10:全てがから回る
しばしのお祭り騒ぎの後。ある旅立ちの朝にハナさんがぽつりと呟いた。
「私もバターチキンカレー食べたかったなぁ」
それを聞いて私は笑う。
「スパイスならもう手に入りましたから、いつでも作れますよ。鶏肉を仕込む時間は必要ですけど」
それを聞いてハナさんの顔に笑顔が戻る。
「やったぁ! レトルトカレーじゃないカレーなんて久しぶり!」
「え……ハナさん、レトルトカレーばっかりなんですか? お母さんが作ってくれたり……」
私がそう言うと、ハナさんは困ったような顔をして言った。
「あー、うち共働きで、ふたりとも夜が遅いんです。小さい頃はあれこれ作り置きしててくれたんですけど、高校入ってからは千円札が置かれてるだけですね。これで一日食いつなげ、って。だから元の世界は、コンビニご飯とか、お弁当屋さんとかが多くて」
ハナさんは少し恥じらいながらえへへ、と笑う。私は知らずハナさんを抱きしめていた。
「る、ルツァ?」
「……ここには。夢の世界には私がいますから。私をお母さんと思ってください、ハナさん。ハナさんは頑張ってます。昼間はちゃんと学生として勉強してて、眠ってても、意識を覚醒させたまま、世界を救おうと頑張ってるんですから」
私の腕の中で、ハナさんがくすくすと笑う。
「……ハナさん?」
「ダメだよ、ルツァ。天の守護者はどちらにも平等に感情を置かなくちゃいけないのに、そんなこと言われたらレフトナを重要視しちゃうから」
とんと私の胸を叩き、私から離れる。
「でも、気持ちは嬉しい。……バターチキンカレー、楽しみだな!」
その日は、風の要を修復するのだと言って、ゾフィーさんとレティリックさんと、モーナさんを連れ立って、ハナさんが旅立つ。
旅支度をするモーナさんに耳打ちした。
「……ハナさんが帰る前に、私に連絡をくれますか?」
「念話術でか? しかし、あれはお主には負担になろう?」
「構いません。ハナさんに食べてもらいたいものがあるんです」
そう言うと、モーナさんは納得したように頷いた。
「そういうことか。わかった、了承しよう」
「じゃあ、皆さん行ってらっしゃい」
彼女たちが旅立つのを見送るのも、後何回になるかわからない。最後に立ちはだかる『魔王』を倒せるまで、彼女たちの旅は終わらないのだろうけれど。
各々仕事を探しに向かった他の皆、急患が出たと出ていったヴィジーさんもいない。
ガランとした宿は、夜の喧騒などないかのように、水を打ったかのように静まり返る。
確かにあの奇妙なお祭りの後から、食事だけのお客さんがぐんと増えた。作り置きするスープの量、仕入れるパンの量、オクタの料理目当てで来るお客さんもいるので、炊くお米の量も増えた。
けれど、ランチの時間とディナーの時間の間のアイドルタイムなんてこんなものだ。
思わず欠伸も出てしまう。
「おやおや、そんなにお暇ですか?」
驚き、目を見開く。カウンターの向こうにいつか来た、あのピエロさん……アダムと名乗った人がいた。おかしいな。ドアを通ってきたのならドアベルが鳴るはずなのに。
彼は構うことなく席に座り、メニューを眺める。
「んー……ホットコーヒーとパンケーキをいただけますか?」
「は、はぁ。あ、少々お待ち下さい」
頭に疑問符は耐えないが、注文されたら提供するのが接客業だ。私は作り置きし、休ませているパンケーキの生地を少し混ぜ、フライパンにバターを敷いて生地を垂らす。少しだけ冷やされたフライパンからじゅわ、と少し音がして、パンケーキが焼けていく。
「今日もお仕事で来たんですか?」
「えぇ、先日こちらでお祭りがあったと聞きまして。聖地に近いこの場所ではお祭りなどは行われないと聞いたのに、何があったのかと」
「ええーと、お祭りといいますか、うちの宿のイベントといいますか……。でも、近々お祭りはあると思いますよ。守護者様がきちんと聖地に揃えば、きっと」
「あぁ、そういえば天の守護者様が選ばれたと聞いてから先、とんと話を聞きませんね。此度の守護者様は他の守護者様を選べないほど人望がないのでしょうか?」
「そんなことはないと思いますけど……。はい、パンケーキです。シロップは?」
私が前かがみになり、パンケーキを差し出すとアダムさんが私の胸元に手を伸ばす。
「ひゃ!?」
私が驚き飛び退くと、アダムさんの手に何かが摘まれていた。
「焦げ茶色の髪の毛。……店主の恋人さんのものでしょうか?」
「ち、違いますよ! 私、恋人いませんし!」
「ふふ、可愛らしいですね。そんなにお美しいのだから恋人くらいいると思いましたが」
「いません!」
「ふふ」
アダムさんはホットケーキにシロップを垂らし、ぱくぱくと食べ進み、コーヒーを美味しそうに飲み干す。
「……ん、以前の豆と違いますね。慣れない味がします」
「あ、ブレンドしてみたんです。……美味しくないですか?」
「いいえ、美味しいですよ。ご馳走様でした。……ありがとうございます」
ニッコリと笑い、アダムさんはドアから出ていく。私が皿を下げているとヴィジーさんが戻ってきた。
「あ、ヴィジーさんおかえりなさい。仕事どうだった? 患者さんは?」
「あぁ、盲腸炎だった。何、我の技術でぱぱっと手術してやったとも」
「ま、麻酔は!? したよね⁉」
「内臓を切るのだから当たり前だろう、何を言うか。それより疲れたから紅茶! お紅ティー、プリーズ! ハリーアップ! む……コーヒーの匂いがするが、珍しい。こんな時間に客が来ていたのか」
「あ、はい。ついさっきまで。……すれ違いませんでした? 真っ赤な道化服を着た銀髪の男の人」
「我はそんな目立つ人間などみておらんぞ。幽霊でも接客しておったのか?」
「ま、まさかぁ……」
でも、少し気になるのは間違いないのだ。以前、モーナさんの言っていた言葉。まるでアダムさんを知ってるかのような口ぶりだった。
……二千年生きてる、モーナさんが知り合いになるような人が、この世にいるとしたら……それは何だろう?
ぞわり、と背筋が寒くなる。私は慌てて水を入れたポットを火にかける。茶葉の用意をしていると、キンと頭が痛くなる。モーナさんの声がする。もうすぐ終わる、と。
「……ルツァ、大丈夫か?」
「あ、うん。平気。今日はディナーのメインがこの間のイベントで出したカレーにするんだけど、他にリクエストはあったりする?」
「……あぁ、あの香辛料のスープか。別に不満はない。が、我はあのスープに米は好かんな。バケットはあるか?」
「じゃ、ナンを焼こうかな。カレーはナンにもよく合うから、楽しみにしてていいよ!」
「ナンとは何だ、ルツァ?」
「んー……火の大地の中腹部のパン……かな? 知らない? 大きくて平たくて、千切って食べる……あ、チーズとか入れても美味しいよ?」
「し、知ってますしー!? 我を誰と心得るか! しかし、ふむ、バターとヨーグルトを使ったスープに、チーズを入れたパンか……。乳製品が多いが、まぁ良かろう。食べてやらなくもないんだからね!」
「はは、そりゃーどーもありがとーございます」
些細なことだと、思っていた。
アダムさんが再び訪れたことも、アダムさんが私のエプロンについていた髪の毛を取ってくれたことも。
まさか、これがあんなことに繋がるなんて、まったく考えていなかったんだ。この時の私は。
ただ、ハナさんが私の作ったバターチキンカレーを美味しそうに食べてくれて。皆笑ってて。
……いつまで続くかなんて、そりゃあ少しは考えていたけれど。あんな形でこの幸せが途切れるなんて、思いもしなかった。