10:未熟な男の子
ハナさんたちが旅立って三日程経った。
そろそろ帰ってくる頃だろうか、と思っていたら、ドアベルが鳴り、げっそりしたハナさんが倒れ込んできた。
「おかえりなさい、ハナさん……だ、大丈夫ですか!?」
顔色の悪いハナさんが力なく笑う。
「あー、うん、平気です……。ただの気疲れなんで……」
「気疲れ?」
ぎゃんぎゃんという喧嘩の声……というか、一方的に少年が叫んでいる声が聞こえる。まだ声変わりも終わっていない、少し高い声の主はダニエルさんに一方的に何か言いながら宿に入ってきた。
「……だから、何度も言うが、お前は守護獣としての自覚がなさすぎる! 神に選ばれたという名誉ある存在なのに、そんなにピアスをあけるなんて前代未聞だ! 守護獣は自然から採れる植物で作られた衣服しか着ちゃいけないだろう!? なんだこのパーカーは!」
「うるせーなー、だから素材は綿だし、チャックの部分は切り取ってあるだろ? ジーンズだって留め金じゃなくて木製のボタンだ。超自然だろ?」
「屁理屈を……!」
ダニエルさんは馬耳東風といったように適当に受け流してる。そのダニエルさんに噛み付いているのは……もみあげだけ少し伸ばしたショートカットの金髪にサファイアのような瞳の、絵に描いたような美少年。着ている衣服にはオクタ教のシンボルが描かれている。被った僧帽にも同様に。……僧侶さん、だろうか?
「ええと……い、いらっしゃいませ」
私の声に我に返ったのか、少年は背筋を伸ばし、美しい所作で礼をする。
「あぁ、初対面の女性の前で声を荒げるとは、失礼しました。此度、ハナさんの旅に同行することになりました、クリスと言います。オクタ教の僧兵見習いという未熟者ですが、よろしくお願いします」
「は、はい。私はここ……歌う紫水晶亭の店主、ルツァといいます。宿帳にサインをお願いします」
クリスさんはささっとサインを済ますと、再びギッとダニエルさんを睨む。なんだなんだ、なにがあったんだ。
「ハナさん、クリスさんとダニエルさん、何かあったんですか?」
私がそっとハナさんに耳打ちすると、ハナさんは力なく笑い、椅子に腰掛けてカウンターに溶けるように項垂れる。
「あぁ……クリス、敬虔なオクタ教の信者で、でもオクタ教の本流になるレフトナ教のことも勉強してたみたいで。で、守護獣もすごく崇拝してたらしいんだけど……ダニエルがあんな人だから、すごい幻滅しちゃったみたいで」
ははぁ、と少し納得した。例えるなら憧れのアイドルがものすごい遊び人だったと週刊誌でパパラッチされたのを知ったような雰囲気だ。可愛さ余って憎さ百倍という感じだろうか。そんなことを考えながら私は紅茶を入れて、焼き立てのスコーンに手作りのベリーのジャムを添えてハナさんに差し出す。
「それは……お疲れ様でした。これ、サービスです。どうぞ、丁度おやつの時間ですし」
「……これ、ソースは野いちごのジャム?」
「はい。昨日ですね、ミアさんが遊びに行ってくるって言って、山にハイキングに行った時のお土産で作ったんです。大丈夫です、ヴィジーさんに毒はないってお墨付きもらってます」
「ミアが……。ありがとうございます、ルツァさん。あとでミアにもお礼言わなきゃ」
そう言ってハナさんは紅茶を飲み、ジャムを乗せたスコーンを頬張る。
「クリスさん、も、どうぞ」
クリスさんのいる場所の近くにスコーンを置く。しかし。
「いらない!」
そう言って、大きく手を払われてしまった。スコーンを乗せた皿が宙を舞い、地面に落ちて砕ける音がした。ころころとスコーンが転がり、ダニエルさんの足元で止まった。
ダニエルさんはゆっくりとそれを拾い上げ、ジャムについた土を払い、頬張る。ダニエルさん、甘いもの好きじゃないのに。がつがつと頬張り、咀嚼し、飲み込む。手についたジャムを舐め取ると、自分より背の低いクリスさんの胸ぐらを掴み、持ち上げた。
「オレが気に食わねえなら、それでいい。けどな、モノに当たるんじゃねえ。こいつは姐さんが……この宿の主が泊まってくれる客にって丹精込めて作った菓子だ。ジャムだって、これからお前が一緒に戦う仲間が採ってきた野いちごで作られたものだ。理想が崩されてイラつくなら、オレだけに当たれ。姐さんに謝れ、ガキが」
……ダニエルさんのドスの利いた声、初めて聞いた。背筋が冷えるくらいに、冷たい声。
ぱ、と手を離すと、クリスさんが地面に尻餅をつく。ダニエルさんはカウンターに近寄り、そっと私に耳打ちした。謝罪の言葉と、もうひとつ。そして、サンダルをペタペタ鳴らしながら、二階へ上がっていく。
酒場スペースは水を打ったように静まり返る。クリスさんが肩を震わせていた。まだ幼い面差しの丸い頬に涙が伝う。私はダニエルさんに言われたとおりに、それを手に持ち、動けずにいるクリスさんに近寄る。
「クリスさん」
「……何」
「これ、飲んでください」
私が差し出したのは、ハナさんが毎朝飲む、あの飲み物。ゆるゆると湯気が立つマグカップに入れられた、カフェオレ。オクタ教の、伝説の飲み物。
「オクタ様が愛された、カフェオレです。甘くて美味しいですよ」
「……店長さん」
クリスさんがマグカップを受け取る。鼻をすすり、カフェオレを一口、恐る恐ると飲む。
「……店長さん、ごめんなさい。僕……酷いことをした……」
「気にしないでください」
私が割れたお皿のかけらを拾い、掃除をする。クリスさんは静かにカフェオレを飲んでいた。それを見ていたまんまるスライムに乗ったままのモーナさんが独り言のように言う。
「……ダニエルはレフトナ教の狂信者に両親を殺されておってな。三つか、そのくらいの頃じゃ。守護獣の生まれ変わりだと悟られた瞬間から、ずっとレフトナ教の者に追われておった。ダニエルの両親は我が子を渡すまいと逆らい、逃走を繰り返し、追い詰められ、我が子を逃し、殺されたそうじゃ。孤児になったあやつは、五つの時にミアの両親に拾われるまで、食うや食わずの生活をしておったと、笑っておった。ミアの暮らしておった場所は田舎の果てでのう、レフトナ教の者もなかなか見つけることができんかった。ダニエルを拾った若いビーストのカップルはそれを期に結婚し、子をふたり成した。家に残したダニエルに子守を任し、狩りをして暮らしておった。が、ダニエルが十七の時についに狂信者に居場所を悟られ、自分を愛し、育ててくれた新たな両親と妹たちを守るため、ダニエルは観念し、聖地マーカへ行くことを決めた。……自由を好むあの男が、一生を、レフトナに捧げる為にな」
誰に言うでもない独り言を終え、スライムから下りてスライムを小型にして懐に収める。
クリスさんは何も言わずにそれを聞いていた。
「全ての者がレフトナを、オクタを信仰しておる訳ではない。……オクタも書簡に残しておったな。別に信じなければそれでいい、ただ家族を愛し、食べ物を大切にし、生きることを楽しめれば、それで上等。『レフトナの思いは、生きとし生けるものが生きる喜びを忘れぬこと。それ以上に、この大地が喜ぶことはないのだ』、だったかの」
オクタ教の聖句の一片を語り、モーナさんは階段を上がる。私にスコーンと紅茶を部屋に持ってきてくれ、とだけ言った。
クリスさんは空になったマグカップを握ったまま、ずっと動けずにいた。ハナさんが横に腰掛け、ぽつぽつと言う。
「……私もね、オクタやレフトナの考え、全部が全部わかるわけじゃないけど……。色んな人がいて、色んな考え方をする人がいて、……そういうのが、この世界なんじゃないかなぁ、って、思うよ。クリスはずっとオクタを信仰してきたから、難しいかもしれないけど」
「……うん。僕も、そう……思えるようになりたいよ、ハナさん」
「うん」
ハナさんがクリスさんの背中を優しく撫でる。お姉さんと弟のように見えてきた。コークさんは……入り口でタバコを吸っている。吸い殻を携帯灰皿に放り込み、宿に入る。クリスさんとすれ違う時、クリスさんがコークさんを呼び止めた。
「……なぁに、クリスくん」
「コーク。コークはダニエルにあんな呼ばれ方して、嫌じゃないのか? 悪い薬の名前だろ?」
「呼ばれ方……? あぁ、『コカ』か」
コークさんはクリスさんの腕を持ち、引き上げて無理やりに立たせる。オクタの紋章の入った綺麗な法衣を手でぱっぱと払いながら小さな子に言い聞かせるような口調で言った。
「酒は百薬の長、薬も過ぎれば毒となるっつってね。何事も摂りすぎは良くないってだけ。金の大地では普通にお茶として飲む人もいるし。まぁ、そういうクスリとして楽しんでる奴らだっているけどさ。私は気に入ってるよ、このあだ名」
クリスさんの姿を改め、うん、と頷く。
「よし、キレイキレイなったね。……クリスくんも『コカ』って呼んでいいんだよ?」
「えっ……、い、いや、ダメだ!」
「ふふ、お硬いねェ、ホンモノの信者さんは」
口笛を吹きながら自室に戻っていく。入れ違うようにヴィジーさんとミアさんが下りてきた。
「ニャー、その人が新人さんかニャー」
「ふむ、その紋章、オクタの信徒か。だが見た所まだ見習いだな? 癒やしの術もまだまだ不完全のようだな。我が教えてやってもいいんだからね! 頼りたまえ!」
賑やかなふたりに、クリスさんはぽかんとしている。
「あ、ハナさんの仲間のミアさんと、うちで定住してるヴィジーさんです」
「うん、ハナさんから聞いてる」
「ふふ、クリスさん、かしこまるの、やめましたね」
「だって、あんなみっともない所見られたら……カッコつけても仕方ないじゃないか。それにこれからずっとお世話になるのに……疲れちゃうよ」
「それもそう……ですかね?」
「……そうなんだよ!」
「ふふ、はいはい」
クスクスと私が笑うので、なんだなんだとミアさんとヴィジーさんが近寄ってくる。ふたりのマシンガンのような喋りに圧倒され、鬱陶しがるように応戦しようとし、敗北するクリスさんを見て、私は『頑張れ少年』と心の中で応援するのだった。