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睦月

作者: 広峰


 神社の境内には、三が日を過ぎたというのに参拝客が列を作っていた。

 賽銭箱の中めがけて五円玉を投げると、綺麗な放物線を描いて吸い込まれるように飛んで行った。

 手を合わせて願うのは、毎年同じ内容だ。

 けれど、叶ったためしがない。


「ご利益があるといいわねえ」


 年齢より若く見える義母が、明るくそう言った。あくまでも軽い口調だ。


「ええ」


 相槌を打つ。口の中が苦い気がする。これも毎年のこと。

 作り笑顔でこっくりした義母は、先に立って下山し始めた。


 毎年、年末年始は夫の実家へ挨拶がてら泊りに行く。

 結婚して生まれた子供は二人とも女の子。

 夫は長男。

 他家へ嫁いだ夫の妹には、初産で男の子が出来た。


 義母と一緒にこの子宝神社へお参りするのは何度目だろう。


 下山する途中で、いつも思う。

 生物の雌雄を決めるのは通常卵子のほうではない。

 なぜ、私がこんなことしているのだろう。

 別に自分は男の子が欲しいわけではなかった。もともと女の子が欲しかった。そして私が産んだ娘は親の欲目を抜きにしても、二人とも可愛いと思う。五体満足で幸せ。生まれたときはただただ素直に嬉しかった。

 なのにどうして、と思う。


 いまどき、跡取り息子なんて考えにこだわるのはおかしいと思う。古臭い。でも、義父母は男の孫を望んでいる。

 たぶん、夫もそうなんだろう。

 昨年、子供のクリスマスプレゼントを選ぶため玩具屋さんへ下見に行った時、男の子向けの玩具コーナーで足を止めていた。じっと見つめる先には、野球盤やボードゲームのサッカー。そのパッケージには男の子と一緒に遊ぶ父親の図。まるで理想的な親子といった絵柄。

 夫は買い物を済ませた私が声をかけるまで、ぼんやりとそこを動かなかった。


 最近夫と上手くいってない。

 たぶん乳飲み子を抱えていて寝不足のせいだ。何をするのも億劫で、なんだか疲れるばかり。当然家事だってはかどらない。年末の大掃除の時には、どこもかしこも中途半端な掃除の仕方で全く行き届いていない、と夜遅く帰宅した夫に怒鳴られた。

 夫の台詞がよみがえる。


 なんで疲れて帰ってきてから家の掃除まで俺がしなきゃなんないの。お前毎日家にいて何やってんの。いい加減にしろよ。飯は不味いし掃除も洗濯も下手だし、本当に使えねえ。このハズレ野郎が。


 そして、初めて夫に手をあげられた。

 怖くて怖くて、謝った。でも無視された。以来、夫婦間で会話らしい会話が出来てない。互いに必要最低限のことしか口にしないのだ。

 毎年恒例の実家への年始挨拶も、私の知らぬ間に日にちが勝手に決められていた。


 今、私は夫と住んでるんじゃない。たぶん夫の姿をしたどこかの小姑と住んでるんだ。だって、こんなの今まで描いていた家庭の姿じゃない。自分の家なのにちっとも楽しくない。

 毎日粗探しのような目で見られて、チクチク嫌味と当てこすりを言われて、そのくせ私が一生懸命やったことは、そんなのやって当たり前のことと素通りされる。確かに私は要領が悪いし、結構ガサツだし、出来のいい奥さんじゃないけれど。でも、夫がもっと鷹揚な人だったら良かったのに。

 けれど、その細かいことが気になる人だからこそ、結婚前の恋愛期間は何かとマメに優しくしてくれていたんだ。そう、好きなところと嫌いなところは表裏一体ってやつだったのだ。


 私、男見る眼無かったのかも。いや、夫が女見る眼無かったのかな。もう、どっちでもいいこと。きっと私、結婚生活に夢を見すぎていたんだ。


 それでも私が毎年願っているのは、夫の望む男の子を授けて下さいではなく、どうか家族みんなが仲良く過ごせますように、だ。


 子宝神社にそんなことを願ったところで、叶う見込みはちょっと低そうだ。実際、悪くなる一方だ。けれど、今のところ、他のどんな神様にも違う願い事をしたいとは思わない。


 神社の駐車場に停めた車の中には、移動中眠ってしまった子供達と、無理に起こしたら可哀想だし外は寒いから、と言う理由で


「子供達に付き添っててやるから行って来いよ」


 と、とうとう外に出なかった夫が待っている。




 その夜は、義父母の家に一泊した。

 子供達はいつもと違う環境のせいか、興奮してなかなか寝付けないようだったが、夜十時近くになったら流石に眠気に負けたらしく、ぐずりはじめた。


 義父母も夫も、お節料理を肴にゆるゆると酒をすごしていたが、私は下の子に母乳を与えているので飲むことが出来ない。

 つき合って酒の座にいても、飲めなのではつまらない。

 義母は一人だけ素面で居心地悪そうにしている私を気遣って、あれこれ料理を勧めてくれた。しかし、言われるままに食べていたら、あっという間に満腹になってしまった。もう一口も入らない。


 そんな時、子供が不満げに鼻を鳴らしだしたので、これ幸いと口実にした。

 ぐずぐずと眠たげにむずがっている下の子を抱き、上の子を促して席を立った。


「寝かしつけてきますから」


 義父が上の子の頭を撫でて頷いた。


「おやすみなさい、おねえちゃん」

「おやすみなしゃい」


 舌足らずな返答に目を細め、いい子だねえ、と義父が言った。


 布団の中に入ると思ったよりも早く寝付いてくれて、私はホッと胸を撫で下ろし、親子四人分の布団が敷かれた和室をそうっと出た。

 音を立てないようごく静かに襖を閉める間際、子供達のあどけない寝顔を見た。

 可愛らしいぷっくりした頬。ゆるく微かに開いた唇からもれる寝息は規則正しい。深くよく眠っている。安堵した。

 今日もまた、この子達との一日が無事に過ごせた。

 子供が元気であること、それが現在の私の生活の中で最優先事項であり、最も心を砕いていることだ。私はこの子達のためだけに生きてる。そんな気さえするほどだ。


 そろそろ戻らなくては。

 義母を手伝って後片付けをしなければ。


 ため息が出た。滞在中はどうしたって気を遣う。

 もともと気が利くほうでもないのに、夫とは険悪なままだから、何かポカをしたらフォローを入れてくれる人がいない。

 何もへまをおかさないように、目立たないよう静かにしていよう。余計なことは極力しないでおこう。そう思った。

 義母は人当たりのいい人だけれど、義父も明るいおおらかな人だけれど、夫も本当は、良く気のつく優しい人だけれど。

 今日は何故か途方も無く、心底独りな気がした。


 重い足取りで、そっとリビングの戸を細く開けた。義母の背中が見える。その向こうに夫が座っている。義父はいない。もしかしたら寝たのだろうか。

 中に入ろうとしてたら声が聞こえた。


「……で、掃除はしないしさ。アイツ本当に嫌になる」

「そう。それは嫌だねえ」


 夫の言葉に足が止まった。

 夫は、義母に私に対する愚痴をこぼしているところだった。

 私は息をのんだ。ドアを支えていた手が固まったように動かない。


「毎日会社から帰ってきてから、俺、家の中の片づけしてんだよ。普通ありえないだろ。本当に家の中汚いんだよ? さっぱり寛げないしがっかりする。文句言っても何しても、言うこと聞いてくんないんだよ? 何なのかなアイツ」

「そうなの。大変だね」


 ブツブツ文句を言う夫は、肉親への気安さで不満をぶちまけていた。それへ心を込めて耳を傾け、相槌を打つ義母。

 酔っているからか、夫の顔は赤く色づいている。一層怒っているように見えた。義母もまた酔っているようだが、神妙に腕を組んで頷いていた。


 どうして。貴方は私の悪口を母親に……。

 お義母さん、同意してる。

 そうなの、お義母さんもそう思うの。何もかも私が悪いって。


 リビングの中は、子供が寝たせいか静かで少しさびしい。時計が指す時刻は夜十時半過ぎ。

 身も凍るような睦月の寒さは、たとえ酒で温まっていたとしても、侵食するようにじわじわと体を冷えさせることだろう。一滴も飲んでいない身なら尚更だ。

 ぶるり、と小さく肩が震えた。


 寒い。半端でなく寒い。

 この寒さはどこからくるのだろう。

 外気ではなくて、家の中から冷えが漂ってくるような気がした。

 ああ、そうか。

 この家の中で、私はよそ者だ。

 皆、夫と血のつながりがある。無いのは私だけ。私は、よそ者で、部外者で、夫の敵なんだ。

 私は夫を害する敵だから、義母も義父も夫の血縁だから、娘たちは夫の子供だから、やっぱり私だけが。

 ……私だけがこの寒さを感じているに違いない。


 言いようの無い疎外感が押し寄せてきた。


 私はリビングに戻るのをやめ、廊下を歩いた。

 誰にも顔を見られないトイレに入って、私は洋式便座の蓋の上に力無く座り、トイレットペーパーを引っ張り出して、とめどなく流れてくる涙と鼻水を無理に押しかえそうと無駄な努力を続けた。


 神様なんていない。

 いないんだ。

 いるならどうして悪いほうへ転がっていくの。

 いるなら神様に文句言ってやる。


 そんなばちあたりなことを、思った。




 翌朝、少しのどが痛かった。

 夜中の寒い時間にトイレにこもったりしたからだ。

 しかし、正月休みということで、みんなと同じくらい寝坊してもとがめられない。ゆっくり起きてきたからか、赤っぽくなっていた目鼻はだいぶ正常化しており、誰にも何も気付かれなかったようだ。


 朝から元気にはしゃぎまわる子供を追いかけて、洗顔や着替えや、離乳食の朝食にオムツ換えなど、一通りの世話をした。


 上の子は、片言で「あけまちておめでと」を繰り返し、お供えの鏡餅から橙を取ってしまって返そうとしない。やんわりたしなめられても、それが逆に面白かったらしく、きゃっきゃっと笑う。笑顔に癒される反面どっと疲れた。


 下の子は下の子で、二三歩ヨチヨチ歩いてすぐ尻餅をつき、その度に意味不明な唸りをぶつぶつもらしている。そのうち、ふと目を離した隙に観葉植物の葉をちぎっていて、次には口に入れようとしていた。くわえる直前、なんとかつかまえることができて、ほうっと息が漏れた。万事こんな調子でどうにも気が休まらない。


 子供に振り回され気味な私へ、義父がにこにこと言った。


「いやいや、元気がいいなあ。みんないい子だ」

「すみません、悪戯ばかりして」


 謝ると義父は大きく手を振って笑った。


「いいのいいの。子供はそんなもんよ」


 義父はくしゃりと皺を寄せて楽しそうに言った。


「上手に育てとるよ。元気が一番だ。後は見ててあげるから、朝御飯食べといで」


 言われて、自分がまだ何も食べていないことに気がついた。


 皆よりだいぶ遅れて、この家ならではのしっかりと濃い味付けの雑煮で朝食をいただいていると、なんだか哀しくなった。

 夫はこの濃い味の雑煮で育った。

 私はもっと薄味の雑煮で育った。

 私に、この味は作れないし出せない。

 ……美味しいけれど、どこか馴染めない。

 同じように、夫も私の作る料理に物足りなさを感じ、馴染めないだろう。


 もう、いいや。

 この人のことを『夫』だと思うことをやめよう。

 自分とは異なるタイプに属する一個の人間だ、と改めて強く意識することにしよう。

 そうすればきっと諦めがついて、互いの違いに悲しんだり腹を立てることも少なくなる。

 そうすれば多分、嫌味や罵りの言葉も聞き流せるようになる。

 そうすれば、多分、また私を痛めつけたりしても。

 ……それでも、平気だろうか?


 ぽた、と涙が落ちた。


 はっと顔を上げて、義父が孫の相手をしており、私のことを気にしていないのを確認した。

 良かった、と頬をぬぐいながらふと見ると、テレビの正月番組をソファで眺めていたはずの夫と目が合った。

 彼は少し驚いたような顔をしていた。

 急いで目を逸らし、私は雑煮を平らげた。




 夕刻、帰る段になって、義母は手ずから作ったというジャムやパン、畑で採れた野菜などを手渡してくれた。

「このジャム、おねえちゃんが好きだって言ってくれたから」そんな言葉と一緒に、紙袋の中にスーパーの袋でくるまれたタッパーがいくつも収まっている。


「体に気をつけてね。また遊びに来てちょうだい」


 にこにこと笑顔で渡された紙袋を有難く受け取り、私は「はい」と答えた。たとえ、その優しさが私に向けられたものではなく夫と子供あてでも、恩恵にあずかっているのだから。素直に好意に感謝した。

 昨夜のことを、義母は何も匂わせない。今まで通りの態度なのだから、こちらも聞いてしまったことを悟らせまいと思った。


 それから義母は、自分の息子のほうを向くと、二の腕のあたりをぽんぽんと軽く叩いた。


「いつでも来ていいからね。何かのついでにちょっと寄るのでも。電話も遠慮しないでかけてきて」

「はいはい」


 彼は少し笑んで頷いた。

 義母はよし、というようにこっくりすると、続けて言った。


「あんた、子育て協力しなさいよ」

「何言ってんの。してるよ。メッチャしてる」

「本当に? 子供がこれくらい小さいときが、お母さんの一番疲れる時期なんだから大事にしなさいよ?」


 心外だ、というふうに顔をしかめる夫。それへ義母は悪戯っぽく笑って、それから私のほうを見た。


「おだててうま-く乗せて使ってやって。そのへん単純だから。一人で全部やってると疲れちゃうでしょう。いろいろ手伝わせて、少しでも楽するといいよ。それからね、あなたも私の娘なんだし、愚痴でも何でも聞かせてね」


 ……娘。

 そんなことを言われるとは思ってもみなかった。思わず目をぱちくりさせ、義母の顔を見た。


「出来の悪い息子になっちゃったけど、根は悪い子じゃないと思うから、お願いね」


 そこには、年を重ねて尚、子供らの行く末を案じる一人の母親が居た。

 そうだ。この人も“母親”なのだ。


 私は深々と頭を下げた。視界が滲んでいくのを隠すため。思いがけない言葉に答えるため。


「……はい」  


 うつむいた私の目から、雫がぽとりと落ちた。

 ぎょっとした義母が、あらあらちょっとどうしたの、と早口で言いながら手近にあったティッシュを取った。

 差し出されたそれで拭い、鼻水で篭ってしまった声でずみまぜん、とつぶやいたら、義母はいたわるように私の背に手を当てた。


「ほらほら、お化粧落ちちゃうわよ。涙止めて」

「……はい」

「もしかして帰るの名残惜しい? いいわよもう一泊していっても。宿代払ってくれるなら」


 おどけたように言い、義母は背中の手でトントンと優しくたたいた。

 夕べ、夫の話を聞いていたのに。私の悪口を吹き込まれていたのに。義母は態度を変えないで、それどころかこんなふうに気を遣ってくれている。


「……ごめんなさい、何か、勝手に涙が出てきちゃって、」

「いいのいいの。寒いから鼻水が勝手に大量に出たのよ。鼻と目は繋がってるから涙も出たのよ」


 義母は言い訳にもならない私の言葉を受け止め、私がなんとか無理矢理涙を引っ込めるまで、背中の手を離さなかった。




 帰宅する車の中で、夫はずっと無言だった。私もまた、何も言葉を発しなかった。

 車に揺られて、はしゃぎ疲れて眠る子供達の顔を、ただ、眺めた。


 家に、帰る。

 そう思うと重苦しい気持ちになった。

 帰って、そしてまた夫の顔色を窺って、怒鳴られて、同じことの繰り返しが待っている。


 祈っても祈っても、叶えられない望みなのだろうか。

 そんなに無理な願いなのだろうか。ただ、普通にささやかな幸せを望んでいるのに。


 きっと、私はとても駄目な妻なんだな。頑張っているつもりでも、夫の望むように家のことをしてあげられていない。使えない、ハズレで不合格で殴りたくなるような妻。

 それなら、私じゃなくて家政婦でも雇えば、気に入ったように過ごせるのかな。


 私は、夫にとって、いらない人間なのだろうか。


 窓の外へ目を走らせると、曇った寒空が見えた。街路樹の冬枯れ枝が揺れている。風も強いのだろう。雨でも降るような雰囲気だ。

 雨が降ればいい、と思った。そうしたら、冷たい雨にあたるより、少しは家の中にいたほうがいいと思えるだろうから。





 夜になって雨が降った。寒さがいや増し、雨音が外界を遮断する。

 夫は寝る前に少し飲みたいと言い、つまみに黒豆と田作りを添えて熱燗を私に用意させた。彼はリビングに陣取ると、ちびちびやりはじめた。

 私はそれを横目で見つつ、明日の朝のため、かたまりののし餅を切り分けていた。


「……最近、お前疲れてんの?」


 こちらも見ずに、ぼそりと夫が言った。


「え、そうかな」


 あいまいな返答を返すと、彼は睨むように見つめていた杯をくいっとあおった。


「なんか、おふくろが心配してた。前来た時より沈んでるようだって」

「……」


 包丁を持つ手に力を込めた。ぐっと押すと、タンという音と共に餅が切れる。


「それとも、疲れたフリ? 同情してもらいたいの?」


 手が止まった。何を言い出すのだろう、この人は。


「お前さあ、自分ばっかり大変だと思ってんじゃないの? 子育てなんか他所んちの奥さんだってみんなやってることだろ。あんまり甘えんなよな。お前なんか働きながら子育てしてるわけでもないのに、嫌々やってるの見え見えで、ムカツク」


 包丁を持つ手が震えた。


「……私が、子供をいやいや育ててるって、いうの?」

「家ん中、いつも子供のオモチャ出しっぱなし。ろくに掃除もしてねえし。あれで面倒見てるって言えんのかよ」

「それは、パパが帰ってきたら、片付けより夕飯とかお風呂とか、そっちを優先にしようとしてただけで、片付けないわけじゃないわ」

「先に片付けして。汚いの嫌いなんだよ。馬鹿な女も嫌いなんだよ!」


 酔って語気荒く吐き出した彼を、どうやってなだめればいいのかわからない。


「実家見た? どこも散らかってなかったでしょ。普通、家ん中ってああいうもんだろ。お前絶対学習してないだろ。馬鹿女。ああ、気分ワリイ。いっぺん死ねば。馬鹿は死なないと直んないって言うし」


 気がつくと、私は強く唇を噛んでいた。

 相手はただの酔っ払いだ。くだを巻いているに過ぎない。

 でも、手の中の刃物を何かに突き立てたい衝動に、負けてしまいそうだ。

 今、もし口を開けば、取り返しのつかないことを言ってしまいそうで、更にきつく唇を噛んだ。


 夫は、杯に酒を注いだ。


「なんで、お前わかってくんないのかなあ。普通に生活したいだけなのに」


 普通。普通ってなんだろう。

 明らかに、私の感じる普通と夫の言う普通は違うようだ。


 小さな子供がいたら、どうしても家は散らかってしまう。勿論子供は可愛い。けれど可愛いければその世話が簡単なものになるというわけじゃない。疲れるものは疲れる。それでも、我が子を愛している。家の雑事も一生懸命こなしているつもりだ。自分にやれることは何とかやっていると思う。あちこち取りこぼしがあるのは事実だが、全てにおいて完璧を求めるのは無理がある。妥協点が必要だ。そんなふうに思う私はおかしいのだろうか。


 私は無言で、くすぶる気持ちを刃にこめて餅を切り続けた。

 やはり、彼は私とは違う生き物なのだ。




 翌朝、体がだるくて起き上がれなかった。

 異変に気付き、熱を測ると平熱よりだいぶ高かった。雨のせいで昨夜冷えたからか、風邪をひいたなと思った。

 布団から出てこない私に、夫が怒った顔で文句を言いに来た。


「いつまで寝てんの。正月だからって怠けすぎだろ。飯は?」

「ごめん、風邪みたい」


 私は測ったばかりの体温計を差し出した。出てきた声はかすれたしゃがれ声で、喉の奥がひりひりと痛い。


 夫は受け取って確認すると、目を剥いた。


「四十度?」

「悪いけど、御節料理あっためるだけでいいかな?」


 とりあえず余り物の正月料理と、昨日義母にいただいたあれこれをテーブルに出し、冷凍していた離乳食のストックと粉ミルクで子供の食事を誤魔化した。

 あとのことは、もう体がだるくて出来そうになかった。仕方なく、夫に子供のことを頼むことにした。


 熱のせいで私は食欲が無く、ふわふわとおかしな感覚が体を支配していた。これは駄目だと思ったが、正月休みで病院は休診になっている。一応、市販の風邪薬を飲んで再び布団の中に戻った。


 恐ろしく目蓋が重い。そのまま私は昼過ぎまで眠り続けた。

 眠りの途中で、子供の泣く声がコーラスで聞こえたような気がした。


 目を覚ますと、猛烈に喉が渇いていた。同時に何度も咳き込んだ。

 ふらつく身を起こして、水を飲むためにキッチンへ向かうと、流しの中に朝使った皿と昼に使ったらしい皿が重ねておいてあった。洗っていない。


「まま、あそぼ!」


 駆け寄ってきた上の子が足にしがみついた。上の子は、きっと夫が選んだのだろう、よく着せていた赤いセーターを着込んでいた。しかし、その下は買ったばかりの新品でよそいきのブラウスだった。そのレースがヒラヒラした襟に、サインペンで書いたような染みが斜めについていた。


「この服、パパが……?」

「ん。かわいいの。まま、まま。おえかきちて!」

「そうね、可愛いの、ね。……もう普段着におろすしかないな」


 ため息をつくと、下の子の泣き声が盛大に聞こえた。


「っま、まんま、まんま、っく、ふええ」


 そして、ハイハイで必死にこちらへやってきた下の子のお尻が目に入った。

 不恰好にふくれている。オムツ換えをいつしたのだろう、と不安になって抱き上げた。


「ちーち、出たの?」


 私の問いに答えるように、上の子が自分の鼻をつまむ。


「くちゃい」


 かえなくては。この子は肌が弱いのに。かぶれてしまう。


 オムツがこんなになるまで、いったい、夫は何をしていたのだろう、と思ってリビングのほうを見ると、夫はブツブツ何か文句らしきものを唱えながら、白っぽくなった床を拭いていた。

 大量に床に散った白い粉がミルクだとわかるまで、少し時間がかかった。


「ど、うした、の?」


 切れ切れのかすれ声をかけると、むっとした夫が顔をあげた。


「見りゃわかんだろ。こぼれたの」

「どうして」

「作ってる途中で、あばれた」


 夫の視線の先を辿ると、下の子が涙目で指をくちゅくちゅしゃぶっていた。そのしぐさは空腹なときでないと出ない。きっと、空腹すぎたから、下の子は体で訴えたのだ。


 私は痛む喉と頭痛をこらえつつ、まず心配なオムツを換えてやり、それから手早くミルクを作って飲ませた。

 次に、まとわりつく上の子へお気に入りのウサギのぬいぐるみを渡してサインペンを取り上げ、おやつを用意した。これで少しは落ち着くだろう。

 ベビーチェアに下の子を座らせ、その隣に上の子を腰掛けさせた。二人はお子様せんべいをかじりながら大人しくしている。

 相変わらず私は食欲が無いままなので、ミルクを作った余りの湯冷ましで市販薬を飲み、溜まった洗い物をした。


「パパと何して遊んでたの?」


 食器を洗いながら、キッチンの対面カウンター越しに上の子にたずねると、上の子は首を振った。


「パパと、あそんでない」

「じゃ、一人で何してたの?」

「おえかき」

「何の絵、描いたの?」

「うちゃぎちゃん」

「どんなの。ママに後で見せてくれる?」


 上の子は、ぱあっと笑顔になってすぐさま白いものを持ってきた。


 良く見れば、夫の会社名入りの、白い大きな封筒だった。裏にいびつなウサギが楽しそうに大きく描かれている。


「これ、パパがくれたの?」

「ううん。おちてた」


 これがそのへんに落ちているわけがない。きっと、不用意に置いたままになっていたのを見つけたのだろう。

 おそらく夫は子供達よりも、年末に持ち帰ってきた仕事のほうに忙しかったのだ。

 つい夢中になっているうちに、封筒をしまい忘れて、それを上の子が見つけ、いたずらされてしまったのだ。


 あわてて封筒を開けて調べると、中にはファイルと書類が入っていた。幸い、中の物に被害は無いようだった。

 ため息をつくと、上の子は不安そうに私を見上げていた。


「これ、パパのお仕事の封筒だよ。書いちゃいけないものだったの」

「どうちて」

「パパの大事なものだからよ。後で謝らなきゃ」


「何を謝るって?」


 床を拭いた雑巾を絞って戻ってきた夫が、口をへの字に曲げていた。


「あのね、ぱぱ、おえかきしてごめんなちゃい」


 上の子は率直に白状して謝った。夫の目が封筒と子供を行き来する。


「中の書類は無事だから。封筒だけよ」


 一生懸命に上の子が、ごめんなさいをする。夫の怒りを和らげようと口添えしたが、夫は怒鳴り散らした。


「この、バカヤロウ! 勝手に触りやがって」


 びくっとした上の子の目にみるみる涙が浮かんだ。


「うええーん」


 お姉ちゃんが泣きだすと、何かを感じ取って下の子も一緒に泣き出してしまった。


「ふぎゃああ」


 私は上の子を抱きしめ、下の子へ手を伸ばして頭をなでてやり、よしよし、と宥めた。


「まだ小さくて、書いて良い物と悪い物がわからないんだから、許してやって。その辺に封筒出したままにしていたほうも良くないのよ」


 ちょっと指摘されただけで、夫は怒りの度合いを一段濃くしてしまった。


「良い悪いもわからんのは、お前の躾が悪いからだろう! だいたい、お前は何もかも駄目なんだよ! 馬鹿女!」


 夫は吐き出すように怒鳴り散らした。

 こんなことまで、全部私が駄目なせいなの?

 罵られて、私は思わずつぶやいた。


「……くせに」

「ああ? 何だって?」


 聞き取れなかった夫が、不機嫌に聞き返した。


「何にもしないくせに!!」


 一言言ってしまうと、後は怒涛のように言葉が続いてきた。


「私が寝てる間、オムツもミルクも、遊び相手も何にもしてなかったくせに。ろくに子供の世話も出来ないのに、言う事だけは言うのね。結局あなたって、自分が快適なら他はどうでもいいのね。私が風邪をひこうが死んでしまおうが、そんなのどうでもいいんでしょう。私なんかいらないんでしょう。あなたが欲しいのは、あなたが楽しく暮らせるように面倒見てくれる家政婦で、一緒に暮らしていく相手じゃないのよ。私が馬鹿ですって。ええ馬鹿だわ。こんな男が好きだったなんて、本当に馬鹿。こんなヤツの子供二人も生んで、毎日文句言われてるのに我慢して、ずっと同じ家にいるなんて、大馬鹿よ!」


 夫は叫ぶように言った私に言い返した。


「俺はただ、普通にしていたいんだ!」

「普通ってなんなの。毎日奥さんに文句言うのが普通なの。気に入らないと殴るのが普通なの」

「うるさい! お前が殴りたくなるようなことするからだろ」

「殴れば言うこと聞くと思ってるの? 何でもあなたの思い通りにいかないと駄目なの? 私は何でも黙って言うこと聞かなきゃならないの? こんなの、」


 涙が溢れた。


「こんなの、おかしい」


 夫の手が上がった。ぶたれる、と目を閉じたら、上の子がぎゅっと私にしがみついた。


「ままいじめたら、だめ!」


 上の子はしがみついたまま、ぽろぽろと泣いた。


「ままなかちぇたらだめ」


 私の頭に一生懸命手をのばして、いつも私がなだめるときにするように、てっぺんをなでるような仕草をした。


「ままわるくないの。……ぱぱごめんなちゃい。おえかきちてごめんなちゃい。ごめんなちゃい」

 夫はむっとしたまま、振り上げた手をぐっとこらえて下ろした。


 私の風邪は長引いたが、もう意地でも寝込むまいと、その後無理に起き続けた。

 マスクの中で咳をしながらキッチンに立つと、ぐらりと眩暈がした。それでも、絶対にもう弱音を吐くまいと思った。



 正月休みが過ぎた。

 休みが明けても、夫とはぎくしゃくしたままだった。不機嫌丸出しで夫は出社していった。

 同時に、病院が診察を開始したので、子供らを連れて風邪の受診に行った。

 医師に風邪薬を処方してもらい、だいぶ弱っているようだから点滴していったらどうか、とすすめられたが、大丈夫ですと断って帰った。

 子供達は待合室に長くいたせいですっかり飽きてしまっていたし、もうお昼をまわっていたから、長居したくなかったのだ。


 帰宅すると、留守番電話にランプがついていた。


 電話は実家の母からだった。


「あけましておめでとう。元気? 年賀状ありがとうね。何も用事は無いんだけど、元気かなぁって思って電話してみたの。また暇な時に声、聞かせてね……」


 再生した録音を全部聞き終わる前にストップさせた。

 聞いているうちに、実母の優しい言葉がかえって辛くなってきたからだ。 義父母の家には行ったけれど、今年は実家へ新年の挨拶に行けなかった。遠方だというのが理由のひとつ。そして、落ち込んでいる自分を見せたくない、険悪な夫婦仲を悟られたくない、というのがもう一つの理由。


 とても母へ電話をかけなおして、おしゃべりをする気になれなかった。

 そんなことをしたら、風邪を引いたことやダウンした後の子供の世話のこと、そして夫の様子なんかも、おそらく話す羽目になってしまう。

 そうなったら、きっと自分は冷静でいられない。余計なことまで口走ってしまいそうだ。


「お母さんごめん」


 ぽつりと言葉が漏れた。

 できることなら、大声を上げて泣いてしまいたかった。

 帰りたい。……どこに? ここが家なのに。

 まだ体中がだるくて、考えがまとまらなかった。





 翌日、少しだけ体調が戻った。

 夫がいつも通り出勤した後、勝手気ままに遊ぶ子供達の横で、家の中をぼんやりと見回した。

 昨年末、大掃除をした後に文句を言われた部屋。

 片付かないのは、たぶんモノが多すぎるからだ。それなら、いらないものをすっぱり捨ててしまおう。そうしたら綺麗になるかもしれない。

 手始めに、着なくなった自分の服を捨てようと思った。

 そっと箪笥を開けて、中のものをざっと確かめた。何もかもがいらないもののように感じられた。本当に、なにもかもが。

 だって、私はいらないハズレな女。それに付随するものはきっと同じようにいらないものなのだから。


 そう思ったら、後は早かった。まとめてあとで処分しようと思い、段ボール箱を引っ張り出し、どんどん服を詰めていく。

 きちんと畳んで、箱の端から順に重ねる。思ったよりも量があるようだ。これを全部捨ててしまうよりも、やはりリサイクルに出すほうがいいだろうか。

 作業中、余計なことを考えずに集中していたら、意外なほど気持ちがすっきりすることに気がついた。


 明日は本と雑誌を片付けよう。明後日はキッチンを整理して、それから後で押入れの中も。

 久しぶりに、本当に久しぶりに、楽しい気がした。





 物の整理を始めてから数日が経ち、私の服や持ち物は気に入りのものと必要なものだけになっていった。


 いらなくなった物の中で状態の良さそうな物は、みんなリサイクルショップに売った。臨時収入だ。

 子供の物だけは相変わらずどっさりあるが、家の中の雑貨もだいぶ片付いた。スッキリしたら気のせいか部屋が広く感じるようだ。


 その後も片付けは更に進んでいった。タオルやシーツなどのリネン類、ハサミや定規などの文具、結婚前の古い写真、もう見ないだろう思い出の録画。

 それから、予備のティーカップもいらないと気付いた。お客も滅多に来ないし、こちらから人を招く気なんて起きなくなっていたのだから。そうなると、湯呑み、大皿、客用飯茶碗、箸、揃いのコップ、どんどん不必要な物に見えてくる。


 いつのまにか、私の身の回りには必要最低限のものと、こまごました子供のものしか残っていなかった。

 そんなふうになっても、案外困らないものだということを知った。


 夫とろくに口をきかなくなってから、一月が過ぎようとしていた。


 私が物を処分しだしてから、夫は時折物を探して、あれっという顔をした。が、それはダメになったから捨てた、と言えば、不満そうにしたもののそれ以上詮索しなかった。

 文句なんてあるはず無い。だって、みんな、いらない物だもの。


 もう、捨てるべきものは全て捨てた。

 ただ一つを除いては。


 今、私はショルダーバッグを肩から提げ、子供を連れてタクシーに乗り込もうとしている。

 必要最低限の私物と、子供の物は宅急便で実家に送った後だ。

 子供はただ、遠くまでお出かけする、という言葉で無邪気にはしゃいでいる。


 きっと、突然の事に実家の母は驚くだろう。父は私を叱るだろう。

 けれど、これこそが最後に捨てるべき大きなもの。


 すっかり余計なものが片付いたリビングのテーブルの上には、サイン済みの役所に出す紙切れが一枚と、便箋に綴った型通りのさようならという一言だけ。


 これでやっと、あの人も満足することだろう。




 終


このお話に最後までおつきあいいただき、どうもありがとうございました。


男性よりも女性のほうが、離婚を考える割合が多いらしい。実行するかどうかは別ですが。

2012.08.16作成


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