表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Nの復讐  作者: 野馬知明
1/5

土岐明調査報告書

土岐明は大学院の統計学研究科の指導教授の岩槻先生に紹介されたアルバイト先に向かうため朝早く千住の安アパートを出た。一月の末で春休みに入ったばかりのぞくっとするような薄ら寒い朝だった。京成本線の千住大橋駅から着膨れで満員の通勤電車に乗った。通勤快速は町屋駅と日暮里駅に止まって終点の上野駅に向かう。車窓を流れる千住の町並みには際立った特徴がない。右手に庭のない小さな住宅が狭い路地を挟んで密集している。左手の町工場跡に低層のアパートが立ち並ぶ。隅田川を渡って町屋駅までの光景も代わり映えがしない。寂れた町工場の間に間口の狭い門構えのない住宅が蝟集している。次の新三河島を通過して日暮里までの光景も同じようなものだった。風景に心に働きかけるものが何もない。日暮里駅で下りた。プラットフォームの寒風を避けてJRへの連絡通路で待っていると田端駅方面の内回りの山手線が先に来た。階段を駆け下りて電車に飛び乗った。池袋駅、新宿駅、渋谷駅経由で目黒駅についたころ、暖冬の外気は十度近くになっていた。

警察統計研究所は、駅から南へ徒歩十分ほどの城南地区の旧宮家の古木の林立する敷地内にあった。交通量の多い片側二車線の狭隘な表通りから湾曲した一方通行の坂道を衝突で凹んだままのガードレールに沿って、少し下ると枯れた蔦の絡まる煉瓦塀の途切れたところにモルタル造りの少し罅の入った二間程の門があった。開かれた木造の高い門の右側に警察統計研究所という墨痕の薄れかけた木の表札が掛けられていた。門の中に入ると、雷光のような亀裂の入ったアスファルトのなだらかな上り坂の先に塀と同じに赤茶けた煉瓦造りの低い車寄せがあった。その手前には石膏の小便小僧の頭の周りに薄日のこぼれる水の涸れた小さな池があった。背丈程の巨石がこんもりとした常緑の潅木で覆われていた。車寄せの奥の右側の日陰に古い駅舎の出札口のような受付があった。警察の冬の制服を身につけた愛想のなさそうな胡麻塩頭の初老の男が、茫然と座っていた。その男に近寄って、おはようございます、と明が声を掛けると、どちらに御用ですか?とおよそ受付らしからぬ高圧的な尋問口調が返ってきた。男はくたびれたダッフル・コート姿の明の先端の剥がれ掛けた革靴の足元から寝癖の取れていない頭髪まで、首を少し突き出して舐め上げるように、胡散臭そうな険のある目つきで見上げた。明が、

「統計資料室の深野課長さんに面会の予約をとってあります」と答えると男は面会受付リストのA4用紙を気だるく突き出した。無言で必要事項の記入を求めてきた。明は添えてあるインクのなくなりかけた黒いボールペンで力のない筆圧で空欄の一番上に記入した。

訪問者氏名=土岐明、と記入して、深野の名前を思い出せなかったので、

面会者氏名=深野課長、と職名を書き入れた。

面会用件=アルバイト、と書き込んでからシチズンのデジタルの腕時計で時刻を確認し、

面会時刻=十時六分、と記入した。予約では十時過ぎだった。深野の言った十時過ぎが、十時丁度の意味なら六分の遅刻だった。次の項目の退出時刻はわからないので空欄にした。訪問者番号のところで明が書きあぐねていると、男は事務的な口調でぞんざいに番号はこちらで記入します、と吐くように言い⑧のセルロイドの赤く丸いバッジを差し出した。

「深野課長は統計資料室です。そこの廊下を右に曲がって突き当たりの左側の部屋です」一番に訪問したのに⑧を受取ったことに納得がいかなかった。明は受け取ったバッジを不器用にコートの下のタートルネックの胸にとめた。言われた通りに歩き出した。天井は3メーター近くあった。1本だけの二〇ワットほどの蛍光灯が2メーター程度の間隔で並んでいた。両端の黒ずんだ蛍光灯が一本、間歇的に点滅していた。床はくすんだ護摩斑の大理石で小さな穴が所々に散見された。薄暗い廊下を歩きながら明は子供の頃に交通事故で入院した郷里の古い病院を思い出していた。クレゾールの臭いがしないだけで外来者を拒むような薄暗い廊下の雰囲気がよく似ていた。統計資料室という黒地に白字の小さな看板が頭頂の高さで廊下に突き出ていた。浅黄色の分厚い木製のドアを軽くノックした。内部から招じ入れる声を確認もせずに開けた。部屋の中は衝立代わりの濃い鼠色のスチールの書架ですぐには見渡せなかった。書架の左は白壁、手前に円筒形の傘立てがあった。右手の方に部屋が広がっていた。奥に少し入って行くとカウンター代わりの低い書類棚、その向こうに二十代半ばぐらいの女性が事務机に向かっていた。明の気配に気づいていると思われたが、すぐには顔を上げなかった。こんにちは、と明が声を掛けると目鼻立ちのはっきりした無表情な瓜実顔が彼を怪訝そうに見上げた。はい、としか言わない。どことなく頓狂な顔をしている。三秒前後の間があって、明の方から用件を切り出した。

「アルバイトの件で、深野課長さんにお会いしたいんですが。土岐明といいます」

「少々お待ち下さい」と素っ気なく言い残し、百平米足らずの部屋の右奥へローヒールのパンプスでゆっくり歩いて行った。廊下側の窓のかたわらの壁に部屋の中の座席表が貼ってあった。明は位置関係を確認して彼女の名前を探した。部屋の末席にワープロの三〇ポほどの印字で、『能美亜衣子』と書いてあった。彼女の机の上には朱肉、茶封筒、ホチキス、はさみ、スッティック糊、セルロイド定規、ボールペン、電卓など、経理関係の文房具が散乱していた。部屋の中には他に五名ほどの中高年の男たちがワイシャツに背広姿でパソコン作業をしていた。皆ディスプレイ画面を見ながらキーボードをせわしなげに叩いている。窓側の痩せ細った一人の男だけがキーボードをいらだたしそうに力一杯叩いていた。廊下側の小太りの男はあごに手を当てて、カラー表示の画面の数表や図形をじっと見入っていた。能美亜衣子の向かいの机の初老の男は左右の人差し指だけでキーボードを操作していた。皆一様に明を無視し、興味を示していないようだった。亜衣子は部屋の右隅の窓を背にしたこちら向きの少し大きめの机の前で立ち止まっていた。柔らかな身のこなしで幾度も少し斜めに頭を下げていた。そこに座っている男の顔は亜衣子の白いブラウスの背中でよく見えなかった。亜衣子が何かを言い終えてこちらを振り向くとその男は立ち上がった。明の方に軽く手を振った。岩槻ゼミのOB会で見覚えのある顔だった。

「土岐くん」と部屋中に響き渡る朗々とした大きな声だった。これで部屋中が明の名前を知ることになった。深野信義は還暦間近の頭髪の逆立った快活な男だった。サンダル履きで小走りに明に近寄って来た。明の手を両手で握り入口前の書架の裏にあるくたびれた応接セットに案内した。窓を背にした一人掛けの黒いビニール張りのソファに腰掛け、

「岩槻先生はお元気?」と明るいトーンで話しかけてきた。明は「はい、矍鑠としておられます」と長椅子に少し斜に浅く腰掛けながら緊張気味に答えた。

「君はオーバードクターだって」と深野は上前歯を少し突き出し相手を忖度せずに言う。

「ええ。博士論文を提出していないんで。正確には博士後期課程単位取得満期退学です」

「なんじゃそりゃ。もったいぶった言いかただね」

「外国の怪しげな博士号を何十万円も出して買う人が増えて言いかたがうるさくなって」

「で、就職活動はしているの?」

「一応、岩槻先生のご配慮で身分は研究生になっています。履歴に空白があるとまずいだろうということで。でも、博士号を取得していないし、業績もないもんで、いくつかの大学や研究所の助手や助教にアプライしてみたんですが全部リジェクトされました」

「企業の方はどうなの?アプライしたの?」

「それが、自分で言うのもなんですが、性格的に競争とか利潤追求とか、そういった自由競争の気風には合わないような気がして」とは言ってみたものの、実際、明はどう言っていいものか言い方が分からない。

「博士論文の要件はあいかわらずレフリーつきの学会誌に二、三本掲載ということかな?」

「そうです。岩槻先生は論文を読んでもくれないし、報告してもたいしたコメントもくれないんで。自分の判断より学会誌のレフリーの方が確かだろうという考え方のようです」

「手抜きなんじゃないの。他人の論文を読むのって、けっこうエネルギーがいるからね」

「掲載論文は二本あるんですが、小さい学会の学会誌なもんで、先生が認めてくれないんです。まあ、自分でもたいした論文ではないとは、思ってはいますが」

この話題はあまり触れて貰いたくない。自分の学力不足と頭の悪さは自分自身が十分認識していた。特に聞き耳を立てていそうな亜衣子に聞かれるのがあまり愉快ではなかった。

「大変だね。民間の研究所も不況のあおりを受けて、大学も少子化で冬の時代だからね」

と言いながら、深野は胸のポケットからタバコと百円ライターを取り出した。少し出っ歯気味の前歯に、タバコのフィルターを挟んだ。眼を細めて煙たそうに火をつけた。

「ところでアルバイトのほうだけど、簡単な統計処理だから、とくに説明することもないとは思うけれど、とりあえず、概略を能美くんに教えてもらって。そのうちお昼になるから、詳しいことはランチでも食べながら。あ、それから契約書も書いといてね」と深野は亜衣子の方に手の平を上向きに差し出した。人差指の先で彼女を招いた。その指の動きが明にはとてつもなくいやらしく見えた。「ちょっと、能美くんこっち来て」

亜衣子は透き通るようなにこやかさでやって来た。明の隣に腰掛けた。グレーのフェルトのタイトスカートから二本の白い太腿が半分あらわになった。柔らかなソファが少し亜衣子の方に沈んだ。明の体が僅かに亜衣子の方に傾き、二人の肩先が微かに触れた。明の鼻先を彼の知らない香水のにおいが刺激的にかすめた。

「こちら土岐君。ゼミの後輩なんだ。大学は違うけどね。今日からしばらくアルバイトで君がやることになっている仕事を手伝うからお昼までに例の作業を教えてもらえる?」

亜衣子は、艶やかなストレートの髪を前後に揺らしながら、小刻みに幾度もうなずいた。うなずくとき少し首を斜めに傾ける癖があった。わかりましたと亜衣子が了承した。

「彼女は統計処理の資格をもっているんだけど、本来は事務官で事務処理の仕事をしなければならないんだ。形式上は君は彼女のアシスタントというかたちになる」と言いながら、深野はコーデュロイのズボンのポケットに右手を突っ込んで、タバコをくわえたまま立ち上がった。サンダルが足の裏をたたく音を残して自分の机に戻った。

「それじゃあ、さっそくこちらへ」と亜衣子に先導されながら明はお茶も出ないのかと不満に思いつつ部屋の中央にある四角い作業テーブルについた。二メートル四方ほどの作業テーブルの角を挟んで二人は斜めに向き合って座った。亜衣子はテーブルの中央に用意してあったA4の契約書を差し出した。何度もコピーを繰り返したようで、ワープロ印字のうち、画数の多い漢字の一部が潰れかかっていた。『臨時雇用契約書』というタイトルで、保険契約書のように10ポ程度の大きさの文字がぎっしり並んでいた。

「要は守秘義務です」と文書を読み始めようとしていた明に亜衣子が声を掛けた。読まなくてもいいという意味に明は受取った。それでも時給千円の箇所以外にどこを読んでいいのか分かりかねていた。亜衣子が助け舟を出し契約書の下のほうの行に白く細い人差指を立てた。短くカットされた細長い爪には薄いピンクのマニュキュアが塗られていた。

―業務で知りえたことは一切漏洩してはならない―

「ここだけ注意してもらえればいいと思います。よろしければ、署名捺印を。それからアルバイト代の振込銀行と口座番号も」

たかだか時給千円のアルバイトにしては仰々しいとは思ったが、明は署名捺印した。ジャケットの内ポケットの財布から取り出したキャッシュカードを見ながらほとんど残高のないネット銀行口座の番号を書き込んだ。すると銀行名を見て亜衣子がだめだしをした。

「この銀行、大蔵省が認可したはずなんですがね。財務省か金融庁のいやがらせですか?」と明は少しふくれた。亜衣子は意に介せず、新しい用紙を持ってきて明が書き損じた紙をかたわらのシュレッダーに掛けた。シュレッダーの歯が鈍い音を立てて回転し始め、A4の紙を吸い込んで行った。明は亜衣子を試すような質問をした。「情報を漏洩したらどうなるんですか?」

すると亜衣子は侮蔑したような眼差しで「情報の質にもよりますが、ものによっては間髪を入れずに、その場で逮捕です」

逮捕と聞いて、部屋の中の誰もが私服ではあるが、ここが警察組織の一部であることを明は改めて思い起こした。亜衣子は二部あった同じ契約書の1枚を明に手渡した。明は一枚目と同一のものだと早合点して、よく見もしないで折りたたもうとした。

「待って。そこに警察庁のデータベースにアクセスするときのIDとパスワードがあるからなくさないように。ただし、有効期間はアルバイト期間の一ヶ月だけ」

見ると確かに契約書の下のほうに手書きでIDとパスワードが書かれていた。明は早速それらを自分のキャンパス手帳に書き込んだ。契約書の写しは折りたたんでズボンのポケットにねじ込んだ。亜衣子は契約書を回収すると別の文書を彼の方に向けて差し出した。表題に二〇ポのボールド印字で『未成年者の事故死に関する統計調査』とあった。

「全国の道府県警に未成年者の事故死に関するデータベースがあります」と早速亜衣子は説明を始めた。明が最初見たときは小柄で華奢な女に見えたが襟元からひとつはずした白いブラウスの胸元に肩幅とは不釣合いなほどに深い谷間が想像できた。明の視線は彼の意志に反してその谷間に吸い寄せられた。その都度、明は視線を文書に落とす努力を試みたが、目線はすぐに上がり、亜衣子の胸元を経由して彼女の瞳と文書の間を幾度も往復した。そのうち明はそのことに亜衣子が気づき始めていることを察知した。亜衣子はやや前かがみだった姿勢を正し、意図的に少し胸を反らした。

「お願いしたいのはこのデータベースを統計的に処理することです」と言いながら亜衣子はまた少し前かがみになった。胸の谷間が以前より明に迫ってきたように思えた。二つ目のボタンがはちきれそうだった。この挑発に明は戸惑いを覚えた。ちらりと亜衣子の目線を追うと微笑するような軽蔑するような表情がうかがえた。

「その机とパソコンがあいているので、使って下さい」と亜衣子は隣の机を指差した。そこは物置のようになっていてプリントアウトしたA4がうずたかく積み上げられていた。

 午前中は明に提供された机の上の文書の整理に追われた。必要と思われる文書は適当な場所に移動したり、亜衣子に聞いてその担当者に手渡したりした。そうでない文書は、亜衣子の指示で情報が漏れるとまずいものはシュレッダーにかけ、他愛のないものは複写機のかたわらにある裏面を再利用するラックに集めた。シュレッダーは一度に二、三十枚程度の処理能力しかない。能力を超えるとすぐに紙詰まりを起こした。しかも裁断された紙の細い短冊はすぐにビニール袋一杯になった。その都度、透明のゴミ袋に移し替えなければならなかった。これに最も多くの時間がとられた。午前中はその作業に終始した。

 昼食は近所のイタリアンレストランに行った。深野が亜衣子を誘ったので三人連れになった。交通量の多い表通りの狭い階段の上にある瀟洒な小さな店だった。バールという洗濯板の看板が掛かっていた。階段を上るとき明の二の腕が彼女のスーツの胸先に軽く触れた。二の腕に弾力的で柔らかい重みのある感触が鮮烈に走った。明は思わず謝った。明の予想に反して亜衣子は艶然と笑って彼に先に階段を譲った。表面の粗い鋼鉄の手すりを掴んで階段を上りながら肌寒い外気のせいか亜衣子の香水のせいか明は軽い身震いを感じた。午前中の作業が夢の中のように思えた。店は二十人も入れば一杯になるような狭小なレストランだった。表通りが全面硝子張りで黄緑の唐草のような紋様がペイントされている。警察統計研究所のこんもりとした緑を通り越しに望むことができた。表通りの反対側の壁一面のラックにワインボトルが並んでいた。よく見ると皆カラだった。料理のメニューは壁に張られた黒い模造紙に白墨で書かれていた。三人とも本日のランチメメニューから、あさりスープとバジリコ・スパゲッティと地中海サラダのランチBを注文した。

「どう?論文は書いているの」と深野が紙お絞りで脂ぎった顔中を拭いながら聞いてきた。

「なかなかいいものが書けなくって。岩槻先生にも顔を合わすたびに聞かれるんですけど」「そうね、おれもいい論文さえ書ければ、博士課程を出て、大学に残っていたかも知れないけど、でも君は博士後期を修了したんでしょ」

「まあ、時間さえたてば誰でも自動的に修了しますが。自分のことは自分でわかっているんですが、根が怠け者なんで、論文を書くために寸暇を惜しむということができないんです。まず、パソコンに向かうとゲームでリラックス、それが終わると食事。それから食後のデザートと食休み。テレビでニュースを見て世の中の動きを確認し、それから気が向けば、おもむろに研究を始めるといった調子で」と力なく笑う。

「それは岩槻研究室の伝統でしょ。岩槻先生自体が同僚の加藤先生と比べるとあまり研究熱心でない。毎晩『テレビの深夜放送が終了してから研究を始める』って、自嘲気味に吐露していたな。最近はどうしているんだろう。最近のテレビは一晩中やっているでしょ。おれも就職目的だけで簡単に入れる岩槻ゼミを選んだようなもので。入ゼミ試験のとき、ゼミナール説明会に出ていなかったもんだから英和辞典持込可というのを知らなくって、てっきり不合格だと思ってたら、合格していたんでびっくりしたよ」と言いながら、深野は亜衣子の顔色をうかがった。彼女は唇を少し突き出してつまらなそうな表情をしている。

「それって、英語の地力があったから辞書なしでも入ゼミ試験に合格したという自慢ですか?所長」と亜衣子がきつめに聞いた。明は深野の表情をうかがったが、とくに変化は見られない。深野と亜衣子の親密度がどの程度なのか分からなかったが、気になった。

「いや、それほど人気のないゼミだったから倍率も低くて合格したと言いたいのさ。当時みんな、『はやらない岩槻』って言ってたもんだ。大体、ゼミナール説明会の出席を友達に頼んだのが間違えだった。更なる間違えはその友達が自分を嫌っていたということに卒業まで気付かなかったことだ。こいつは卒業記念の俺の色紙の寄せ書きに『ああ、あの深野』と書き込みやがった。どっちにしても、不合格であれば別のゼミに入っていて恐らく全く別の人生を歩んでいたことだろうと思う。ひとの人生なんて全くどこでどうなるか分からんね」と悟りきったような口調だ。

「というか、深野先輩はゼミの仲間にとっていやな奴だったんじゃないですか?」と言い終えないうちに明は、しまったと思ったが、遅かった。深野の表情が目元から強張って行くのが分かった。そこにオーバルボウルに入ったあさりスープとオーバルプレートに盛られた地中海サラダが運ばれてきて明は救われた。アルバイトのウエイトレスらしく、トレイからテーブルに食器を移す手つきが覚束ない。明は場を紛らわせるために、それをまめまめしく手伝いながら、わざとらしく話題を変えた。

「さっき、能美さん、深野さんのこと、課長じゃなくて所長って呼んでたでしょ」

「どっちでもいいの。人によって違うみたい」と亜衣子がいい加減な返答をすると深野が「研究所というのは建物の名称で、組織としては統計資料課なんだ。だから正式には課長が正しい。でも、みんな所長、所長って呼んでるね」と年長者の威厳を保つように説明した。それから口の中で「所長、課長、所長、課長。所長の方が言いやすいかな」と気さくな上司を自ら演出するように繰り返しつぶやいている。明は話題を変えた。

「ところで、僕が研究熱心でないということは、ここだけの秘密にしてもらえますか?岩槻先生も薄々感づいているとは思うんですが、このことが知れると、大学助教採用の斡旋もしてもらえないし、推薦状も書いてもらえないんで」と冗談めかして言った。亜衣子はにこりともせず、何の反応も示さなかったが「研究熱心でもないのに、なんで、大学に就職したいんですか?」と真顔で聞いてきた。真顔になるとほんの僅かに両眼が寄る癖がある。明はその眼を見てぞっくっとした。興味を持ってくれたことに嬉しくなり木のスープスプーンを片手に話し出した。「岩槻先生を見ていて、大学教員というのはいい商売だと思うのです。だって、年間の実労働が一ヶ月分しかないんですから」

「えっ!たった、一ヶ月」と亜衣子は本気で驚いたようだった。スープに少しむせている。

そうだと深野は言いたげにうなずいてレタスをバリバリ音を立てて食べている。明は、ここぞとばかりに調子に乗って話し続けた。「だって大学院の授業を入れても週6時間の授業しかないんですから。おまけに毎年殆ど同じ内容だから準備も要らないし、それになんと言っても夏休みと春休みがそれぞれ二ヶ月、冬休みが一ヶ月。所詮子供相手の商売だから気も楽だし。深野先輩の大学は一流大学だから定年は六十五だけど僕の出た三流大学に天下りすれば定年七十だし。気楽なもんだから、大学教員の平均寿命が長いわけです」

深野が突然、サラダのレタス片の貼り付いた前歯をむき出しにして大声で笑い出した。「確かにそうだ。一流商社マンの平均寿命は六十歳以下だと言うからね。だけど、俺が大学の理事長なら、君みたいな教員は絶対に採用しないな」

亜衣子もサラダを口に含んだまま笑いながらもごもごと同調した。それを聞いてあまり愉快ではなかったが自分という人格が彼女に受け入れられたことを直感した。かなり誇張して戯画的に話したことが成功したと思った。深野の顔が少し真面目なモードに変わった。

「そうか、岩槻先生は二度目のお勤めの大学も定年になるのか。ところで、アルバイトの作業だけど、君の統計処理は『未成年者の事故死対策審議会』の審議資料として使われることになっている。年度末の予算処理の一環ではあるけどね。だから単なる統計処理でなくって、政策提言的な統計処理が求められている。ドラフトを提出した段階で、総務省か厚労省の役人が追加作業を要求してくるとは思うけれど。その前にプレゼンで出向かなきゃならないが。そんな作業を君がやったことがあるとは思えないんで具体的にどういう統計処理をやればいいのかは能美君のアドバイスを受けながらやってほしい」と言う説明に亜衣子が深野の様子を伺うように補足した。「いま少子化でしょ。ただでさえ少ない未成年者の減少を何とかくい止めようということなのよ。せっかく生まれてきたんだから」と言い終えたところにバジリコスパゲッティが、少しぐらつくテーブルの上に運ばれてきた。

 午後から早速、作業が始まった。データは都道府県別の小奇麗な表になっていた。それぞれの都道府県について事故死のサンプルごとに発生した年月日、場所、原因、性別、年齢などの特性が記入されていた。備考欄には、発生した年月日以降の経過が注書きされていた。行方不明、未解決、時効など様々だった。部屋の隅で耐用年数の尽きたエアコンが唸りを上げていた。午前中はその音と生ぬるい温風が多少気になったが、午後からは慣れた。作業机の上には南に面した窓から昼過ぎの木漏れ日が鹿の子まだらに揺れていた。「とりあえず、暦年ベースで原因別にソートして全国集計表を作ってみてはどうでしょう」という提案が亜衣子からあった。話し方がなんとなく、ぎこちない。明の顔色をちらちらとうかがいながら、明との親密の距離をどうとるべきか迷っているようだった。

「そうだね。まず、実態がわからなければ」と明は亜衣子の躊躇いが肌で感じられたのでその提案に素直に従った。それから三時ごろまでは明一人で集計作業を行った。過去五十年間の未成年者の事故死の全国集計の結果、第一位は交通事故死だった。七〇年がピークで、その後減少したがここ二十年間は横ばいの状態が続いている。第二位以下は交通事故の半分以下で、窒息、転倒・転落、溺死、自殺、第六位以下は火事、中毒になっている。

 三時を少し過ぎたころ亜衣子が紙コップにアイスコーヒーを淹れて持ってきた。

「どう?作業は進んでる?」と丁寧語でなくなった。半日もたっていないのに、亜衣子の口調はため口になっていた。コーヒーを持ってくるという世話をやく行為が亜衣子の口の聞き方をそうさせたようだった。明は心の垣根を低くしてくれたことがうれしい反面、あまりに気安く扱われることにむっとする面もあった。しかし明のアンビバレントはアイスコーヒーを口にした瞬間、霧散してしまった。

「窒息死って何だろう?」と明は素朴な疑問を亜衣子の涼しげな横顔にぶつけてみた。亜衣子の小さな驚きが明の質問の後半にオーバーラップした。

「へーえ、結構多いのね。ヒントは年齢別の度数にあるんじゃないの?」と指摘されて明は窒息死の年齢別構成のグラフをアイスコーヒーをすすりながら作ってみた。一歳刻みの年齢別の棒グラフにしてみると、窒息死は圧倒的に乳幼児に多かった。

「乳幼児は何に窒息するのだろう?」

亜衣子は、馬鹿じゃないの、と言いたげに「赤ちゃんはね、よく吐いたものや異物をなんでも口に入れて喉に詰まらせるのよ。お年寄りもそうだけど。老齢者の場合はお餅が多いんじゃないかしら。だからお正月に多い」

「なるほど。デザートみたいな硬いこんにゃくもあるかもね」と明は納得し、亜衣子の瞳を間近でのぞき込んだ。黒目が大きく見えた。暗がりの猫のように白目とのコントラストがはっきりしている。

「あとはまあ、予想通りか。これじゃ、対策の建てようがないね。交通事故を減らすには、交通規制が一番だろうけど、あんまり規制するとただでさえ不況なのに経済活動に影響を及ぼすだろうし、免許の取得を厳しくすれば高卒の就職率に影響があるだろうし。まあ、あちら立てればこちらが立たずということかな。それにしても、技術的には車を制限速度以上は出せないようにすることは簡単なことだと思うのになんでそうしないのかな。スピード違反の取締りができなくなるからかな?」

「なに爺むさいこと言ってるの?地域別はどうなってるの?見せてみて」

明は他人に指図されるのはあまり愉快に思わない方だが、亜衣子の指示には素直に従えた。心持を亜衣子の下に置くことにあまり抵抗を覚えなかった。そうすることにむしろ心の落ち着きを感じた。明はキーボードをリズミカルにたたきながら、都道府県別の棒グラフを即座に作図して見せた。「やっぱり、東京が一番多いね」と明が感想をもらすと「バーカ、人口が多いんだから当たり前ジャン」と亜衣子が切り返した。亜衣子のため口を自虐的に心地よく聞いていた。一緒に食事をすると男女の距離はこうも狭まるものか。それとも多少マゾの気が自分にあるのか?と勝手に得心した。侮辱的な言葉遣いに不快感を抱いていないことに新しい自分を発見したような気分でいた。彼女とは気があっているのではないかという感覚が生まれつつあった。

「未成年人口で割ってみたら?」と亜衣子に言われるまでもなく、明は総務省のWEBサイトで都道府県別の人口統計を取り込んでいた。現在の未成年人口で五十年間の累計の事故死者数を割り、棒グラフにしてみた。作業に二十五、六分かかったが、その間、亜衣子は明の横に自分の椅子を持ってきて、腕組みをしながら監督者のように見ていた。そのいささか高圧的な態度から、亜衣子のほうが年上ではないかと明は感じていた。亜衣子は明のキーボード操作の素早さと力強さに多少感心したようだった。そんな気配を明は察知して、少し得意げになり、キーボードのミスタッチを繰り返した。

「そんな、なまの未成年人口で割ったら駄目よ。それに五十年間の累計の事故死者の数を直近の未成年人口で割ったって意味ないじゃん。割る方と割られる方のデータの特性が違うでしょ。都道府県別の未成年人口はこの半世紀で激変しているのよ」と言う亜衣子の指摘は図星だった。明は少しむっとした。確かに地方の過疎化と都市の人口集中が断続的に続いている。一人ごとのように口頭で説明しながら都道府県の未成年人口千人当たり事故死者数の平均値を求めた。その平均値で各都道府県の未成年人口千人当たり事故死者数を割ってみた。こうすれば平均に近い都道府県の値は1に近くなり地域格差が見やすい。

「これでどう?現在の未成年人口で割るのは君の言う通りあまり意味がないかも知れない。それぞれの年の未成年人口で割るべきだろうけど、まあ、一次接近ということで、大体の目安として簡単でいいでしょ。もちろん、報告書のほうにはちゃんとした計算をするけど、まあ、とりあえず、問題発見ということで」と明は微苦笑する。都道府県別の現在の未成年人口で未成年者の五十年間の累計事故死者数を割った値を全国平均で割った棒グラフはほぼ1のベンチマークラインに並んだ。都道府県別の格差はほとんどないように見えた。

「若干東京、千葉、大阪の都市圏が僅かに1より上にあるけどこの程度なら誤差の範囲内かな。統計的には地域格差があるという仮説は棄却されそうだな」と明は仮説と棄却という言葉に対する亜衣子の反応を盗み見たが格別の表情の変化は見られなかった。むしろ、

「地域格差がないというのが帰無仮説ね」という亜衣子の言葉に複雑な思いがよぎった。どうやら彼女は基本的な統計の知識を持っているようだと明は感じた。深野が先刻言った、彼女は統計処理の資格を持っている、というのは嘘ではないようだった。これでは明は亜衣子に対して知的に優位に振舞うことができない。明は亜衣子のため口に呼応していいものかどうか、彼女との心の距離をどうとっていいのか決めかねていた。

「でも死因別は違うんじゃない」と亜衣子に言われるまでもなく、死因別にそのデータを分解し始めていた。最初に交通事故死の地域別格差の棒グラフを出した。表計算ソフトに縦軸に未成年人口千人当たり交通事故死者数と横軸に都道府県名を指定し、縦軸の値を降順でソートし、リターンキーを小気味よく叩くと一瞬のうちに四十七本の棒グラフが高い順に描き出された。戦後復帰した沖縄だけは古いデータがない分、値が小さくなっていた。

「へーえ、大都市圏は少ないんだ。東京、神奈川、埼玉、大阪なんか、低いほうのトップファイブにはいってる」と明が亜衣子の同意を求めるように感想を言うと「大都市圏は、信号も横断歩道も車も歩行者も多いから車はスピードを出せないでしょ。接触事故はかなり多いけど、死亡事故までには至らないのよ。北海道や愛知県と車の走り方が違うのよ」と亜衣子が解説した。さすが能美さんは警察職員の一員だと明は少し感心した。そうした心のありようを亜衣子に見せるように彼女の目を見ながらうなずいた。しかし、よく考えてみると誰でも気がつきそうなことだった。明はうなずきながら感心して損をしたという卑屈な思いに襲われた。なんとなく真冬の外気の明るさがあせてきた。セピア色に変色してきたように感じられた。窓からブラインド越しに斑に差し込んでくる陽光がなだらかに衰えてきた。明と亜衣子の手元にできる影が少しぼやけてきた。

「ちょっと待てよ」と小さく叫んで明がキーボードを叩く手を不意に宙で止めた。「未成年者の交通事故死者数を含めた全体の事故死者数では大都市が統計的誤差の範囲内とは思われるけれど全国平均を少し上回っていたのに、人数的には絶対数で一番多い交通事故死者数の未成年人口千人当たりの平均では、大都市が全国平均をかなり下回っている」

「大都市の交通事故死者の数字が少し小さいの?それがどうかしたの?」と亜衣子が小鼻を少し突き出して、ディスプレイに顔を近づけて、その先を促すように聞く。

「つまり、人口が多ければ事故死者数の絶対数が多いのは当たり前だけど、例えば、未成年人口千人当たりの事故死者数で比較すると、大都市を擁する東京都や大阪府は他の道府県と、それほど大きな差はない。だけど、大都市の交通事故死者の数を見ると、未成年人口千人当たりで比較して、他の道府県を多少下回っている。事故死者の比率全体では、全国の都道府県で、それほど大差はないのに、交通事故死者の比率では、大都市は全国平均より多少低い。ということは逆に、交通事故をのぞく他の事故死では、大都市は多少高いということになるでしょ」と言いながら、明はいらないコピー用紙の裏に同じ高さの棒グラフを二本描き、金釘文字で亜衣子に説明した。

  東京都・大阪府  交 通 通 事 故 死 6人 その他事故死 4人

  その他の道府県  交 通 通 事 故 死  7人  その他事故死3人

「簡単な数値例で言うと、例えば、未成年人口千人あたりの全国の各都道府県の事故死者数は大体十人だとしよう。このレベルではどこも大体同じだ。しかし、人口が多いから、絶対数では、大都市の交通事故死者数は、圧倒的に多いものの、未成年人口千人あたりだと6人。これに対して、その他の道府県は7人で多い。その理由は、さっき能美さんが言った通りだと思う。問題は、交通事故死をのぞく残りのその他の事故死が、大都市で4人で、その他の道府県で3人と、大都市の方が若干多いということだ」

初めて二人は正面から目を合わせた。明は亜衣子の瞳の形や眉の長さや鼻の高さをつぶさに観察できた。甘酸っぱい唾液を明はごくりと呑み込んだ。息が詰まりそうになって亜衣子の長い睫毛から先に目線をそらしたのは明の方だった。「ということは死者の絶対数は交通事故と比べればそれ程大きくないが他の死因では大都市圏は他の地域よりも多少高率だということだ。この数値例だと大都市が四〇%に対してその他道府県は三〇%だ」

「あったりまえじゃない?」と亜衣子はその意味を考えながら言う。それがどうしたの?と言いたげに亜衣子は軽く口をとがらせて腕組みをした。組んだ腕で胸を持ち上げたので、ブラウスの上から2番目のボタンがはずれそうになった。亜衣子はなんとなく気分でそうは言ったものの、説明がつかないようだった。明は自分の言いたいことの真意が理解されていないと感じた。そこでタッチタイピングの指を素早く動かして、その他の死因別の棒グラフを作り、率でソートして、棒グラフを叩き出した。「エーッ」と明は思わず絶句した。亜衣子も腰を少し浮かせて、ディスプレイの棒グラフをのぞき込んだ。棒グラフの一番目のタイトルは『自殺』となっていた。

「なにがエーッなの?」と亜衣子が明の斜め上から視線を落としていぶかしげに聞いた。

「だってみてごらん。東京、千葉、大阪、和歌山、兵庫、京都、奈良だけがごく僅かだけど平均を上回っている。この七つの都府県以外は全部だいたい平均か、それ以下なのに」

「確かにそうだけど、ほんの少しじゃない。誤差の範囲内でしょ。それに平均が1だから、どこかの県が1を下回れば、どこかの都道府県が1を上回る道理でしょ」

「7都府県が有意に平均以上であるという仮説は棄却されるか。言われてみれば、そうか」

と明は少しがっかりした。一瞬、新事実を発見したような気がしたのは錯覚だったのかと、もう一度グラフを良く見てみた。

「それよりさっきの未成年者の交通事故死の男女別を見て御覧なさい。そっちの方がきっと驚きよ」と亜衣子に言われるままに明はまだ納得していないようだったが先刻ファイル保存しておいた全体の棒グラフを男女別に分けてみた。男女を比較するため都道府県別に男子は青色、女子は赤色をつけた棒グラフを並べてみた。亜衣子は我が意を得たりとばかりに誇らしげに説明を始めた。「どう全ての都道府県で男子の死亡率の方が高いでしょ」

「これはもう仮説検定をするまでもなく、男の子は交通事故で死にやすいという仮説が実証されたことになるか」と明は感心したようにつぶやいた。

「でしょ。男の子は女の子よりも、おっちょこちょいで、そそっかしくて、落ち着かなくって、挙動不審で、情緒不安定で、不注意だということね。粗忽で厄介な生き物なのよ」「なら少子化対策として男の子に精神安定剤でも飲ませるの」と真面目に言ったつもりだったが亜衣子はおちょくられたと感じた。少しむっとなって頬を膨らませ力説し始めた。

「そういう心配はご無用、生物学的に男の子の出生率の方が女の子の出生率よりも高くなっているの。全世界的にね。いつの時代もそうよ。つまり、男の子が多めに事故死するのは神様にとっては想定済みということね。対策なんかとる必要はないわ。それに一夫一婦制だから対策をとるべきは女の子の方なのよ。女の子をもっと大切にしなければいけないのよ。よく考えて御覧なさい。人類史上戦死したのは圧倒的に男の方が多いでしょ。でも人類は滅亡しなかった。戦争を始めるのは男で、戦争で死ぬのも男。でも神様はそういうことを見越して、男の子の方を多少多めに生ませているのよ」

最後の言葉を明はあてつけがましく聞いた。そこで明はファイルを閉じ、自殺者についても男女別の棒グラフを作ってみた。描き出された図を見て今度は亜衣子が小さく、

「あっ!」と叫んだ。その意味を明は瞬間的に理解した。明は驚きを亜衣子と共有したことを直感した。二人はその驚きを確認するためにしばらく沈黙を保った。

環境省の省エネ対策でエアコンが二十度にセットされていてなんとなく薄ら寒く思えていた室内の空気が一瞬暖気を失ったように感じられた。デスクトップパソコンの19インチディスプレイに描き出された棒グラフは先刻の7つの都府県について女子の自殺率のみが全国平均を僅かだが上回った。男子の自殺率は全国平均並みで、差はいずれもコンマ1ポイント以下だった。7都府県の男女合計の自殺率は僅かに高めだったが男子の自殺率が平均的であったことから、その分女子の自殺率が全国平均を多少上回ることになった。

「さて自殺率に地域格差がないのが真実であればこれは統計的な誤差の範囲内だろうか?それとも何か有意な原因があるんだろうか」と右手の三本の指先で机を軽く叩きながら一人ごとのようにつぶやいた。直感では統計的な有意性はあるともないとも、どちらとも言えないような感じだった。しかし亜衣子はそうでなかった。作業机の上に置いた白く細い指先が小刻みに震えていた。震えている原因が新しい事実を発見したためなのか、一見何の変哲もない棒グラフの背後に邪悪な何かを生理的に感じたのか、彼女にも分からない。

「女の子は多感だし、感受性も強いし、体調の変化もあるし、とくに大都市圏だと人間関係が複雑だし、進学熱も高いし、実際地方より、大都市圏のほうが偏差値も若干高いし、塾も多いし、ファッションも多様だし、男の子は精神的成熟度は女の子より遅いし、精神構造も肉体構造も単純だし、ということじゃないのかな」

「共通点があるでしょ」と亜衣子はわけあり気に腕組みをしながら、明に探りを入れる。そう言いながら、結論を先取りして、論理をあとから考えているような素振りもあった。

「どんな?」と明は亜衣子の情報のレベルに近づこうとディスプレイの棒グラフの上でマウスポインターと目線を右往左往させた。

「東京湾と大阪湾」と亜衣子は暗示するように言う。

「だけど、奈良と京都は湾岸じゃないでしょ。それに日本に限らず、どの国もそうだけど、大都市は湾岸に多いでしょ。ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、アムステルダム、ハンブルグ、上海、ホンコン、ボンベイ」と明は世界地図を思い浮かべながら言う。

「ボンベイじゃなくってムンバイでしょ」

「そんなことはどうでもいいでしょ」と言葉尻を捉える亜衣子に明は少しむっとした。亜衣子は反省し詫びるように「和歌山は大都市?違うんじゃない」と媚びるように言う。

「まあ、大阪と地続きだからね。県境で分かれてはいるけれど、大阪経済圏の周辺に含まれるでしょ」と少し気を直し軽く受け答えたところで暫く会話がやんだ。エアコンの気だるいモーター音と所員がキーボードを間歇的に叩く音が静寂を支配していた。二人ともビデオ画像を停止させたように体を硬直させて原因を考え込んでいた。明には思考をつぶやく癖があった。亜衣子はそれを自分の思考を邪魔するもののように思え耳障りに感じた。

「なぜ女の子の自殺率が湾岸で少し高いのか?この統計に有意性があるのか」と亜衣子の反応を気にしながらディスプレイに語り掛けるようにして言う。明の鼻の頭に脂汗でうっすらとてかりがあった。そこにディスプレイのバックライトがほんのりと映っている。

「あのう、さっきから言っている有意性って、どういう意味なの?」と亜衣子がしびれをきらしたように、おずおずと聞いてきた。

「えっ。知ってたんじゃないの?仮説検定するときによく使うでしょ。さっき深野さんが『能美さんは統計処理の資格を持っている』って言ってたから、てっきり知っているものとばかり思っていた」と感じたままを言った。いやみで言ったわけではなかったが、亜衣子は口元を少し歪めて、不快そうな表情を眉根に作った。その表情を見ながら明は深野が言っていた統計処理の資格が表計算やグラフ処理程度のものであることを察知した。

「有意性というのはある基準を決めて、その基準に照らして意味があるということで、うまく説明できないけど、例えば正直の基準を嘘をつく確率が十%以下と決めれば、百回のうち、九回しか嘘をつかない人は、正直ということについて、十%基準で有意だという」

「よくわかんない」と亜衣子はわざとらしく甘えるようにして言う。本能的な言い回しなのか意図的に媚びた言い回しなのか明には分からない。でも明にとって不快ではない。

「だってどんな人だって嘘はつくでしょ。全く嘘をつかない人なんかいないんだから。もし一回でも嘘をついたら正直とは言えないと決めたら、世の中嘘つきばかりになる。でも、あの人は正直な人だってよくいうじゃない。でも他の人に聞いたら『そうでもない』ということになるかも知れない。だから程度の問題で嘘をつくのが何%以下なら正直と決めれば見解に差はできない。正直の基準を百回のうち嘘が五回以下と決めれば四回しか嘘をつかない人は正直ということについて五%基準で有意だといえる」と説明しながら明は自分で嘘の説明をしていることを理解していた。正しい説明をするためには確率分布や正規分布やスチューデントのt分布等を解説しなければならない。そういう専門概念を使わないで素人に分かりやすく簡単に説明する言い方が思いつかなかった。結局、統計学の本質を理解していないからうまく説明できない、教職につく資格はないと自嘲気味に自覚せざるを得なかった。そう思いながら明はその棒グラフを十年間ずつ五つの期間に分けて、データを作り直した。五〇年代、六〇年代、七〇年代、八〇年代、九〇年代として、二十一世紀以降は省略した。ついでに、国勢調査のあった五の倍数の年の人口統計をインターネットでダウンロードした。さらに五つの期間の中央年の未成年人口を分母にして、自殺率を求めた。五〇年代は一九五五年の未成年人口で、六〇年代は一九六五年の未成年人口で、七〇年代は一九七五年の未成年人口で、八〇年代は一九八五年の未成年人口で、九〇年代は一九九五年の未成年人口で、それぞれ未成年者の都道府県別自殺者数を割ってみた。

明がグラフを作成している間、亜衣子は作業机から離れ、統計資料室を出て行った。アイスコーヒーの紙コップがとっくに空になっていることを明はずっと気にしていたが、お代わりが欲しい、とは言い出せずにいた。彼女がお代わりを持ってきてくれることを期待したが、裏切られた。亜衣子は三十分近く自席を空けた。明の統計作業が終わるころ、勤務の終業時刻が近づいていた。明は五十年前から順に自殺率の男女別棒グラフを作成して行った。最初の三十年間の棒グラフを作成したところに亜衣子が戻ってきた。明は、椅子の背にかけた上体を少し反らせて最初の三十年間の棒グラフを背後の亜衣子に見せた。そうしながら、自分が飼い犬で亜衣子が飼い主の関係にあるような卑屈な錯覚をおぼえた。

「何かの間違えだったのかな?湾岸首都圏の未成年の自殺率は男女とも全国平均と大差ないよ。さっきのは、計算間違えだったのかな?」

亜衣子は明の斜め背後に浅く腕組みして立っていた。摩天楼のような棒グラフの背後に隠された秘密があるような気がしてならなかった。棒グラフの中に事故死した青少年の怨霊が宿っているような気がした。他の所員が机の上を整理し始めコピー用紙の擦れ合うざわめきに終業時刻の近づいている気配が感じられた。明が八〇年代と九〇年代の十年間ずつのグラフを画面に表示したとき、亜衣子の右手が明の左肩を激しく強く捕まえた。

「計算は合ってるの」と言う亜衣子の動作の意味を明も理解した。八〇年代の十年間のグラフで他の府県に混じって湾岸首都圏の東京と千葉の女子自殺率が全国平均を僅かだが上回っていた。その傾向は九〇年代も同様だった。更に九〇年代には大阪湾岸の五府県にも全国平均を多少上回る値が見られた。グラフに封じ込められた悪霊達が一斉に解き放たれたような感じで、亜衣子の目には棒グラフが梵字で飾られた卒塔婆のように見えてきた。

「計算違いではないと思うよ。五十年間の累計の自殺率が若干高めで東京と千葉は最初の三十年間は全国平均並みだったんだから残りの二十年間は多少高くなるのは当然だろう。大阪湾岸も同じさ」と言いながら明はコピー紙の裏にボールペンで棒グラフを描いた。

  


「要するに女子の自殺率は未成年人口千人あたりで比べてみると東京と千葉は八〇年代以前は全国平均とほぼ同じだったのが八〇年代からは一を若干超えてる。大阪湾岸府県も同じように九〇年代前は全国平均とほぼ同じだったのが九〇年代は僅かだが一を超えてる」

「ちょっと最近の十年間のグラフを一年刻みで見せてみて」と亜衣子が早く見たいというように明の肩を前後にはげしく揺すった。彼の首が嬉しそうに、首振り人形のように、だらしなく前後に揺れた。いったい何が出てくるかと明は秘密の扉を開けるような感覚で九〇年代の十年間のグラフを一年刻みで描き出した。パソコンのディスプレイに表示されたグラフは怨霊があぶりだされたかのように十年前からほぼ同じ傾向値を見せていた。

「間違いない、これは何かある、大発見だ」と明は思わず部屋中に響くような大声を出した。その声は深野の耳にも入った。そろそろ帰り支度を始めていた深野は書類を整理する手を休め、背伸びをするように立ち上がり、サンダル履きのまま作業机に歩いてきた。

「統計資料に、大発見なんぞあるわけがない。大言壮語も岩槻研究室の伝統だけど」と明の肩越しに興味深げにディスプレイをのぞき込んできた。明は画面を凝視しながら深野に少しどもり気味に息せき切って説明した。「湾岸七都府県の女子の自殺率が二十年前から全国平均よりも若干高いんです。これは、何か隠れた原因が、あるとしか、思えない」

「ちょっと待てよ、湾岸七都府県と言うけど東京、千葉は二十年前でいいとして関西の方は十年ぐらい前からじゃないの」と深野が指摘した。明は言い間違えたことに気付いた。

「えっ」と自分の机に戻りかけていた亜衣子が振り返った。カールした髪が頬に掛かった。

「本当だ、なんで?」と言う亜衣子の言葉に、先刻コピー用紙の裏に棒グラフを描いて説明した内容を、彼女が理解していなかったことを明は知った。

「面白そうだけど、今日はもう定時だから、残りは明日にしたら?」と深野がくたびれたサンダルの足の向きを自分の机の方に向け、明にパソコンのログオフを促した。

「面白くなってきたところなんだけど」と明が興奮冷めやらぬ思いで未練がましく言う。

「あんまり根を詰めてやると契約期間前に作業が終わっちゃうよ。公共事業を見てごらん。仕事がなくならないように、さっさとやらないようにして、ちんたらやってるじゃないの。見習わなくっちゃ。ま、そのへんにして熱燗でも呑みに行こうや」という深野の誘いで、明はまだ部屋に残っていた亜衣子に後ろ髪をひかれる思いで外に出た。駅まで来ると深野の気が変わり、うやむやのうちに各自帰路についた。深野は自分の言ったことを全く気にとめていなかったが、明は家に帰っても誰もいないので、一杯呑むことを楽しみにはしていた。深野には部下の思いをはぐらかす性癖があった。

 

翌日の金曜日は前日と同様に薄ら寒い朝だった。午前中、明は昨日の続きのデータベースの作成に追われた。まず、総務省のデータサイトから各年の年齢別の人口統計を都道府県別に入手した。国境を越えた人口の流出入はそれほど大きくないので、事故死や病死のない限り、0歳の人口統計は毎年1歳ずつ年を取ってゆく。だから、1年刻みの人口統計は毎年ゼロ歳の新生児人口を加えた形になる。しかし、実際は事故死や病死や国際間の人口の流出入や都道府県境の人口の流出入がある。この都道府県別年次人口統計と二十歳未満の死亡原因別人数から、ここ五十年間の都道府県未成年人口千人あたりの発生件数を求め、棒グラフを作る。表計算ソフトを駆使して、全国平均で割って見やすくする。ある県の未成年千人あたりの発生件数が全国平均並みであれば、数値は1となる。最初の三十年間についてはざっと見ただけだが、どの都道府県も全ての死因について常に1を上回ることはないように見えた。どの都道府県も1を越える年もあれば1以下の年もある。しかも、いずれの年も1に近い。このことは、交通事故や自殺について特異な都道府県はないということかと明は一人ごとを言いながら自分を納得させた。問題は次の二十年間の東京湾と大阪湾の湾岸都府県のデータだった。1年ベースの統計で確認すると新たな事実が浮かび上がってきた。男女別で女子の東京都と千葉県の自殺率・溺死率・転落死率は八四年から全国平均を常に上回っているため僅かだが1より大きな値を示している。溺死については湾岸都県であるから、水死の確率は高くなるかも知れない。しかし、東京には川はあるが海水浴場はない。でもプールはある。茨城はなぜ溺死率が東京や千葉ほど高くないのか。かなづちが少ないからか?と明はグラフを見ながら疑問を持った。そもそもなぜ一九八四年からなのか?明には、棒グラフが賽の河原に不安定に積み上げた四角い石柱のように見えてきた。現データの数字ひとつ分が、間違いなく失われた命を表している。幾千、幾万もの無念の思いが棒グラフの背後にうごめきながら閉じ込められているような気がした。午前中は、データと対話しながら、そうしたデータベースの整理に費やされた。

 昼近くになって、経理伝票の整理が終わり、手すきになった亜衣子が様子を見に来た。明は最初に、男女別の未成年者の死亡率の全国平均からの乖離を示す折れ線グラフを亜衣子に見せてやった。一本の折れ線グラフは一つの地方自治体を示している。一つの画面に十本の折れ線グラフを入れてある。全ての都道府県は五枚の画面に収まっている。横軸に暦年をとった折れ線グラフではどの都道府県も平均を示す1の値の付近を上下している。

「どの都道府県も全国平均から極端にはずれるということはないのね。全国平均よりも高い年もあれば低い年もあるし」と感想を言う亜衣子の目が次の女子の死因別折れ線グラフで点になった。「自殺と溺死と転落死が東京と千葉だけ違う。ここ二十年間は平均より高い」

「そうなんだ。他の都道府県は全国平均の1のあたりを行ったり来たりしているけれど、東京都と千葉県は一九八四年以降、最近までほんの少しだけれど、連続して上回っている」「でも、ほんの少しね」と言う亜衣子の言葉を捉えて明は憤慨したように言った。「いや、これは間違いなく何かがある。ほんの少しどころじゃないいんだ」

明の剣幕に亜衣子は逆ぎれした。「だってほんのちょっと1より大きいだけじゃない。大体平均というだけのことじゃない」

「大違いだ」と言いながら明は拳を振り上げた。「いいかい、長期にわたって年毎の値が平均値の1の近辺を上下しているということは偶然そうなっているということだ。1より大きくなる年がコインの表、1より小さくなる年がコインの裏だとすれば、どの都道府県も年毎にコインの表が出たり裏が出たりしているということだ。ところが東京と千葉の場合、一九八四年からずっとコインの表が出続けている。コインの表が出る確率は二分の一でしょ。2年連続で表がでる確率は四分の一、3年連続なら八分の一、4年連続なら十六分の一、5年連続なら三十二分の一、6年連続なら六十四分の一、7年連続なら百二十八分の一、8年連続なら二百五十六分の一、9年連続なら五百十二分の一、10年連続なら千二十四分の一、11年連続なら二千四十八分の一、12年連続なら四千九十八分の一、13年連続なら八千百九十六分の一、ねえ、ちょっと止めて」と明に請われて亜衣子は聞き流していた自分に気づいた。「それって2の倍数ってことでしょ。だから、なんなの?」

「コインの表が20回以上連続して偶然に出ることは確率的には殆どありえない」

「ありえないって言ったって、実際に起こっていることでしょ」

「つまり、偶然だとしたら、ありえないことが、現実には起こっているんだから、偶然ではないということなんだよ。例えば、僕らがサイコロを振って1の目を出そうとしたら、せいぜい6回振って1回でしょ。だけど、ギャンブラーは6回振って6回とも1の目を出すことができる。この違いは何かと言うと、僕らにとってさいころの目で1を出すのは偶然だけど、ギャンプラーにとっては必然だということだ。なぜ、6回振って6回とも1の目を出せるかと言えば、投げるときの角度や力の入れ具合や持ち方を何万回、何十万回も練習していて、いつでも1の目を出すこつを会得しているからなんだ」

「ということは?」と亜衣子が明に結論をうながした。

「東京と千葉が84年以降、僅かとはいえ全国平均より20年以上にわたって高い値を示しているのは偶然ではなく、それを必然たらしめている何かの原因があるということだ」と言う明の熱っぽい顔を横目でちらりと見て亜衣子は納得したように首を縦に幾度も振り続けた。その目に明に対するほのかな尊敬の念がうかがえたが明は気づかなかった。

昼食は昨日と同じイタリアン・レストランだった。同じ三人が同じテーブルを囲んだ。「土岐くん、作業は順調に進んでる?」と深野はネクタイを緩めて、下着代わりのTシャツの襟首をのぞかせている。場違いな快活さで業務の進捗状況を聞いてきた。

「とりあえず、データベースは作成しました。あとはこの加工データをどう調理するかという点なんですが、データの有意な相違の解釈が見つからなくて、そこで頓挫しています」と明は木製ハンガーのような肩を大げさにすくめて見せた。

「どういうこと?」と深野がゴブレットの水を舐めた。キュービックアイスを回転させながら、角氷の音をわざと立てて聞く。

「東京都と千葉県の女子の自殺率と水死率と転落死率がどういうわけか、他の県と比べると、一九八四年から有意に高くなっているようなんです」

「自殺率って未成年人口千人あたりの?」

亜衣子も深野に同調していぶかしげな甲高い声をあげた。「どうしてかしらね?」と他人事のようにつぶやく。フォークを持つ手を休めてゴブレットに浮かぶ角氷をながめている。

「ずーっと高いの?」という深野の質問に明は「ええ、多少」とミート・スパゲッティを木のフォークにくるくると絡めながら、手短に答えた。そのとき、フォークの先が皿を引掻く音がした。亜衣子は、思わず「いや」と叫んで、左耳を左手のひらで覆った。

「ということは東京と千葉に何かあるということだな。面白そうだね。調査報告書の目玉になりそうだな」と深野は興味を示し、赤いタバスコを掛けなおした。

「午後、ちょっとデータを見てみようか」と言いながら出来損ないのピエロのメイクのように口の周りにオレンジ色のケチャップを輪のようにつけている。ナポリタン・スパゲッティをずるずると吸い込んだ。亜衣子は、フォークに巻き取ったパスタをスプーンでカットしながら、深野がたてるその音に少し目をしかめた。「一九八四年って何の年かしら?私まだ幼稚園にも行っていないわ」とフォークに絡めたパスタをおちょぼ口で頬張る。

「一九八五年といえばプラザ合意の年だから印象深いが」と深野は窓の外を見るでもなく、遠い記憶に視線を泳がせた。右手のフォークが宙に浮いている。

「そのころはようやく小学校に入ったかどうかというころなんで、どんな年だったのかまるで記憶がない。幼稚園の年長組のときの先生は初恋の人だったんで、良く覚えてますが」と明は最後の一本の短いパスタをフォークでスプーンに押し込んで口に入れた。

「いや、一九八六年からなら分かるんだ。先進五カ国蔵相会議後のプラザ合意のプレスリリースの口先介入で、円高不況になって、それから輸出関連企業の倒産が相次いで、自殺者も多かったんじゃないかな」と深野が言い終えないうちに亜衣子がパスタに落としていた目線をきりりと上げて質問してきた。「その口裂け介入ってなんですか?」

それを聞いて、深野が喉仏が見えるほどの大笑いをした。パスタの食べかすが明の目の前に飛んできた。明の肩をかすめて、床に落ちた。

「確かに口が裂けたかも知れないな。名古屋あたりで出没した口裂け女も、その頃かな」

「ふざけないで、教えて下さい」と亜衣子が自分がからかわれたことを知って、少し憤然とした口調で言った。むくれたように口を突き出している。

「口裂け、じゃなくて、口さき。口先介入というのは口だけで為替市場に介入するという意味だ。プラザ合意は記者会見をしただけで為替相場に影響を与えた初めてのケースというので有名なんだ。本来の介入は、通貨当局が通貨を実際に売ったり買ったりすることだけど、例えば農林大臣が『いま、野菜は安すぎる』と発言すると、主婦はスーパーマーケットや八百屋に殺到して、あっという間に野菜が高くなる。したがって農林水産省の役人や農協が野菜価格の操作を全くしなくても野菜の値段は上がるということかな?」

これに食事を終えた明が反論した。「農水省は野菜市場に介入なんかしてないでしょ」

「そうか。そうだな。まあ、たとえ話としては、ちょっと、例がよくなかったな。もとい。大蔵省と日銀は当時、ドルを高くしたい、同じことだけど円を安くしたいと考えたとき、為替市場でドルを買って円を売った。これをドル買い介入とか円売り介入と言うんだ。沢山買えば高くなるし、沢山売れば安くなるという道理だ。口先介入というのは、政府高官や通貨当局が発言しただけで、市場が勝手に反応して、通貨当局が実際に介入しなくても、介入したのと同じ効果をもたらすという意味だ」

「でも、どうしてそうなるんですか?」と亜衣子が聞いた。深野はその質問を待っていた。「つまりこういうことだ。今1ドルがかりに100円だとしよう。そこで通貨当局が円安にしたいと発言すればいずれ通貨当局が円売りドル買い介入をやって円を安くドルを高くすることが予想される。例えば円安のターゲットが1ドル二百円だとすれば今現在の1ドル百円というレートからすれば将来ドルが100円も高くなることを意味する。逆に将来時点から見ればドルは百円も安いことになる。金儲けの基本は安く買って高く売るだ。とすれば、金を儲けたい人は今何をすべきか?」と深野が問いかけた。明は亜衣子が考え込んでいるのを片目で見て「今安いドルを、今高い円で買う、でしょ」と得意げに答えた。

「その通り。今百円出してドルを買えばいずれ通貨当局の介入で1ドルが二百円になるんだから、その時になって今度は1ドルを売れば二百円手にする訳だから丸々百円の儲け。こういう取引が億ドル単位で行われるわけだから労せずして1億ドルの取引で百億円の儲けが出る。こんな楽な金儲けはない。輸出企業は汗水たらして、物を作ってやっと数億円の利益を捻出するが為替取引は電話1本のたった一声やパソコンのマウスのワンクリックで何千億円もの利益をたたき出す」と深野は誇張して説明する。まさかという顔をしながらも亜衣子は「私にもできそ。インターネットで注文するだけなんでしょ」と目を輝かす。

「そう、能美さんだってできる。ただし、儲けるためには、相場が1ドル200円の円安水準になる前に100円で1ドルを買っておかなければならない。市場関係者全員がそう思うから、みんながいっせいにドル買い円売り注文を出す。買われるドルは高くなり、売られる円は安くなる。その結果、あっという間に、1ドル200円になってしまう。ということは、通貨当局が何もしなくても、言っただけでドル高円安になるということだ」

そこで明が話を元に戻して反論した。「さっきの円高不況の話ですが、確かに中小企業の経営者の自殺は多かったかも知れませんが、今扱ってるデータは二十歳以下なんで」

「あっ、そうか。でも、一家心中もあったんじゃないかな」と深野は自説に固執する。

「だとすると京浜工業地帯の神奈川も自殺率が高くてもいいんじゃないですか?あの辺は零細工場が今でも多いでしょ」と明も譲らない。二人の会話に口に含んだパスタを咀嚼し終えた亜衣子が割って入ってきた。「二人とも何言ってるの?問題は八四年からでしょ」

「そうだけど」と明は亜衣子の少し小ばかにしたような口調に少しむっとした。そこで、亜衣子は再び話を元に戻した。「さっき所長がおっしゃったプラダ合意ってなんですか?」

再び深野が呵呵大笑した。明も亜衣子も大笑いしている意味がわからなかった。

「プラダじゃないのプラザ、そういう名前のホテルがニューヨークにあるの。そこで日米英独仏の五カ国が集まって会議をして終わったあと記者会見でアメリカのドルは高すぎるということを言ったわけ。そしたらその5カ国の通貨当局は何もしないのに、あれよあれよという間にドル安円高になって、1ドル240円ぐらいだったのに二百円台を割り込んで1年余りで半分ぐらいになったんだよね」という深野の解説を二人とも聞いていなかった。亜衣子にとってはプラダなら興味はあったが、プラザならどうでもよかった。結局、食事中に結論は出なかった。明は食後のカプチーノを啜りながら、問題発見能力はピカ一だ、これで問題解決能力がほどほどにあれば研究者として一流なんだ、定年後の就職口として、私の後継者にして推薦してもいいんだがという岩槻先生の深野評を思い出した。岩槻先生は聞いているほうがどきりとするような、きわどい人物評をよくしていた。

昼食後、統計資料室に戻ると、深野は明の椅子に腰掛け、明が作成したグラフをスクロールしながら、問題の本質を5分もしないうちに見抜いた。「なるほど面白い。これにもっともらしい仮説を立てて、そこそこの検証結果を添付すれば、新聞ネタにもなるな」とニヤリとした。深野はにんまりしながら、自分にとって最善のケースを想定していた。彼の描いたシナリオは、世間の話題を独占するような仮説を打ち立てて記者会見で得意満面で、その仮説の整合性を論証し、少子化対策のひとつとして、未成年者の事故死や自殺を減少させる政策を提示し、テレビのモーニングショウーやアフタヌーンショウーやワイドショウ番組の寵児となることだった。うまくいけば、どこかの芸能事務所に所属し、中高年タレントとして、売り出せるかも知れない。クイズ番組の解答者ならなんの努力も要らない。そうならなくても、定年後の引き合いが殺到して、その中から一番いい条件のものを選べる。どこかの三流大学から教授職のお声が掛かるかも知れない。現在の状況では、ガードマンのような再就職口しかなった。記者会見をやるなら日曜日だ、新聞ネタが少ないから月曜日の朝刊に2段抜きぐらいで載ると深野は頭の中でニタニタしながらキーボードをたたく指先で明が作成した女子の自殺率や事故死率の表の数値で各年の各都道府県のデータで全国平均の一を超えるものを検索した。傍らで画面を見ていた明はおいしい作業を横取りされたような気がしていた。午後一番でこの検索をするつもりだったからだ。深野が検索にマウスポインターをあわせてクリックすると、ずらずらと百個あまりのデータが表示された。一・一を超えるものはなかった。表示されたデータは降順で、最高値は千葉の一九八八年の一・〇八だった。数値の右には年度と都道府県の情報が並んでいる。

「所長、都道府県でソートを掛けてみたらどうでしょ」と深野の右隣に座っていた亜衣子が自分の両膝に両手を突っ張るようにして突いて囁くように深野の耳元でアドバイスした。深野は先に指示されて悔しそうに言った。「今そうしようとしていたところだ」と一・〇五を超えるデータについて都道府県名で降順でソートすると大阪、京都、千葉、東京、和歌山の順にデータが並べ替えられた。

「これが、土岐・能美の湾岸仮説か。なるほど、なるほど。確かに異常のように見える」「でも、暦年でソートをかけたら別の仮説がでてくるかも」と今度は深野の左隣に座っていた明が少し腰を浮かせて、深野の顔色を横目でうかがいながら提案した。深野の表情に変化はなかった。先取りをして深野の気分を害したかと心配した明は少しほっとした。深野が暦年の昇順でソートをかけると最初に出てきたのは、一九七一年の大阪、京都、奈良、兵庫、和歌山、滋賀だった。間髪を入れず、深野が部屋中に響くような大声をあげた。亜衣子も意味不明の奇声を上げて続いた。明が周囲を見回すと、室員の視線が一斉にこちらに向けられているのが分かった。皆、ミーアキャットのようにその場で首を伸ばし、深野の次の声に耳を傾けているように見えた。

「どういうことだ、これはいったい!?」

「七一年じゃ僕も能美さんも生まれていないですね。七一年って何があった年ですか?」 

不意に深野はほんの僅か斜視の眼で天井の一点を睨むようにして見上げた。天井は古材の格天井になっていた。宮邸建築以来、一度もリフォームをしていない。「七一年といえば、昭和四六年か、俺が大学4年のときだ。2部上場企業の商社の内定はもらっていたが、どうも気が進まなかった思い出がある」

亜衣子が深野の思い出に無遠慮に割り込んだ。「内定ってその頃からあったんですか」

「ひとをシーラカンスみたいにいうな」と言う深野が明にはそう見えなくもなかった。

「昔の内定って、もっと早かったんじゃないですか?就職協定のないころでしょ?」

「それはともかく、八月には、ニクソン・ショックがあったのを覚えている」

「ニクソンって、あのウオーターゲートの?」と亜衣子がどこかで聞きかじって知っている知識で嬉しそうに合いの手を入れた。

「まあ、そうだけどさ。そのとき、ニクソンが金とドルの交換の停止と一〇%の輸入課徴金を発表したんだ」と深野がなつかしそうに解説する。

「金とドルの交換停止?」と亜衣子が頓狂な声を上げた。その声の調子で彼女が全く知らなかったことが分かる。

「そのころまではドルをアメリカ政府に持っていくと金と交換してくれたんだ。たしか、一オンス35ドルだったかな」と深野は得意げに亜衣子にさりげなく説明した。「それを確か、ブレトン・ウッズ体制とか言ってたな。輸出立国の日本は輸入課徴金で景気が悪くなると予想されたんで、大学院進学に踏ん切りがついた。内定していた商社は蹴っちまった。それが人生の分かれ目だったな、いま思うと。あの商社はいまじゃ、東証1部上場で一流商社になっている。同期の年収は俺の2倍だ。やってらんねえよ」

「それだけですか?一九七一年って?」と亜衣子が深野の脱線を修正した。

「いや、それからも大変だったんだ。このニクソン・ショックでブレトン・ウッズ体制の固定相場が、円はまだドルにリンクしていたけれど確か十二月に一ドル三六〇円がスミソニアン体制で三〇八円に切り上がったはずだ。これで零細輸出企業はアウトになった。それがさらに、1973年には変動相場になった」と深野の舌は滑らかだ。

「へーっ、そのころ1ドルは300円以上もしていたんですか」と明は先輩の深野をたてて、律儀に話をあわせた。

「そう。しかも、1973年までは、ニュース番組に『今日の為替相場』というコーナーがなかった」と深野は物知り顔で言う。

「なんでなかったんですか?」と明は答えを知っているにもかかわらず、聞いてあげた。

「だって、固定相場じゃ毎日同じだ」と深野は明の予想通りに答える。

「なるほど、毎日同じじゃニュースネタにならないですね。とすると、自殺率が高いのはその円高の影響ですかね?」と明が聞くと、同じゼミの二人から疎外されていた亜衣子があきれたように明を睨みつけた。「だから、それはないってランチ食べながら、プラザ合意の話で確認したんじゃないの。だって、傾向的に平均を超えているのは関西の府県だけじゃない。円高不況って、全国的なものでしょ。なんで、関東の都県がないの?」

「あっ!そうだ、関東がない」と明は素直に驚いて見せた。それから亜衣子の方を向いて感心したようにうなずいて見せる。

「それより、八月の輸入課徴金の影響がその年にすぐ出るとは思えない。待てよ、そういう論法であるとすると前年の影響か?」と言う深野の推論にかぶせるように亜衣子が思いつきの自説を展開した。「そうね。因果関係にはタイムラグがあるものなのよ。原因が先で、少し時間をおいて結果が現れる。とすると、一九七〇年はどんな年だったんですか?タイムラグが二年だとすると一九六九年はどんな年だったんですか?」

それを受けて深野が更に思い出の糸を懐かしそうに手繰り寄せる。「七〇年は大学3年で、就職活動に明け暮れていた。唯一の思い出といえば大阪万博」と深野が言いかけたところで三人の体の動きがシンクロナイズしたように一斉に止まった。一呼吸して深野がゆっくりと語り始めた。「大阪万博は確か、大阪の北の方が会場で、三月から九月まで、半年間やっていた。入場者は六、七千万人だったと思う。空前絶後の万博だった」

「でも、万博があるとなんで女の子の事故死や自殺率がその周辺の府県で高くなるのか?」と言いながら明は、問題解決能力に問題がある、という岩槻先生の深野評を再び思い浮かべていた。

「お祭りのあとにできちゃって、ということかしら」と言ってから、亜衣子は自分の言ったことに顔を赤くしてあわてて口を閉ざした。

「そうかも知れないな。女子のほうがコンマ一ポイント近く男子よりも高いし、年齢も十五歳以上が圧倒的に多い。しかし、事故死もあるしなあ」と深野が腕を組む。

「そりゃそうでしょう、小中学生を相手にできちゃったってことは、ないでしょ」と明が茶化した。深野は憮然とした面持ちで、明を睨み付けた。明は、照れ隠しに小さく舌を出した。同意を求めるように、亜衣子の方を見たが、無視された。

「事故死の中には、自殺も含まれているかもね。担当の刑事が事後捜査が面倒くさいので、自殺の疑惑があったのに事故死にしてしまった。家族もそのほうが世間体もいいし」と亜衣子は思い付きを言ったが、これは深野に無視された。

「祭りの後にできちゃった仮説か。つまらん仮説だけど一応検証してみるか。自殺の理由を警察庁のデータベースからとってごらん。とりあえず七一年のデータをまとめて夕方また検討することにしよう」と言い残して深野は明が使っていた資料テーブル用の折りたたみ椅子から立ち上がり、自分の机の方に歩いて行った。明は自分の手帳に書き込んだ警察庁のデータバンクにアクセスするためのIDとパスワードを確認した。七一年の関西地区の未成年女子の自殺原因のデータを警察庁のデータベースにアクセスして探していると亜衣子の机の上に郵便物の束がドサッと置かれた。持ってきたのは受付の無愛想な初老の男だった。亜衣子はそれを見て自分の机の方に戻って行った。明は一人になって何となくほっとしたような気分を感じた。深野と亜衣子と一緒にいてなんとなく緊張していた。データベースをざっと見ると、恋愛、進学、友人関係、家庭、病気、学業などの自殺原因が書かれていた。一番多いのは不明だった。そこで七〇年と七二年についても調べてみた。

「どういうことだ」とデータベースを閲覧して思わず声を殺して叫んだ。亜衣子の視線を感じたので彼女にもその低い声が聞こえたようだった。亜衣子は郵便物を各所員に配達し始めていた。明が叫んだのは七〇年と七二年の自殺理由に不明に分類されている件数が殆どなかったからだ。資料作成を後回しにして明は八四年以降の東京と千葉の自殺原因のデータベースも閲覧した。見ながら心臓の鼓動が高まって行くのを感じた。自殺原因の第1位はやはり不明だった。八三年以前のデータベースにアクセスしながら指先が震えるのを抑制できなかった。結果は脳の血流を更に増幅させた。首筋がずきずきした。八三年以前の自殺原因で不明はどの年も最下位だった。脈拍がこめかみを叩いているの感じた。亜衣子が明の隣に自分の椅子を引きずってきて腰掛けた。明が気付いていないようなので声を掛けた。「どうしたの?また、何か発見?」

明は得意げに言った。「祭りのあと不明仮説だ」

「なに、それ?」と亜衣子はつんとした鼻先を少し上方に突き出した。明は横目で彼女の横顔をのぞき見ながら、かわいいと思った。

「祭りの後に自殺が増えるが原因はできたじゃなくて不明だ。八四年って何の年だ?」

「私が保育園児になったかどうかというころね。万博みたいなお祭りは記憶にないわ」と亜衣子が言うのを聞いて、明は自分の方が一、二歳年上であることに気付いた。

「僕は良く覚えてる。幼稚園の年少組だったけど、クラスの友達に自慢されたのが悔しくて悔しくて初めて親を呪ったよ」

「早く言いなさいよ、もったいぶってないで」と亜衣子がテーブルをこつんと叩いた。

「TDLだ。一九八三年に開園した。君のさっきのタイムラグ仮説が正しいとすると、それから1年後に影響が出てくる。しかも、お祭りはまだ続いている。一九八三年には最下位だった不明の自殺原因が、一九八四年以降、ずっと第1位だ」と明は年上であることを自覚して自信を持って言った。たったそれだけのことで、亜衣子に対する態度にゆとりが生まれたことを不思議に思った。悪い気分ではなかった。

「すると、USJは二〇〇一年に始まったから」と言う亜衣子の言葉尻を明が奪った。

「仮説を検証しよう。祭りの後不明仮説と1年のタイムラグの前提が正しいとすれば二〇〇一年以前の自殺率一位は不明以外でそれ以降の一位は不明ということだ」と明が言い終わらないうちに、亜衣子は自分のパソコンで警察庁のデータベースにアクセスし、大阪府、京都府、兵庫県、和歌山県、奈良県、滋賀県の自殺原因を閲覧し始めた。十二、三分の間彼女は画面に釘付けになった。明も手元を休めて彼女のパソコンの画面に見入った。

「正しい!仮説は検証されたわ。この仮説どう命名しようかしら。能美・土岐仮説でどう?」

明は呆れ顔で亜衣子の横顔を眺めた。さっきかわいいと思った横顔が小憎らしく見た。

「なんと臆面のない。せめて、祭りのあと・タイムラグ・不明仮説でしょ」

「だめよそんなの、長ったらしいじゃない。それに誰が発見したか分からないでしょ」

「それでもいいけどさ、能美・土岐仮説じゃなくて、土岐・能美仮説でしょ」

「なんでェ?」と亜衣子がすねたような、あまったれたような声で言う。

「連名の場合は、あいうえお順と決まっている。これ、学会の常識!」

「ブー、学会の常識はアルファベット順。NOMAよりのNOHMIの方が先でしょ」

「なんといけずうずうしい。のみさんだからNOMIじゃないの?さっき『のみさん』って呼んだら返事してたじゃない。それに深野さんも『のみさん』って呼んでたじゃない。それにのうみさんならNOUMIでしょ。やっぱNOMAの方がさきになるよ」と言いながら明は嬉しそうだった。仮説名で彼女と心情的に一体になれたような気がしたからだ。

「『のみさん』って呼ばれて返事をしたのは、大人の対応。いちいち訂正していたら角が立つでしょ。能美をのみって読むのは石川県の能美市だけなの」

「まあいいや。とりあえずデータベースをまとめて。問題は発見した。あとは原因解明だ」

 残された午後の時間は、発見した事実の表整理に追われた。単年のクロスセクション比較は棒グラフで描き、経年のタイムシリーズ比較は折れ線グラフに統一してまとめることにした。終業時刻までには図表はほぼ完成した。あとは、解説文の書き込みだが、肝心の原因がさっぱり見当がつかなかった。

「お祭りのあと、周辺地域で未成年女子の原因不明の自殺や事故死が増加する。なぜだ!」と明は出来上がった図表を何度もスクロールしながらパソコンの画面につぶやきかけた。「しかもそれは現在進行形だ」と言いながらリターンキーを叩く明の肩に深野が厚ぼったく毛深い手を置いた。「どう仮説検証の結果は?さっき原因不明の自殺とか言ってたけど、これは要注意だよ。原因不明の自殺は事故死の場合もあるからね。事故死の場合は原因を徹底的に究明しそうならない対策を生活安全の側面からコメントしなければならないけど、自殺の場合は本人が世をはかなんだわけだから、心の問題であって、警察の問題ではない。心理カウンセリングの問題だ。警察の処理は簡単だ。警察の担当者が面倒くさがって簡単に処理するために原因をでっちあげることも多いからね。エレキギターに感電して十七才で死んだ詩人画家がいたけれど彼の場合いまだに事故死か自殺か意見が分かれている。話は違うが保険金が絡んでいると自殺と事故死とじゃ大違いだ。契約して一年以内に自殺した場合は自殺免責になって契約書に従って保険会社は支払いをしない。最近は自殺免責を2年から3年に延ばしている契約書もあるようだ。まあ、若い人の場合は、保険金がかけられていても巨額ではないから、雑誌ネタにはならないだろうが」と言う深野の声が遠ざかったので明が振り返ると帰り支度をしていた。左手に薄い書類ケースを持ち、はずしていた細いブルーの派手な柄のネクタイを緩くしめていた。深野が明の肩を軽く叩いた。「まあ、熱燗か生ビールでも呑みながらゆっくり聞こうか」と言われて、明は急いでファイルを閉じ、パソコンをログオフした。亜衣子の机の方を見ると、彼女はまだ何かの書類を書いていた。それで深野は思いついた。「彼女も誘ってみよう。あいてればね」と言いながら亜衣子の机の横に立って「土岐君がきみと是非、生ビールを呑みたいというんだけど、どう?」と言うと、亜衣子は明の方に視線を向けた。明はどういう表情をしていいのか瞬時に判断できなかったので、どぎまぎしながら小さく会釈した。頭を下げながら、深野に利用されたことに忌々しい思いを掻き立てられた。

「かれのおごりでしたら」と亜衣子は、明に聞こえるようにしゃあしゃあと言った。

「そんなこと当然じゃないか。まあ僕も出すけどね」と深野は乱杭歯をむき出しにして、大声で笑いながら答えた。

 三人は統計研究所の最寄りのJR駅前の居酒屋に立ち寄った。最初は深野が生ビールをジョッキで注文し、明は枝豆とフライドポテトと冷奴を頼んだ。明は手元不如意であったので単価の安いものばかりをメニューの中から探していた。亜衣子はそういう明の魂胆を見抜いて、逆に単価の高いものばかりをメニューの中から探していた。

「どうだい、来週あたり報告書のコンテンツを決めようか?」と深野が生ビールの泡を口の周りにつけて明に聞いてきた。明はそれを見て自分の口の周りの泡を舌で拭い、舌の届かない泡は手の甲で拭いて答えた。「最初はデータベースの解説でしょうか。やり方にもよりますが、字数が与えられればいかようにも書くことができると思いますが、だけど」

「だけど、なあに?」と亜衣子がおちょぼ口で生ビールを呑みながら、あまったれるように明の言葉の先を催促した。

「お祭り後の原因不明自殺仮説なんですが、データは出せても、理由については皆目見当がつきません。かりにデータをまとめたとしても、尻切れトンボになる可能性があります」「とりあえずデータだけまとめてみれば?説明が完結しなくても、継続調査ということで追加予算を取れるだろうし、審議委員が興味を持ってくれれば、本庁の全面的な協力も得られるだろうし、予算が増えて」

「所長の定年後の再就職口がよくなるということですか?」と言う亜衣子の言葉に深野は露骨にいやな顔をした。彼女はそれを見て見ぬ振りをして、目線を桜の古材でできたテーブルの上に落とした。

「先輩の再就職活動のネタになるんでしたら頑張ります。岩槻先生も来年は定年なんで」と明が言うと、亜衣子が目線を上げて、間髪をいれずに質した。「所長の再就職活動とあなたの指導教授の定年とどういう関係があるの?」と聞かれて明は少しどぎまぎした。

「関係というか。岩槻先生が定年されると、僕の後ろ盾がいなくなるということで、就職が厳しくなるかなあと」

「で、所長を後ろ盾になれるようないい天下り先に送り込んで、岩槻先生の後釜にしようということ?なんと、他力本願な!」という亜衣子の発言にはさすがの明も不快感を隠せなかった。研究者としての資質に欠けるものがあることは明自身も十分に自覚していたから、弱点をつかれることになった。

「まあ、来週は、その『お祭りのあと仮説』のほうは、土岐くんがまとめるとして、概論と言うか、データベース全般のとりまとめは能美くんが担当するということでやってくれないか?」という深野の業務命令に亜衣子が少し頬を膨らませた。「分かりました。私はガキの仕事を担当させていただきます」という物言いには深野も少し気色を悪くした。鼻先についた生ビールの泡を思いっきり吹き飛ばした。「いや、データベースの小奇麗なとりまとめについては、能美くんの評価は高いんだ。さすが、統計調査士だという声が本庁にもあるんだよ。棒グラフ、折れ線グラフ、円グラフ、散布図、回帰分析、要因分析、どれをとっても君は一流なんだから」といわれて亜衣子は深野が気を遣ってくれたことにニコリとした。深野も部下に対して意図的に気を遣えるようになったのは、研究所長のポストをまかされてからだった。女はほめるにしかずかと明は思った。家猫にするように、彼女の頭を撫でてやりたいような気持ちになった。

「特にカラープリントの色使いがピカ一だね。立派なカラーコーディネーターだ」と深野はフォローするように言い足した。明には色使いという言葉が妙にいやらしく聞こえた。

「でも、お祭りのあと仮説の検証はどうやったらいいでしょう?」と明は今日一日中気になっていた疑問を深野にぶつけてみた。

「TDLと未成年の事故死を結び付けるのは、こじつけのような印象が否めないが。単なる偶然という対立仮説をどうやって論破するか。まあこの週末考えてきて」と深野は焼き鳥を前歯で噛み取りながら、丸投げして押し付けるような、無責任な言い方をした。明は一瞬途方にくれた。投げかけたボールを受け取ってもらえずに、深野にひらりと体をかわされた格好だった。

 最初は懐具合を心配して、明はちびちびと飲み食いしていた。博士後期課程の奨学金が途切れて引き落とし口座に残高がほとんどない。警察統計研究所のアルバイト代の入金をあてにしてカード支払にすることにした。途中から大いに飲み食いすることに決めた。しかし、支払いは結局深野がすませた。最初から深野はおごるつもりだったが、それを飲み食いする前に言うと金額がかさむことになるのを恐れて、明をダミーにしたのだった。


土曜日の朝、昼近くに明は目を覚ました。昨夜はだいぶ酔っていたので、良く眠れたような気がした。湿っぽいロフトベッドの中から壁に掛けた液晶テレビの電源を入れると、正午前のニュースを放送していた。後頭部に柔らかい疼きを感じた。多分、昨夜痛飲したせいだろうと思った。そのままだらだらとニュースを見ていると正午になった。次第に霧が晴れるように頭がすっきりして行くのが分かった。ロフトベッドに横たわったまま、今日するべきことを考えてみた。掃除は面倒なのでやらないとしても、洗濯は1週間分がたまっているのでせざるを得なかった。とりあえずロフトベッドから降り、ユニット・バスのとなりの洗濯機のドラムに洗濯物を投げ込んでから洗剤を垂らしてスイッチを入れた。再びロフトベッドの上にばったりと横になった。洗濯機のドラムの回転する気だるく緩慢な響きがなんとなく眠気を誘っているような気がした。

論文を読むか論文を書くか論文の構想を練るか。やらなければならないことはいくらでもあったが研究活動をする気にはなれなかった。最近、他人の論文を読んでも十分には理解できないことが分かってきた。おまけに、自分の書いた論文に論理的な誤りや計算間違えの多いことにも気づくようになった。論文を書くスピードも遅い。これは、研究者としては致命的なことだった。それでも来年で三十歳になる明には、研究者以外の道は考えられなかった。一般企業では恐らく採用されない年齢だと自覚していた。中途採用で入社するにしても、一般社会でのキャリアはゼロだから大卒と同じ扱いになる。残された道は研究者しかない。デモシカ教師ならぬ、デモシカ研究者かと自嘲せざるを得なかった。

他にやることはないかとアパートの合板の天井を眺めていたら、愛くるしい亜衣子の顔が浮かんできた。本人を目の前にしていないと、彼女の小生意気な言動が思い出されないことを不思議に思った。プライベートで会いたいと思ったが電話番号も住所もメールアドレスも知らなかった。聞いておけば良かったと後悔した。どうせ来週も会えることだからいいかと自分をなだめたりもした。しかし彼女に会うこと以外にしたいと思うことがなかった。その思いが次第につのってきた。深野の電話番号は分かっていたので亜衣子の連絡先を聞く手はあった。しかし深野にそういう自分の思いを知られたくなかった。知られることは恥ずかしいと思った。でも、彼女に無性に会いたい、他にしたいと思うことがないと亜衣子に会いたいという思いを抱いたまま、ぼんやりとテレビを見ていた。天気予報を見ていたとき突然ひらめいた。そうだ、統計学会の名簿だ!彼女は会員になっているはずだと思わず叫んで、ロフトベッドから起き上がり、パイプはしごを降りた。ロフトベッドの下のデスクの奥の本棚から統計学会の会員名簿を探し出した。能美、能美、まみむめもののとぶつぶつ言いながら、能美亜衣子の名前を探した。あったと思わず叫んでしまった。しかし連絡先を見て落胆した。彼女の連絡先は警察統計研究所になっていた。変な男もいるだろうから自宅の住所と電話番号を公開したくない理由は理解できた。メールアドレスも多分、警察統計研究所でもらったものに違いなかった。アドレスの末尾が、go.jpになっていた。だが待てよ。彼女は自宅のパソコンにもこのアドレスを登録しているに違いない。ということはこのアドレスにメールを出せば自宅で見る可能性があると明は落胆した気分からうきうきした気分にジェットコースターのように浮き沈みする自分をおかしく思った。さっそくパソコンの電源を入れメーラーにログインし、亜衣子にeメールを送信した。

@能美亜衣子様。突然のメールで失礼します。先週はいろいろとご指導ありがとうございました。昨夜から『祭りのあと仮説』が気になってよく眠れませんでした。とくにTDLがどういう関係にあるのか引っかかっておちおち論文も読めないような状況です。もし時間がありましたらTDLのフィールド・ワークにご協力願えないでしょうか?TDLへは子供の頃修学旅行で一度行ったきりなので最近の変貌ぶりを知りません。土曜の場合は夕方から、日曜の場合は何時からでも結構です。返信をお待ちしております。土岐明@

送信してから、明は後悔した。出会ってまだ3日しかたっていない。TDLも見え透いた口実に過ぎない。女たらしと誤解されて警戒され、断られるかも知れない。そうなれば来週からの共同作業が気まずくなるだろう。しかし、既に送信してしまった。

仕方なくカップラーメンでブランチを済ませ、夕方までテレビをつけたままで1週間分の洗濯物を干し、狭い部屋に掃除機をかけた。いい加減な家事が一段落したところで再びパソコンをオンにして着信メールをチェックした。援助交際を求める送信者不明のメールと商業メールとメールマガジンばかりで、亜衣子からのメールはなかった。落胆もしなかったが、多少期待はしていたので少し気分が暗くなった。しかし断りのメールもないので、まだ彼女はメールを見ていないのだろうと勝手に楽観的に推測した。窓の合わせガラスの向こうで冬の頼りなげな陽が落ちかかっていた。メーラーをオンにしたままで、空腹を覚えたので、レトルトのグラタンに一昨日の冷や飯を混ぜて電子レンジに入れて電源を入れた。メール着信のチャイムが鳴るたびにディスプレイを見たが、メールマガジンやスパムメールばかりだった。電子レンジがチンとなったとき、深野ならば亜衣子の自宅の電話番号を知っているであろうことが再び頭に浮かんだ。しかし、深野の自宅に電話する勇気はなかった。電話をすれば、何の用だと聞かれるだろうし、聞かれないまでも、私的な理由であると思われるだろう。それなら、メールで自分の携帯電話番号を亜衣子に送信してみてはどうだろうかとも考えてみたが、メールで返信しないで、電話をかけてくるとも思われなかった。メールならば、自分の都合のいいタイミングで返信できるが、電話をかけることはかなり勇気のいることだと思った。かりに亜衣子の自宅か携帯の電話番号を知っているとしても、TDLへの誘いはメールの方が気が楽だった。電話で誘うとなると、亜衣子はその場で返答しなければならない。心の準備も考える暇も、彼女には与えられない。メールではイエスと言えても、電話ではイエスと言えないこともある。その逆もあるかも知れないが、少なくともこの2日間で明が知りえた限りでは、彼女は相手の心情を忖度して自分の感情を偽るというしたたかな性格ではない。いやであれば、いやと言うだろう。

メールは五分か、十分おきに着信してきたが、関係のないものばかりだった。そのうち、テレビに気を取られて、しばらく着信メールをチェックするのを忘れた。冬の薄日がとっぷりと暮れた。部屋の明かりをつけていないので、パソコンのディスプレイがイルミネーションのようにやけに明るく見えてきた。一定の時間がたつとセーブモードに切り替わり、画面が暗くなるので、その都度エンターキーをたたいて、画面を復帰させた。しばらくたって、メールを見ると、英文も交えて十通ばかりが溜まっていた。メールマガジンの件名の間に、@Re・土岐です@という返信メールが混ざっていた。一瞬どきりとして、明はそのメールを急いであけてみた。

@土岐様。能美です。お誘い有り難う御座います。あすの日曜日、午前10時ごろ自宅まで、スポーツカーで迎えに来て下さい。住所は台東区池之端4丁目です。旅館の隣です。携帯電話は090-8686-8686です。よろしければ返信をお願いします@

メールを見て、飛び上がるほど嬉しくなったが、スポーツカーで迎えに行かなければならないことに愕然とした。ワンルームのアパートに住んでいる定職もない明がスポーツカーどころか、車さえ持っていないことは、契約書の彼の住所を知っている亜衣子にも分かっているはずだった。そう思うと、少し腹が立ってきた。亜衣子のメールはそれを承知で、返信して来たものだ。思わず、彼女の携帯電話に断りの電話を入れようと思ったが、思いとどまった。憤然とした思いよりも、彼女に会いたいという思いが勝った。一目惚れかと明は自問自答した。全面的にひれ伏すにはまだわだかまりがある。亜衣子は明にとっての理想の女性ではなかった。少なくとも、明にとってのタイプは、しとやかで、こまやかで、控えめで、奥ゆかしくて、愛想が良くて、愛嬌のある女性だった。亜衣子はしとやかとはいえない。細やかともいえない。言いたいことはずけずけいうので、控えめとも奥ゆかしいともいえない。けして無愛想ではないが、愛想がいいとも、愛嬌があるともいえなかった。なぜだろうと明は自分の亜衣子に対する感情を理解しかねていた。なぜタイプでもないのに会いたいんだろうとその夜はそのことばかり考えたが答えは出なかった。深層心理の奥深い襞に亜衣子にこだわる何かがあるのかも知れない。とりあえず、自分の携帯電話に亜衣子の携帯電話番号を登録し、迎えに行くとのPCメールを返信した。スポーツカーは日光街道沿いのホンダ系列のレンターカー会社で借りることにした。

 

翌朝、スポーツカーをレンタカー会社で探すことにした。近くの日光街道沿いにホンダ系列のレンタカー会社があったので、運転免許証を持参して、9時ごろ契約を済ませた。懐がさみしいので支払いはカードにした。一番安いスポーツカーはかなり中古の1600ccのCR―Xだった。マニュアルとオートマチックがあったが運転にあまり自信がなかったのでオートマチックにした。免許証を取り立ての頃はオートマチックの方がレンタル料金が高かったが、いまは希少価値でマニュアルの方が高くなっていた。最近ほとんど運転していないので、割高になったがカーナビゲーション付きのものにした。カーナビで目的地を池之端に設定した。所要時間は30分と表示された。そこから亜衣子の自宅近くまでの所要時間は日光街道経由で20分足らずだった。人通りがほとんどなかったので東京藝術大学の正門前に停車して携帯電話で亜衣子を呼び出してみた。すぐには出なかったが、

「土岐です。近くまで来たけど」と伝えると、突き抜けるような明るい声で「いまどこ?」という返事があった。聞いたことのないよそ行きの声のトーンだった。

「東京芸大の前」と少し緊張気味に明が答えると「あっ、そう。2、3分で行くわ」と言って携帯電話が切れた。それから5分ぐらいしてダウンジャケットにベージュ色の花柄の総レースのワンピースの亜衣子が現れた。ネイビーカラーのレース素材のバッグを手にしていた。助手席に乗り込むと「暖冬みたいね。なんかあったかいみたい」と言ってジャケットのボタンを全部はずしてシートベルトを締めた。TDLまではカーナビの指示通りで駐車場までは問題はなかった。しかし隣に座った亜衣子の短いワンピースからむき出た太腿が気になって仕方がなかった。車中ではもっぱら例の仮説のことが話題になった。明はそういう気分ではなかったが、亜衣子の無邪気な熱弁に付き合うかたちになった。TDLの駐車場は、小春日和のような陽気の日曜日とあって、少し混雑していた。ゲート近くの駐車場に止めることができず、一寸ずりを繰り返しながら、駐車場ビルの最上階の一番奥に駐車せざるを得なかった。

「なんと暇人の多いこと」と亜衣子が嘆息した。明は、僕たちも暇人だ、と言いかけてやめた。反論が予想されたからだ。入場券売り場は黒山の人だかりだった。アベックと親子連れが圧倒的に多い。亜衣子がそれを見てうんざりしたように言った。「休日はお父さんが来る分、こむのよね。ウィークデーならすいていることは分かっているけど専業主婦はお父さんがいないと来づらいしね。お父さん好きな女の子はどうだか分からないけど、子供だって平日のほうがいいに決まっているのにね」

亜衣子の話を聞きながら、なんとなく気分の高揚していない自分に明は気づいていた。欲しかった獲物を獲得してしまったからなのか、自分が理想とする女性と亜衣子の間にかなりの懸隔があるからなのか、予想外に混雑しているTDLに二人でいることに場違いの感覚を持ったからなのか、その理由は彼自身も分からなかった。入場券は成り行きで、明が買うことになった。誘ったのは明だし、そうするのが当然だと二人には思われた。しかし、去年の三月で奨学金を打ち切られ、去年の四月からは岩槻先生のお手伝いをして文部科学省の科学研究費からアルバイト代として月々十万円足らずもらっている明と、OGの亜衣子とでは彼女のほうが収入の多いことは明らかだった。おまけにアパート住まいの明と自宅で両親と同居の亜衣子とでは自由になるお金に格段の差があった。彼女の分の入場券を買うことに不満はなかったが収入の歴然とした違いに明はなんとなく割り切れないものを感じていた。チケット売り場寄りの扇型の放射状のゲートを通過したあと、亜衣子がチケットを彼に手渡した。「これ捨てちゃだめよ。経費で落ちるかも知れないから」

「まさか!」と明は意味もなく笑ったが、そのとき気分が高揚してこない理由らしきものがなんとなく分かった。亜衣子が業務の一環として行動していることが、彼をその気にさせない理由のようだった。ここまで車で来る途中も、亜衣子の態度にはしゃぐ様子もなかったし、車中の会話はほとんどアルバイト業務関連に限定されていた。ロマンティックな気分になろうとしていた明と、業務の延長と考えていた亜衣子の心の持ちように埋めようのない齟齬があった。二人は右手にペニーアーケードを見て、左手にディズニーギャラリーを見て、ワールドバザールを出て少し立ち止まり、トゥモローランドへ行くか、アドベンチャーランドに行くか迷った。混雑状況からすると右手のトゥモローランドのほうがすいているような気がした。

「人間は左回りする習性があるから」と言いながら、亜衣子は明の顔色をうかがいつつトゥマローランドに向けて歩き出した。明もそれに従った。

「心臓が左についてるでしょ、だから陸上トラック競技は全部左周りでしょ」

「なら右回りのアドベンチャーランドの方が空いてるんじゃないの」と明が反論すると「ばかね、それは競技の話。競歩ならともかく普通に歩く分にはどっちだって関係ないの」

と亜衣子がたしなめた。こういう亜衣子の物言いには初対面の日にはかなりむっときた明だったが、たった二日でなれてしまっていた。その点では気があっているのかなどと明は歩きながら考えていた。一方でフリーターの身で意味のない時間の浪費をしている自分について忸怩たる思いに捉われていた。こんなことをしていていいのだろうか?そういう地に足の着かない思いに苛まれながら明は心と体が別々にあるような感覚で浮遊している自分に慙愧の念をいだいていた。こうして時間はどんどん過ぎて行き、よりよい就職の機会はますます減っていくと無為の状態にある自分自身にどうしようもない焦りを感じていた。その焦りが真冬の冷風に射抜かれ、胸の中でとぐろを巻いていた。かたわらで明の焦心にまるで無関心な亜衣子の存在がそうした彼の焦慮を助長していた。二人は手をつなぐでもなく、肩を寄せるでもなく、つかず離れずぶらぶらとそぞろ歩いた。もう少し寒ければ、肩ぐらいは寄せ合っていたかも知れない。それもまた明にとっては不満足な状態だった。人気のあるアトラクションの入口はどこも長蛇の列だった。それを見ながら二人でうんざりしたような顔を見合わせた。考えていることはどうも同じようだった。

「どう?どこか並んでみる?」と義務のように先に声をかけたのは明だった。

「乗るのが目的じゃないでしょ」と亜衣子が胡散臭そうな目つきで明を見た。茶がかった黒目で冬の陽光がまぶしくてそういう目付きになっているのかも知れない。やっぱりそうかと亜衣子の本心の吐露を知って納得した。「じゃあ、どうするの?」と明は開き直ってけだるく聞いてみた。

「女の子を見るのよ。ヒントを探しながら。とくに、無表情な女の子に注意して。そういう子がいたら、次に連れ添いの大人や兄弟姉妹を観察して」

そういう亜衣子の話を聞きながら「さすが婦警さんだ」と明は聞こえるようにつぶやいた。それが亜衣子に聞こえなかったのか何の反応も示さなかった。二人は幼児向けのアトラクションの白雪姫と七人のこびとに並んだ。行列の短いものは幼児向けに限られていた。付き添いの大人たちは一様に疲れ切ってあくびをしたりつまらなそうな顔をしていた。

「幼女の場合は事故死が多かったんだっけ?」と列の最後尾に並びながら明が確認した。

「そうだったみたい。ただ少女の場合も原因不明の自殺なら、ひょっとして事故死かもね。転落したのか、飛び降りたのか」

それを聞いて明にひらめくものがあった。もしかしたら殺人か?そう思いながらも一方で、まさか統計的に有意になる程殺人と認定されない自殺や事故死が数多くあるわけがないと自ら否定したりもした。それに殺人だとしたら目的はなんだろう?いたずら?そうだとしたら着衣の乱れとか体液採取で分かるはずだと明がうつむき加減で考え込んでいると、亜衣子が彼の顔を心配そうに覗き込んできた。「あの白雪姫、整形だと思わない?」

 亜衣子の指差す方を見ると、白雪姫の衣装を着た日本人離れした顔立ちの女が欧米人のような大げさな手振りと身振りで客に愛敬を振りまいていた。アニメの白雪姫に良く似た顔をしていた。化粧のせいかもしれなかった。

「どうして整形だってわかるの?」と明は聞いた。明の眼にはただ鼻が少し高くて、その鼻筋が通っていて、顎が少し尖っていて、多少化粧が濃い目としか映らなかった。

「鼻がちょっと不自然に高すぎると思わない?」と亜衣子が同意を求めるように言う。

「そうね、日本人としては少し高いかも」と同調した意見を言いながらも明は、女は自分より美人だと嫉妬して難癖をつけるものだと思った。それに明は白雪姫の美貌に見とれていた。そのことも亜衣子の嫉妬を掻き立てたのかも知れない。

「でも、あの肌の白さは本物でしょ?色白も整形できるの?」

「できないこともないけど、ファンデーションで十分でしょ?」

「まさか、舞妓さんだって、手まではドーランを塗らないでしょ?」と明は白雪姫の雪のように白い手を指摘した。少し二人の会話のやりとりが険悪になっていた。化粧を落としたら、十人並みだとしたら、メイクの技術が素晴らしいのだと明は言おうと思ったがその前に「ねえ、ここ出たらランチにしない?私はブランチだけど」と亜衣子が明が白雪姫に目を奪われていることの不快さに耐えかねて話題を変えてきた。

「そうね、寒いし一杯のみたいところだ」と言いながら明は白雪姫から目をそらしたものの残像は鮮明に網膜に残した。それだけで、今日ここへ来た価値があるような気がした。

「あら、もう飲んじゃうの」

「今飲んどかないと、帰りまでにさめないでしょ」

「それもそうね。だけどアルコールは経費として認められないわよ。それにアルコールは置いてないんじゃないの。シーのほうでしょ、アルコール飲めるのはランドじゃなくって」

「へーっ!食費も経費として認められるの。公務員はいいね」

「これが経費として認められるとすると、後伺いの休日出張扱いになるのよ。交通費と日当と昼食代。領収書忘れないでね。経理は私の担当なんだから」と言う亜衣子の口調に食事代もおごらなければならない雰囲気を明は察知した。その上、彼女は経費扱いということで彼の支払いに対して恩義を感じないですむ。あなたとは所詮、そういう関係じゃないのよと言いたげだ。しかし亜衣子は職務に忠実だった。がらがらのアトラクションから出てトゥーンタウンでレストランに入って食事をしている間も明と話しをしながら辺りを注意深く見回していた。気分を害したわけではないが明は聞かずにはいられなかった。

「どう、さっきからきょろきょろしているけど、何か収穫あった?」

意外にもこの言葉に亜衣子は険しく反応した。「私のニックネーム知ってる!」

「知るわけないでしょ」と明も思わず、鋭く反応してしまった。

「私は研究所では、ビデオ・アイ子って呼ばれているの」

「ビデオ亜衣子?なに、それ?」

「私の目はビデオなの。一度見たものは再生できるの。とくに人の顔や体つきや仕草や動作は百パーセント再生可能なの」

「へーっ!事件現場にいたら便利だね。完璧な目撃証人になれるってこと?」

「そうなの。これが私の子供のころからの唯一の特技。だから、本当は刑事になりたかったんだけど。それで警察に入ったんだけど」

「刑事になったからって、事件そのものを目撃できるわけじゃないでしょ。事件後の現場は本物のビデオで十分でしょ」

「そうなのよね」と亜衣子はため息をついて、

「それが問題なのよ。地域係以外、この特技を生かせないのよ!私、ダンボみたいに耳も動かせるんだけど、私の特技って、役に立たないものばかり」と嘆息した。

「でも、接客業には向いてるんじゃない。人の顔を一発で覚えられるんでしょ」

「でも名前は別なの。ビジュアルだけなのよね。あっこの人あそこで見たことがあるって」

「なーんだ。あなた見たことがある、だけじゃ、キャバクラ嬢も無理だな」

そういうつまらない会話ばかりを交わしていたら、3時をまわり、二人の周囲でうんざりした父親の哀訴で、幼児連れの家族がそろそろ帰り支度を始めた。亜衣子はそれを見て「帰りの駐車場が混むから、私達もそろそろ帰りましょうか?」と提案してきた。まだ手も繋いでいないのにという未練が明にはあったが否定する理由が見つからない。

帰りの車中では、今日の収穫について散漫な会話が交わされた。

「あるとすれば、幼児や未成年が圧倒的に多いってことかしら」と亜衣子が締めたが、そんなことは行くまでもなく分かっていることだと明は疲れきった頭の中で思った。明の目的は親密になって亜衣子の体の一部に触れることだったので、収穫はゼロということになった。懐がさみしくなったむなしい思いと徒労だけが明に残った。

「自殺原因が不明ということだけど、データ作成者の捏造ということはないだろうか?」と明は思いつきを言ってみた。

「捏造の動機は?」

「いろいろ、検討するのが面倒になって」

「だって、全国の道府県警のデータよ。湾岸の警察の担当者が一斉にある年から自殺原因の究明が面倒になって不明にするなんてありえないでしょ」と亜衣子は一笑に付した。

亜衣子を東京藝術大学の先の谷中清水町公園で降ろした。明は亜衣子に目の端で別れを告げながら、森鴎外の小説の一節を思い出していた。

―池之端にお住まいで。あのおよろしいところ―

 結局日曜のTDLはそうでなくても乏しい資金を散財し疲れただけだった。亜衣子の手も握ることもできなかったし格別親密になれたということもなかった。明の下心と亜衣子が誘いに応じた目的が全く噛み合っていなかった。虚脱感だけが残った日曜だった。亜衣子はそれなりに魅惑的な女性だとは感じているが明を疲れさせることは否めなかった。


月曜日の朝、日曜日に雑踏と薄ら寒い陽の中を終日歩いたせいで、鈍い筋肉痛が背中に残っていた。TDLでなんの収穫もなかったことが、疲労に輪をかけているようだった。少し重い足を引きずって警察統計研究所にたどり着いたときは、9時を少し回っていた。亜衣子は既に出勤していたが、何事もなかったかのように「おはようございます」という儀礼的な挨拶を交わしただけだった。明は無視されたような気がした。午前中は先週の残りの統計データの整理に追われた。亜衣子も別の業務があったようで昼休みまで言葉を交わすこともなかった。月曜日の昼食も同じ三人で、同じイタリアン・レストランだった。

「土岐くんね、昨日の朝の転落事故どう思う?」と深野がわけもなく快活に聞いてきた。

「日曜日の朝?何か事件があったんですか?」

「けさのニュース見てないの?」と深野が話の腰を折られたというような目つきをする。

「昨日は、お疲れのようですね」と亜衣子がいやみを言った。明は気にもとめず、

「けさはぎりぎりまで寝ていたもんで」と口をとがらせた。あなたのせいでこちらは文無しだとの思いで明はあまり愉快でない。

「そうか、朝刊には載っていなかったから事件性はないのかも知れないけど、中三の女の子が都営住宅の八階の非常階段の踊り場から転落して、死亡したというニュースだ」

「そのニュース見ました。新聞の地方版でも読みました。報道のニュアンスだと自殺か事故か、という感じでした」と亜衣子が相槌を打った。それを聞いて、節約のため自宅で新聞をとっていない明は卑屈な思いに駆られた。深野は「まあ、女子中学生だし、事件に巻き込まれることはないだろうし、それにくだんの都営住宅は、飛び降り自殺で有名なところだから、またかっていう感じじゃないかな。ただ、中三だから自殺はあるかな」と微妙だと言いたげな顔つきをする。亜衣子が「でも事故だとしたら、手摺の高さが一メータもあるのに、どうやって転落したのかしら」と言いながら、不意に立ち上がった。胸の少し下あたりに左腕を添えて、その高さに右足を上げようとする。クロシェのスカートから太ももの奥がのぞきかけた。明がどきりとすると、その顔色を見て、亜衣子は侮蔑したように椅子に座りなおした。明は照れ隠しをするように「ということは、事故死ではない。自殺か、中学三年生で」と一人ごとのように言った。

「でも多感な年頃だし、進学の問題もあるし、私だって、そのくらいの年には死にたいと思ったことがあったわ。だから」と亜衣子が言いかけたとき、店の奥にある大型液晶テレビにそのニュースが流れた。三人とも一斉にその画面に釘付けになった。画面では、校長の記者会見の模様が流されていた。「明るくて、快活で、勉強もよくできて模範的な生徒さんでした。まことに無念です」というニュース報道について、明が「どうでもいいけど、最近女性の校長先生が多いですね。それにしても、ほかに大きな事件がなかったみたいだなあ」とつまらない感想を述べた。それに対して深野は「どうでもいいね」と、どうでもいい、という方に相槌を打った。亜衣子は少し憤慨して「女性はまじめだから校長先生の試験に合格するのよ」と気色ばんだ。亜衣子のとがらした唇の上のつんとした鼻の下にうっすらと産毛の生えているのに明は気付いて「この種のコメントはどこも同じですね」と言うと深野が解説した。「まず死者だから鞭打たない。次に自分の生徒に『問題があった』と言うと『なぜ事前に指導しなかったのだ』と批判される。だから『担任の知る限りこの生徒にはなんの問題もありませんでした。とてもいい生徒でした』というコメントになるんだ。担任を記者会見に出さないのも、質問を避けるためだ。つっこまれても、『その点については担任から聞いていません』とか『あとで担任に確認してみます』と逃げられる。人が一人死んだというのに、みんなその場を逃れることしか」といいかけたところに、亜衣子が質問した。「明日、所轄の担当者に会ってもいいでしょうか?墨田署ですよね、多分」

「うーん」と深野は思わずうなってしまった。どういう返答をしたものか、と考えているようだった。亜衣子はその様子を見て「いいレポートを書きたいんです。この事件はきっと参考になると思います。墨田署の担当者に話を通してもらえませんか?」と畳み込んだ。深野は「その要望には必然性が感じられないけど」と言いながら亜衣子の真剣なまなざしを見て「まあ、いいか。明日一日だけだよ」と許可を出した。亜衣子がすぐさま「直行、直帰でいいですか」と二の矢を放つと「いや、その日に報告に来てよ。できれば午前中に片付けて、午後から出所してよ」と深野は釘を刺した。そのやりとりに明は置いていかれたので「それで、僕は?」と不安げに深野の顔色をうかがった。

「君たちは二人でワンペア。部下のうら若い女性一人を所轄署なんかにゃやれないよ」と深野は芝居じみた大見得を切った。

 午後深野は本庁の同期の警視を通じて墨田署に話を通した。担当は定年間際の南條刑事とのことだった。報告書の方は解説の文章を残し図表のとりまとめはほぼ終了した。図表の細かい修正は文章を書きながらということで深野と明と亜衣子は合意しその日の作業を終えた。明と亜衣子は翌朝、8時半に墨田署の前で待ち合わせることにして分かれた。

 その夜、明はレトルトのビーフシチューとうどんで夕食をとりながら、インターネットの地図検索で墨田署のアクセスを確認した。交通の便の悪いところで、都バス以外にアクセスはなかった。TDLで散財したため、タクシーで行くのも惜しいので、仕方なく、日暮里駅から言問通りに出て、谷中から都バスを利用することにした。距離的には、8時前にバスに乗れば、時刻表通りであれば間に合いそうだった。始発が上野公園なので、谷中までバス停が3つ程しかなく、ほぼ時刻表通りであることが予想できた。

 

翌朝のアクセスはほぼ、明の読み通りだった。違ったのは予定していたバスが時刻表より3分早く到着したことだった。乗ってから乗客の会話でそのバスが遅れていることを知ったが時間的には丁度よかった。浅草経由で言問橋を渡ったところでバスを降り、水戸街道を隅田川沿いに北上し、5分ぐらい歩いたところで、墨田署の正面玄関に出た。8時25分を少し回っていた。あたりを見回したが亜衣子の姿は見えなかった。外は寒風が吹いていたので、建物の中に入ることにした。玄関から中に入ると正面奥に警備部、手前に交通部の部屋があり、受付の前にたたずんでいると、婦警が声を掛けてきた。「ご用件は?」

「南條刑事と面会の約束をしてあるんですが」

「どちらさまですか?」と婦警にしては愛想がよかった。

「統計研究所からきた土岐といいます。深野課長から話が行っていると思うんですが」と言うと、彼女は内線電話をかけた。その間、明は玄関の外に亜衣子の姿を探していた。「お会いになるそうです。部屋は2階の奥の突き当りです」とにこやかに言う。愛嬌のあるのは、この辺が墨東綺譚の舞台だからかと明は思った。

「連れが来るはずなんですが先に行っていると伝えてもらえますか?能美といいます」

「分かりました」という婦警の声を背中で聞きながら、明は1階右奥の階段に向かった。明が去ったあと婦警は隣の婦警と含み笑いをしていた。自分のことなのか、南條のことなのか、亜衣子のことなのか、少し気になった。古い大理石の階段を上りかけたところで「土岐さあーん」という亜衣子の甲高い声が追いかけてきた。階段の途中で、明が立ち止まっていると、息を弾ませながら「ひどい、8時半の待ち合わせでしょ。一人でさっさと行くなんて」とすねるように頬を膨らませて明を非難した。弁解するのが面倒だったので明はとりあえず言葉だけで謝った。警察署の建物が新しいものである必要はないが、それにしても老朽化が激しかった。階段のステップの角は人の足の通るところだけ湾曲して磨り減り木の手摺はぐらぐらし踊り場は薄暗く何となく黴臭かった。二階にあがると左に水戸街道に面した窓、右に順に警務部、生活安全部、刑事部、総務課、一番奥に署長室の黒地に白い縦文字の小さな表札のかかった部屋が並んでいた。古い小学校の教室のようにそれぞれの部屋に廊下側に四つ切りの木枠の大きな窓があり、薄暗い内部を覗くことができた。突き当たりの角部屋の刑事部の部屋にはいるとヤンキースの野球帽をかぶった胡麻塩の無精ひげを蓄えた中肉中背の初老の男が窓を背にしてたばこを吸っていた。

「おはようございます。南條さんですか」と明と亜衣子が唱和して挨拶すると「土岐君と能美君?」というしわがれた声がワンテンポ遅れて返ってきた。

「はい」と明が答えると「深野さんから聞いたけど都営住宅の転落死に興味があるんだって?」と南條は大きなガラスの灰皿でたばこを揉み消した。

「そうなんです」と言いながら、亜衣子が一歩、明の前に出た。

「で、なにが知りたいの?」とまぶしそうな目付きで南條は亜衣子の顔を見上げた。

「とりあえず、事故死か自殺か」と亜衣子がおずおずと答えた。南條はつまらなそうに、たばこの火が消えたかどうか、灰皿を確認しながら「それなら、自殺。自殺をほのめかすブログがめっかった」とそっけなく言う。

「へえー、中学生がブログを書いていたんですか」と亜衣子が甲高い声を出した。

「いまどきの中学生はクラスの半分ぐらいが自分のブログをもってる。しかし書き込んだのは、本人かどうかは分からん。筆跡もないし」

「だって、他人が書きますか?」と亜衣子は食い下がる。

「書けるだろう、誰だって、なりすますのは簡単だ」と南條が抑揚のない言い方をする。

「なりすます動機がありますか?」と畳み掛けるようにして亜衣子の脇から明が聞くと、

「殺人ならありうるだろう。ちなみに携帯電話からは本人の指紋以外は検出されなかった」と南條はあくびをしながらねむそうに言う。

「ログは残っていないんですか?」と亜衣子も身を乗り出すようにして聞いてきた。

「まあ腰掛けてよ」と南條は息せき切って質問してくる若い二人を制し、机の脇にあるパイプの折りたたみ椅子を指差した。だが二人とも座ろうとはしなかった。

「現場に行ってみる?一応、本庁経由の紹介だから、午前中だけ付き合うよ」

「ええぜひ」と亜衣子が即座に返答した。南條は立ち上がると部屋の右側の壁に掛かっているホワイトボードの南條と書き込まれている欄の下に都営住宅【午前中】と黒いマーカーで殴りつけるように書き込んだ。「今行けば登校児童も出勤者も出払ったころだろう」といいながら野球帽のつばを左右に動かしてかぶり直した。野球帽の縁に胡麻塩の細くバラけた髪が無造作にはみ出していた。ネクタイ締めて野球帽なんか合わないと明は思った。多分、禿げ上がっているのだろうと推測した。よろめくようにして歩く南條の後に明と亜衣子が続いた。南條は一階の受付の前を通りながら、右手で受付の婦警に会釈して外に出て行った。婦警はこらえきれないような含み笑いを返した。

先刻まで薄曇りだった朝空がすっかり真冬の青空になっていた。隅田川の方角から高速道路を走る車列の走行音が微かに聞こえた。実際は水戸街道の自動車の排気音やエンジン音の方が大きいはずなのだが、高速道路からの音のほうが大きいように明には思えた。正面玄関の外のせまい駐車場で南條が冬季制服の三十歳前後の警察官とパトカーの前で何か交渉していた。「パトロールがあるので帰りはいいですか」と鯱張って言う警察官の確認に対し「ああいいよ」というぞんざいな南條の承諾の声が聞こえた。南條が助手席にすべりこみ、明と亜衣子は後部座席に乗り込んだ。明は犯罪者でもないのに何となく落ち着かない自分を感じていた。パトカーは警邏の警察官の運転で水戸街道を北上し明治通りを左折し白鬚橋東詰の先で墨堤通りを右折して都営団地のテニスコート脇に停車した。

「ここでよろしいですか」と何となく南條を畏れているような関わり合いたくないような腫れ物に触りたくないような警察官の声に促されて都営団地と隅田川にはさまれた都営の運動公園で降りた。人工芝のテニスコートでは暇そうな団地の主婦たちが薄汚れた黄色い声を上げながら硬式テニスに興じていた。南條はそれを右目で見ながら鼻先でせせら笑うように都営のテニスコートの脇をすり抜けて中央の棟のエレベータホールに歩いて行った。

「これがマンションだってさ。どう見たって団地だろうが」と吐き捨てるように言いながら明と亜衣子を野球帽の庇で振り返った。「丁度、七十年代初めの田中角栄の日本列島改造論のころかな、ただの団地をマンションと不当表示して販売するようになった。英語のマンションは大邸宅だぜ。この都営団地はその頃できた。まあその頃は、それでも戦後できたばかりの都営住宅と比べれば、ひいき目に見てマンションといえないこともなかったかも知れねえな。でもいまじゃ、目くそ、鼻くそだな」と分厚い唇でぶつぶつ言いながら、南條は既に点灯している上りのボタンを何度も押し続けた。エレベータの籠が上層階から到着すると、南條はすぐに乗り込み、最上階の8階のボタンを押すと同時に、○閉のボタンをせわしなく二度押した。亜衣子の背中を軽く押しながら最後に乗り込んだ明の背中を、エレベータのドアがかすった。亜衣子はすぐに振り返り、気安く触るな、とでも言いたげに軽くえびぞりになって明をすねたように三白眼で睨みつけた。軽い衝撃とともにエレベータはひどくゆっくりと上昇し始めた。歩いた方が早そうな速度だった。僅かだが、左右に揺れているのとロープの軋みを明は感じた。エレベータの箱の中は、町内会の案内やいたずら書きや引掻き傷で、にぎやかだった。換気扇が回っていないので、お互いの服のかすかな臭いを我慢しなければならなかった。南條のダスターコートからかすかに樟脳のにおいがした。8階に着くと少しリバウンドしながらエレベータが停止した。エレベータの床とエレベータホールの床面が少しずれていた。南條がさっさと先に降りた。明は○開を押しながら亜衣子が降りるのを見届けてからエレベータを降りた。阿弥陀くじのようにひび割れた鼠色のコンクリートの通路に出た途端、湿って薄ら寒い川風が三人を包んだ。

「雨になるかな?」と南條が胡麻塩の鬢髪を川風になびかせながらつぶやいて、空をまぶしそうに仰いだ。白っぽい青空には小さくちぎれた片雲がそこここに散見されるだけで、雨雲は見当たらなかったが、その雲がゆるやかに流れていた。

「傘持ってきてないな」と明が最後尾を歩きながらぼやいた。

非常階段は棟のはずれにあった。手摺の高さは一メートルほどで、鉄骨がむき出しの造りだった。暗緑色のペンキがところどころはげかけていて、そこから赤茶けた鉄錆が広がりつつあった。8階から少し降りかけた非常階段の踊り場で南條は立ち止まった。

「ここから飛び降りた」と手摺を軽く叩いた。甲高い空洞の響きが非常階段に伝わった。

「まあ、乗り越えようと思えば乗り越えられないこともないっすね」と明が少し腰を引いておそるおそる階下をのぞき込みながら感想を述べた。

「彼女の身長はどのくらいだったんですか?」と亜衣子が神妙な面持ちで南條に尋ねた。

「中学生にしては大きい方で、160センチ以上あったかな」

「自殺をほのめかすブログって、いつごろ書き込まれたんですか?」

「当日の深夜。ほぼ同時刻に投身だ。携帯は無傷で彼女のジャージのポケットにあった」といいながら南條は乾いた唇を土気色の舌でなめまわした。

「携帯電話を持って投身ですか。それで、自殺って確定なんですか?」と亜衣子が南條の横顔をのぞき込むようにして念を押した。

「まあ、上はそうしたいような雰囲気だ。例によって」と南條は豊齢線に深い皺を刻む。

「例によってって、どういう意味ですか」と明がわざと幼稚っぽく媚びるように聞いた。

「検視官の見立てじゃ、いたずらされた痕跡もないし、家族からも格別の不審の申し立てもないし。これが有力者の子弟なら話は別だろうけど。他にも未解決の事件をたんまり抱えているし。まあ、俺の担当になったということは」

「ということは、これで一件落着ということですか」と亜衣子が尖った目つきで詰問した。

「そう。警察は全ての国民に対して平等というのは建前だけで、実際は扱いの不平等がまかり通っている。昔ほどではないが、その筋からの依頼があれば、交通違反の揉み消しもねえこたあねえし、参考までに言うと、彼女の指紋は、簡易鑑定だが、この手摺から検出されなかった。この高さだから、一気に飛び越えることはそれほど容易ではねえが、この手摺に足をかけたという痕跡も見当たらなかった。ついでに。これは下で言おう」といいながら、南條は重心を踵に移して、非常階段をけだるそうに降り始めた。

「でも、手摺に指紋を残さないで、どうやって手摺を乗り越えられるんですか?」と亜衣子が南條の野球帽の上から聞いた。

「上の見解じゃ、転落しようとする人間が手摺につかまる必要はねえだろうということだ」「そんな馬鹿な。自殺にしたくって、そう解釈するって感じじゃないですか。指紋がないということは誰かが拭いたということでしょ。自殺なら指紋が残っているはずだから、これは事件ということじゃないんですか?」

「まあ、おれもそう思うがな。新聞配達が拭いたかも知れない」

「新聞配達がなんで拭かなければならないんですか?」

「新聞配達が非常階段を上り下りするときに、手摺を拭くような感じで指紋を消したんじゃないかと言う奴がいる」

「それなら、新聞配達の指紋か掌紋が残るんじゃないですか?」と亜衣子はくいさがる。

「新聞配達は、寒いんで軍手をはめている。その手で、手摺につかまりながら非常階段を上り下りすれば、ついた指紋が消えねえことはねえ」

「そんな、いくらなんだって、雑巾がけをするように手摺を触るわけがないでしょ。多少は軍手で触れないところが残るんじゃないですか?かりに完全な隆線は消えるにしても、隆線のかけらは残るんじゃないですか」

「そうだよな。新聞配達が拭くわけがねえよな。でもその日の夜はにわか雨が降っていた。指紋は雨で消えたというのが、上の公式見解だ」と言う南條の話を聞いて明が非常階段を仰ぎ見た。外壁がないので雨が降れば、手摺は雨ざらしになることは容易に想像できた。

「でも、にわか雨って、どの程度の雨だったんすかね」と明が間の抜けた質問をする。声に訴求力がないので、南條も亜衣子も答えない。

「そうだとしても、8階の踊り場から転落したって、どうして分かったんですか?」と亜衣子が南條にすがるようにして尋ねる。眉が八の字になっている。

「彼女のスニーカーが片方、落ちていた。もう片方は履いたまま転落したんだ」

「ということは、乗り越えるときに踏ん張った方のスニーカーがぽろっと脱げたということか。あるいは誰かが持って来て置いたか」と思案げに明が手摺を軽く叩きながら亜衣子の同意を求めた。亜衣子はそれを無視して「このまま、一階まで降りていくんですか?」と南條に直訴するように聞いた。

「まあ、何もないとは思うけど、もう一度手がかりのないのを確認しながら」

「いい運動になっていいっすよ」と能天気に明は二人の後方からつとめて明るく声をかけた。しばらく三人の不揃いな足音が非常階段の鉄骨にかすかに五月雨のようにこだました。墨田署の刑事部の部屋で南條が予言したとおり、あたりにほとんど人影はなかった。墨堤通りはトラックや営業車等の交通量がかなり多かったが墨田川沿いのせまい裏通りには車のかげがほとんど見受けられなかった。1階に降り立つと南條は非常階段を見上げた。

「発見されたのはここだ。早朝、新聞配達のアルバイトが発見した。中国人留学生だ。死亡推定時刻は深夜。夜中に自宅から出てきたらしい」と非常階段から2、3メートル離れた自転車置き場のコンクリートを指差した。水を撒いて清掃したあとがあり、コンクリートの表面に血痕らしき薄黒い痕が滲んで見えた。

「検視報告では、打撲は右半身全体に見られた」

「ということは、右向きに転落したということですか?」とすかさず亜衣子が右手を右頬にあてながら思案げに聞いた。

「一般的に転落の場合は、下半身に損傷を受けることが多い。幼児なら別だが、中学生高学年なら、足から落下するのが普通だし、自然だ」

「でも、手摺を乗り越えるときに、足をかけようとして横向きになってそのまま落下したんじゃないですか?」と明も南條と亜衣子の会話の間隙を縫って参加してきた。

「そうかも知れねえが、ほとんど前例がない」といいながら南條は所在無げにあたりを見回した。通勤と通学で最寄り駅まで乗って行ったらしく、自転車置き場には空間が目立っていた。残された自転車は幼児用と買い物籠つきのママチャリがほとんどだった。

「さあてと、こんなとこだが、まだ時間があっから、聞き込みでもしてみっか」

「何を聞くんですか?」

「まあ、いろいろだ。昨日と一昨日、ここの住民についてはだいたい聞き込みをやったが事故直後だったんで、その後、想い出したという情報はまだ集めていない。自殺で片付けようとしているんで、恐らくこれ以上聞き込むことはなかろうとは思うが」

亜衣子が目を輝かせて「面白そうですね、やりましょう」と南條の前に一歩進み出た。その姿勢を見て、明は亜衣子の第一志望が刑事だったことを思い出した。

「そうか、じゃあ協力してくれ。最初に俺がインターフォンを押す。そのとき、お前らはドアの陰に隠れるようにしていろ。聞き込みを聞いていて、話の成り行きで顔を出せ」  

明には言っている意味が理解できなかった。「それって、どういうことっすか?」

「人間いろいろだ。公権力アレルギーで刑事には話したくないという連中もいる。異様に感情移入が激しくて、遺族に同情し、ぺらぺらしゃべるというのもいる。マスコミ好きとか、マスコミ嫌いとか、取材されるのがいやとか、取材されるのがすきとか、いろいろだ」

勘のいい亜衣子は南條の意図を理解したようだった。「つまり、話の状況に応じて、親族とか、マスコミ関係者とか、いろいろ演ずるということですか?」

「そうだ。あんたは分かりが早い」と南條が亜衣子をほめる。

「でも、それって、情報提供者をだますことになるんじゃないっすか?」と明は南條が亜衣子をほめたことが面白くない。亜衣子がさっと察知したことを、自分が気づかなかったことが愉快でない。南條が亜衣子をほめたことを自分の鈍感さに対するあてつけのように感じていた。南條はそれをたしなめるように言う。「誰も傷つけない、誰にも損害を与えない嘘は方便と言う。それで真実が引き出せるのであれば、社会的にはそれは、するべきことだ。例えば大人が子どもに『見通しの悪い小さな通りから、大通りにいきなり出ると車にひかれるよ』と注意するのは、いいことだ。だが、大人は大通りの向こうから車が走ってくることを見ちゃいねえ。そういう意味では、大通りに出ると車にひかれるというのは嘘だ。でもそれは、言うべき嘘だ」それを聞いて明は、でもそれは、かも知れない、という仮想が省略されているんじゃないか、正確には車にひかれるかも知れないよと言うべきじゃないかと思ったが南條の不興をかうと思って言わずにいた。

「1階の連中だけ聞き込みをやるか」と言いながら南條は1階の廊下に足を踏み入れた。亜衣子と明がそれに続いた。非常階段に一番近いドアが一番端の部屋になっていた。

「ドアの陰に隠れろよ」と言いながら南條はドアフォンを押した。返答がなかった。

「ここの団地は共稼ぎが圧倒的に多い。家にいるのは幼児を抱えている主婦か、年金暮らしの老人ぐらいだ。あと、仕事にあぶれたフリーターかな。ところで筆記用具持ってっか?」

「ボールペンなら」と明がジャケットの内ポケットに差していたボールペンをぬいた。

「あるんならいい。俺の話にあわせて、使ってくれ。で、手帳は?」

今度は亜衣子が「こんなんで、いいですか」と肩から提げた黒いポシェットから手帳を取り出した。どこかの企業が無料で配布している薄くて小さなメモ帳のようなものだった。

「まあ、いいか。それから、お前らにふることもあっから、聞くことを考えとけよ」と言いながら、南條は隣の部屋に移動してドアフォンを押した。明は、なんで僕が聴くことを考えなきゃならないのかと不満げに亜衣子とともにアルコープの外の通路に身を置いた。

ややあって「はあい」という若やいだ女の声がした。

「こちら墨田署の者ですが、先日の日曜日の飛び降りについてちょっと聞き込みをしています。お忙しいところ申しわけないですが、少しお話をうかがえますか?」と言う南條の風体に似合わない丁寧なお願いでドアの内側でドアチェーンのはずされる音がした。

「何でしょうか?」と言いながら顔を出したのは脇に幼児を抱えた若い母親だった。ドアを半分だけ開け、その間に自分の身を挟んだ。南條はダスターコートの下のジャケットの胸ポケットから警察手帳を頭だけ出して「日曜の飛び降りはご存知ですね」と確認した。

「ええ、でもその日は、土曜の夜から実家にこの子と帰っていたもので。日曜の夕方帰ってきて、そこの廊下でこのフロアの人から聞きました」

「何か知っていることとか、思い当たることとかありませんか?」

「8階の人とはお付き合いがないので。飛び降りたという女の子もぜんぜん知らない子で」

「それ以外に、最近何か変わったこととか、ありませんでしたか?」

「いえ、とくに」

「そうですか。ありがとうございました。何か思い出したことがあったら、いつでもこちらにご連絡下さい」と言いながら南條は胸ポケットから名刺を出した。若い母親は名刺をしげしげと見ながら鉄扉を閉じた。ドアが閉まると、南條は通路に出て「聞き込みは千三だ」とつぶやいた。明は必要以上に小声で「せんみつって、なんですか?」と聞く。

「千回聞いてもヒットする情報にありつくのは、三つ位ということだ」と南條が言い終えないうちに亜衣子が「それって用法が違うんじゃないですか。千三って詐欺師は千言ううち本当のことは三しかないっていう意味じゃないんですか」と確信を持って言う。明も「僕もそう思う」と援護したが、南條は無視して隣の部屋のドアフォンを押した。明と亜衣子は急いで、アルコープの外に隠れた。今度はでっぷりとした中年の女が出てきた。南條が質問する前にしゃべりまっくった。「何かあのお宅大変みたいですよ。旦那の会社が左前で奥さんのスナックも客足が延びないみたいで親子関係もうまく行ってないみたいで。身投げしたくなる気持ちが分からないでもないような感じ。多感な年頃だしね。かわいそ」

「他に、何か、最近変わったこととかありませんでしたか?」

「これは、他の人から聞いたんだけど、あの女の子、援助交際していたみたいだって。詳しくは知らないんだけど、中年のおじさんと一緒に歩いているのを見たって言ってたわ」「目撃したのはどこの部屋の人ですか?」

「このフロアの3軒先の人。聞いたのはお母さんからだけど、目撃したのはフリーターやっている息子だって。お母さんは浪人してるって言ってるけど、どうだか。勉強している感じはないしね。あの息子、昼夜逆の生活していて、夜中にファミレスとかコンビニをうろうろしていて。ここひと月くらいの間に、夜中に見たそうよ。でも、その女の子が飛び降りた女の子かどうか。疑わしいけど。なんとなく、信用の置けない息子だから。注目を集めたくって、いい加減なことを言っているのかも」

「そうですか、貴重な情報をどうもありがとうございました。また、何かあったらお願いします」と南條が言いかけたとき、明が顔を出して、その中年女と目が合ってしまった。明は仕方なく、通行人を装って、アルコープの前の通路を通り過ぎた。亜衣子がお腹を押さえながら声を殺して笑い転げた。中年女が名残惜しそうにドアを閉じると、南條の表情が生き生きとしていた。「この情報はヒットかも知れねえ」と言いながら途中の2軒を飛ばして、3軒目のドアフォンを押した。数秒待っても応答がなかった。南條はもう一度押した。さらに数秒たって、もう一度押した。それから二、三秒して、やっと返答があった。

「なんですか?」と言う若い男の寝ぼけたような声がした。

「墨田署の者ですが、日曜日の飛び降りについてちょっと聞き込みをしています」

「何も知らないですよ」と言うぶっきら棒な応答だ。

「それからテレビ局の女性も取材したいということなんですがいいですか」と言いながら、南條が亜衣子を手招きした。亜衣子はインターフォンに口を近づけて「すいません、テレビ局の者ですが、ちょっと先日の飛び降りについて取材させていただきたいんですが、よろしいですか?」と精一杯の艶っぽい声でお願いした。南條は満足そうににやついている。

「はあ」と言う声がして、ドアチェーンをはずす音がした。

「なんでしょうか?」と言いながら出てきたのは、ぼさぼさの頭の青年だった。腫れぼったい目をしている。その目が、女の声の主をさがしている。

「どうもすいません、おやすみのところ。こないだの日曜日に飛び降りがあったのは、ご存知だと思いますが、それについて、最近変わったこととかはなかったでしょうか?」と南條が聞き、亜衣子がそのかたわらで、開いた手帳にボールペンを立てた。

「多分、飛び降りた子だと思うんですが、先週の木曜か金曜の夜、おじさんと一緒に、そこのコンビニにいたような気がします」と言いながら、亜衣子の顔をちらちらと見る。

「その女の子とは知り合いですか?」と亜衣子が聞く。おや?というような亜衣子のでしゃばりをとがめる目付きで、南條が亜衣子を見た。

「知り合いじゃないけど、夜中のコンビニでよく出くわしたもんで」

「男の方はどんな人物でしたか?」と南條がせいたように聞いた。

「多分、ここの住民じゃないと思うけど。眉毛が太くて、四角い顔で、ちょっとアイヌ人か、沖縄の人みたいな感じで」と寝巻き代わりのジャージの上から尻をぼそぼそと掻く。南條が間をあけずに矢継ぎ早に聞く。「職業のようなものは分かりましたか?感じでいいんですが。何か変わったような点は?」

「変わっているかどうか、冬物のジャケットを着てました」

「それがどうかしましたか?」と不思議そうな顔で南條が聞く。

「冬物だから別にあれだけど。僕は、ジャケットは着付けないもので」

「えっ?」と亜衣子が呆れたように聞き返した。

「そのジャケットのえりのところに学生ボタンみたいなのが」

「ジャケットの衿穴に学生ボタン?」と今度は南條が聞き返した。

「だから、変だなと思ったんです」

「そりゃ変だ」と南條が同意した。

「他には?」

「べつに」と言ってから沈黙があった。

「どうもお休みのところお邪魔しました」と南條が言うと男は名残惜しそうに亜衣子を見ながらドアを閉めた。それと同時に「そうか」と言うなり南條は再びドアフォンを押した。

「すいません、もうひとつお聞きしたいことが」

ドアチェーンをかけていなかったようで男がすぐに出てきた。ドアを半分開けながら、正面の南條ではなく、背後の亜衣子を探しているようだった。「まだ、何か」と言う男の目の前に、南條が市販の手帳を開き、メモのページに、▽▽▽―と書き込んで男に見せた。「さっきの学生服のボタンのようなものというのは、こんなマークではなかったですか?」

男は首を斜めに捻って手帳を覗き込んだ。「さあマークまではちょっと。金色だったのが印象に残った程度で。でもこんなような形だったかも知れないです」と言いながら目を上げたついでに亜衣子を探した。その後ろに立っていた明を見つけて不審そうな顔をした。

「そうですか、また何か思い出したら、ここに連絡を下さい」と言いながら、南條は名刺

を差し出した。男は亜衣子の名刺を期待するような素振りを見せたが、その前に亜衣子の

方からいとまごいをした。男がドアを閉めた後、さっさとドアチェーンを掛ける音がした。

「その変なマークはなんですか?」と明が南條が手にしている手帳を指差して言った。

「関係があるのかないのか。変なバッジのようなものが遺体の近くに落ちていたんだ」

「どんなバッジですか?」と亜衣子は南條が説明する前に間髪を入れず問いただした。

「それがね、黒地にキンの図柄でその図柄が幾何学模様みたいなやつで、しかも焼き物だ」

といいながら南條は内ポケットにしまいかけた市販の大判の手帳を広げ、二人に見せた。

「三角形のお団子が3つ串刺しになっているのかしら?そう言えば『だんご三兄弟』って歌があったわね」と甘いもの好きの亜衣子が手帳を覗き込んで言うと「なに言ってんの。三角のお団子なんかないでしょ。それを言うならこんにゃくかはんぺんが三個串刺しになっているおでんでしょ。で焼き物って瀬戸物みたいなやつですか?」と明が切り返した。

「粘土で形を作って、焼いたもののようだ。事件とは無関係かも知れんが」

「現物はお持ちではないんですか」と明がさらに尋ねた。

「証拠品になるかも知れねえので鑑識に預けるつもりで、俺の机の引き出しにある」

「見てみたいですね」と明が詮索がましく言う。南條はそれを無視した。通路に出た南條が腕時計を見た。「じゃそろそろ、解散とすっか」と歩き始めた南條の背後から亜衣子が「お通夜と告別式はいつかしら?もう、終わったのかしら?」と思いついたように鋭い口調で尋ねた。亜衣子の後ろから明が口を挟んだ。「日曜日の朝に遺体が発見されてっから、お通夜はとっくに終わってるでしょ。保存技術は進歩しているだろうけど、いま暖冬だし」

南條が前を向いたまま答えた。「日曜日の晩、通夜だった。事故死だったんで、日曜日の昼に検死が行われた。、死体検案書が書かれた。日曜日の夜に通夜なら、普通、月曜日に葬儀だが、斎場がとれなかったようだ。週明けは病院で死ぬ人が多いからな。とくに金持ちが多い。で、今日の午後、町屋の火葬場で葬儀と告別式だ」

亜衣子が南條の斜め後ろから「何で週明けに死ぬ人が多いんですか?」と素朴に聞いた。

「最近、自宅で死ぬ人が少なくなっている。病院で土日に死者が出そうになると、当直医はいいんだが、自宅で休んでいる担当医を呼び出したり、死亡診断書を書いたりしなきゃならない。だから、土日に危篤状態になるとカンフル剤を打ったり、生命維持装置をフル稼働したりして、とにかく月曜日までもたせようとする。まあ、それはともかく、父親はこの近所の町工場の零細企業の経営者だし、本人も中学生だから、葬儀はひっそりとしたもんだろう」と南條が少し振り返って言う。

「担当刑事として顔を出すんですか」と明が足早に南條の前に出て顔を見て確認すると「署長が行けと言うんなら行くが、多分、そういうことはないだろう。交通事故とか事件がらみで病死とか、所管内でも毎週のように葬式がある。手ぶらじゃいけねえし、全部付き合っていたら給料がなくなるよ」

「それもそうだ」と明は心底、感心したように深くうなずいた。亜衣子が「事件関係者が一同に会するんだから行く価値はあるんじゃない?」と明に言ってから「あとでいいんですけど、その子のブログのURLを教えてもらえますか?ついでに南條さんの携帯の電話番号も」と唐突に南條にお願いした。

「赤外線のやり方がわからないんで、あんたのメルアドを教えてくれれば、転送するよ。それから電話番号を教えて。カラ電話掛けっから」という南條の言葉に亜衣子は自分のメールアドレスを言いかけてやめた。「土岐さん、メルアドと番号教えてあげて」と細い眉根を寄せて哀願するように言った。

「能美さんの携帯電話なら」と明が亜衣子の電話番号を教えようとすると、亜衣子が明の前に立って激しく首を横に振った。明は亜衣子が電話番号もメールアドレスも知られたくないことを察知した。明が自分のメールアドレスと電話番号を教えると、南條はそのアドレスに少女のブログのURLを転送した。即座に、明の携帯電話にメールの着信音が鳴った。ついでカラ電話の着信音も鳴った。ベートーベンの運命とモーツアルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークの着信音を聞いて亜衣子が苦笑した。

「なんと、大げさなクラシック」

「これなら、他の人の着信音と混同しないでしょ」と明は意味もなく弁解した。

「さて、これでいいかな?また、何かあれば連絡してよ。何もなければ、この一件は多分、自殺で処理される。事件でなければ、俺の手からも離れる」といまが潮時と言いたげのどんぐりまなこで南條は二人を交互に見据えた。

「それで葬式は何時からでしょう?」と歩きかけた南條に亜衣子が足止めの声をかけた。

「さあね、都心の火葬場は過密だから何時が取れたのかわからんけど多分正午は力関係からしてとれねえだろうからそのあとの時間帯じゃねえかな」と言いながら南條は二面あるテニスコートの方角に歩き始めていた。明と亜衣子もそのあとに従い、都営団地のほぼ中央にある緑の金網の張り巡らされたテニスコートの脇に出た。先刻の主婦たちがのどかな歓声を上げながら黄色いテニスボールを追いかけていた。薄ら寒い風が舞っていた。

「署に帰るからこっちだ」と南條が左手の団地沿いの手入れの悪い花壇に挟まれた遊歩道を指差した。「あんたら火葬場に行くんだったら堤防沿いの神社脇の裏通りから明治通りに出て都バスの乗り継ぎか都電か急いでるんだったらタクシーだな。でもその前に火葬場に時間を確認しておいた方がいいな。ちょっと待ってな」と言いながら南條はさっきダスターコートのポケットにしまった携帯電話を取り出して火葬場に電話した。コール音を聞きながら「火葬場の電話番号は登録しておかないと緊急の司法解剖に間に合わないことがあるんだ。解剖も少なめの予算で、かつかつでやってっから、多少不審な死体でも解剖しないことの方が多い」と言いわけめいたことを明に話した。

「あっ、墨田署の者ですが、一昨日の都営団地の自殺の仏さん、平野慶子さんの葬儀は何時からです?なに?まだ霊で仏にはなっていない?そんなことはどうでもいいよ!」といういらいらした南條の問い合わせから十数秒して「開場は二時すぎで式は三時からだとさ」という返事が南條から亜衣子に伝達された。

「それじゃあ」と南條は後ろ向きに右手を上げて会釈してそそくさと去って行こうとした。その足を亜衣子が再び止めた。「監視カメラの映像は残ってなかったんですか?」

「そんなもん団地にあるかよ」と南條は振り返りもせずに吐き捨てるようにして言った。「あ、それから、言い忘れていたが、彼女の携帯電話に変な通話記録が残っていた。ここ数日間、毎晩十二時ごろだ」と言いながら南條は踵を返した。

「どこからかかってきているんですか?」と亜衣子が南條を追いかけた。

「この団地の公衆電話からだ。最近は利用者もほとんどないんで近々撤去される予定だ」

「恋人かなんかですかね」と明が聞いた。

「その可能性もあるが、さっきも聞き込みで言ってたけど、この近辺で不審な男が目撃されている。若い男ではないらしい。転落直前にも通話があった」

「ふうん。やっぱ援助交際か」と明は何のアイディアも浮かばないというように両手のひらを上に向けて、おどけたように肩をすくめた。メイクをすればピエロになる。それを苦々しく見つめながら、南條はひらりと背を向けた。その背を亜衣子がまた振り返らせた。「それにしても女の子の両親は真夜中に娘が部屋を出たことに気付かなかったんですか」

「その夜は、町内会の無尽があって、無尽のあと午前二時ごろまで、父親と町内会の連中が母親のスナックでカラオケをやっていた。裏は取れてる」

「帰宅したとき、娘のいなかったことに気付かなかったんですか?」と亜衣子が聞いた。

「娘は両親が部屋に入ることを、日ごろからひどく嫌がっていたそうだ。よくある話だが。さっ昨日ばさんも言っていたが、とくに父親を蛇蝎のごとく嫌っていたようだ。水商売の母親ともうまくいっていなかったらしい。まあ、分からんでもないな。思春期の娘が母親の水商売を嫌がる。父親のおじん臭いのを嫌う」

「じゃあ両親は娘の死んだことを朝まで知らなかったんですか?だいぶ酔っていたということなんですか」と亜衣子が呆れたように嘆息する。明が会話に参加してきた。「両親が帰宅してきたとき玄関の鍵は掛かってなかったんでしょ。変に思わなかったんですか」

「誰かが家にいるときは、鍵をかけない決まりになっていたらしい。昔、娘か母親か、どっちかが、鍵を掛けたまま寝込んで鍵を持たないまま外出した父親がロックアウトされて、それ以来そういう決まりになったそうだ。それじゃ、また」と、もういいだろう、と言いたげに、袖を通しただけのダスターコートの下の皺だらけのカーキ色のコール天のズボンと衿が垢でまみれた厚手のジャケットが寒そうに遠ざかって行った。

明と亜衣子は狭隘な裏通りを明治通りの方角にひなびた神社の脇から、とぼとぼと歩き始めた。幅員が5メートルもない道路には、都営住宅の住民の路上駐車が数珠繋ぎになっていた。人にも車にも自転車にも出くわさなかった。歩きながら明は財布の中身を心配していた。TDLでの散財もあって、財布の中には1万円札が1枚しかなかった。これが全財産で、警察統計研究所からのアルバイト代が入る二月末まで凌がなければならない。そういう明にとっては切実な問題を思案していると「あの刑事さん、加齢臭しなかった?エレベータの中で」と亜衣子が同意を求めるようにすり寄ってきた。擦り寄ってきたことに、どういう意図があるのか明には分からない。

「カレー臭?朝からカレーライスでもたべたのかな?」と明はとぼけた。

「なに馬鹿言ってんのよ」

「ごめん、うけなかったね。あれが加齢臭っていうの?僕は刑事臭だと思ったけど。でも、あの刑事、お風呂に入っていないみたいで、肩がふけだらけで、臭かった」

「どうでもいいけど、さっきのブログみせて」と亜衣子が首を傾げながら近寄ってきた。明は電話をポケットから取り出し、南條から転送されたブログのURLにアクセスした。

「へえー、慶子ってんだ」明の携帯画面に『慶子の独白』というブログが映し出された。

「最後の書き込み見せて」と亜衣子が携帯電話をのぞき込んできた。明は立ち止まった。最後の書き込みを見ると『自殺したい』とあった。

「なんか、自殺にしてはできすぎてるね」と明が素直にぽつりともらした。

「そうね、彼女の携帯で書き込まれたとしても、彼女が書き込んだとは限らないしね」

と言いながら亜衣子は歩き出した。振り向きながら明が付いて来るのを確認した。寂しい裏通りから5分足らずで明治通りに出た。片側2車線の幹線道路の左右を見渡しながら「ねえ、少し早いけど、そろそろランチにしない?」と何かを発見したように亜衣子が交通の騒音に負けないように大声で叫んだ。

「そうだね」と明は気乗りのしない生返事を返した。腕時計を見ると正午を回っていた。

「あそこどう?有名なお店なのよ」と亜衣子がステーキハウスの巨大な看板を指差した。

ファミリーレストランで安いラーメンでもと考えていた明は暗い気分に襲われた。

「ステーキね。あっちの、ファミレスどう?あそこならステーキもあるだろうし、チェーン店だから味はまあまあだし」と明は道路の反対側の高層マンションの1階にあるファミリーレストランのガラス張りの入口を指差した。「今日のお昼はおごるわよ」と亜衣子が明の手元不如意を察知したように微笑みかけた。くやしいけれど、ないものはしょうがない、でも強情だ、男の言うことにはがんとして従わないと明は主張するのをやめた。

「月末にバイト代がはいるから足りない場合は借りとくよ」と明は思わず見栄を張った。

二人は交差点を錦糸町方面に渡り墨堤通り沿いのステーキハウスに入った。店の床面は歩道と同じ高さで天井が低かった。二十人ほどで満員となる広さで、半分ぐらいの席が地元住民で既に埋まっていた。残りの手狭なボックス席には予約のプレートが置いてあった。亜衣子は一番奥のテーブルに先に腰掛けた。座ってから、明はそのテーブルがなぜあいていたのかに気付いた。トイレの入口だった。他の空席を探したが、二人で腰掛けられそうな席はカウンターの狭い空間しかなかった。しかも料理や皿や水をキッチンから出し入れする小窓の脇で落ち着けそうもない席だった。明がレストランの内部をきょろきょろ見回しているとき、亜衣子はこげ茶のビニール張りのメニューを凝視していた。それを見て明もあわててテーブル脇に立てかけてあった焦げ茶のビニール地の分厚いメニューブックを広げた。ファミレスのメニューの軽さに慣れている明には異様に重く感じられた。

「ブッチャーズ・カットにしようかしら」と亜衣子がつぶやいた。明はその値段を確認しようとしたがなかなか見つからなかった。「それ、どこ?」

「スペシャルメニューのところ」と亜衣子が明のメニューの頁をのぞき込んだ。「ここ。店主のおすすめよ」と頁をめくり指差した。亜衣子の人差し指が、明の鼻先に突き出された。明は思わず食いつきそうな衝動に駆られた。定価2千円とあった。ステーキとしては決して高くはないとは思うが、ゲルピン状態の明にはかなり高価な昼食だった。明は財布から2千円消えた後の生活を想像してみた。何とかなりそうな気がした。「よし、僕もそれにしよう」と明は同じものをオーダーした。明の懐を店の外と同じ冷たい風が吹き抜けた。正午ちょうどにあつあつの鉄皿に乗ったステーキが音を立てて出てきた。油がぴちぴちはねている。亜衣子が思わずのけぞった。

二人は昼食を取りながら、現場検証の復習と午後の計画を立てた。

「飛び降りたのが日曜日の朝で葬儀が火曜日の午後ということは火葬を延ばしたのかもね。やっぱり何か不審な点があったのよ」とミディアムレアを頬張りながら亜衣子が言う。

「そうかも知れないけど、その結果、事件性はないということになったんでしょ」

「なったじゃなくて、なさしめたのよ」と亜衣子は小鼻を膨らませ憤慨し、強調した。

「三時までどうする?ここから町屋の火葬場までタクシーで30分もかからないけど」

「それが問題ね」と亜衣子は珍しく明の言うことに同意した。「歩きましょうか。現場近くの土地柄を足で確かめるのも悪くないわ」と亜衣子はステーキの塊を右頬に入れたまま話す。頬が餌をたらふく溜め込んだリスのようにふくれている。

「えーっ!」と明は思わず大げさに絶句した。「1時間以上は優にかかると思うよ」と言いながら、筋張った肉をよく咀嚼していないうちに塊ごと飲み込んでしまった。

「いいじゃない、日曜だってそれ以上歩いたじゃないの」といぶかしげに涼しそうに言う亜衣子に対して明は一瞬言葉を失った。「そりゃまあ、そうだけど。テーマパークを1時間歩くのとわけの分からない下町を1時間歩くのとじゃ、体感時間が倍以上違うと思うよ」

「若いくせに、なに言ってんのよ」と亜衣子は厚めにカットされたステーキをナイフで切り取り、フォークで頬張りながら目をとがらせた。

食後はブレンドコーヒーをゆったり飲み、携帯電話のナビで火葬場までの道を確認した。すんなりとワリカンで払ってその店を1時すぎに出た。最初に白鬚橋を渡った。橋の下を隅田川が滔々と流れていた。あとは明治通りをひたすら西に歩いた。途中、泪橋の交差点を通り過ぎた。交差点のかたわらに『あしたのジョー記念碑』があった。

「そうか丹下段平の泪橋か。山谷が近いのか。靴屋の看板も多いし、江戸時代からの皮なめしがずっと続いているんだね」と明が感慨深げに言うと「タンゲ・ダンペイって、誰?」と亜衣子が怪訝そうに聞いた。

「明日のジョーを知らないのか。まあ、ケーブルテレビのリバイバルアニメシリーズだから無理もないか。恐らく丹下段平は島崎藤村の破戒の『我はエタなり』じゃないかな」

「そういえば、さっき部落問題がなんとか、かんとかという看板があったわね。ものすごく古そうで字がかすれて良く見えなかったけど」と亜衣子が話を合わせた。

 いつの間にか青空が消えていた。いまにも氷雨が降りそうな薄墨色の曇り空になったせいかも知れないが、明治通り一帯の空気が、どんよりと重く澱んでいるように思えた。そうでなくても灰色がかった鈍重で沈うつな工場の多い町並みだった。

「なんとなく気が重くなる町だ。陰々滅々というか」と言いながら横断歩道のない通りを千鳥足で歩く日雇い労務者風の男を明は注視していた。亜衣子は不愉快そうに見て見ぬ振りをしていた。浅草方面に木賃宿が軒を連ねていた。一泊料金が看板にあるのを見て、

「そうか、それで安かったのか」と明は亜衣子に聞こえるように驚いて見せた。

「なにが?」と一歩先を歩いていた亜衣子が怪訝そうに振り返った。

「いや、僕のアパート。都心までの距離が、中央線沿線と遜色ないのに、部屋代が半分ぐらい違うんだ」と明は一人合点している。

「いまごろわかったの」と亜衣子は呆れ返ったようにまた歩き出した。

「この辺のマンションに住んでいる人は地方出身者が多いのよ。なぜだかわかる?」

「いや」と明は興味なさそうに首を横に大きく振った。

「デベロッパーはリバーサイドなんとかマンションという名前で売り出すの。実際隅田川沿いだし、と言っても、東岸には高速が走っているから西岸ばかりだけど。西岸は東側に川しかないから、日当たりはいいことはいいんだろうけど。このへんの土地の由来を知らない地方の人は、都心に近いのに安いと思うわけ。しかも、この辺は物価も安いし。それで住み始めてから安い理由に気付くわけ」

「僕のようにか。僕は住み始めて十年以上たってやっと気付いたよ。ひょっとしたら、小塚原の刑場の一部だったのかも知れない」と言いながら、一歩先を歩く亜衣子の足を明は拗ねたような声で止めた。

「僕、黒いネクタイしてないし、香典も持っていないけど」

「けど。なに?」と亜衣子が振り向きざまに突慳貪に問い詰めた。少し上目使いだ。

「だって、葬儀に手ぶらで、しかもスニーカーじゃ行けないでしょ。いくらフリーターだと言っても」と言う明の指摘に亜衣子は立ち止まった。そのかたわらを労務者風の真っ黒に日焼けした老齢の男が、亜衣子の体を嘗め回すように見ながら通り過ぎた。明に対しては吐き捨てるように一瞥して行った。

「ふうん、そうね。じゃ明日お宅の方に出直す?そのほうがお話をじっくり聞けるかもね」

と言う亜衣子の声に明は安堵の笑顔を浮かべた。寒いし、歩くのが苦痛になっていたのが本音だった。亜衣子と一緒だから歩いたものの、最近これほどの時間街中を歩いたことはなかった。足の裏が少し痛くなってきていた。

「日比谷線の三ノ輪駅がここから近いと思う。それに明日なら香典も研究所から出るかも」と明は先刻から考えていたセリフを快活に吐いた。とにかく、明にはカネがなかった。

「でも、せっかくここまできたんだから、葬儀を外からでも見てみない?」とすっかり、帰る気分になっていた明の足を亜衣子が未練ありげに引き止めた。

「そう?外からね。まあ、知っている人もいないことだし、通りががりのような顔をしてのぞいてみるか」と明は、女の申し出を受け入れるのも男の度量という思いで、すんなりとした気分ではなかったが、亜衣子の未練に従うことにした。

二人は、大関横丁を右に折れ、湾曲している日光街道を常磐線のガード下まで行き、さらに左折して高架線に沿って少し歩き、再び右に折れて都電荒川線の三ノ輪橋駅に到着した。丁度始発電車が停車していた。二人は上半分が黄色で下半分があわい緑の車両に乗り込んだ。亜衣子はすっかり、遠足気分になっていた。「へー、都電ってまだ走ってんだ」

「都電ってこの路線だけだよ。多分」と明は付き添いの父親になったような気分で言った。二人で座席に腰掛け、窓外の景色をものめずらしそうに見渡しているうちに、チンチンと鈴がなって発車した。電車は荒川一中前、荒川区役所前、荒川二丁目、荒川七丁目と停留場を停発車して行く。荒川七丁目を出たところで右手に町屋斎場の建物が見えた。

「あれっ、町屋駅前より荒川七丁目のほうが近かったのかな?」と明が座席から立ち上がって、窓外に不安そうな視線を送った。それにつられて亜衣子ものけぞりながら立ち上がった。町屋駅前には二、三分で、すぐに到着した。町屋駅は隣の千住大橋駅から京成本線に乗車する明にとって馴染みの駅ではあったが、下車したことはなかった。駅から尾竹橋方面に少し歩いて、右折して三分ほどすると、斎場の駐車場と三階建ての建物が見えてきた。駐車場に面して、同じような式場がいくつも並んでいた。それぞれの式場の外に火葬される人の名前が書かれていた。中ほどの式場前に、『平野慶子葬儀・告別式』の文字があった。二人は、その式場の前で、ガラス扉の中を窺った。

「隣と比べるとずいぶん人が少ないみたい」と言う亜衣子に同調して明もうなずいた。

「そうだね。お父さんが零細な町工場の経営者だからかな。なんか、さみしいね」

「それはそうでしょ、お葬式なんだから」と亜衣子はしんみりしている。全面ガラス張りの扉の中に受付の部屋があり、式場はその奥の部屋になっていた。受付のテーブルの前に四角い顔の眉毛の太い中年男が座っていた。目線が合いそうになったので、明は慌ててその式場から次の式場に歩いて行った。亜衣子はそれに気付かずに、相変わらず奥の部屋の式場を眺めていた。隣の式場の前で明は立ち止まり、亜衣子を手招きした。亜衣子がそれに気付くのに、一分ばかりを要した。

「こんな閑散としてるんじゃ、まぎれ込むわけにはいかないわね」とダウンコートの下の白いブラウスの肩をすくめながら顔を式場に向けたまま亜衣子は明の方に近寄ってきた。

「こんなに会葬者が少ないということは、父親の経営する町工場の羽振りがあんまりよくないということかな」と明が言う。

「多分そうかもね」と亜衣子が足を止めて相槌を打った。

「僕、あんまり好きじゃないんだよね、こういう所って」と明が分別顔で言う。

「あなただけじゃないわ、好きな人なんて、いないでしょ。それって、もう帰りたいっていうこと?」と亜衣子が明の眉間を鋭く見つめた。

「あたり!」と小声で叫んで明は踵を返した。

 結局二人はその斎場に十分もいなかった。研究所に行くには京成本線で終点の上野駅まで行って、そこから東京メトロの日比谷線に乗車するか、三ノ輪橋駅まで都電で戻って、三ノ輪駅から日比谷線に乗り換えるか、二通りの経路があったが、亜衣子は都電を選んだ。

「私、都電に乗るの生まれて初めてなの。小さくって、おもちゃみたい。まるで、遊園地のおさるの電車みたい。この辺には親戚もいないし、こっち方面に来ることはないから、ひょっとしたら、これが最初で最後かもね」

二人は日比谷線で研究所に行った。深野に報告したのは亜衣子だった。年は明の方が上だが職場では亜衣子の方が先輩であり職位も上だった。そういう意識が亜衣子にあった。

「あんまり、首を突っ込まないでくれよ。君たちは統計研究所で雇われているんだから。そのへん、くれぐれも忘れないように。あす、少女の家に行くことは構わないけど、勤務時間外にしてくれるかな。その代わり、香典は僕のポケットマネーから出そう」と深野は不愉快そうに眼だけで笑いながら言った。目元はへの字に笑っていたが、口元はいびつに結ばれて笑っていなかった。それでも明は香典を出さないで済むことにほっと胸をなでおろした。また亜衣子に借金しなければならないことを苦痛に感じていたからだった。

 

水曜日は1日中、明は統計資料の取りまとめに終始した。昼食はコンビニ弁当にした。不祝儀袋を買うついでに唐揚弁当を買ってきた。終業の5時少し前に報告書が大体出来上がった。第1次草稿をカラープリンターでプリントアウトし、深野に提出した。統計表と図表がメインで、コメントは簡潔にまとめた。それでも、A4で30ページほどになった。

「コメントはいかようにも増やすことはできます」と明は深野に申し添えた。5時までに少し時間があったので亜衣子に目配せして明は南條の携帯電話にかけてみた。慶子の都営団地の部屋番号を聞くためだった。南條は呼び出し音が鳴ってから十数秒で出てきた。

「南條」という事務的なしわがれ声が聞こえてきた。風体よりは十歳ぐらい若い声だった。

「土岐です。昨日はどうも。昨日葬儀に参列できなかったんで、今晩彼女の家にお線香を上げに伺おうと思ってるんですが部屋番号を教えてもらえますか」と明が最後まで言い切らないうちに南條の返答があった。「八○五だよ。8階だ。ところでいまどこ?」

「統計研究所です」

「そうか、それじゃ、6時ごろ、都営団地のテニスコートで落ち合おうか」という南條の申し出に、明は声を弾ませた。「あっ、一緒に行っていただけるんですか」

「うん、ちょっと、引っかかることがあってね」

「6時にテニスコートに行ってます」という明の声で亜衣子は状況を察したようだった。

「南條さんもいらっしゃるの?」と困惑したような声で微笑んだ。明は携帯電話をオフにしながら「うん、何か、気になることがあるんだって」と言って亜衣子の涼やかな目を盗み見た。南條が来るというだけで明の気分は軽やかになっていた。

二人は帰宅ラッシュで混雑する日比谷線の広尾駅から乗車した。人ごみにまみれながら三ノ輪駅で降りた。駅から大関横丁経由で明治通りに出た。明治通りとぶつかる日光街道の交差点はトラックや営業車で溢れていた。広尾辺りと比べると3ナンバーの車が5ナンバーの車より圧倒的に多い。都バスのバス停で白鬚橋方面のバスを待った。他に乗客はいなかった。数分ですぐ来た。乗車した。白鬚橋の東詰で下車したのは6時5分前だった。

「ぴったり」と明は亜衣子にウインクして親指を突き出して見せた。亜衣子は小ばかにしたように軽く鼻先で笑った。明はがっくりと肩を落とした。二人が都営団地の中央のテニスコートにたどり着くと南條がダスターコートの襟を立てて煙草の紫煙をくゆらせながら所在なげに待っていた。薄暗い夕刻のテニスコートの金網のかたわらに蛍のようなタバコの火が揺れていた。煙いのか待たされたからか、南條の眉間に深い皺が刻まれていた。

「こんばんは、昨日はどうも」と亜衣子が先に艶っぽい声をかけると、南條の疲れきった渋い顔がだらしなく破れた。「お前らをだしにするようだけど、どうしても、もう一度聞きたいことがあるんだ」と言いながら南條はエレベータホールに向かってそそくさと歩き始めていた。明と亜衣子は小走りに南條の後を追った。805号室は、エレベータホールと非常階段を挟んで、北側の棟のちょうど真ん中だった。表札に『平野』とあった。南條がドアフォンを親指で強く押した。しばらくして「はい、どなたですか?」という中年の女性のタバコの喫煙でしわがれた、よそ行きだが品のない声が聞こえた。

「墨田署の南條です。夜分恐れ入ります。慶子さんのお線香を上げさせてもらえますか?」と言い終えると、少し間をおいて、ドアチェーンがカチャカチャとはずされる音がして、ベージュ色の鉄扉が押し開けられた。アルコープでぼんやりと立っていた明はドアにぶつかりそうになって、思わず飛ぶように後ずさりした。

「どうも、お取り込みのところ申しわけないです。昨日の葬儀はちょっと所用があって参列できなかったもんで、こちらでお線香をあげさせてもらえますか?」と言う南條の野球帽を怪訝そうに見上げながら厚化粧の小太りの中年女が彼を招き入れた。どてらのようなダスターコートを脱ぎながら玄関に上がる南條の後に亜衣子と明が続いた。玄関には安物の脂粉の臭いが漂っていた。

「このたびはご愁傷さまです。私達も警察の者で。お線香を上げさせて下さい」と中年女に胡散臭い眼で迎えられた亜衣子が言った。玄関を上がるとすぐに8畳ほどのダイニングになっていた。右側にキッチン、左側にトイレと風呂場があった。中年女は、ダイニングの奥の左側の居間に三人を通した。団地サイズの六畳の居間の左側の壁際に低い座机があり、その上に乳白色の骨壷がむき出しのまま置かれていた。その後ろに真剣なまなざしで背面跳びでバーをクリアする少女の写真と墨田区民大会走り高跳び第三位の賞状が額入りで立てかけてあった。更に骨壷の傍らにディズニーアニメに登場するキャラクターのぬいぐるみが十数個配置されていた。亜衣子の目がそれに釘付けになり、放心したようにその前に正座した。その様子を明は怪訝そうに眺めていた。南條と明は代わる代わる香典を骨壷の前に置き、ぎこちなく手を合わせた。南條はコートと野球帽を畳の上に置き、櫛の通っていない薄い髪を整えることもなく軽くお辞儀をした。完全な禿げ頭ではなかったが頭頂部がかなり薄くなっていた。亜衣子も二人に従った。南條が般若心経を暗誦し終えて、中年女の方に膝を向けると「あの子はなんで自殺なんかしたんでしょう。あの子をここまで育てるのにいくらかけたことか」と中年女が垂れ下がった瞼の下の目を三角にして南條ににじり寄った。黒地の厚手のサテンに金ラメで竜の刺繍が胸から腹にかかっていた。

「ところで、このしるしのついたバッジのようなものに見覚えありませんか?」と南條は女を制するように市販の手帳に書き込んだくだんの奇妙なマークを突き示した。

「さあ、それなんですか?」と言う女の目付きを南條は食い入るように見た。

「お嬢さんの遺体の付近に落ちていたんですが」

「それが分かると、何かが分かるんですか?」

「もし事件だとしたら犯人に繋がるかどうか。とにかくこれがなんだか分からないもんで。お嬢さんと関係があるのか、ないのか、それが分からないんで」と言いながら南條は手帳を引っ込めた。脈はなさそうだと言いたげに半袖ワイシャツのポケットに手帳を捻込んだ。

「それから、クラブ活動の同級生の話だと、先週風邪を引いていたということなんですが」「そうね。熱があったみたいで。何か関係あるんですか?」

「いやあ、今年はまだ流行していないのに風邪をひいてたというのが。それから不審な男が先週ここの住民に目撃されているんですが、何か心当たりはないですか?」

「そいつが犯人なんですか?」と女は答えずに逆に聞いてきた。

「いやあ、それも関係があるのかないのか、分からないもんで」と言ったのを合図に南條はもう一度、女に深々と頭を下げた。「一応自殺ということにはなってはいますが、今後とも必要に応じて捜査を続けますんで何か気が付いたことがあれば、こちらに電話をいただけますか」と言いながら南條は名詞の裏に携帯電話の番号を黒いボールペンで書き込んだ。

「この不景気で、亭主の町工場も思わしくなくって。その上、都銀の貸しはがしにあって、会社もいつまでもつのやら」という女の哀訴を振り切るようにして、南條は立ち上がった。明と亜衣子もそれに続いた。玄関で最初に南條が草臥れた革靴にプラスティックの靴べらをあてた。野球帽を既にかぶっていた。次に、亜衣子がローヒールのパンプスに足を滑らした。最後は明になったが、中年女が先刻の部屋からなかなか出てこないので振り返ってその部屋を柱と襖の僅かな間隙からのぞき見た。女は香典の袋の中身を見ていた。思わず明は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。明がスニーカーを履き終えると、南條と亜衣子は既にコンクリートの回廊に出ていた。三人とも玄関の外に出ようとするとき、中年女がやっと部屋から出てきた。

「それじゃ、失礼します。おじゃましました」と明が三人を代表するような形で別れの挨拶をした。女は少し頭を下げただけで、明が回廊に出ると、ドアノブを強く引いた。鉄のドアが勢い良く閉じられた後、チャリチャリというチェーンが施錠される音が聞こえた。先頭を歩いていた南條が思い出したように二人を振り返った。

「まだ、お前らに名刺を渡してなかったな」と言いながら、二人に一枚ずつ渡した。二人はものめずらしそうに名刺の文字を確認した。『南條仁吉』、警部補なのかと明は肩書きを見てがっかりした。南條が急に小さく見えてきた。

「もうすぐ定年で使えなくなるから、どんどん消化しないとね」と言いながら南條は名刺入れを皺だらけのダスターコートのポケットにしまった。コートのポケットは警察手帳と名刺入れではじけそうにふくらんでいた。エレベータに向かって歩き出すと、亜衣子が息せき切って話し出した。「あのぬいぐるみ見た?ミッキーとミミーとスノーホワイトと7人の小人とドナルドダックと、沢山いたでしょ。これで、繋がったわ!なぞは解けたりよ!」

南條の足が止まった。「それはどういうことだ?」

「お祭りのあと仮説が検証されたんです。でも、こじつけのような気がするけどな」と明が亜衣子の反応を目の端でうかがいながら説明した。

「なんだ、それ?お祭りのあと仮説って?」と言いながら南條はダスターコートに突っ込んだ両手を下腹の前あたりで合わせた。

「お祭りがあると、未成年の女子の自殺が増えるんです。とくにTDL開園のあと、有意に、東京と千葉で未成年の女子の自殺が多発しているんです。慶子はTDLに行っているんです。しかも、多分、数回」と亜衣子は身振り手振りで得意げに話した。

「そういうのを牽強付会てえんだ。何のことだかさっぱり分からんな」と南條が眉根に深い縦皺を寄せた。そこで明が二人をエレベータホールに誘導し亜衣子の直感を解説した。

「警察庁と総務省の自殺統計を調べると大阪万博の後とかTDLとかUSJとかが開園すると、明らかにそれ以降、未成年女子の自殺や事故死が僅かではあるけれど増えているんです。理由はまだ分からないんですが。慶子は明らかにTDLに行っているんです。だから、未成年の女の子がTDLに行くと、自殺するという流れがありそうだということです」

そこで南條は腕を組んで首を垂れた。脂汚れで黒ずんだコートの襟があらわになった。エレベータで1階に着くまで南條のため息混じりの沈黙が続いた。終始、エレベータの低い天井を見上げていた。狭いエレベータを降りながら組んだ腕を解き、南條が話し出した。「待乳山に行ってみるか。去年のその近くの自殺も事件か事故かで、ちょっともめたんだ」と話しながら白鬚橋に向かって歩き出した。「最終的には隅田川に転落して溺死したということで処理されたが転落が事故なのか自殺なのか確証がいまだにない。いやまだ事件の可能性もある」と言いながら南條は二人が付いてくるのを目の隅で確かめた。ダッフルコートの明は南條の左側にダウンコートの亜衣子は右側に付いていた。「問題はその女の子が多少泳げたということだ。泳げる人間が入水自殺をするとは考えられない。しかし飛び込んだ地点と思われる桜橋の上には彼女の靴が揃えてあり、肺の中からは隅田川の水が検出された。外傷もない。恋愛問題や進学問題で悩んでいたらしい。状況証拠から上は例によって事故化させようとし実際そうなった。調書では事故か転落か自殺かは断定せずに着衣のままで泳ぎづらかったこと、桜橋の中央から転落したので川岸まで泳ぎきれなかったこと、水面に叩きつけられたショックが強かったこと、生きようという強い意志のなかったこと、おまけに風邪をひいていて体力が弱っていたこと、薬を飲みすぎていたこと。そんなような後付の理由がまことしやかに添付されて落着した。高校三年生だったかな。花火大会の終わった後で、死亡推定時刻は午後十一時ごろだ。発見したのは隅田公園沿いでダンボール箱で小屋を作って寝泊りしていたホームレスだ。目撃はしなかったがドボンという音を聞いたと言っていた。最初は容疑者扱いされたが検挙するには証拠が何もなかった。事情聴取のあと帰したら蒸発した。元々住所不定だから蒸発と言うのも変だが。でもこのホームレスが不審な奴でデジタルビデオを持っていた。ビデオが唯一の趣味で全財産をはたいて買ったとは言っていた。実際、録画したものを確認したら、花火が撮影されていた。はやくネットカフェで映像を見たいというようなことを言っていた。まあ、あのくそ暑い夏にろくに風呂にもはいっていないようで、強烈な体臭だった。しかし、身なりはそれほどプー太郎っぽくなかった。その仏が流れ着いたのが墨田区側の東岸の桟橋で。桟橋と言っても橋はなく、コンクリートの船着場があるだけだが。その船着場も、石段が数段あるだけで、水位が下がると石段の下のほうで乗り降りする。ときどき大学のレガッタの競技があったりもする。ときどき練習もしている。そのホームレスもこちら岸だったんで、墨田署が扱う事案となったいきさつがある。だがその船着場は桜橋の上流にあるんだ。まあ、上流と言っても桜橋から五十メートルもないが、だから、仏は川岸に流されたのではなく、上流に向けてもがいて、川岸に漂着した。そこにホームレスが通りかかった」

「でも」と亜衣子が続けた。「他に目撃者はいなかったんですか?いつかテレビのニュースかなんかで見たとき川岸沿いにダンボールハウスが、いっぱいあったような気がしたけど」

「あいにく、その日はホームレスにとっては年間二大イベントのひとつの日だった。当日、ビニールシートを持った一般人が大挙して花火を見に集まってくる。ホームレスにとっては絶好の稼ぎ時だ。やつらが使用するビニールシートやタッパーや食器や割り箸の大半はこの日に仕込む。あと、この辺のビルの屋上に潜り込んで近隣の住民に成りすまして一緒に飲み食いしたり、ついでに洗濯物を失敬したりする。当日、ほとんどのホームレスは稼ぎが忙しくて、出払っていた。とくに桜橋の下は空が見づらいから、一般人も集まらない」「もうひとつの大イベントってなんですか」と明が聞く。

「花見だ。土手沿いの木はみんな桜の木だ。四月には土手に一斉に桜が咲く。さすがに花見はビルの屋上ではやらない。飲み食いするのは一緒だが。ホームレスの連中は酔いの回ったグループにまぎれ込んでご馳走をたっぷり食って瓶に残っている日本酒をかき集める。後片付けを手伝う振りをして大量のビニールシートをかき集める。あとは空き缶集めだ。リヤカーにいっぱいかきあつめると相場によっちゃあ、千円から五百円ていどの現金収入が得られる。あとは酔った勢いで脱ぎ捨てた上着も拾い集める。中には内ポケットに財布のあるのもあるから、いい稼ぎになる。重箱や銘々皿なんかの食器集めも馬鹿にならない」

明が思い出したように「さっき、風邪をひいてたって言いましたよね」と聞いた。

「それがどうした?」と南條が振り返る。

「平野慶子と同じじゃないですか。転落と風邪が」

「お前も気づいたか。偶然だろうとは思うが、とりあえず、鑑識に平野慶子の検体からウイルスか風邪の菌が検出されるかどうかお願いはしといたが。ちゃんとやってくれているかどうかは、わからねえ」と南條はあまり興味を示さなかった。

南條は白鬚橋の中央で立ち止まった。明は灰色がかった薄いブルーの鉄骨の間から、橋の眼下をのぞきこんだ。薄暗闇の中を黒革の大蛇がのた打ち回るようにゆっくりと流れてゆく。南條は時折突風のように走り抜ける川風に野球帽を押さえながら川下を指差した。

「見づれえかもしれねえが、右岸のナイター施設のあるのが、野球場とテニスコートだ。その脇に薄っすらと川にかかっているのが一番新しく隅田川に掛けられた桜橋だ。歩行者専用の唯一の橋だ。あの橋からこちら側に飛び込んだ。ホームレスの段ボールハウスは東岸にしかない。ここからみると左手だ。というか、そういう空間は東岸の高速道路の下しかない。つまり墨田署の管内だ」再び歩き始めると今度は右前方を指差した。「この方角が、荒川区で昔の小塚原だ。浅草、山谷から延びる陸羽街道と明治通りが交差する泪橋で右折すると、道路がJR常磐線と地下鉄日比谷線を潜るようになっているが、そこが江戸時代の刑場だった。いまは、延命寺と回向院別院になっている。二千坪足らずだから野球場より一回り狭い感じかな。回向院には斬首された橋本左内や吉田松陰が埋葬されている。橋本左内や吉田松陰を知ってるかな」と南條が野球帽のつばに手をやった。

「そのくらい知ってますよ。幕末の志士でしょ」と明は憮然として言った。

「吉田松陰は、山口の松下村塾を見たことがあるんで知ってるけど」と亜衣子は正直に答えた。明は勝ったと思った。南條は薀蓄を続けた。「刑場は多くの無念の思いの二十万人程の罪人の血をたっぷり吸ってるから祟りがありそうだと思うのが当然だろう。しかし、この一見残酷とも思える大量処刑が江戸の治安に多少貢献したと言えなくもねえ。性悪な親の子供は多くの場合、性悪に育つ。性悪な親から善良な子が育てば美談になる。美談になるということは稀だということだ。巡査になって最初に回されたのが生活安全部少年課というところだ。不良の家庭訪問をすると一様に荒んでる。父親はぷー太郎か日雇いの呑んだくれ、母親はあばずれの水商売が通り相場だ。かならずしも金の問題じゃねえんだ。金があったって子供は家庭の細やかな愛情がねえとまともには育たねえ」と言いながら南條は明と亜衣子の顔を交互に見た。「お前らの家庭はまともだったようだな。明治になってからは西洋諸国の真似をして処刑は残酷だということでだいぶ死刑が減った。そのせいでもねえだろうが犯罪はいつまでたっても減らねえ。いずれにしてもこの土地は非業の死を遂げた人間の血で汚染されている。だから高さ三メートル程の首切地蔵が建てられてる。杉田玄白や前野良沢が腑分けをしたのもここだ。毒婦と言われた高橋お伝もここに葬られている。お伝の墓は谷中の墓地の公衆便所の隣にもある。局部が切り取られて東大の医学部の地下に保管されているそうだ。かなり大きかったらしい。これは聞いた話だが」

明はそのとき亜衣子の表情を盗み見た。不愉快そうな顔をしているだろうと予想したが、南條の言った意味が理解できなかったのか、平静を保っているように見えた。南條のセクハラまがいの無神経には、我関せずということなのか。

「我々刑事仲間では戦後の代表的な誘拐事件の犠牲者の供養のために建立された吉展地蔵尊がこの寺の入口にあるので有名だ。特に物証の乏しい中、誘拐犯を自供に追い込んだ刑事は我々ノンキャリの鑑で語り草だ」と南條が話すうちに三人は白鬚橋を渡り終えていた。「この明治通りの先の泪橋の交差点は昔は日雇い労務者で溢れていた。毎早朝トラックの荷台に乗った手配師が現れて、交差点近くにたむろしている立ちんぼの中から若そうで体格のいいのを見つくろってトラックの荷台にピックアップして連れて行ったもんだ。いまじゃ日雇い労務者も派遣会社に依頼するようになって日雇い労務者でごったがえしていた山谷もさびれたもんだ。かつては、労務者であふれんばかりだった木賃宿も今じゃ、毛唐のバックパッカーに占領されている。なんでも欧米の旅行ガイドブックに東京で都心に近くて一番安い宿として紹介されているらしい。山谷の火が消えるのも時間の問題だ」と南條は感慨深げに隅田川の川面に目を落とした。冷たい川風が優しく撫でるように野球帽からはみ出した南條のまばらな頭髪をもてあそんでいる。「浅草の連中は白鬚橋の向こう側を川向こうと言って差別する。しかし、浅草の連中だって、山手線の内側の谷根千の連中から線路向こうとか、寛永寺橋の先とか言われて馬鹿にされてんだ。目くそ鼻くそを笑うだ」と南條は白鬚橋を振り返りながら自嘲気味に言った。亜衣子はまるで聞いていなかった。

「その、去年溺死した彼女が、もしTDLに行っていたとしたら、繋がりますね」と亜衣子が話を元に戻し、待ちきれないように先刻から考えていた推理をそう吐露した。

三人は隅田川沿いに言問橋方向に下って行った。一番足の早い南條が、一番足の遅い亜衣子に歩度を合わせている。思い通りの速さで歩けない明が慶子の転落死の現場検証について確認するように「慶子の転落現場の非常階段の手すりに彼女の靴のあとも指紋もなかったということですが、あの遺影にあったフォスベリー跳びで捜査は落着したんですか」と南條に問いかけた。「そういうこった。あの狭い踊り場のスペースで助走もなく、背面跳びで手すりを跳び越えられるか。一応、中学校の顧問の体操の先生にお願いして検証してみたんだが、選手ならほとんど助走なしで一メーターくらいなら跳べるというんだ。それで一件落着。そうだとすれば横向きに落下したこととも辻褄があう」そこに亜衣子が口をはさんできた。「でも、昨日、そのことを教えてくれなかったですよね。なぜですか?」

「教えたら、お前らはそれ以上考えねえだろう。結論を導びくような情報を提供するのは、誘導尋問のようなものだ。新しい発想は生まれねえ。これが俺のやり方だ」それを聞いて、明はなるほどというように深くうなずいた。

白鬚橋から五分ほど歩いたところに、二十間ほど続く黒塀があった。真ん中あたりに黒塗りの洒落た門構えが見え、その両脇に背の高い松の木が二本望めた。住居表示を見ると、『1丁目1番34号』となっていた。

「へえ、こんなところに料亭があるんですか」と明が頓狂な声をあげた。

「♪粋な黒塀ェー、見越しの松をォー♪お前知ってんのか?」と南條が節をつけて歌う。

「なんですか、それ?」と亜衣子が聞いた。

「『お富さん』てえ歌だ。まあ、歌はともかく、この屋敷は料亭ではねえ。やくざかなんかのその筋の囲われ者の家らしい。ここの部落の出身らしい。だれもが小金をためると、ここから出て行くんだけどね」

「部落ってなんですか?」と亜衣子が他愛のない聞き方をした。

「その言葉はタブーだ。知らねえ人が何気なく使うことに敏感に反応するやからがいるから気をつけなきゃいけねえ」と言いながら、南條はあたりに人がいるかどうか見渡した。

「その囲われ者って、どうゆう素性の人なんですか?」と今度は明が他愛なく聞いた。

「そういう私的な調べはやっちゃいけないことになってる。警察機構を使えば容易に素性を知られるが禁じられてる。捜査以外の目的で情報を得てはいけないんだ。俺は署内のしょうもないルールや決まりごとは平気で破るが社会のルールは一応守ることにしている」

通りの左手に見晴らしのいい空間が拡がってきた。川沿いの河川敷が整備されて、運動公園になっていた。野球場が2面、その隣にテニスコートが5面あった。野球場には巨大な夜間照明が6本屹立している。テニスコートの夜間照明は、その半分の大きさもない。狭い二車線の一方通行の道路を望むように運動公園の事務所ビル兼体育館が建っていた。南條が左手のテニスコートを指差した。「この運動公園一帯が、隅田川の花火大会の打ち上げ会場になる。『隅田川花火大会』の名前は昭和五十三年からだ。その前は両国橋の近くで『両国の川開き』という呼び名で、昭和三十六年までやってた。翌年、交通事情の悪化が理由で開催されなくなっちまった。川岸に住宅やビルが迫り、五寸玉は昭和三十六年から打ち上げできなくなった。そもそも、享保十七年の大飢餓で多くの餓死者が出て、おまけに疫病が流行して幕府は八代将軍吉宗のとき享保十八年に死者の慰霊と悪病退散を祈って隅田川で水神祭を行ったんだ。この時、両国橋周辺の料理屋が花火を上げたのが始まりだ。だから、隅田川の花火は鎮魂の思いを込めて見上げなきゃいけない。アホみたいに大口を開けて見上げちゃならないんだ。それに太平洋戦争の東京大空襲や関東大震災のときもそうだが、東京や江戸で大量の死者が出ると必ずおびただしい数の死体が隅田川に浮く。この川は死者を吸い寄せる霊力があるんだ。ただの川だと思ったら大間違いだよ。この川の川面や川底にはわけの分からないうちに三途の川を渡らされた無数の人々の無念の思いやこの世に対する未練がおりのようになって漂っているんだ。なんとなく匂ってこねえか」と言われて明は鼻をひくつかせた。南條の話を聞きながら亜衣子も小さな鼻をひくつかせて、明と顔を見合わせ、お互いに感心したようにうなずきあう。

体育館を通り過ぎたところに、古い橋柱がぽつんと立っていた。モルタルの浮き彫りで『いまどばし』とあった。二、三十メートル先にも同じ造りで『今戸橋』とあった。

「あれっ?川もないのに、こんなところに橋の欄干の名残みたいなのがあるよ」と明が頓狂な声を上げた。

「それは、欄干じゃない。橋柱だ。橋げたを支える柱だ。道路向こうに細長い公園があるだろう。あれは、山谷堀を暗渠にしたもんだ。暗渠の上の交差点にはどこも橋の名前がついている。山谷堀の隅田川の一番手前の橋がこの今戸橋だった。奥州街道は昔ここを通っていた。浅草橋の浅草御門から蔵前と浅草を経て宇都宮までは日光街道と同じだった。だが文禄三年に千住大橋ができてから、白鬚橋あたりの橋場の渡しを使って隅田川を渡っていたのが、言問橋西詰の浅草追分から小塚原を経由して千住大橋を渡るようになった。そこの今戸橋の水は石神井川が、いまでも都電の走っている王子で分かれて、根岸を通って日本堤沿いに流れてきたものだ。この上流には新吉原があった。日本堤にできたのは、明暦二年だ。新吉原に船で来る客は、猪牙船で柳橋あたりから隅田川を上り、ここから山谷堀に入って日本堤までやってきた。堀はもうないが、隅田川の水門は、この歩道からも背伸びをすれば見えるが、いまでも残っている」と南條は江戸の御世を懐かしむように言う。

「そのチョッキぶねってなんですか?」と亜衣子が聞いた。

「チョッキじゃないよ、ちょきぶねだ。船全体が猪の牙みたいな形をしていた。そんな船に乗せられて多くの幸薄い女たちが吉原の苦界に身を沈めた。昭和で一番身売りの多かったのは、多分昭和恐慌のころだろう。当時からかむろ好みがいたようだ。女郎は死ぬとその遺骸が投げ込み寺に放り込まれた。その寺もこの近くにある。そういう存分の供養をしてもらえなかった女たちの怨念が、今でもこのあたりをうろついているような気がしてならねえ」と言う南條の傍らで、明が両手を前に垂れて「うらめしや」と亜衣子に囁いた。

「きゃっ」と亜衣子は顔を伏せた。「お願いやめて。私そういうの弱いの。本当に夜トイレに行けなくなるのよ」明がその手をすぐポケットに突っ込んだ。「まさか、大げさだよ」

亜衣子はプイっと頬を膨らませた。「全く大人のデリカシーがないんだから」と大げさに言う亜衣子の隣で南條が言った。「それは土岐のことだよな」南條が今度は右手の待乳山聖天の三階建ての社務所を指差して再び薀蓄を垂れ始めた。「ここのご本尊は大聖歓喜天だ。仏法を守護する大本の神様で庶民の迷いを救い願いをかなえてくれるんだと。これを守護しているのが毘沙門天で一緒に祀られている。毘沙門天は上杉謙信の守護神として有名だよな。ご本尊より有名かな。なんせ浅草七福神の一人だから。出世したけりゃ御参りしな」

明が南條の話を無視するようにつまらなそうな顔をしていたので亜衣子が気を利かせて合いの手の質問を入れた。「あとの六福神はなんですか?」

南條は嬉しそうに話を続けた。「一番有名なのは浅草寺の大黒天かな。金持ちになりたきゃお参りしなきゃ。なっ土岐君」と言いながら明の衣紋掛けのような肩をわざとらしく叩いた。明もわざとらしくよろめいて見せた。

「ついで同じ敷地の浅草神社の恵比寿。心の平安を得たければ御参りすることだ。失恋したときとかね。たったいま通り過ぎた路地の奥の今戸神社に福禄寿がいる。あんたと正反対の女性のことを今戸焼きって言うんだよ」と亜衣子の方を南條は顎でしゃくった。

「いまどやき?今川焼きじゃないの?」とくいしんぼの亜衣子は疑問を口にする。

「食いもんじゃねえよ。招き猫の置物だ。なんつーか、有名な焼き物と比べると肌が綺麗じゃないし、茶道で使う物と比べると上品でもない。景色も凡庸だ。つまり、いい女とは言えないのを今土焼きというんだ」

「私はそうじゃないのね。ありがとう」と亜衣子は念を押して、明の顔を見ながら少し首を傾けた。あなたはどう思うの、と言いたげだ。

「長生きしたけりゃ、今戸神社にお参りする。さっき渡った白鬚橋の右の石浜神社に寿老神。福禄寿と似たようなもんだが、どっちかってえと、こっちは健康かな。まあ健康であれば長生きするから同じようなもんだ。通りがかった左の不動院に布袋尊、布袋和尚とも言うが、これは心が広く大きくなる、人の上に立ちたければということかな。これで七つ」

「まだ六つでしょ」と亜衣子が福神を復唱し、右手の指を折りながら応えた。

「ええと。吉原神社に弁財天か。これは吉原にぴったりだ。いまはソープランドになっちまってるけど、指名をもらいたければ、というのはお二人さんには縁がないから、人気者になりたければ、御参りする。男にもてるようになるぞ」と言いながら、南條は亜衣子の肩に手を置こうとしたが、亜衣子のとげとげしい目線にさえぎられて躊躇した。南條の手が行き先を失って宙を泳いだ。その手を見て流しのタクシーが停車しかけた。南條はそのタクシーの運転手の顔をのぞきこんで、横に手を振りながら少し頭を下げた。

「土岐君はソープランドに行ったことあるの?」と亜衣子があけすけに聞いてきた。

「行きたくても先立つものが」と明が待乳山聖天の境内の佇まいを見渡しながら答えた。

「土岐君よ、カネがあればソープに行くのか。なら一回目は初会と言うんだ。覚えときな。二回目はうらで、うらを返すと三度目から馴染みになる。馴染みになるとサービスが格段によくなる。その弁才天だけがここからちょっと遠いかな。と言っても歩いても十分はかからない。これから伺うお宅はその途中の千束通りだ」それを聞いて明はまだ歩くのかと言いたげにうんざりしたような顔をした。南條は刑事らしく、しっかりした足取りで若い二人よりは元気に歩いていた。革靴の先が口を開けていて、ぺたぺたと音を立てている。

「お前ら、七福神なんぞ、信じちゃいまい。信じる、信じないは勝手だが、何百年にもわたってこうして、七福神が存在し、それを守る宮司がいて、賽銭を喜捨する信者もそこそこにいることを忘れちゃいけねえ。お前ら若いもんは自分に興味のないもんは全て存在しないような態度を見せるが、それは傲慢というもんだ。このムラに住んで、何百年にもわたって信じ続けた人々の切なる思いを感じ取らなきゃいけない」

「いまムラって言いましたよね」と亜衣子が確認するように言う。

「部落のことをムラとも言う。ここのムラの連中はみんな信心深い。その七福神は浅草ばかりじゃなく、谷中にもあるが。この辺一帯に住んでいた人々は、とくにいわくのある、世間からしいたげられた人間が多い。それだけに人並みに幸せになりたいという、強い願いが現世の不遇に対するうらみ、つらみ、ねたみ、そねみ、やっかみと合わせ鏡の熾のようになって、この界隈を徘徊している。お前ら鈍感だから、なんも感じねえだろう?お前らはパッパラパーのパーだ。それはともかく、七福神には戦後から続く、七不思議がある」

「へえー、なんですかそれ?」と明が調子の外れた合いの手を入れた。

「時々、同額のお賽銭が同じ日に入れられる。昭和三十年ごろ、それぞれ聖徳太子の千円札が一枚、政府紙幣だった板垣退助の百円札が一枚、国会議事堂の十円札が三枚と二宮尊徳の一円札が四枚ずつ、昭和四十年ごろは、十円札と一円札がそれぞれ硬貨に変わり、それから聖徳太子の千円札が伊藤博文に変わったが、金額は千百三十四円で変わっていない。昭和五十年以降は百円札がコインになり、いまじゃ、お札は千円札が夏目漱石から野口英世に変わってあとは全部硬貨だ。それでも金額は千百三十四円で変わっていない」

「金額にこだわっているんですね。なんかのげんかつぎなんですかね。でも、どうして分かったんですか?」と亜衣子が自分の表情の見え方を意識しながら、首をかしげて聞く。

「神社の宮司の寄り合いで、昔たまたまその話が出たらしい。当時は高額な賽銭だったからすぐに話題になった。日雇いの日給が五百円もしない時代だ。時代とともに物価が上昇したんで、貨幣価値が下がって、いまじゃ千百三十四円なんてたいした金額じゃないが、いつのころからか、七福神の七不思議と言われるようになった。もちろん、これは地元の連中しか知らねえ話だ」と言いながら南條は鼻をすする。

「当然、それぞれの神社に賽銭を入れたのは同一人物ですよね」と明が話しに参加した。

「まあ、そうだろうな。偶然同じ日に同じ金額を、ということは考えにくいし、別の人が結託してお賽銭を入れるとも考えにくい。七箇所全部歩いて回ると三十分以上掛かるから、二、三人でやったということはあるかも知れねえが。それに最近じゃ、他のお賽銭と混ざってしまうのか、その金額が今でも賽銭箱に入れられているのかどうか、分からんと言う話だが、会うと宮司たちはいまでも続いていると言い張ってる」

 水戸街道と言問通りの五差路の交差点の交番前で南條は立ち止まり携帯を取り出した。交番にいる若い巡査が顔見知りらしく無言で軽く会釈した。南條は安物の腕時計を見た。「この時間だと多分」と言いかけたところに亜衣子が無理やり質問をねじ込んだ。「なんで、刑事のことをでかっていうんですか?」

「でかいからじゃないの?偉そうでサ、顔がでかいからデカ」とあてずっぽうを言う明を無視して南條が解説した。「明治の刑事は和服を着ていた。袖が角ばっていたので角袖、その最初のかと最後のでをひっくり返したんだ。そんなのばかりだ、隠語は。がさいれのがさは捜すの始めのさがをひっくり返したものだ。ジャズメンがジャズのことをズージャとひっくり返して言うような言い方が多い。例えば面会をかいめんという。一応隠語だけど落語のオチみたいに凝ったものはない」と説明しながら南條はつまらなそうな顔をした。

「ということは、ガセネタのガセはせがれをひっくり返したもので、ある刑事の息子に嘘ばっかつくやつがいたから。ハイ、これ、ピンポン」と明が突然思いついたように言う。言いながら、自分でもお調子者で口の軽い人間だと思い、自己嫌悪に襲われる。

「それはブーだ。がせは人騒がせからきている。だからガセネタは人騒がせなネタということだ」と南條は面倒くさそうに言って、無駄口を打ち切るように「そこのおまわり、机にしがみついているだろう。昇任試験の準備をしてるんだ。いまの警察は試験ばっかだ。試験に合格しない限り、昇任できない。一般企業のように年功序列で昇進していかないんだ。逆に、年功がなくっても、試験に合格しさえすれば、どんどん昇任する。現場でろくに働きもせず、ペーパーテストの点数のいい奴が、警部になり警視になってゆく。ノンキャリの出世の道が開けたことはいいことだが、交通違反の反則切符も切れねえような奴が警視さまで、そっくりかえっている。外勤は試験準備ができないから不利だ。その不利を補おうとすれば警察活動がおろそかになる。現場の理解も浅くなる。最近の警察の問題はそんなところにあるんだ。俺はもう定年だからいかんともしがたい」と言いながら南條は交番の机に座り資料を読みふけっている巡査を苦々しそうに一瞥した。「自宅にいるとは思うが、突然訪ねてもあれだから電話を入れてみるよ」とかたわらにたたずむ明と亜衣子にことわった。先刻取り出した携帯電話で登録番号を呼び出して、耳に当ててから数秒で出たようだ。南條は当たり障りのない挨拶をして「急で申しわけありませんが、お嬢さんのご位牌を拝ませてもらえませんか」といい終えて携帯電話を切った。そのまま南條は言問橋西詰の交差点を右に折れて、言問通りを浅草方面に歩き始めた。その後ろから明が声を掛けた。「あのう、僕らも一緒に行っていいんですか?不祝儀袋を持っていませんが」

「好きにしていいよ」と言われて、亜衣子が一歩前に出たので、明も従うことにした。


三人は馬道通りを越えて、ひさご通りの向かいの千束通りを右折し、二本目の小さな路地を更に右折した。南條が立ち止まったのは角から五軒目のしもた屋風の木造二階建ての家の前だった。入口に『水野』という手書きの木の表札が釘で打ちつけてあった。南條は格子の引戸を開けて声を掛けた。「こんばんは。先ほど電話した南條です」

暫く間があって「はい」という女性の抑揚のない落ち着いた声が聞こえてきた。その声を追いかけるように中年の痩せ細った女が照明のない暗い玄関に亡霊のように登場した。

「どうぞ、おあがり下さい」と洗い髪の女は立ったまま南條を招じ入れた。南條は「今日は、友人を連れてきました。一緒によろしいですか?」と儀礼的に言う。

「さあどうぞ」と女は路地にたたずんでいた明と亜衣子に屈託なく声を掛けた。三人ともたたきにあがり靴を脱ぐと玄関右奥の8畳の客間に通された。床の間の右手に小さな仏壇があり、香でいぶされた位牌の間にそれらしい少女のセーラー服写真があった。仏壇の奥の正面には描かれた阿弥陀如来像があった。かなり古そうで金泥が殆どはげ落ちていた。その両脇に数本の位牌があり、一本だけ真新しいものがあった。手前の茶湯器、香炉、燭台、花立仏器、供物台も古色蒼然としていて、線香の煙がこびり付いているようだった。仏壇の前に一枚だけ敷かれた座布団に座り、最初に南條が備え付けのマッチでろうそくに火をつけた。パラフィンの燃焼するにおいが鼻についた。それから線香を一本取り出し焼香し、線香の火を手で消し、香炉に立て三人を代表するような形で仏壇に香典袋を置いた。線香の香りが部屋に漂い始めた。南條はリン棒でリンを鳴らすと、早口で般若心経を暗誦した。暗誦し終えると、後ろで正座していた中年の女に向き直り、自らの正座を崩した。

「その後、お嬢さんについて何か分かったことありますか?」という南條の問いに中年女は目を伏せてかぶりをふり「いえ、何も。でもその節は大変お世話になりました。娘も感謝していることと思います」と能面のような蒼白の表情で単調に答えた。そこで礼拝を終えた亜衣子が切り出した。「私、南條刑事と同じ組織で働いている者で、能美亜衣子と申します。今回、お嬢さんのような事案を調査しています。で、つかぬことをおうかがいしますが、お嬢さんは東京ディズニーランドへ行かれたことがありましたか?」

 中年女は亜衣子の背後の襖に目線を移て、少し記憶の糸をたどるような素振りを示した。

「いいえ、行ったことはないと思います」とためらうことなく否定した。母親が知らないだけで、娘はこっそり行っている可能性もあると明は思う。

「お嬢さんのお友達を紹介してもらえませんか?」と聞く亜衣子の目的は明にも察知できた。母親は知らなくても友達とこっそり遊びにいっていたということは良くあることだ。

「さあ、友達がいたのかどうか。友達ができないって嘆いていたくらいですから」

「それも自殺の動機のひとつとしてあげられていたな」と南條が思い出すように亜衣子の横でつぶやいた。そこで質問を重ねるチャンスは明にもあったが、自己紹介するのが面倒なので黙っていた。それに正座の足がしびれてきたので、長居を恐れた。

「高校でなくても、中学とか、小学校での友達はいなかったんですか?」と亜衣子が質問の穂を穏やかな口調でつないだ。

「娘は高校二年のときにこちらに引っ越してきたもんで」

「えっ。それじゃ、それまではどちらに?」と南條が割って入ってきた。

「主人の転勤の関係で関西の方に。この家は私の実家なんです」

「大阪ですか?」と礼拝を終えたばかりの明は自己紹介もせず思わず質問してしまった。

「いいえ。兵庫の明石です。本社は愛知なんですが、三州瓦の工場が明石にあったもので。結婚以来ずっとそこにいたんですが、主人も定年近くなったので、体力が要らない管理職的な職場をということで、東京支社に転勤してきたんです。いま営業課長をやっています」と抑揚のないしゃべり方だった。関西訛りが全く混ざっていなかった。

「USJにはお嬢さんは行ったことがあるんじゃないですか」と明の質問は止まらなかった。亜衣子もその質問をしようとしていた。横目で明の顔を忌々しそうに一瞥した。

「ゆーえすじぇーって?」と中年女はアルファベットを頼りなげに発音した。

「ユニバーサル・スタジオ・ジャパンです」と明がアルファベットをなぞるよう言う。

「なんか聞いたことはありますが、何ですか?」と中年女は明にすがるような目で言う。

「アメリカの映画会社が造ったテーマパークです」と亜衣子がそれに答える。

「ああ、それなら行ったことがあるかも知れないですね」

そこで、明が合いの手をいれた。「やっぱり」

「なにがやっぱり、なんですか?」と中年女は目尻を少し引き上げ、狐目で詰問するような口調になった。亜衣子が質問した。「お嬢さんは、高校一年ぐらいのときに、初めてUSJに行ったんじゃないですか」

「どうしてそれを。娘はあまり友達を作らない性格のようで、小学校と中学校と他の友達がみんな行っても高校に入るまでは一度も行ったことがなかったんです」それを聞いて亜衣子は我が意を得たりとばかりに、明の顔を見てウインクした。明は正座していた足がそろそろ限界に近づいてきたので、いったん立ち上がるような素振りをして足を崩した。足の裏の感覚がなくなりかけていた。

「どうも夜分、ありがとうございました」と言う亜衣子の横で、明は「自己紹介が遅れましたが、僕、能美さんのアシスタントで土岐明といいます。あんまり長居をしてはと思いますので、これで失礼します」と勝手にいとまごいをしてしまった。南條も亜衣子も、あえて、それにあらがおうとはしなかった。

「きょうはどうも、わざわざありがとうございました」とやせぎすの中年女は感謝を単調に述べたが、表情が乏しいので感謝しているようには見えなかった。

 その家の外に出ると南條がいきなり明の二の腕をつかんだ。「さあお前ら事情聴取だ。USJの件を吐いてもらうぞ」と言いながら、数軒となりの居酒屋に明を押し込んだ。入口の藍染ののれんが異様に長く、赤いちょうちんも一メートルばかりあった。亜衣子は少し入るのをためらった。彼女がアルコールをそれほど好んでないことは先日の深野との会食で明は知っていた。

「おいしそうな、お店だよ。あったかいよ」と一度入店した明がのれんの間から首だけ出してすがるように亜衣子を誘った。「事情聴取に素直に応じれば飲食代は南條さんがおごってくれるって」という明の追加説明で、亜衣子もしぶしぶのれんを潜った。亜衣子は美味しいものには目がない。店内にはカウンターに四、五席、四人掛けのテーブル席が二つ、奥の座敷に四人用の卓袱台のようなテーブルが三つあった。手書きの予約カードが二箇所に置かれていた。南條はダスターコートをさっさと畳んで、一番奥の座敷に陣取っていた。明と亜衣子が、ものめずらしそうに店内をきょろきょろ見回しながら席に着くと「どんどん注文して」と南條は店の主人の手書きのメニューを二人に見せた。二つ折りにした半紙に筆書きされたどのメニューも五百円以下だった。最初に運ばれてきたお通しは海鮮サラダの和風ドレッシング和えで大皿に山盛りになっていた。

「うまくて高い店や、安くてまずい店はいくらでもあるが、この店は、うまくて安いんで有名なんだ。あと三十分もしたら満員御礼で、はいれないところだった」と南條は自慢げに言う。注文をとりに来たのは足元のおぼつかない老婆だった。

「最初は生ビール、料理の注文はそのあと。おばさん、とりあえず大なま三つ」と南條が言うと、ほどなく生ビールが三杯運ばれてきた。

「ここのおばさんは、この店のテンポに合っている。若いねえちゃんや、あんちゃんじゃ、給仕に時間をもてあます。さあUSJがどうしたって?全部吐け」と南條が野球帽をかぶったまま両肘をテーブルにつき怒気のこもったしゃがれ声で凄んだ。亜衣子がダウンコートを脱ぎながら目配せをしてきたので、明が察知して説明した。「未成年の事故死の統計を見てたらTDLやUSJが開園してから古くは大阪万国博覧会の翌年も、その周辺の都府県で原因不明の女子の自殺や事故死が増えているらしいことが分かったんです。今夜の話でそのタイムラグが1年くらいであることが実証されたんです」

「するってえと、TDLやUSJに遊びに行った未成年の女の子が1年たつと事故死したり、原因不明の自殺をするというのか?」

「いえ、遊びに行った未成年の女子の全てが自殺するというのではなくて、未成年千人あたりの比率として周辺の都府県の大きさが、それ以外の道県よりも統計的に有意と思われるほど高いようだということなんです」と明は弁解するように言う。

「なんで?」と聞きながら、南條はピースにジッポライターで火をつけた。

「それがわからないんです」といい終えたところで亜衣子は自分のお通しのサラダを食べ終えていた。明はサラダは好きではないので自分の分を亜衣子に差し出して話を続けた。

「統計データを見た限りでは、その自殺率がTDLとUSJが開園した翌年からほんの少し高くなっているんですが、今日の話で、確かにそういう女の子が二人もいたということが実証されたんです」

「しかし水野さんちの女の子は、たまたま東京に来て自殺したが、お母さんの実家が北海道であれば北海道で自殺したということか?」と南條は明に聞く。

「だから、統計的に有意ということで、確率的にそう言えそうだということなんです」

そこで南條のタバコに煙そうな顔をしていた亜衣子がついに口を開いた。「待って。ということは、そういう事案を探せばいいということじゃなくって。つまり、東京や千葉近辺や大阪近辺から転校してきて自殺した少女を探して、その自殺の原因が不明であれば、仮説は実証されたことになるんじゃなくって」

「ちょっと待て」と南條が灰皿にピースの灰を落としながら口を挟んだ。「TDLにしても、USJにしても大勢の小中高生が全国から修学旅行やなんだらでやってきているはずだ。そういう連中も次の年に事故死したり原因不明の自殺をとげるってことか?そうであれば、そういう事案は全国に展開しているはずだ。それになんで女の子だけなんだ」と言われて明はなるほどと目線をテーブルの灰皿の上に落とした。TDLやUSJの近辺とそれ以外の土地の相違が何かを必死に考えていた。亜衣子も同様だった。先に口を開いたのは亜衣子の方だった。「リピーターよ。パスポートを持っているのは近場の小中高生以外に考えられない。確かに大勢の修学旅行生が全国からやってくるけど彼らはリピーターにはなれない。あるいは絶対的な人数かも知れない。絶対的な人数は近場の小中高生の方が圧倒的に多いはずよ。だって近くの小学生なんか先生が手を抜いて総合学習で毎年のようにテーマパークに行くんじゃない。それに近場の子供達が無料で招待されることもあるでしょ」

「だから、統計学的に確率的に有意な仮説だと言っているんだ」と明はくやしまぎれに割り箸を噛みながら強調した。

「でも、なぜだ。単なる偶然じゃねえのか?」と南條は繰り返した。タバコの脂でくすんだ天井の一点に視線を固定させて、ピースの紫煙をくゆらせながらじっと思案している。老婆が来るまで料理を注文することをすっかり忘れていた。「面倒くさいから、おまかせでいいや」と老婆に告げると大声で「大将!一人二千円で三人分、おまかせでやってくれる?」とカウンタ席の奥の店の主人に声を掛けて「お前らよ、こっちは管内でそういう事案を過去にさかのぼって調査してやっから、そっちでも何か分かったことがあればメールで教えてくれや」と言いながら大ジョッキの生ビールを飲み干した。

「でも、あの女子高生の両親は花火大会の夜、娘が夜中に抜け出したことをなんで気付かなかったのかしら?」と亜衣子が先刻からわだかまっていた疑問をぽつりと言った。

「両親はその夜、吾妻橋から出ている水上バスの発着所から屋形船に乗って隅田川から花火大会を満喫したそうだ。父親は関東が初めてで、隅田川の花火大会も初めてで、まあ、花火大会自体は関西にもあるから屋形船でてんぷらを食べながら花火を見たかったらしい。娘は風邪気味だったので一人、自宅に置いてきたとか言っていた。クルージングが終わってから、駒形橋でどじょう鍋を食べて、帰宅したのは十二時近くだったらしい。娘の部屋を覗くと、もぬけの殻なので、多分病気が良くなって、花火を見に外出し、こちらに来てできた友人と楽しんでいるのだろうと、あまり、気にしなかったと言っていた。確かに、浅草に来た早々、深夜のカラオケ店で友人と補導されてるし、あまり素行は良くなかったようだ」と言う南條の話を聞いても亜衣子は腑に落ちない感じだった。「両親が外出して、娘が一人。なんか、とってもよく似ている」

 その晩は結局、それ以上話は進展しなかった。その店を出て、南條とすぐ別れた明と亜衣子はノンステップの都バスで言問通りを上野公園方面に向かった。1時間に1本か2本しかないバスを二十分ほど待って乗り込んだバスの中で亜衣子が「二人のお母さんに似ている点があるの気付いた?」と話しかけてきた。座席が狭いせいで二人掛けの椅子に腰と太腿を密着させていた。乗客は十数人ほどだったが、寒かったので同じ席に座ることになった。明はそれに気をとられて亜衣子の話に上の空だった。「気付いたって、何に?」

「なんか、あの二人似てる」と言いながら、亜衣子は明に密着している下半身に間隙を作ろうともぞもぞしている。

「似てるったて、あかの他人でしょ?」

「顔じゃなくって気質が。お茶も出なかったし。ホスピタリティが全然感じられなかった。突然うかがったんだから、歓待されることは期待していないけど、お線香をあげに行ったのに、その気持ちを受け取る、という心のもてなしがまるでなかったわ。素っ気ないというか、なんというか、宇宙人とまでは言わないけれど、人の心が少しも感じられない。不幸な死に方をした娘の話をしているのにしんみりとしたところも全くなかったし」

「だって、二人目のお母さんの場合、娘がなくなって半年以上もたっているんでしょ」

「半年しかよ。あなたは男だから分からないかも知れないけど女にとって命は全てなの。身内の命だけじゃなくって、全ての人の命、全ての生き物の命、ペットの命だって、とっても、かけがえがないものなの」と亜衣子が湿っぽく言う。

「そりゃそうだろうけど」

「ああやっぱり分かっていない。あなた交通事故で死者が出たというニュースで泣ける?」「身内なら泣けるだろうけど」と言う明の波長は亜衣子の波長とずれている。

「そんなこと当たり前じゃない。あかの他人のよ。ねえ、泣ける?」

「そんな、ニュースを見て、いちいち泣いてらんないよ」

「私もいちいちは泣かないけど、我慢しているのよ。だって死んだ人にはお父さんもいるだろうし、お母さんもいるだろうし、兄弟だっているかも知れないでしょ。死んでしまったら、その人たちはもう二度と会えないのよ」と言いながら亜衣子は少し涙ぐんだ。明は亜衣子が泣き上戸だったのかと思った。そうであれば新しい発見だった。

 二人は谷中のバス停で分かれ、亜衣子はそのまま徒歩で自宅へ、明は谷中の墓地を通り抜け、日暮里駅から自宅の安アパートに帰った。

 

二月に入った。結局TDLやUSJの開園後、未成年女子の事故死や原因不明の自殺がその周辺の都府県で確率的に多い理由は分からなかった。そもそもテーマパーと未成年女子の事故死の間に因果関係があるのかどうかも疑わしくなった。分からないまま、明と亜衣子は取り掛かってから三週間たらずで報告書の草稿をとりまとめた。深野は、その事実だけを明確に記述し、調査が継続に値することを明記して総務省に提出した。その結果、深野の思惑通り、異例の迅速さで調査継続の追加予算がついた。しかも総務省がプレスリリースしたことから、この調査が深野の期待通りマスコミに取り上げられた。最初は深野のコメントと顔写真入りで週刊誌上で見開きの記事になった。週刊誌のインタビューでは、深野はテーマパークの開園と未成年女子の事故死がその周辺の都府県でほんの僅か多いことを事実に基づいて説明したが、記事ではそれが歪曲され、両者の間にさも因果関係があるかのような報道がセンセーショナルになされた。しかし歪曲のおかげで、その記事がテレビのワイドショーで紹介され、さらに特番が組まれて、深野はテレビ出演することになった。深野にとって夢のようなテレビ出演はたったの三分間ではあったが、出演前に三時間も有名タレントと一緒にテレビ局のスタジオに同席できたことは望外の喜びだった。暗い背景から自分を飲み込もうとするかのようなテレビカメラに向かって、三分間話した後、日陰の花でも一生に一度は咲くことはあるという思いがした。最初はMCの隣で生出演する予定だったが、緊張のあまりリハーサルで何回も台詞をかむので、急遽ビデオ出演に変更された。ビデオ出演に変更となったのは「多少かんだ台詞でもビデオなら編集次第でリアリティが出る」というADのひと言だった。テレビ報道でも未成年女子の事故死とテーマパークの因果関係は既成事実とされ、その情報の解説が深野に求められた。深野は他のテレビ局でも求められた通りに説明したがビデオを巧妙に編集して放映されたものを見ると深野が科学者として客観的事実を述べた部分はカットされ、結論だけが流された。その結論が導かれるための前提が全て省略された結果、視聴者の目には、未成年女子がテーマパークに行くと事故死するというイメージだけが残った。TⅤディレクターの思惑通り、視聴者を釘付けにし、チャンネルをそのままにさせるようなインパクトの強い画面構成とはなったが報告書の内容からは乖離していた。テレビ出演した直後、統計研究所に何本かの問い合わせの電話があったが、視聴者からと思われるクレームの電話はなかった。

 

二月も半ばを過ぎた。明は報告書提出後も統計研究所に日参し、TDLやUSJの近辺の都府県を除く道県の事故死と自殺データの中でTDLやUSJの近辺の都府県から転校してきたケースを探し続けた。ここ十年間で数県に1名程度あったが自殺の原因は転校によるいじめにあるようでTDLやUSJとの明らかな因果関係はつかむことができなかった。南條からも墨田署管内で似たような事案は他に見当たらないとのメールがあった。そうやって報告書の取りまとめの合間の二週間をかけ、とりあえず過去十年間の調査をむなしく終えた頃、テレビ出演を終え1週間ばかり経ち、余韻の醒めた深野に呼び出された。

「どう?その後?」とテレビ出演以来高くなり続けているテンションで深野が聞いてきた。

「思わしくないです」と明は深野の机の前で後ろ手を組みながら正直に答えた。追加の調査は行き詰っていた。

「実は昨日TDLからクレームが来てね。風評被害の件で説明を求めたいと言うんだ。USJの方は何も言ってきていない。調査依託元は総務省だから、総務省に問い合わせてくれと言ったら、総務省に問い合わせたら警察統計研究所の連絡先を教えられたと言うんだ。全く役所の人間である自分がこう言うのもなんだが、面倒なことはすぐたらいまわしだ。とりあえず報告書を送付して理解を求めたんだか、どうしても実際に報告書を書いた担当者の話を聞きたいと言うんだ。今日の午後説明に行ってもらえるかな。向こうの担当者は永山という人だ」と言う深野の話し方に著名人になったような思い上がりが感じられた。

「こちらから説明に行くんですか?向こうが聞きにきてもいいんじゃないんですか」と明は、すじがちがう、とばかりに、少し気色ばんで憤然と言った。

「そう言わずに。向こうは被害者だと言い張ってるんだから。近郊の出張扱いにするから。今日は金曜日の週末だし、直帰でいいから。それに何か情報を得られるかも知れないし」

「一人で行くんですか?」と明の口先ははしぶとカラスのようにとんがったままだった。

「能美くんは他の経理業務があるんでね。これが相手の電話番号だ。舞浜の駅に着いたら連絡して欲しいということだ」

「わかりました」と明は深野から電話番号のメモ用紙を受け取り、しぶしぶ了承した。

「ありがとう。じつは、向こうには君が行くことを言ってしまってたんだ。どうしても実際に書いた人に会いたいと言うもんで」と深野は顔をほころばせた。

テレビ出演なんかの美味しい話は全部自分で受けといて、クレーム処理のようないやな話だけは全部こちらにもってくるのかと明はアルバイトの立場もわきまえず、不満を抑え切れなかった。亜衣子と二人で、いつものイタリアン・レストランで昼食を取ったが、その場で、そうした不平をもらした。

「だってしょうがないじゃない。あなたは、アルバイトで所長に雇われているんだから」と亜衣子は見下したように言う。こうした心理的な力関係のせいか、二人の関係は一向に進展する気配がなかった。この関係の背景には食事はいつもワリカンという経済的な力関係もあった。亜衣子には明の若さというよりも人間的な幼さが目についた。深野の腹の中を読みきれない明があわれにも思えた。言うつもりはなかったが「電話があったのは昨日の昼よ。あなた食事で席をはずしていたけど、私が電話を受けて、所長に回したの。相手の言ってることは分からなかったけど所長は全面的な責任はあなたにあるような言い方をしていたわ。雑誌やテレビじゃ、さも自分が書いたかのように言ってたのに。だから風評被害の犯人はあなたということになっているのよ」と言ってしまった。

「ひでえ!」と明は初めて深野に対する怒りを覚えた。

「その上、あなたの名前や住所や略歴まで教えていたわ。聞かれたんだろうけど、プライバシーの侵害よね。いくらアルバイトだからって、身内を守ろうという姿勢がまるで見られなかったわ。身内と思っていないのかもね。クレームは全部あなたに負わせようという魂胆なのよ。ミスは全部ノンキャリに押し付ける。キャリアのよくやる手よ」それを聞いて明は亜衣子がノンキャリアであることを知った。同時に暗澹たる思いに捉われた。食後、二人は寒風に裂かれるようにレストランの前で別れ、明はその足で舞浜に向かった。冬空は突き抜けるような青空だったが、明の気分は薄ら寒く、どんよりと曇っていた。

舞浜駅を出ると教えられた通りに携帯電話からメモ用紙の固定電話番号にかけて相手を呼び出した。呼び出し音3回で出た。

「警察統計研究所の土岐明といいますが。永山さんはおられるでしょうか?」

「はい、永山ですが」と女性が出てきた。永山という人物が男性だとばかり思っていた明は女性の声に少しどぎまぎした。「いま舞浜の駅を出たところで。これからどちらへ向かえばいいんですか?」と伝えると「そこでお待ち下さい。車で迎えにまいります」という返事がやわらかな声で返ってきた。

駅前で待っていると十分足らずで、なにわナンバーの骨董の部類に属するBMWが目の前に止まった。運転手は中年の四角い顔の男だった。明はその顔をどこかで見たような気がした。後部座席から出てきたのはスノーホワイトのような女性だった。日本人離れした白い肌と彫りの深い顔立ちをしていた。着ているものも白雪姫のカナリア・イエローのプリンセスワンピースをベルベット地で地味に仕立て直したようなものだった。ボレロの肩のあたりに金のスパンコールがあしらわれていた。確信はなかったが、明は亜衣子とTDLに行ったときファンタジーランドの白雪姫と七人のこびとのアトラクションの前で見た女ではないかと思った。遠目でみたときよりも、なまめかしい肉体を持っていることを身近でなまなましく感じた。

「土岐さんですか。私、渉外担当の永山奈津子と申します」と言いながら女は後部座席のドアを開け明を招じ入れた。少し酸味のあるような淡く甘い香りが車内に充満していた。

車はTDLには向かわずに、駅の近くのファミリー・レストランの駐車場に止められた。「まあ、お茶でも飲みながらお話をうかがわせて下さい」という女に先導されて明はファミリー・レストランに入った。運転手も遅れて入ってきた。二人の席の隣の厨房の出入口の近くに席を取った。背を向けて座っていたが二人の会話を聞き取れる距離だった。明が中央付近のボックス席にこげ茶のダッフルコートのまま着くと、奈津子は椅子に浅く腰掛けてTDLのロゴのある名刺をさし出した。「あらためまして。私永山奈津子と言います。渉外を担当しています。本来はクレーム処理や迷子が専門なんですが、今日は逆にクレームを申し入れるような感じです」と艶っぽい話し方をする。念を押すように語尾をはっきり発音するのが特徴的だった。

「すみません。僕、アルバイトなもんで、名刺がありません」と明が詫びると「本業はなんですか?」と奈津子は潤いに満ちた瞳で真面目に聞いてくる。明は本業があればアルバイトはしていないと答えようとして言葉を飲み込み言い換えた。「オーバードクターなんです。オフィシャルな肩書きは研究生ですが」

「まあ、そのへんはどうでも構わないんですが、今回の調査の実質的な責任者ですよね」「そう言えないこともないです。作業をやったのは僕ですが、報告書の全責任は深野課長がとることになっています。なんせ、アルバイトなもんで」

「ああ、深野さん、テレビに出演された方ですね。でもあなたの方がイケ面でテレビ映りはいいんじゃないですか?」と見え透いたおだてにのって、みんなそう言ってますと言いたいところだったが、そこはこらえて「所詮僕は裏方ですから」と答えるにとどめた。

「あ、ごめんなさい、気がつかなくって。お飲み物はなにになさいます」と明の目をのぞき込むようにして言う。ほんの少し上目使いだ。

「アメリカンコーヒーをお願いします」と答えたところにウエイトレスが気だるそうにオーダーを取りにやっていた。奈津子はアメリカンコーヒーを二つ注文した。ウエイトレスはついでに、隣の運転手のオーダーも取った。奈津子が聞いた。「あのテレビ出演のあと。深野さんておっしゃるんですか?テレビに映った人は」と奈津子は途中で言い直した。「あのあと入場客がかなり減りました。私どものテーマパークは、未成年の女の子もターゲットにしているので、ああいう、報道がされるとダメージが大きいんです。風評被害と言うのでしょうか。一体どういう根拠で深野さんがテレビでおっしゃられたのか、簡単に説明していただけますか?」と言う奈津子の口調は、内容は詰問だが、抑制されていておだやかだった。アナウンサーのようなしゃべり方で、地声をコントロールしているように感じられた。クレーム処理が担当ということだからかも知れない。明は奈津子の整った面差しと白い象牙のような艶やかな肌に見とれ、涼やかな声に聞きほれていた。

「統計的な確率の問題で真実は闇の中なんです」とまず答えた。

「と、おっしゃいますと?」と奈津子は少し首を傾ける。髪が数本、頬にかかる。

「TDLへ行ったかも知れない未成年女子の原因不明の自殺率が東京都と千葉県で他の県よりも若干高いということなんです。ほんの僅かなんですけども、なぜそうなのか、理由はわかりません。単なる偶然かもしれません。いま現在、鋭意調べているところです」

「どうして、そういうことがわかったんですか?」と奈津子が少し首を前に出して潤んだような瞳で聞いてくる。明はその瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。

「警察庁のデータからです。僕が調べなくても、誰がやっても同じ結果だと思いますが」

「それで、理由が解明される可能性はあるんですか?」と言いながら、奈津子は豊かな胸の前で白い指を組んだ。

「いまのところ、全くありません」と言いながら明はその指に目を落とす。

「そうですか。深野さんのお話だと、女の子の事故死とTDLの間に因果関係があるというような話し振りで、いまうかがったお話とは随分印象が違うようですね」

「あれはテレビの編集のせいで。僕が書いたのは因果関係があるかも知れないという程度で」と弁解しながら、深野の尻拭いをさせられているという思いを強くした。

「これは、お願いですが、単なる偶然という結論を、記者会見か何かで発表していただけないでしょうか。私どもは株式を公開しておりまして、株主様も十万人以上おりまして、実際株価も下落しておりまして、ストップ安というほどではないのですが、株主様からの苦情の電話がIR室の方に絶えないとの連絡を受けています。株式の時価評価損は数億円との試算もあります。この調子で営業利益が落ち込むと、株主様に対して責任を取らなければならないし、場合によっては株主様の手前、そちらさまを風評被害で民事の損害賠償で訴えなければならなくなるかもしれません。警察庁と争うのが目的ではなくて、経営陣として株主様に対して責任を取るという意味で、です」と奈津子は凛とした目で明を射抜いた。明の背筋にパルスが走った。

「いやあ、その辺はアルバイト風情には、なんとも答えようがありません。僕にいうよりも責任者の深野課長と談判したらどうでしょうか」と明は責任を回避しようとする。

「そこが悩ましいところです。こちらといたしましてはことを大きくしたくはないんです。マスコミの絶好の餌食にされてしまうでしょ。かといって株主様に対してしかるべき方策を採らないと株主代表訴訟を起こされて、かえってことが大ごとになってしまうかも」

「それではどうにすればいいのでしょうか」と言いながら明は本当に奈津子の言いなりになってもいい気持ちがした。アルバイト期間が終われば警察統計研究所とも縁が切れる。

「ですから、さきほども申し上げましたように単なる偶然の数値であって、TDLと女の子の自殺とは因果関係は全くないと公表していただければ、それで」と奈津子が言いかけたところにアメリカンコーヒーが運ばれてきた。明はグラニュー糖とコンデンスミルクをたっぷり入れたが、奈津子はブラックのままで、カップを唇に当てて飲むときに、目線を琥珀の熱い液体に落とした。奈津子の長い睫毛に明は吸い寄せられるように見とれた。ただ見ていることにえも言えない満ち足りた至福を感じていた。

「ですから偶然なのかどうか、今現在調査しているところです」と明は言いながらも南條と訪ねた都営住宅の女子中学生と千束通りの女子高校生のことを話すつもりはなかった。

「そうですか、わかりました。結果はいつごろ出される予定なんですか?」

「一応あと一、二週間ほどでつぎの報告書をまとめなければならないことになっています。最終的には今月末になるんじゃないかと思います」

「それでは、私に結果が出次第、ご連絡をいただけるでしょうか」

「わかりました。それでは連絡先は今日の電話番号でよろしいんですね」

「いいえ、私の携帯電話に直接、ご連絡をいただけますか?」と奈津子が言うので、明は携帯電話をダッフルコートのポケットから出して、電話番号登録の画面にして、奈津子の赤いルージュを引いた艶やかな口元を見た。

「間違えるといけないので私が入れます」と奈津子は白い手を差し出した。明の携帯電話を受取ると自分の携帯電話番号を入力しようとした。そのとき携帯電話の画面が消えた。「あら、電池切れかしら」と言いながら、裏蓋を開けて水色の電池パックを取り出した。明が自分で確認しようとすると奈津子はそれを制した。そのとき二人の指が軽く接触した。明の脳髄に甘く鋭い電流が走った。

「私のと交換しましょう。先日買ったばかりだからたっぷり充電されています」と言いながら、奈津子は大きな緑色のオーストリッチのボックスバッグの中から黄色い電池パックを取り出して、明の電池パックと交換しようとした。ボックスバッグには多くのものが詰め込んであるようで、異様にふくらんでいた。

「あら、偶然かしら、機種が同じだわ」と奈津子は微苦笑する。

「すいません。機種変更してそんなに経っていないし、けさ充電してきたばかりなので、電池に問題はないと思うんですが」と明が手を出して携帯電話を取り戻そうとしたが、奈津子はそれを無視し明の携帯電話の電池パックを交換し元に戻して再び画面を開いた。

「ついたわ。直ったみたい。それでは永山奈津子で登録しますので、お忘れなく。先ほど駅からお掛けになった電話番号は事務所の固定電話なので、連絡を下さるときは私の携帯電話の方に掛けて下さい。くれぐれもお忘れなく」と言いながら奈津子は白漆を塗ったような歯を見せて微笑み、携帯電話を明に返した。携帯電話を受取るとき、奈津子の指が明の指に再び触れた。明は奈津子の指から生暖かくさらさらと乾燥しきった肌の感触を得た。脂ぎった南條の指とは正反対の感触だった。

隣の席の運転手は、ひっきりなしにタバコを吸っていた。チェーンスモカーのようで、吸っているタバコが短くなると揉み消しざまに、次の一本を取り出し、右手でライターに火をつけて、絶え間なく吸い続けていた。運転手は、二人の会話を聞いているようでもなく、天井を見上げながら、吐き出した煙の行方に目線を泳がせていた。

明は登録されたばかりの奈津子の電話番号を確認し、ためしに掛けてみた。すると、聞いたことのない奇妙なメロディーが流れた。奈津子が自分のピンクの携帯電話を掲げ、表示された電話番号を明に示した。明はそれを確認すると、携帯電話を切った。これで奈津子の携帯電話に明の着信履歴が残った。明はアメリカンコーヒーをとっくに飲み干していたが、奈津子は少しカップに口をつけただけで、あまり飲んでいなかった。熱がだいぶ逃げて、コーヒーがぬるくなってきていた。たいした話はしなかったが、奈津子は薄ピンクのマニキュアの指先でレシートをつまむようにして取ると、明に顔を近づけるようにして立ち上がった。奈津子の唇は明の肩の位置にあった。

「どうも、お忙しいところをわざわざお呼び立てして申しわけありませんでした。これからは携帯電話でご連絡を差し上げますので。お先に車でお待ち下さい。それからこれはお呼び立てしたお詫び、ということではないんですが、ほんのわが社からのおしるしです」と奈津子はTDLのロゴ入りの小さな封筒を差し出した。なんですか、と言いたげに明が封筒の口から中身をのぞき見ると、TDLの年間パスポートがはいっていた。よく確認すると、顔写真のあるべきところに『OFFICIAL』という文字が印字されていた。期限は大晦日までになっていた。

「どうも」と言いながら明は自分はアルバイトで民間人だから、これは賄賂には当たらないと自らを納得させた。レジに向かう奈津子のうなじと背中に自分を惑わす妖気のようなものを感じながら駐車場に出た。アスファルトに底冷えのするような冷気が漂っていた。そのときちょうど、運転手も出てきた。二人は合流し、車に向かうかたちになった。運転手は冬物の厚地の黒っぽいスーツを着ていた。車に向かって歩きながら、運転手に追いついてちらりと脇を見たとき、彼の胸にどこかで見たことのあるようなマークのバッチがついているのに気付いた。そのマークをどこで見たのか、すぐには思い出せなかった。車の後部座席に座ってからも思い出そうとしたが、見当がつかなかった。運転手は終始無言だった。明も言い出す言葉が見つからないままだった。そこに奈津子が遅れてやってきた。

「紹介が遅くなってごめんなさい。こちら、遠い親戚の長田さん。私の車の調子がよくないので、今日は運転手をお願いしました」

明と長田は座席の前後に座ったままで改めて挨拶した。「土岐明といいます。今日はアルバイトの関係でここに来ました」と言いながら長田のフラワーホールのバッジをちらりと見た。長田は無言のまま、頭を下げた。その顔に明は見覚えがあるような気がした。どこで見たのか思い出せなかった。

「舞浜駅でよろしいですね」と奈津子が発車を促すように言った。

「ええ、おねがいします」と明が答えると車が動き出した。

「舞浜駅までお願いします」と奈津子が改めて長田に言うと車は地面をなめるようにして加速した。駅に向かう車の中で明は携帯電話の着信記録を確認するような振りをして、バックミラーに映る長田の顔を盗撮した。襟穴のバッジは写すことはできなかった。

 舞浜駅前で車を降りてそこからどこへ行くべきか明は迷った。既に三時を過ぎていた。これから統計研究所に向かっても、着くのは四時過ぎで、深野も、直帰でいい、とは言ってくれていた。アルバイト代が振り込まれた週末の金曜日だし、亜衣子に会いたいような気分もあった。しかしその気分は奈津子に会う以前ほど強くはなかった。亜衣子に対する気持ちとは全く異質のものが明の心の中に絞り染めのように広がっていた。これと似た感情は小学校の頃映画館で観た映画のヒロインに対して抱いたものに近かった。見るだけで心を奪われたスクリーンを通した一目惚れに似たものではないかと自己分析した。生身の奈津子に対してスクリーンを通しているように感じたのは彼女の美貌があまりに完璧であったからだ。眉のなだらかな弧、慈愛に満ちているような優しげな瞳、少し小ぶりな丸みを帯びた鼻、やわらかでふっくらとした唇、少し大きめのふくよかな胸、どれをとっても明にとって修正を必要とする部位はなかった。彼女の表情や話し声が明の頭の中をメリーゴーランドのように回転していた。「自分にとっては非の打ちどころのない完璧な女性だ」と東京駅までの切符をとりあえず買いながら明はつぶやいた。東京駅に着くまでにそれからどこへ行くかを考えるつもりだった。行く先の決断のつかないとき途中駅まで切符を買っておくというやり方をよくしていた。降りる駅が決まれば、そこで清算すればいいという考え方だった。東京行きの電車の中で、頭の中に浮かんだのは奈津子と例の運転手の胸についていたバッジだった。その二つが交互に頭の中を二重螺旋状に回転していた。螺旋は下向きに回転しているが、奈津子のイメージとバッジはエッシャーのだまし絵のように、何回回転しても下方へ降りて行かなかった。東京駅に着いても、そうした不安定な、ある種高揚した精神状態が続いていた。どこへ行くべきか決断のつかないまま山手線への長い連絡通路を歩きながら動く歩道に乗っているような感覚に襲われた。やがて飲食店街のあるコーンコースに出た。書店やファストフード店の店先をうつろに眺めながら、あるコンビニの前で立ち止まった。おでんというキーワードが舌をやけどしそうな熱さとともに突然脳裏を駆け巡った。こんにゃくかはんぺんというキーワードが次にもっこりと湧いてきた。南條刑事の手帳のメモ図が思い出された瞬間、明は携帯電話をポケットから取り出して手にしていた。雑踏の中で着信履歴から南條の電話番号を探し出すのももどかしく掛けてみた。呼び出し音が鳴る。出ない。そのうち留守番電話のメッセージが流れた。明はしかたなくメッセージを入れた。「土岐明です。例のバッジを今日目撃しました。いま東京駅です。連絡下さい」

南條からの電話を待つ間に、岩槻先生に例のバッジの印の意味を聞いてみることにした。岩槻先生は専門以外の知識についてディレッタントとして教授仲間では有名だった。論文作成に精を出していない手前、なんとなく後ろめたい気持ちがしたが、すがる思いだった。岩槻先生への連絡はパソコンのメールアドレスに送信することになっている。先生いわく、

「携帯電話はこちらからかけるときだけ使う。うっかり電話番号を教えると相手の都合で時も所も委細かまわず掛けてくるから、不愉快極まりない。だから携帯電話は基本的にこちらからかける予定がなければ携帯しないか、電源をオフにしておく。連絡があれば、パソコンのメールアドレスにしてくれ。そのほうが返信もしやすい。ブラインドタッチはイギリス留学で鍛えたから、お手のものだが、携帯の親指入力は手間がかかってしょうがいない。いつやっても親指がつりそうになる」というのが口癖だった。だから明の携帯電話にも岩槻先生のパソコンのメールアドレスしか登録されていない。

@岩槻先生。ご無沙汰しております。深野先輩のアルバイトは長引いています。当面の生活費が確保されました。学期中の文部科学省の科学研究費のアルバイトともども感謝いたしております。ところで、つかぬ事をうかがいますが、三角形をいくつか串に刺したような図柄(▽▽▽―)について何の記号かご存じないでしょうか。お忙しい事とは存じますが、ご返信いただければ幸甚です。土岐明@

 送信し終えて、のぼりのエスカレーターに身を任せながら、山手線のプラットフォームに向かいかけたとき、携帯電話の着信音が鳴った。

「南條だ。いま東京駅だって?こっちは出先だが、こないだの居酒屋でどうかな。いま行くと五時前に着くかも知れねえな。あの店、五時からでないとのれんを出さんけど、週末の金曜だし、俺の方から大将に予約入れとっから、先に行って待っててくれる?」

用件だけ言うと、挨拶もなく南條の電話は切れた。何かにせかされているような話し振りだった。とりあえず、深野の携帯電話にメールで直帰の連絡を入れた。

@深野課長。TDL側の要求は、TDLと未成年女子の自殺とは因果関係がないという方向で報告書をとりまとめ、記者会見して風評被害を消して欲しいということでした。こちらはまだ調査中なので、報告書を書く段階で連絡すると返答しておきました。これから直帰しますので、これについては来週、研究所で改めて報告します。土岐明@

 明は秋葉原で降りてつくばエクスプレスに乗り換え、浅草に向かうことにした。浅草で降りてロックの劇場街からひさご通りを抜け、言問通りを横切って千束通りに入った。居酒屋にはまだ明るさのある五時少し前に着いた。そのとき居酒屋の名前が安禄山であることを初めて知った。巨大な赤提灯に寄席で見かける飾り文字で書かれていたが前回は書体が寄席文字であることや文字があまりにも大きすぎて分からなかったのだと気付いた。暖簾の出ていない木の引き戸を開けて中に入ると老婆がテーブルの雑巾がけをしていた。

「今晩は。すいません。南條刑事が予約していると思うんですが」と老婆に少し大きめの声でいうと、彼女はカウンター越しに「マスター、南條刑事の予約受けてるかい?」と声を掛けた。すると、調理場で仕込み中の主人から「ああ、受けてるよ」という返答があって明は手前のテーブル席に通された。老婆が二人分の箸と箸受けをテーブルに置いたときメール着信のベートーベンの運命が流れた。早速メールを開けると岩槻先生からだった。

@土岐君。現物を見てみないと分からないが、携帯電話じゃ絵も描けないだろうし、君の絵文字だけから推察すると、多分楔文字だろう。世界最古の表音文字だ。BC三千五百年頃にシュメール人が作ったものだ。ちなみに世界最新の表音文字は朝鮮半島のハングル文字だ。ハングルは韓国での呼び名で、北朝鮮では朝鮮文字とよばれている。十五世紀半ばに朝鮮王朝第四代世宗が考案したものだ。それまでは漢字が文字として使用されていた。当初は仏教経典の翻訳に使われていた。ハングルは女文字とよばれていた。日本のひらがなと同じような使われ方をした。この文字が広く一般に使われるようになったのは二十世紀後半からだ。近年では戸籍の名前までハングルになっている。だから最近の若い韓国人は漢字があまり読めない。ちょっと脱線したな。もとい。楔文字は最初は象形文字らしかった。次第に単純化された。表音文字のようになった。まあ、漢字から分化したカタカナみたいなものかな。最初の象形文字は粘土板に葦で突き刺すようにして書かれた。だから楔のような形になった。それで楔文字と呼ばれている。粘土板だから貴重な重要文書は焼かれて焼き物の板のようになって現代まで残った。割れやすかったんで破片のまま発見されたものが圧倒的に多い。なんせそれまでは文字がなかったものだから、これは便利だというのでメソポタミア全域で利用されるようになった。最初表意であったものが表音になったことから、同一文字が両用的に使われたらしい。とはいえ日本語表記の複雑さには遠く及ばない。なんせ日本人は表意の漢字、表音のひらがな、カタカナ、ローマ字、アルファベットの5種類の文字を操っている世界唯一の民族だ。いずれにしてもAD一世紀中には使用されなくなったらしい。ついでに楔文字一覧のあるWEBサイトのアドレスを二つばかり最後に添付しておこう。ところで来年度の研究生の申し込みの締め切りが近づいている。就職が決まるまでは履歴に空白のないほうがいいので研究生の身分をこのまま延長した方がいいだろう。文部科学省の科学研究費も切れたので、君の面倒については後継の准教授に申し送りしておく。携帯電話ではこれで文字数いっぱいだろう。岩槻@


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ