランで。そこの『れすとらん北斎』でお待ちしていても構いませんが」と明は奈津子の手をとっていいものかどうか、躊躇した。

「いえ、そうもいかないでしょう。すぐそこですから」と明は案内されるままに、キャラクターショップの2階の事務室の隣の応接室に通された。暖房がきいていた。確かに人々に夢を売る業態の事務所の応接室にしてはインテリアも平凡でありふれていた。どこにでもあるような応接セットだった。外部の夢と内部の現実の落差が犯罪のように際立っていた。これとよく似たデジャヴ感覚を京都の太秦か日光の映画村かどこかで持ったことを思い出していた。表は夢のような嘘の世界、裏は無味乾燥な真実の世界というSF感覚がよみがえった。奈津子はその部屋に明を残して消えた。外部の喧騒から隔離され、一人にされた明はたとえようのない寂寞に襲われた。しばらくして、紙コップのアイスコーヒーを持って奈津子が晴れやかに現れた。「ショップと同じものですが、とりあえず、召し上がって下さい。運転手は今呼び出しましたので、十分もすれば参ると思います」

明は喉が渇いていたので、ストローも使わずに出されたアイスコーヒーをブラックのまま一気に飲み干した。奈津子は目を大きく見開いて、びっくりしたように微笑んだ。

「お水もお持ちすればよろしかったですね。おなじアイスコーヒーでよろしいですか」

軽い二日酔いののどの渇きは多少和らいだが、コーヒーを十分に味わっていなかったので、明は素直にお願いした。奈津子は再び室外に消えた。先刻の寂寥が再び襲ってきた。水分補給が十分だったようで、明は静寂の中にほっとした心持を感じた。朝から何も食べていなかったので、アイスコーヒーが胃壁を経由して体中に染み渡って行くような錯覚を覚えた。おまけにあまりの空腹のせいか、体中から力が抜けて行くような気もした。

「はい、どうぞ。少し、濃い目に淹れてあります」と言いながら、奈津子が戻ってきた。明は今度はガムシロップとミルクをたっぷり入れて、空腹を満たすようにストローで飲み込んだ。冷たい液体が喉から胃の中へ流し込まれるのを体感したが、空腹の方は一向におさまらなかった。奈津子と一室に二人だけでいることの言い知れない充足感を味わいながらも、空腹のせいか次第に手が小刻みに震えだした。ソファに寄りかかって座っていることさえやっとという状態になってきた。やがて体の中からストンと力が抜けて落ちて行き、座っている体勢を維持できずに、右側へ崩れるように倒れこんだ。ソファの中に体が融けて染み込んで行くような感覚があった。明の意識はそこで途切れた。


 激しい頭痛がした。頭痛は後頭部の下の方、盆の窪の辺りだった。ずきずきと血流がその辺で波打ち鋭い裂傷のような痛みも伴っていた。その疼痛の上にガーゼと絆創膏が当てられていた。薄く目を開けると白い壁紙が見えた。足を動かすとシーツがすれる音がする。他には何も聞こえてこない。激しい痛みをこらえて寝返りを打ってみた。かすかにベッドが軋んだがスプリングはないようだった。反対側も白い壁だけだった。起き上がれるか試してみたが、皮膚が裂けそうな激しい痛みがそれを拒んだ。足と手をゆっくり動かし、激痛に耐えて寝返りを打つこと以外は何もできそうになかった。あまりの痛さに仰向けに寝ることもできなかった。盆の窪あたりの痛みにようやく慣れてくると激しい空腹に襲われた。周囲の白い壁がマジックハウスのように回転しているように感じられた。体が軽く、胃の中に何もないのがわかった。目を開け続けていると、あたり一面が激しくビックリハウスのようにぐるぐると回りだした。目を閉じても体の芯が回転を続けているような気がした。遠くの方で男と女が何かを言い争うような声が聞こえた。断片的な声から内容はよく分からなかった。やがて足元の方からドアの開く音が聞こえた。誰か入ってきた。こつこつという革靴の足音が、明の目の前で止まった。白衣を着た男だった。少し見上げると見覚えのある運転手だった。長田尊広という名前を明はまどろむように思い出した。

「もう一晩、痛みがきついはずだ。あしたになれば、多少痛みはあるものの、生活に支障はなくなる。口を動かすと痛いかも知れないが、何か食べたほうがいいだろう。いまぬるいおかゆを持ってくる。かまなくてもいいから痛かったら飲み込めばいい」と慇懃無礼に言い残して長田は部屋を出て行った。言葉の端々に形容しがたい邪気を明は感じていた。それからしばらくして、再び足元のドアの開く音がして今度はローズピンクのプリンセス・ワンピースが入ってきた。恐る恐る明が見上げると、奈津子だった。「ごめんなさいね。まだ痛むでしょ。でも、あしたになれば大分和らぐから、今晩一晩の辛抱よ。痛いと思うけれど、そろそろ何かお食べにならないと。これ口に合うかしら」と奈津子はベッドの脇に白い椅子を持ってきて明の顔の脇に座った。手には小さい銀のスプーンと御飯茶碗を持っている。スプーンでおかゆをすくって明の口元に運んだ。「冷ましてあるから大丈夫。顎を動かすと多分痛いでしょうから、そのまま飲み込んで」と言われるままに明はおかゆを飲み込んだ。薄くほのかな塩味がした。飲み込むときずきんという痛みが後頭部を稲妻のようにジグザグに走った。聞きたいことは沢山あったが痛みと空腹で言葉が出ない。少しずつ空腹が満たされていくのが分かった。痛みのせいか茶碗一杯のおかゆで満足した。

「これでまたひと眠りできるでしょう。あすの朝早く目が覚めると思うので、説明はそのときにします。トイレは部屋の中にありますから。あのドアのところ。それから警察統計研究所にはお休みの電話を入れときましたから」と言うと奈津子は部屋から出て行った。カチッという音で部屋の外から施錠するのが分かった。明は次第にうとうととし始めた。


意識が遠のき、男と女が言い争うような声で次に目が覚めたのは薄明るい光の中だった。頭の上の方に小窓があるらしく、早朝の曙光が溢れていた。頭痛は大分弱くなっていた。トイレに行こうとしてベッドの上で上半身を起こすと軽いめまいと疼痛が後頭部を襲った。足をベッドの外になんとか下ろし、恐る恐る立ち上がると、少しふらつくもののどうにか立ち上がることができた。はだしのまま部屋を見渡すとベッドのほかに調度品らしいものは何もなく、出口のかたわらにユニットバスのドアがあり、その中で用を足した。白い木綿の寝巻きの下は裸だった。ベッドに戻ると朝食のトレイをもった奈津子が入ってきた。「おはようございます。痛みはどうですか?朝食を持ってきました。新しい下着と着ていた洋服は、そこのクローゼットのなかにあります。いろいろと質問があるでしょうけれど、朝食をゆっくり召し上がりながらさきに私の話を聞いて下さい。よろしいですか」と言いながらベッドの脇のテーブルの上にトレイを置いた。明はベッドの脇に椅子を持ってきてハムエッグとトーストを食べることにした。

「最初にとても大切なことを言います。枕元にあるあなたの携帯電話はこれから絶対に体から離さないで下さい。携帯電話から十メートル以上はなれるとあなたの後頭部に埋め込んだ少量の火薬が爆発して、あなたの脳の血管が破裂します。この技術は細い管状の装置の先に充填した微量の火薬を爆発させて、内蔵した微小のハンマーを血管壁に衝突させて破砕するものです。作動するところは装置の先にあって、血管壁を破砕します。先端が開いた直径三ミリのステンレス製の細い管の中に一ミリのハンマーと、その後ろにハンマーを動かす火薬と着火装置が内蔵されています。内蔵されたハンマーは、着火された火薬の爆発で血管壁に時速五百キロほどで突き刺さります。あと点火用スイッチと点火用電池があって作動するところへの火薬の点火を行います。いずれにしても点火されれば脳溢血で、あなたの命は九分九厘なくなります。万が一助かったとしてもあなたは植物人間状態になります。だから電池切れにもくれぐれも注意して下さい。携帯電話からの微弱な電波が途切れるとあなたの命はなくなります。絶対にオフにしないように。以上よろしいですか?何か、質問がありますか?」と言われて明は思わず携帯電話を手元に引き寄せた。奈津子の言ったことに半信半疑のまま、朝食を終えると、脱力感が霧消し、少しずつ体の中に活力が湧いてくるような気がした。頭痛はまだ続いているが、昨夜ほどではなく、他のことに気を取られると忘れてしまいそうだった。奈津子の話はまだ続いた。「それからあなたの後頭部に埋め込んだ火薬つきチップをどこかの病院で取ろうとしたり、警察に駆け込んだりは絶対にしないで下さい。あなたの携帯電話には盗聴器とGPSがついていてどこにいて何をしているか分かります。そのGPSと盗聴器はあなたと最初にお会いしたとき、ファミレスで電池パック交換と一緒に埋め込んだものです」と言われて、明は最初の出会いで奈津子が明の携帯電話の電池を交換したことを思い出した。そのときの状況を思い出すと奈津子の仕草が何となく不自然なものだったようにに思えてきた。あのボックスバッグの中には何種類もの電池パックがあったということかと明は大きめのボックスバッグが異様にふくらんでいたことを思い出した。

「ペンタゴンが管理するGPS衛星は上空2万キロの6つの軌道面にそれぞれ4つ以上、全部で三十個ぐらいが配置されています。だいたい十二時間周期で地球を回っています。衛星は超高性能の原子時計を持っていて電波で時間を含むデータを地上に送信しています。三角測量と同じで、その携帯電話は受信機になっていて二つの衛星からの電波を受信して、距離を計算すれば、現在位置を出すことができます。その情報がこちらに転送されてくるので、あなたの居場所をリアルタイムで知ることができます。こちらから携帯電話を経由してあなたの後頭部の火薬を爆破することができます。あなたが話す音声も盗聴できます。あなたが送受信するメールも読むことができます。盗聴器もGPSと一緒に携帯電話に埋め込んだものです。ですからあの日からのあなたの言動は逐一、全て捕捉しています」と言われて明は自分の言動の全てを知って奈津子がどう受取ったのかを推察しようとした。しかし刺すような頭痛がそれをはばんだ。かろうじて「それで僕をどうしたいんですか」と痛みをこらえて、ここに来て初めて口をきいた。いまそうしていることの意味も奈津子との新たな関係も夢のようでよく呑み込めなかった。

「やっと、しゃべれるようになりましたね。あなたにお願いしたいのは、先週駅前のファミリーレストランで、お話したとおりです。TDLと未成年の女子の自殺や事故死とは、なんの関係もないことを、わかりやすいように、遺漏なく報告書に書き込んで下さい」

「それはできない。嘘になる。統計的な事実だから、誰が見ても否定できない。僕が立てた統計上の仮説はいずれ誰かがきちんと検証するだろうと思います。時間の問題です」と明は理不尽な扱いに感情的になっていた。興奮する思いを抑えることができなかった。「それでは、事故死と関係のあることは、説明できない、ということならどうですか?」「それなら多分、書けるでしょう。でも深野課長がなんと言うか。あの人が責任者ですから。僕が関係を説明できないと言ってもあの人、テレビで大風呂敷広げちゃったから」

「だから、説得して下さい。あなたの努力はその携帯電話を通して確認できますから」

「それで、お願いされたことが、終われば、頭の中の火薬を除去してくれるんですか?」「いいえ、あなたは既に私達の秘密を知ってしまいました。知りすぎてしまったのです。だから、今週中とは言いませんが、あなたには、早いうちにここに住んでもらいます。もちろん、衣食住とも私達が面倒見ます。生活費も十分に支給します」

「あなた方の秘密はまだ何も知りません。むしろ知ってしまえば抹殺されそうで、聞きたくもありません。だから僕を自由にして下さい。頼まれたことは必ず実行しますから」

「いえ、もうそれはできません。手遅れです」と奈津子は愁眉を寄せきっぱりと否定した。「それはできないって僕がいったい何をしたと言うんです?僕はただ生活のために僅かばかりのカネが欲しくてアルバイトをしただけじゃないですか。あなた方が何をし、何を考えているか知らないけど、そんなことに全く興味はないし、知りたくもありません」

「では、ほんの少し説明しましょう。あなたがあのバッジを見てしまったことが、あなたにとって致命的だったのです」

「あのバッジのことだって、僕はまだ何も知りません」

「そうかも知れないけれど、刑事さんに言ってしまったでしょ。この件についても、刑事さんには、長田に会って聞いた話としてこう伝えて下さい。あのバッジは日本メソポタミア同好会の会員バッジだって。あの楔型文字はジャパンのjと日本のnを複合させたもので、会員はみんなあの楔型文字が、斜めになるようにつけているって。よろしくって」

「でも、そのバッジが、なんで、都営住宅の少女が転落した現場に落ちていたんですか。その説明がつかない限り、墨田署のあの刑事さんは、きっと捜査をやめないと思いますよ」「それについては、私もなぜだかよくわかりません。日本メソポタミア同好会の会員の一人が、いつかそこを通りかかって、何かの拍子に偶然落としたものでしょう」

「そんな。ねじ式のバッジが簡単には、ただ通りかかっただけでは、落ちないでしょう。それに会員が、たまたまあんなところを通りかかるという偶然は、ありえないでしょう」「それについてはこれ以上、もう何も言いません。何か言えば、刑事さんのことだから、すぐ裏をとるでしょうから。それにあなたがうっかり洩らすかも知れないので」と言いながら額にかかる髪をかき上げて奈津子はアナログの小さな腕時計に目を落とした。「そろそろ出かけないと、警察統計研究所へ、9時までに間に合わなくなるわ。身支度をして下さい。昨日の月曜は気分がすぐれないので欠勤しますという電話を千住の近くの内科病院からということで私の方から入れておきましたから」と言うと奈津子はベッド脇の小さなサイドテーブルの上に脱脂綿と絆創膏と鋏を白いエプロンのポケットから取り出して置いた。

「傷口の絆創膏を交換します。下を向いて下さい」と言いながら明の背後に回った。後頭部の絆創膏を剥がして、新しい物と取り替えた。明が鈍い痛みを感じている間に奈津子は足早に部屋を出て行った。知りたいことは山ほどあったが、明は頭の整理がまだできていなかった。質問したくても言葉が思うように出てこなかった。頭痛や空腹だったことや疲労のせいかも知れない。きれいに洗濯された下着とチノパンツと長袖のTシャツを身に着けた。携帯電話を羽織ったインディゴブルーのデニムジャケットの胸ポケットに忘れずにいれた。部屋の外に出ると外光の射す狭い廊下の端で長田が手招きしていた。それに従って階段を下りると、待合室のような4坪ほどのロビーがあった。シールで目隠しされた自動ドアから外に出るとくだんの中古のBMWが止まっていた。助手席には既に奈津子が座っていた。奈津子の膝の上に2歳ぐらいの男の子が座っていた。明がBMWの後部座席にゆっくりと乗り込みながら、日曜日の夜から二晩泊り込んだモルタルの建物を見返すと、永山整形クリニックというピンク地の看板が見えた。

「私に似ています?」と奈津子が膝の上の男の子の顔を明に向けた。顔立ちがそっくりだった。表情に乏しく目が死んでいた。口がだらしなく開かれ口角から唾液が垂れていた。

「良く似ていますね。お子さんですか?」

「そう。私が生んだの」と言いながら、男の子の長い髪を猫のようになでている。「先に保育園に寄って下さい。この子を預けてから駅に行って下さい。土岐さんを降ろします」と奈津子が言ってから、五分少しで保育園に着いた。奈津子は男の子を抱きかかえ、アパートの一室のような保育園のドアをノックした。中からエプロン姿の保育士が顔を出し、男の子を預かった。男の子はむずかるでもなく奈津子に手を振るでもなく、無表情のままだった。奈津子が戻ってから数分して舞浜駅についた。それまで住宅街や商店街がほとんど見当たらなかった。水平線と堤防だけの殺風景な車窓だった。

あの子の父親は誰か?運転手か?雰囲気的に、そうとは思えないと明は男の子に興味を抱いたが聞かないでいた。明が駅で降りようとすると奈津子が車の中から声を掛けた。

「あなたが私達の仲間になれば、あなたの命は保証されます。でも仲間になるためには、その意思と資格のあることを証明しなければなりません。とりあえず、さっきお願いしたことを必ず実行して下さい。よろしいですか?それから、あまり激しい運動はなさらないように、とくに夜は。分かっていますね、小さなものですがまだ傷口が完全ではないので」

夜中に激しい運動をしようなどという気力はなかった。それよりも悪い夢を見ているような想いが払拭できなかった。そういう心象は電車の中でも続いていた。ときどき後頭部に手をやると、鈍い痛みが走り、現実であることを思い知らされた。言いようのない不安が頭の中を駆け巡り、窓外に広がってきた曇天とともに明の気分は深い憂鬱に沈んだ。


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