時間軸の神様
宗教上の「神様」ではないことをご了承下さい。
また実際の団体・名称・事件等には一切関係がございません
深夜。静寂の白い廊下。無機質な灰色の壁。古ぼけたソファに俯き拳を握っていたお前
バン!と手術室の扉が開き、不釣合いな程のガラガラという高い金属音と共にワゴンが出てきた
「・・・お気の毒です。母体共に・・・」
白いマスクを外しながら、医者は言い淀むようにお前に声を掛ける。扉の隙間からは、看護師が「処理」しているであろう、白い手術室には対比鮮やかな余りにもグロテスクな存在感を示す赤黒い物体が微かに見えた
ビクンと硬直したお前。そのまま顔を上げることも出来ずにゆらりと立ち上がり、ワゴンに顔を埋めた
ワゴンに乗っている、苦痛と絶望に固まり止った、真っ白い顔に埋めた
号泣ーーー声にならない、号泣
まるで四方を囲んでいる白い壁が震えているかのような空気伝染
俺はただ立ち尽くしていることしかできなかった
お前は俺らの会社に中途採用で入社してきた、甘ちゃんだった
流行でもなんでもねえ、朴訥黒セルブローメガネなんか掛けてるオタクっぽいガキ
社長の親戚筋とか何とかで、へらへら平和な笑顔を浮かべて「何も分かりませんが宜しくお願い致します」
あのなあ、俺らの会社は全員で客の取り合いと足の引っ張り合いしまくってる会社なんだぜ?マージンバックが半端ねえからな。落とすのにグズってる客がいたら、裏で根回しして掠め取る。それが当たり前なんだぜ?保険もなんもねえぞ?
それをまあ・・すぐ辞めるな、こりゃ。いいさ幾らでもンな若いヤツはいるから。バックパーセンテージのデカさに惹かれて入ってくるヤツらなんざ現実見てすぐ辞める。
って思ってたんだが
どうも勝手が違う
どーも質問されっと親身になっちまう。ほっときゃいいものを穴だらけの契約書に手を入れちまう。会議でろくでもねえことくっちゃべってっと注意しちまう。客にツッコまれてる間に入っちまう。フォローしちまう。その後の「ありがとうございます」・・・あーハイハイ。なんだその顔。よく人を信用できるなンな表情で
ろくでもねえ営業の俺らの唯一のやすらぎ。営業事務のあの子を掠め取っていったイケすかねえお前。畜生何時の間に。仕事サッパリできねえクセにそういう事だけは随分デキるじゃねえかよ
あの子は特に美人って訳じゃねえ。むしろ地味な方だろう。最近の若ェ女にしてはさ
でも笑顔がいい。「お疲れ様です」「お先に失礼します」って言葉が優しくてゆっくりしてて、すげえイイ
いつの間に、畜生。なあ、俺のが仕事もカオもシャベリも背もさあ、イイ筈だよなあ?何でだよちっくしょ
でもまあ、あの子が笑顔でお前と話してる。幸せそうな、安らぎの笑顔。楽しいんだ、ヤツといることが
それならまあ仕方ねえか。俺ら全員心の中じゃテメエをブッ殺してやりたかったが、まあ仕方ねえよ
あの子が幸せならさ、仕方ねえ
俺らじゃそんな綺麗なカオ、させられねえもんな
結婚式で、信じられない程綺麗で可愛かったあの子。白いドレスと本当に光っているみたいだった笑顔
デレ顔のお前がムカついて仕方なかった俺らは示し合わせて洗濯機を全員で贈ってやったよ
困った泣きそうなカオをして、それでもお前は「ありがとうございます」・・・あーハイハイ。分かったよもう
俺らは同僚の結婚式なんて出席したことも無かったよ。ってかそんなもんに時間取ってる位ならオーナー回りでもしてるよ。招待状なんて社内で配ることすらKYだぜ?でもまあ・・・いいよお前なら。お前の「ありがとうございます」って表情が見れんなら
ほっとけねえから
子供が出来たってデレ顔
ムカついて仕方なかったのでオメデトーって言いながら膝をハラにめり込ませてやったが、それもお前は
「ありがとうございます」・・・ハイハイ
仕方ねえか。西マツ屋に行って(ネットで適当に頼んでもよかったんだが)色々見た。店員が寄ってきて「女の子ですか?」って聞いてきた。ばっか、俺の子じゃねえよ・・残念ながらな。すっげー小さい産着、靴下なんか人形用みたいに小さい。よくわからねから店員に選んでもらって一式。あとあの子はきっと色々大変だろうから下着とか・・って女の下着なんざ買ったことねえから流石に照れた。っていうか照れるっての久しぶりだな。何だコレ、なんか楽しいな・・・
他の奴等はクーファンとかいう赤ん坊を入れるカゴとか、スイッチ押すと音が出て回るおもちゃとか、色々買ってた。流石に示し合わせて色んなモンってのはやんねえ。あの子が困っちまうって
幸せな。本当に幸せな時間軸経過
予定日よりもずっと早く産まれるって連絡があったんだ
俺らは何とか時間作って駆けつけた。手に様々な贈り物を持って
最愛の女が、新しい柔らかい命を産む瞬間だ。最高に眩しい光り輝く日なんだ
駆けつけるに決まってんだろ。最高の日だ。俺ら全員が幸せを願っていた大好きなあの子が母親になる最高の
その後、お前のデレデレ顔を思い浮かべながらヤケ呑み会になるだろうな。明日の二日酔いは確定
でもいいさ
何故、手術室の扉が開かない
いつまで経っても開かない。産声は聞こえない。午前中に集まった俺らは時計を何度も見る。初産に掛かる平均時間はとっくに過ぎてる。もう深夜だ
じっとりとした時間軸が過ぎていく。恐ろしいほどに時間が遅く感じる。仕事中とは全く違う時間経過感覚が俺らを支配する。誰一人として予測できる恐ろしい瞬間を口に出来ない。お前の俯いた顔に視線を向けることすらできない。声を掛けることすらできない
余りの恐ろしさにひとり、ひとり、手にした贈り物を抱え病院を去っていく
俺一人が、残った
椅子にめり込むが如くに俯くお前と、俺だけの。恐ろしい程の時間軸
母体共に、時間が止まった
殺してやろうと思った、お前を
俺は一人だ。どこぞに収監されようが何だろうが悲しむ人間は皆無だ。そうだ殺してやるよ。このどうしようもねえ感情を何とかしてえんだよ!どうすりゃいいんだ!どこに向けりゃいいんだよこのどうしようもねえどうしようもねえ精神の衝動をどこにブツけりゃいいんだよ!お前を殺せばこの衝動は収まるのか?
お前の子供を孕まなかったらあの子は死ぬことはなかったんだよ!テメエの遺伝子とやらが最低だったんだよ!やっぱ俺の嫁さんになってりゃよかったんだよ!そうすりゃこんなことにはならなかったんだよ!フザけんなよ畜生!なんだよなんなんだよワゴンの上で固まったこの表情は!違う人間だろ?あの子じゃねえよこんなん。違う人間と間違ってんだろーーーーあの子の柔らかい優しい笑顔を戻せよ!
そう言いたかった、叫びたかった、ただワゴンに突っ伏して声にならない声を上げて震えているだけのお前に
なあ、神様?
いるんなら神様サンよ?
何よコレ?
何でこんなヒデエことすんの?
俺は神様って概念は一切信じてなかった。ンなモン信じられる環境で育たなかった。ただソレを信じてるヤツは多い。特に海外のヤツラを相手にすることも多い俺らの仕事はある程度知識は入れてねえといけねえ。知識地盤の無いヤツに本気のビジネスの話はしてこねえから。ヤツラはほんのガキの頃からそういう概念で育ってきてるからな。神様は人間を救って下さる、罪を赦して下さる、絶対的な存在だってな
じゃあよ、なあ?何なんだってコレ?
アンタ、優しい存在じゃねえの?
幸福の絶頂にさせといて、徹底的な奈落に墜とすのがアンタのやり方かよ?
なあ?
いくら何でもヒドすぎね?
誰を憎めばいい?彼は一体何処に感情をぶつければいい?自分?
そしてお前は病院を訴えた
俺はその手の法律関係に詳しい弁護士やらを手配し、できるだけ協力した
複雑な裁判行程の中、お前の表情が段々と変化していく
朴訥なメガネの奥の瞳はもう、甘ちゃんじゃねえ
一重の細い瞳には最早感情は感じられない。怒りでもなく、憎しみでもなく、ただ静かに濁っていた
「ありがとうございます」という、稀有な絶対的信頼の感情を持ち得ていたお前は全て奪い去られた
ああ、分かったよ神様
アンタやっぱり優しいヒトだ
アンタは救い、赦しーーーそして
全ての人間のどうしようもねえ憎悪さえも全て背負う
アンタの行為にしちまえば
アンタが全て悪いんだと、思えば
人間は自我を保っていられるのかもしれねえな
十年が過ぎた
停滞するしかない墓石という固体の前にお前は蹲り、ぼそりと呟く
「もう・・僕には彼女たちの顔がはっきりと思い出せないんだ。少しずつ・・・ぼんやりしてしまっている・・・」
墓石に置いてある遺影。彼女の笑顔、昔ながらの優しい笑顔。結婚式の時のもの
「写真を見ても、思い出せない。十年前で止まってしまった。少しずつ、少しずつ忘れていってしまっているんだ・・・忘れたくなんて絶対に無いのに」
震える背中。小さく、小さく丸まっているお前。抗おうにももう、どうしようもない
「忘れたくないよ・・・」
俺ももう思い出せねえよ。あんなにも憧れ、幸せを願い、好きだった筈のあの笑顔が
何時からなのか気付かせず、途轍もなく巧妙にーーー憧憬も憎悪も哀切も全てを霞ませる
忘却、暴虐の時間軸
なあ、神様。アンタが優しいヤツだってことは分かった
でもよ、辛くねえか?そんな全ての感情をブツけられて
ああそうか、そこで使うのかい。忘却の時間軸という力を、絶対的な暴虐を
なあ?
時間軸という
神様
お読み下さってありがとうございました